楽観性の意味

人は楽観的な方が物事がスムーズに進むことが多いように思います。なんとかなると思って人は、いいアイデアもうまく繋がり思った以上の成果が入ってくるからです。なんとかなるというものではなく、なんとかしなければでは心のゆとりや余裕も異なります。

この楽観性というものの中には、信じるという側面があることに気づきます。つまり信じている状態で行動するのと、不信で行動するのでは視野の広さも変わってくるように思います。

そもそも考えてみると、人間には現実としてどうにかなることとどうにかならないことがあります。小さな自分の能力ではどうにも解決できないことがほとんどで、例えば仕事であってもその大部分は周囲の御蔭様や力を貸してくださった方々によって実現します。

自分がやったように見えていても実際は、多くの人々の力をお借りしてやらせてもらっただけです。それは歌手であろうがスポーツ選手であろうが、有名人であろうがその周囲の裏方や大勢の方々の力が合わさって実現したものです。

そう考えれば、自分だけではできないと諦めてしまえばかえって多くの方々への信頼や尊敬、また感謝も生まれるのです。そこまでのことが観えているのかというところに、人間の楽観性があるように思います。

私も自分の能力を超えたことをさせていただくことが多々あります。つい周囲は私がやったかのように評価しますし、周囲の依頼から私が一人でなんとかしなければならないような環境に引き込まれたりもします。もちろん、真摯に真心を持って取り組みますがそれは決して一人でできることではありません。

現在、世界のことや日本のこと、未来から逆算して子どもたちに譲りたい社会、そして信仰や伝統文化の甦生などに取り組みますがそれは私は尽力しますがあくまで天にお任せして進めているものです。何か偉大な存在、見守ってくださっているすべて、また神さまのような繋がり続けているものの遺志や祈りの力にお任せする。自分自身は、その力が発揮されるような環境をととのえていくだけです。

天にお任せというのは、運任せでもあり何か投げ出しているようにもみえるものです。しかしそうではなく、全体の大きな流れに身をゆだねながらも自分の分は誠心誠意に取り組むという覚悟でもあります。

そういう生き方をしている人は、全託している楽観性があり信じながら取り組んでいるから偉大な力を引き出したりお借りすることができるように私は思います。今の時代の教育は、なんでも一人で背負い、自分の力だけで頑張るようなことばかりをさせられてきます。それに能力を発揮して、役に立てば評価され褒められています。自分のあるがままの存在を受け容れられないでいるとこの楽観性は育たないようにも感じます。

子どもたちが安心して天命や立命を生きられるように、私自身の取り組みのプロセスで勇気になっていきたいと思います。

引力と場

何かの決意と覚悟で物事に取り組むとき、そこには引力のようなものが働きます。不思議と最良のもの、最適なものが集まってくるのです。これは意識せずとも、自然にまるで向こうから集まってくるかのように時が重なりタイミングが合います。

この偶然のようで必然が発生するのは、その「場」に充分に気や志が満ちたということの証明でもあります。

例えば、あるものを磨き続けているとします。それは泥団子でも構いませんし、古い木材、もしくは貝殻を磨いても同様です。ある一定の磨きをかけたら、ある時に突然光り輝きはじめます。

単にコーティングや塗装をしたものではなく、内側のもっているものが光りだすのに似ているのです。この状態になれば、自ずから光を発して変わらない状態に入っていきます。

実際に、舞台や場が磨かれていくとそこには義士が集まり、志が和合し、まるで水滸伝の梁山泊や南総里見八犬伝のように仲間や同志が集まってくるのです。

時間をかけてそれぞれが志を温めるまでの期間、また多くの人たちと志をぶつけ合い錬磨し合う機会の質量がある一定を超えるとき、そこに「場」が誕生するのです。

その場をどうつくるか、そこには夢を実現しようとするもの。そしてその夢に共感して自分もと挑戦をする人たちが必要です。小さくまとまるのではなく、大きなところで目的が同じであればそれぞれが自立して懸命にその目的に殉じていく必要があります。

その時、離れていても、或いは同じようにやらなくても結果は必ず一緒に取り組むところに落ち着くのです。こうやって歴史的な場は誕生し、それが時代を動かす一つの引力になっていくのです。

これは宇宙の働きの姿でもあり、私たちは同じやり方で場を創造していきます。

それぞれの志が一つになっていくことは、人生の仕合せとご縁の喜びです。引き続き、二度とないこの今に集中していきたいと思います。

九州の総鎮守

以前、九州自然歩道のことを調べているとそれが英彦山に続いていたという話を友人に聞いたことがあります。これは長い年月をかけて人々が、信仰によってあるいた巡礼の道があったということも意味しています。

そしてその場所には、点と線を結んだところにそれぞれ総鎮守というものがあります。この総鎮守とは、国または土地の全体をやすらかに守る神や総社のことをいいます。それぞれの住んでいる場所には、それぞれの鎮守がありその広さが大きくなっていきそれをまとめているところが総鎮守という具合です。またそこには一宮、二宮という言い方もします。

大体、その土地や地域を巡り総鎮守にいってみるとそこが何らかの発祥の地であることがわかります。つまり始まりの場所ということです。総鎮守には、全体を広く纏めるという意味とあわせてそこがはじまりの場所であるということもあるように思うのです。

言い換えるのなら、そこからすべての発展がはじまる原点があるということです。人間であれば初心があるということです。

私たちは、道すがら点があるのならそこに原点回帰しながら歩んでいくという智慧を伝承しているからでもあります。何度も生まれ変わり、先祖の想いや祈りを生きている私たちは時としてその原点に出会い自分の役割や使命を振り返ります。道は、巡礼そのものでありそのご縁や御蔭様や意味に触れては感動し感謝するのです。

総鎮守に詣でることは自分の原点を確認することになります。自分の原点を確認すれば人はそこに確かな運命や意味を実感して確信に至ります。勇気の源泉にもなり、偉大な信仰を呼び覚まします。

九州にも総鎮守というものがあるはずです。私はそれを英彦山だと思っています。その理由は九州の歴史は英彦山から始まったことがあまりにも多いことと、九州の巡礼の道が英彦山に向かってつながっているからです。

一つの九州という言い方を九州人はします。英語でONEKYUSHUという言い方もしています。それではその九州の総鎮守はどこかといえば英彦山にこそあります。それをこれから証明していきますが、九州人ならみんな英彦山を大切にすることで原点回帰すると私は信じています。そして九州は日本の始まりの場所ですから、九州が甦生すれば日本全体が甦生するはずです。

忘れてしまった歴史、隠された歴史、失われた歴史を甦生し、九州の場で新たな歴史を結びたいと思います。

 

 

コロナウイルスからの教え

日本ではコロナウイルスが減少しているという珍しい現象が発生しているといいます。科学的には、ウイルスの変異によって増幅ではなく、減少するような状況が発生しているともいわれます。感染しやすいウイルスが急拡大したことで、今度は急減少するという変異が発生したというのです。

宿主が全部死んでしまうと自分たちも生きてはいけないので、ある程度、広範囲に感染したら共生して落ち着くというのがウイルスの性質であるということでしょう。

以前、ウイルスのことを調べていた時にウイルスも生存戦略を持っていることがわかりました。私たちの身体の中には無数のウイルスがいますが、それはかつて同じように歴史の中で感染してきたものたちばかりです。それが時間をかけて無害化していくというプロセスを通して共生していきます。

これは固定種の種を育てていますが、野菜も同様に本来は人間に害のあった野菜も長いこと育てて共生していくなかで無害化していきます。菌の世界も同様ですし、動物の世界でも同じです。

つまり私たち人間は敵対するのではなく、共生する道をとってくることでここまで生き延びてきたのです。

このコロナウイルスは私たちに何を教えにやってきたのか、ここからわかることと思います。今、気候変動の問題をはじめCOP26なども開催されていますが、私たち一人一人も今回の感染症などをことからよく現実を見つめ直して本来の生き方に目覚める時機です。

私は、むかしの田んぼでお米を育てています。ここのお米は、伝統神事をしながら楽しく豊かにお米を育てます。農薬も肥料も入れていませんが、みんな昔たちや雑草たちも共生してくれて穏やかでおとなしいものです。

みんなで共生していこうと決めたなら、敵ではなく一緒に生きる仲間です。

この「仲間」だと思えるか、それが人類の世界における大切な役割だと私は思います。仲間づくりができる人だけが共生の原理を知るということです。この仲間も、敵対しない仲間ですから共に心豊かに楽しく仕合せを生きる人たちを増やすことです。

平和というのは、戦争と平和という対立概念のものではなく「和」のままでいつまでも穏やかでいるということです。そのために何が必要か、気づき時機が今の時代ということでしょう。

人類がアップデートするためにも、その場を創造し、この場から未来を変化させていきたいと思います。

 

経済と道徳の再一致

「ほら吹き」という言葉があります。これは現代では、大袈裟なことをいうことや嘘つきなどのことを言われます。実際にはこれを調べると、小さな貝でも驚くほどの大きな音がすることから言われたのではないかという説もあるそうですが実際の法螺貝を吹く修験者が嘘をつくということはありません。

先日、インドの学生がBAに視察に来られたときに法螺貝の話をするとインドでは毎朝法螺貝の音で目覚めますと言っていました。法螺貝が身近にあり、いつも法螺貝の音を聴いて暮らしているとのことでした。

もともと法華経の中でも法螺貝の話が出てきますし、釈迦が説法をするときに法螺貝でそれを知らせたともいわれます。釈迦の説法がほら吹きと思った人があったのかもしれません。しかし本来は、法螺貝を吹くのはそこに宇宙の真理がある、またこれから幸福の道を説くという意味もあったのではないかと私は思います。

幸福の道で釈迦は世に三長者ありといいました。つまりこの世に三通りの豊かな人物があるというのです。

一つめは、家の長者といいお金や財産に恵まれている人のこと。二つ目は、身の長者で健康に恵まれている人。そして三つめは心の長者で弥陀の救いにあい、絶対の幸福になった人といいます。その中でも釈迦は「家の長者より身の長者、身の長者より心の長者がよい」といいます。

心の長者とは、シンプルに言えば心が豊かな人ということです。もっとも裕福なのは、心の長者ということです。

例えば、どんなにお金持ちで健康であっても心が貧しくてはそれは豊かではありません。逆を言えば、貧乏でも不健康であっても心が豊かな人は足るを知りどんな境遇や環境下でも豊かさを見出すことができるということです。

現在、資本主義経済の中で確かに世界人類は物質的も恵まれ裕福になっていきました。もちろん貧しい国もありますが、私たちの日本は発展したといわれます。しかし気候変動や環境問題、格差社会などあらゆる別の問題が発生してきて次第に心の貧しさの問題が拡大してきているようにも感じます。

お金をもっと増やそうと躍起になり、身体を健康にしようとサプリを飲んでも心の貧しさは変わりません。どうやったら心が豊かになっていくのか、そこにこれからも人類の方向転換がはじまります。

心の事業をこれから甦生し、経済と道徳を再一致させていきたいと思います。

最善観の覚悟

昨日、「最善観」という言葉を改めて知りました。これは教育者、森信三先生が語った言葉です。この意味は、「いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然である共に、またこの私にとっては、最善なはずだ」という根本原理に沿ったものです。

この最善観、私は「禍福一円観」という言葉をよく使いますがほとんど同じような意味に感じています。人は自分に色々なことが毎日発生してきますが、それを自分勝手に左右に分類してはこれはいい、これはよくないと決めていきます。

しかし、そのどれもは本当は現実には自分に最も相応しいことが発生しているのだと実感する人と、これは自分には相応しくないと分別している人がいるだけです。

本当はすべて必然であり、自分の身に発生したことはそれが現実ですからそれを素直に受け取っていくところによりよい人生が開けていくように思います。つまりいいかわるいかではなく、そこに大切な意味があるという生き方でもあります。自分にとって必ず通る道だから天命として絶対安心して歩んでいけということもあります。

これを西洋ではオプティミズムともいい、楽観性と表現します。積極思考ともいうかもしれません。また別の言い方では、「これでいいのだ」という言葉にも似ています。

最初から自分に与えられた自分だけの人生は、他と比べられるものもなく自分自身が体験しながら自分の道を自分の足のみで歩んでいくものです。その道は誰でもなく自分にしかない道、自分にのみ与えられた道だから善悪関係なく「すべて最善」なことだと覚悟して生きるということです。

時折、何で自分がとか、誰かがやるだろうとか、他の人の方がなどと思うこともあるものです。もしくはなぜ自分がや、どうしてこんなことにと悲嘆にくれること、もしくは自分にはもったいないや、自分にこんなにもという恩恵もあるかもしれません。しかしそのどれもをそのままあるがままに受け容れることで最善観を持つことがその人の人生を真に生きることになるように思います。

私はよく考えてみると、まだまだ世間の刷り込みが多く入り込み自分自身というものを正しく認識することができないでいるように思います。というよりも、日々の刷り込みの中で本当の自分、主人公としての自分を日々に顔を洗い目覚めていく鍛錬が不足しているようにも感じます。

自分にしかできないことをやるには、誰とも比べられない自分を生きる必要があります。森信三先生が日々の実践に生きたように、私自身も絶対必然、最善であると自分を鼓舞して素直に謙虚に生きていきたいと思います。

この世のすべての御縁を一期一会と共に歩んでいきます。

ありがとうございます。

螺旋の真理

私は法螺貝を吹いています。この法螺貝はとても不思議で、螺旋の形状をしており音が螺旋状に回転しながら空間に広がります。二つ以上の法螺貝を同時に吹くと、その螺旋が合わさり調和して独特の波動を体感できるほどに振動を味わえます。このような螺旋運動は、宇宙の摂理でもあり私たちの生き方を原点回帰するときにも必要になるように私は思います。

私たちの身体をはじめ、すべてのものはこの螺旋でできています。螺旋は、一つの理解としては遠心力と求心力があります。つまり外に向かって広がっていく力があること、そして内側に向かって深めていく力があることです。

この外と内に向けた力の調和、それが螺旋の本質だと私は直観しています。

宇宙を見てみるとそれはわかります。宇宙は外へといつまでも広がっていく、そして私たちは自分自身という内なるものを磨き上げて深めていこうとする。これが一つの私たちが宇宙でしている体験であって、それを形を変えては宿命的に行い続けているのです。

これは決して物だけでもなく事でも同じです。

時代が循環し世界は広がっていく、同時に私たちは時代を経てさらにさらに奥深い場所へと真理を到達させていく。つまり、この螺旋の外へと螺旋を深くは同じ意味であるということです。

呼吸を吐いて吸うように私たちはこの広げることと深めることといつも繰り返し行っているということです。これは海の波も同じく、そして朝と夜も同じく、男女も、そして生死も同じです。

私が法螺貝を吹くのは、深めたものを広げるためです。

今、世の中はグレートリセットを求める気風が出てきている時代です。日本語だと原点回帰というのでしょう。そのためには、今一度、それを実践で取り組む必要が出てきます。

法螺貝にはその可能性があると私は信じています。

引き続き、子どもたちの未来のためにも自分に与えられた使命を全うしていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

真の教育者

宇宙の星々の中に優劣というものはありません。その光にもまた光り方があり、それぞれに特有の徳を備えた光があるものです。私たちが夜空をみるとき、夜空に特別に明るい星があったとしてもその星が一番ではありません。つまり星々に一番はないのです。

これは地球上の植物でも同様です。当たり前のことですが、いのちはそれぞれに花が咲きます。その花はどれもが徳性がありどれもが独自の魅力で輝いています。それを一つのかたちで決めて、それに他を合わせようとすることは本来の姿ではないのです。

私たち人類は人口が80億人を超えています。同じ顔が一つもないように、同じ指紋がないように私たちはそれぞれに別々のものをもっています。これを時代を遡れば、さらに大勢いの人々がそれぞれの徳性を輝かせていたことがわかります。

それぞれのいのちにはそれぞれの役割があります。その役割を一つしかないと思うところに問題があり、差別が発生します。生まれてきた以上、必ずなんらかの役割をもっていて役割がないものは一つとしても存在しないのです。

他と比べては、他と役割を奪い合うような環境になっていますが本来はもっと自分の徳性に集中し自らを光らせていくことに注力していく方がいいのです。

教育というものは、本来は可能性を引き出す行為であることは普遍的なことです。それぞれの徳性をもっと引き出させる。そうやってそのものの徳性が一番になってしまえば役割はその中に存在します。

みんなその徳性で誰かに喜んでもらいたい、みんなが仕合せになってほしいと光るのです。その理由は、自らの光そのものが喜びになり、その喜びがあふれ出てみんなの喜びになるからです。

この世の中というのは、そうやってみんなで仕合せを享受し合える天国もあります。それぞれが自分自身を知り、自分自身で生きられるように可能性をつぶさずに可能性を信じてあげる存在こそ真の教育者でしょう。

子どもたちの未来のためにも、自分自身が固定概念を毀し、新しい価値を創造していけるように精進していきたいと思います。

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。