漬物の智慧

昨日は、妙見高菜の漬物のお手入れを行いました。今年の春先に漬けたものはこの時期に次第に塩が抜けて漬け直しが必要になります。もともとこの漬物の原理は、科学で分かっている部分とわかっていない部分があるように思います。

私は石も自然石にこだわっていますが、同じ重しでも出来上がりが異なるのです。他にも木樽で、その漬物の小屋を発酵させるような場にしていますから環境が整っています。しかし今でも、毎回発見があり、この漬物の奥深さに驚くばかりです。

今回は、一樽だけ失敗してしまい腐敗してしまったものがありました。これは蓋が少し大きかったので樽のサイズにあわずに重しがかからなかったからです。しかし水が上がっていたのですが味も香りもやや腐敗に傾いていて厳しいものがありました。

この漬物は科学的には乳酸発酵によって醸成され仕上がっていきます。発酵の世界では、乳酸菌と腐敗菌の働きによって絶妙に調和されて漬物はできます。乳酸菌は塩の中でも平気で空気がなくても元氣に活動できます。しかし腐敗菌は塩や酸が苦手です。漬物の塩分がなくなり空気がたくさん入ってくると腐敗菌の方が増えていき食べ物は腐敗して人間には食べれません。

もともとこれらの乳酸菌や腐敗菌は、分解者です。自然界では循環を促し、最終的には土に帰す役割を持っている微生物です。その微生物たちの代謝から産まれた成分によって私たち人間も栄養などを吸収することができています。

私たちすべての生き物は、他者の働きによって栄養を得ていてこれが自然の共生原理でもあります。よく腐敗したものを食べると食中毒になると思い込んでいる人がいますが、腐敗菌は別に食中毒菌ではありません。香りや味わいがアンモニアを含め、腐敗に傾くのであって腐敗菌から出てくる働きを栄養にするものにウジ虫やハエ、その他の生き物が集まってきますが食中毒菌がいるとは限りません。

もともと食中毒菌は、ボツリヌス菌や、サルモネラ菌、赤痢菌、ノロウイルスなどもありますがそれぞれは付着していたら腐敗していない食べ物を食べても食中毒になります。手洗いや熱での消毒が必要な理由でもあります。その中のいくつかの微生物は、増えすぎて食中毒になるものと、少し付いているだけでも食中毒になるものがあります。

身体に異物としてその微生物を感知しますから、すぐに下痢や嘔吐でその微生物を体外に排出しようとするのです。人間の身体には、100兆匹の微生物で構成されています。種類も相当な数のものがいます。その中でも合わないものがあるから食中毒になるのです。

乳酸菌といっても、あらゆる菌が組み合わせっているものです。それを美味しいと感じるところに人体の不思議があるのです。私たちが普段食べている、チーズや納豆、キムチや漬物、甘酒やワインなどあらゆるものはこの乳酸発酵のもののおいしさです。若々しく細胞を保つのに、腐敗の方ではなく乳酸の方を多く取ろうとするのはそれだけ人間の体内の微生物がその働きの栄養素を欲しがっているからでしょう。

漬物の不思議を書くはずが、微生物の話になってしまいましたが私はこの漬物の持つ智慧は未来の子どもたちに必ずつながなくてはならないものだと確信しています。発酵の智慧、重力や引力の智慧、場づくりの智慧、炭の智慧、樽の智慧、塩梅の智慧、太陽や日陰の智慧、風通しの智慧、季節や作物の育て方の智慧、ウコンなど植物の智慧、手入れの智慧、めぐりの智慧、郷土の智慧、醸成の智慧、、まだまだたくさんありますが智慧の宝庫がこの漬物なのです。

子どもたちに暮らしフルネスを通して、大切な智慧を伝承していきたいと思います。

日本文化のメリハリ

今日はお盆の最終日で、送り火をしご先祖様たちの霊を見送り室礼したものを片づける日です。

もともとこのお盆は、正月と同様に霊魂が家に来て滞在する期間としておもてなしをする日本古来からの信仰のかたちです。正月は歳神様、御盆は御先祖様ということになります。一年に、一度、家に帰ってくると信じるというのは感謝を忘れないための行事としてもとても大切だと私は思います。

こうやって目には観えない存在をまるで居るかのように接していく心の中に、私たちは現実の中にあの世を観ることができます。私たちもいつかこの現世での暮らしを終え、あの世での暮らしになりご先祖様の一員になるのです。その時に、子孫たちがどのようにこの世で暮らしているのかを見守り続けるという先祖の心構えも学んでいるようにも思います。同時に、子孫たちが先祖の御蔭様を感じているかどうかということも学びます。

当たり前のことですが、今があるのは今までの連続をつないで結んできた存在があったからです。子孫のために、自分の一番大切なものを磨いてそれを譲ってきたから今の私たちがあります。

昨年からコロナウイルスのことがあり色々と深めていたら、今の私たちがあらゆる感染症の免疫があるのはそれは御先祖様たちがいのちを懸けてその免疫を身体に取り込み、対処法を遺伝子として学び、その子孫たちの私たちがその御蔭で感染しても死なずに済んでいるということを知りました。目には観えませんが、私たちはずっと先人たちに守られ続けている存在なのです。有難く、感謝を思い出すことは自分の存在が多くのいのちの連鎖であることを再認識していのちを輝かせていくのにもとても大切なことなのです。

話を迎え火と送り火に戻しますが、この迎え火はお盆の期間にご先祖さまが自宅に帰ってくる時に道に迷わないようにとおもてなしし、送り火はご先祖さまが道に迷わずにあの世に無事戻れるようにと送り出すためのものです。

正月も同じですが、その期間を過ぎていつまでも家にいると悪霊になったり禍が起きると信じられました。あくまであの世の暮らしがありますから、こちらにいる期間だけということでしょう。名残惜しくてもお互いにこの世やあの世での役割や使命があり、それも日本文化のメリハリということでしょう。

私たち日本人を形成しているものはこの風習や文化の中で色濃くでてきます。現在は西洋文明が入ってきて、目には観えないものをあまり重要視しなくなりましたが本来私たちを形成してきたものに接すると懐かしい何かを思い出し、悠久の記憶にアクセスでき私たちの原点やいのちが甦ってくるのです。

懐かしい暮らしの実践は、私たちの未来へ向けた希望の実践でもあります。子どもたちのためにも根気強く、辛抱強く、どんな時代であっても変わってはならないもの、変えていくものを見据えて暮らしフルネスに取り組んでいきたいと思います。

いのちを守る実践

土地本来の樹木で森を再生する植林活動に長年取り組んだ植物生態学者で横浜国立大名誉教授の宮脇昭さんが先月、お亡くなりになりました。森林再生で「宮脇方式」(ミヤワキメソッド)を発明して4000万本の木を植え世界に貢献しました。

宮脇さんは、現在の多くの土地や森は過度な土地の開拓や、商用林の過剰などの現代人たちがやってきたことで土地本来の多様性や強さを失ってしまったといいます。その土地に適した植物を使って自立する森をつくることで自然本来の姿に戻そうというのが宮脇さんの提案することでした。

シンプルに言えば、本来の森に帰す、森の育ちを邪魔しない方式、自然農も同様に自然を尊重する甦生の仕組みということになります。

具体的なメソッドの特徴は、「本物の自然に帰す」「混色して密集させる」「毒以外は資源にする」「スコップ一つで誰でもできる」など、生態系を活かす知恵が仕組みの中にふんだんに取り入れられています。この方式で、300年の森を30年で実現させ、都市部にも生態系との共生を実現させています。つまり世界のあちこちで日本の伝統の鎮守の森をつくり守り育てる活動が広がっているのです。

地球温暖化で、一昨日から故郷では記録的豪雨で水害が起き、世界では熱波や山火事、そして砂漠化や砂嵐、バッタなどの大量発生、ウイルスなど気候変動はもう待ったなしで人間に襲い掛かってきます。この原因をつくったのは人間ですから自業自得ともいえますが、だからといってこのまま指をくわえて何もしないというわけにはいかないのです。子どもたちがいるからです。

未来のために何ができるか、そこでよく考えてみるとやはり唯一の方法は「自然を敵視せず、自然を尊敬し、自然と共生する」しかないと私は思います。そのために、どうやったら自然と共生できるかをこの日本から世界に発信していく必要があるのです。

私の提案する暮らしフルネス™の中には、この生態系と共生する智慧も暮らしの実践の中に入っています。発酵の智慧も、自然農の智慧も、生き方の智慧も、この森林甦生の智慧もまた暮らしの一つです。

日本人は、本来、スギやヒノキや松は暮らしの中で活用することが前提で植樹を続けていました。その暮らしをやめてしまっているから潜在自然植生も失われて森が荒れてやせ細っていったのです。近代の文明を全部をやめて、商業的利用をすべて停止してなどといっているわけではありません。

本来の豊かな暮らしは、半分は自然との調和、半分は人間社会での発展というバランスの中に心と物の両面の真の豊かさと和、仕合せがあります。極端な世の中になっているからこそ極端な対策が出るのであって、最初から調和していればそれは日々の暮らしの小さな順応で十分対応できたのです。

最後に宮脇さんの遺した「いのちの森づくり」の言葉を紹介します。

「日本には、世界には無い『鎮守の森』がある。木を植えよ!土地本来の本物の木を植えよ!土地本来の本物の森づくりの重要性を理解してください。土地本来の森では高木、亜高木、低木、下草、土の中のカビやバクテリアなどいろいろな植物、微生物がいがみ合いながらも少し我慢し、ともに生きています。競争、我慢、共生、これが生物社会の原則です。いのちの森づくりには、最低限生物的な時間が必要です。潜在自然植生の主木は深根性、直根性で、大きく育った成木を植えても育ちにくいものです。大きくなる特性を持った、土地本来の主木群の幼苗を混植・密植します。生態学的な調査と知見に基づいた地域の潜在植生による森づくり、いのちと心と遺伝子を守る本物の森づくりを今すぐ始めてください。潜在植生に基づいて再生、創造した土地本来の森は、ローカルにはその土地の防災・環境保全林として機能し、地球規模にはCO2を吸収・固定して地球温暖化の抑制に寄与します。生態学的には画一化を強要させている都市や産業立地の生物多様性を再生、保全、維持します。さらに人間だけではなく人間の共生者としての動物、植物、微生物も含めた生物社会と生態系、その環境を守ります。本物の森はどんぐりの森。互いに競争しながらも少し我慢し、ともに生きて行く、というエコロジカルな共生を目指しましょう!あくまで人間は森の寄生虫の立場であることを忘れてはいけません!森が無くなれば人類も滅びるのですから。」

私が感銘を受けたのは、本物は耐える、そして本物とは何か、それは「いのち」であるということです。一番大切なものは「いのち」、だからいのちの森をつくれと仰っているように感じます。

いのちの森は、鎮守の森です。鎮守の森は、古来よりその場の神奈備が宿る場所、それを守り続けるのはかんながらの道でもあります。子どもたちの未来のために、私も子どもたちのために未来のために、いのちを守る実践を公私ともに取り組んでいきたいと思います。

 

文化財の本質

文化財のことを深めていますが、実際の文化財というものは有形無形に関わらず膨大な量があることはすぐにわかります。私の郷里でも、紹介されていないものを含めればほとんどが文化財です。

以前、人間国宝の候補になっている高齢の職人さんとお話したことがあります。その方は桶や樽を扱っているのですが50軒近くあったものが最後の1軒になり取り扱える職人さんもみんないなくなってしまい気が付けば自分だけになったとのことでした。そのうち周囲が人間国宝にすべきだと言い出したというお話で、その方が長生きしていて続けていたら重宝されるようになったと喜んでおられました。

このお話をきいたとき、希少価値になったもの、失われる寸前になると国宝や文化財になるんだなということを洞察しました。つまり本来は文化財であっても、それが当たり前に多く存在するときは文化財にはならない。それが失われる寸前か、希少価値になったときにはじめて人間はそれを歴史や文化の貴重な材料だと気づくというものです。

そう考えてみるとき、私たちの文化財というのもの定義をもう一度見つめ直す必要があると感じます。実際に、私は暮らしフルネス™を実践していますが身のまわりのほとんどが伝統文化をはじめ文化財に囲まれてそれを日常的に活用している生活をしています。

これを文化財と思ったこともなく、当たり前に日本の文化に慣れ親しみ今の時代の新しいものも上手に導入して流行にも合わせながら生き方と働き方を一致して日々の暮らしを味わっています。

そこには保存とか活用とか考えたこともなく、ごくごく自然に当たり前に暮らしの中で文化も文明も調和させています。農的暮らし、ICTの活用、和食に文明食になんでもありです。

そしてそれを今は、「場」として展開し、故郷がいつまでも子どもたちが安心して暮らしていけるように新産業の開拓と古きよき懐かしいものを甦生させています。私は文化財が特別なものではなく、先人たちの有難い智慧の伝承を楽しんでいるという具合です。

本当の問題は何かとここから思うのです。

議論しないといけなくなったのは、何か大切なことを自分たちが忘れたから離れたからではないかとも思うのです。山岳信仰も同様に、山の豊かさを味わい畏敬を感じてそこで暮らしているのならそれは特別なものではありません。そうではなくなったからわからなくなってしまい、保存とか活用とかの抽象論ばかりで中身が決まらないように思います。今度、私は山に入り山での暮らしを整えるつもりです。そこにはかつての山伏たちの暮らしを楽しみ、そして流行を取り入れて甦生するだけです。

何が文化財なのかと同様に、一体何が山岳信仰なのかも暮らしフルネス™の実践で子どもたちのためにも未来へ発信し歴史を伝承していきたいと思います。

人間がわからなくなっていくときこそ、初心や原点に立ち返ることです。この機会とご縁を大事に、恩返しをしていきたいと思います。

落雁の価値

昨日、伝統菓子の落雁(らくがん)を専門でつくる会社を経営する方とお話をする機会がありました。この時季、お盆のころの落雁はいつも身近にあったものですが改めてこの伝統和菓子の落雁のことを少し深めてみようと思います。

落雁は、名前が特徴的ですが名称の由来には諸説あります。例えば、明の軟落甘 (なんらくかん) から「軟」が欠落して転訛したという説、また形が落雁に似ているところから近江八景 の一つ「堅田落雁」からという説、そして本願寺綽如上人がこの菓子を後小松天皇に献上した時に白色の地に黒ごまの点在する様が雁の渡る姿を連想させたので「落雁」としたという説があります。もともとこの落雁という言葉の意味は、「空から舞い降りる雁」という意味で秋の季語でもあります。

この落雁のお菓子に似ているものに和三盆がありますが原材料がまず異なります。落雁は米粉を使い、和三盆はサトウキビ(竹糖)を用います。

落雁は、このお米の澱粉質の粉を使い、様々な模様の木型に押し付けて圧縮し最後に乾燥させるという具合でつくります。他にも澱粉質の粉のみを蒸籠で蒸すやり方や、最初にすべてを混ぜてから蒸し上げて乾燥させたりと実際には様々な製法の落雁があるといいます。

もともとこの落雁は、中国から日本に伝わったお菓子だといわれます。釈迦の弟子が僧侶に振る舞ったお菓子ということから仏事に用いるお供え物の代表となりました。

具体的な由来は、釈迦の弟子目連(もくれん)故事からです。

目連の亡母が夢の中で天上界に行けず餓鬼道に堕ちているのを見つけました。その亡母に水や食べ物を差し出しても、炎となってどうしても口には入りません。そこで釈迦に問うと、「すべての修行者に食べ物を施せ。さらば母親にも施しとなるだろう」との助言をもらい修行者に甘いものの施しをしたところ、修業者たちの喜びが餓鬼道にも伝わり母を救った」とあります。この故事から落雁を先祖に備えるのは施餓鬼をして、餓鬼道に堕ちた者を救うための供養となりました。

そして広がったのは、江戸時代に茶道と共にその茶菓子として安価な材料で作った落雁が出回るようになり仏事に用いる特別なものだけではなく庶民のお菓子として親しまれ今にいたります。

現代では、甘い砂糖やチョコレートなどの洋菓子などの文化が流入してきたと同時にご先祖供養の風習も失われてきてあまり落雁を食べるという機会も失われてきました。また落雁もスーパーなどで売られているものは、見た目だけ似た落雁風のものばかりで食べても美味しくないのでさらに人気がなくなりました。

日本でもむかしからの製法で伝統的に落雁のみをつくる老舗もあとわずかに残るだけです。

子どもたちには、この落雁が持つお供えや室礼、そして信仰などとの深いかかわりがあること、そして日本人のお米を使った味覚、滋味を味わう大切さなどを私も伝承していきたいと感じます。

未来のために、大切なものを引き継いでいけるように落雁とのご縁を深めていきたいと思います。

 

季節感の幸福

私たちの暮らしには季節感というものがあります。この季節はこの風物詩というように季節のリズムと共に歩んでいます。四季折々に私たちは小さな変化を季節から感じとって自然の流れに身を任せていきます。

なぜそれをするのかといえば、その方が豊かで仕合せなことだからです。私たち人間のもっている感性の磨き澄み切った場所にある幸福感とは自然と一体になることです。

自然から離れ、私たちは便利な世の中にしていき人間社会を発展させてきましたがそれと反比例して幸福感というものの感性は鈍ってきました。精神的にも病む人は増え、空しい比較競争ばかりで疲れてきています。

本来、私たちすべての地球上の生き物は足るを知る暮らしを知っており自然と共に生きていく中で真の幸福を味わい、この世に生まれてきた喜びを心から享受してきました。

何もない中に深い味わいのあるいのちがあり、そのいのちが活かされていることを知り自分の役割を知らずして知るという具合に存在そのものへの感謝を味わい暮らしをしてきたのです。

そういう意味で、四季折々の変化を味わうということが幸福感と直結していることは自明の理です。

忙しすぎる現代人において、只管お金を稼ぐために色々なものをそぎ落として暮らしを喪失していきましたが子どもたちには本当の豊かさ、真実の幸福を味わえる環境を用意していきたいと願います。

暮らしフルネス™の実践と場が、未来を幸福にしていくことを祈り今日もご縁を結んでいきたいと思います。

気づくことの大切さ

人は何でも失ってみてはじめてわかるものがあります。ある時は、当たり前と思っていてもなくなってしまうとどれだけ大きな存在であったかということに気づくのです。

私たちの心には、いつも繋がっている存在がありその存在によってご縁を結んでいます。その結んでいるご縁の存在にどれだけ心が救われているのかと思うと計り知れないものであることに気づきます。

例えば、居場所という存在、信頼する人とという存在、心の拠り所というものがあります。

私たちは生きていく中で、お互いを支え合い助け合い自分を立てていることに気づきます。自分の人生の中で、深く関わっているご縁は安心基地を醸成していきます。その安心基地の存在は年齢と共に少しずつ変化していきます。

私たちは人生の中で、最初に父母に恵まれ、家族に恵まれ、友人、仲間、あらゆるものに恵まれてその人生を成り立たせていきます。どの存在も深く自分というものに結ばれているもので、そのどれが欠けても自分というものはできません。

そう考えてみると、この自分というものを形成するのは周囲の存在があってこそということに気づきます。その存在が喪失していくことの深い悲しみ、そして新しい存在が誕生することの仕合せ、こうやって私たちの心はそれぞれに拠り所と出会い人生を彩るのです。

失ってみてはじめてわかるのは、自分の心の拠り所の一つであったという事実。そして一緒に生きてお互いに助け合い支え合って生きてきたという事実。さらに、お互いに愛を与えあい結ばれた存在であったという事実があるということです。

ずっとあると思えば、どうしても粗末になってしまうのが人間です。なくならないと思うから大切にしなくもなるのです。しかし、加齢とともに出会いと別れを繰り返していくとそれがいつかは失われていくことに気づいていきます。

だからこそ、このかけがえのない一瞬、一期一会を大切にしたいと心が感じるようになるのです。失いかけて気づくものもあれば、失って気づくものもある。そして失わずに気づくこともあります。

私たちは気づきをし、心を取り戻していきますから大切なことに気づく日々を過ごしていきたいと思います。子どもたちにも、このかけがえのない日々に感謝できる環境を見守り続けていきたいと思います。

場を磨く

私の故郷は、もともと庄内村ですが嘉麻郡を経て嘉穂郡となり飯塚市なっています。この嘉麻郡の由来は日本書紀巻18に安閑2年(535)安閑天皇の条に筑紫の穂波屯倉・鎌の屯倉等を置くというものが由来です。

和銅6年(713)に諸国の郡郷名に好字を付けることが命令されそのときに嘉麻の字になりました。そして明治29年(1896)に嘉麻郡、穂波郡が合併して嘉穂郡となるまで約1,300年間は嘉麻郡のままでした。そしてこの年、嘉麻郡と穂波郡が合併して嘉穂郡 となりました。その後はこの嘉穂郡の一部が飯塚市の中に組み込まれて今があります。

少しだけ前に遡った明治22年ころまでは、庄内村は綱分村、赤坂村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、有安村、多田村、仁保村、大門村、元吉村、有井村で構成されていました。現在まで私が住んでいた場所は、この中の綱分村と有安村です。

この綱分村にも綱分八幡宮を中心に歴史があり、有安にも獅子舞をはじめとした文化が遺っています。

現在、合併を続けていく中で、それまで大切にされていた村やその場所の歴史も次第に失われていきます。小さく分かれていた時は、その小さな中で文化の誇りや遺徳、信仰なども細かく語り継がれてきました。それがなくなっていくというのはとても残念なことです。

合弁して簡単に一つにしますが、本来その場所は風土によって環境も文化も完全に異なるものです。日本国土が自然豊かで多様性があるように、その場所場所は多様性に富んでいます。

地名が一つなっても場所の魅力というのはそれぞれで異なるのです。その場所を知り尽くしている人は、その場所の魅力を知り磨き続けていくことができます。私はこの庄内村出身ですが、この場所のもっている徳や歴史が身体に沁みこんでいます。だからこそ、この場所の活かし方や使い方、もっている魅力を引き出すことができるのです。

こうやってそれぞれの故郷でみんなが魅力を引き出し磨きだせば、日本という国は多様性に富んださらに温故知新された場所に甦生していきます。すぐに東京や大都市圏に憧れてそこにいきますが、本当はその産まれた場所を磨き上げていくことが子孫たちの使命でもあります。

引き続き子どもたちのために暮らしを整え、場を磨き上げていきたいと思います。

そうめんの由来

昨日は、藁ぶき古民家の和楽で息子たちが青竹から準備してくれて「流しそうめん」を楽しみました。まさに夏の風情というか、雰囲気でだけでも涼が味わえ豊かな時間を過ごすことができました。

この「流しそうめん」は、最初は青竹で器をつく井戸水で冷やしたそうめんを食べたことで発想されたものではないかともいわれています。そのそうめんを流すようになったのは宮崎県の高千穂峡の真名井の滝の傍にある「千穂の家」が発祥といわれます。発案は、もともと江戸時代に琉球で薩摩の役人をおもてなすときに那覇湾の崖の上から落下する綺麗な泉流の上源からそうめんを流して、途中ですくって食べてもらうということをやっていたものがありました。このことをヒントに昭和30年頃にこの高千穂峡で本格的に流しそうめんがはじまったのです。

もう一つ、似た名前のものに「そうめん流し」があります。呼び方の順番が逆になっただけですが、実際には違いがあります。これは鹿児島県の指宿市にある「市営唐船峡そうめん流し」として昭和37年に発案されたものです。最初は同じように流しそうめんではじめていますが、途中で当時の町の助役さんが回転式のそうめん流し器を発明しました。回転式ですから、みんなで囲んで丸くなってそうめん流しを楽しめるということで珍しさと面白さと相まって人気が出ました。この助役の人はそのあと町長になっています。

ということで、竹で縦にそのまま流すのが流しそうめんで回転式のものがそうめん流しということになります。

このそうめんの呼び名の由来はもともとは「索麺」と書き、中国大陸から伝わったものです。「索」とは「なわ、つな」という意味でそこに麺が入り、小麦粉を練った細長い食べ物という意味になります。つまり「なわ、つわのような麺=そうめん」と呼ぶようになったのです。

このそうめんが伝来したのは隋か唐の7~8世紀頃(飛鳥時代~奈良時代頃)といわれますが、北宋の時代や室町時代などまちまちです。この「索麺」「索餅」という字が現代のように「素麺」となるのは麺が白いことから白い意の「素」の字を当てたとする説や、「索」の字を書き間違えたとする説もありますが今はほとんどこの「素麺」になっています。

むかしは、そうめんは庶民が食べれるものではなく宮中の七夕などの行事の時に用いられました。それだけ高級で敷居の高い食べ物でした。現在では、どの家でも夏は素麺というくらいみんな一年で一度は食べる夏の風物詩になりましたが歴史が長い食べ物の一つなのです。

こうやって一年で、節目節目に伝統的なものを上手に現代に活かしながらその大切な要素はそのままに新しくしていくことに豊かさを感じます。夏はまだまだこれから暑くなっていきますが存分に夏を味わいたいと思います。

富と徳の天秤棒 ~近江商人の初心~

近江商人の生き方をもう少し深めていますが、文化2年(1805)、近江商人の第一人者・初代中井源左衛門という人がいます。この方は長い商いの体験から得た人生訓を、浄土宗を開いた法然上人の一枚起請文にならい子孫に「金持商人一枚起靖文」を書き記しています。

「一、世間では『金を溜める人は、運がいいからで、金が溜まらないのは自分に運がないからだ』と言うが、それは愚かで大きな誤りだ。運などというのは無いのだ。金持ちになろうと思うなら、酒宴や遊興、贅沢をやめて長生きを心掛け、始末第一に商いに励むより方法はない。他に欲深いことを考えると、先祖の慈悲にも、天地自然の道理にもはずれることになる。ただし始末とけち(原文では「しわき」)とは違う
。無知な人は、これを同じように考えているが、けちの光はすぐに消えてしまうが、始末の光は現世の極楽浄土を照らすものだ。二、これを心得て実行する人が、五万、十万の大金ができることは疑いない。ただし、国の長者と呼ばれるようになるには、運も必要で、一代でなれるものではない。二代、三代と続き、善人が生まれて、はじめて長者と呼ばれる家になる。そのためには、陰徳・善事を積むことより方法はない。のちの子孫の奢りを防ぐために書した」

さらに意訳ですが、金が溜まるのは運ではない。質素倹約につとめて長い目で観て事の本末を見据えて謙虚に励むこと。そしてこれを実践すれば長い期間を得てお金は溜まる。それは何代も世代を超えて陰徳を積むから長者が出るのだと。だからこそこれを心得なさいということでしょうか。

お金持ちなったのは、先人たちの遠い子孫を思い、理念を定め徳を積んだ実践の御蔭なのだということでしょう。

例えば近江商人の中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを1818年に完成しました。この工事の費用は全体で1千両かかったのですが、さらに幕府に3千両を寄付したとあります。その理由は工事の費用1千両にあわせて、後の橋の補修や架け替え等が必要だと気づき残りの2千両をそのことに使ってほしいという事での寄付でした。

長い目で観て、計画を立てて実行し、陰徳善事を盡していくところにお金持ちになる所以があります。つまり近江商人の実践の素晴らしさは、先祖からの恩恵を忘れずにそれを子孫たちへさらに陰徳を偉大にして受け継いでいくことにあるように思います。

また近江八幡出身の江戸中期の歌人の伴蒿蹊は、家訓として「陰徳あれば陽報ありとて、かくのごとく常々つとむれば、目に見える幸を得て繁盛すべし。此幸を得るためとあてにしてするは陰徳にあらず、無心にてすれば自然にめぐるなり。」と常に陰徳を積むものが富むというその富の循環の道理を語ります。

つまり近江商人はまず徳を重んじて、それ相応の富をまた陰徳につぎ込みながら地域や日本を仕合せにする実践を大切にしてきたように思います。富に相応しい徳があるかどうか、また徳が富に相応しいかどうか。天秤棒を担いで行商をしたといいますが、ひょっとするとその徳と富を常に天秤にかけていたのかもしれません。

今の時代、冨ばかりが優先されてケチになり徳があまり意識されることがありません。しかし本来は、徳があって富があり、冨があるのは徳の御蔭ですから私たちはよくよく日々の事業の本末や始末と正対して天秤にかけて内省していく必要があるように思います。

子どもたちのためにも、近江商人の生き方からの智慧を伝承していきたいと思います。