人類の失敗

先日、ある実験がアメリカで行われていることを知り自然の道理についてまた考える機会がありました。その実験は、蚊を遺伝子操作し子孫が生まれなくなるようにするものです。具体的には、遺伝子操作した雄の蚊を何千万匹と野に放ちその蚊が雌と交配することで子孫が生まれなくなり全滅させるというものです。

実験は1週間ごとに45万匹の遺伝子組み換えの蚊が放たれ27か月間行われました。結論としては失敗に終わったようで、雌の蚊が子孫を残せない雄を見分けて交配するようになったのではないかといわれています。当初は減少傾向があったそうですが、18か月後には元の数に戻ったそうです。

人間でもわかりますが、子孫を残せないとなると選択して子孫が残せるようなものを選ぶのはわかります。蚊はそうしないと思ったことがまず不思議ですが、自然の道理としては当然のことです。

問題はここからです。

本来、子孫を残せない蚊を放ったから遺伝子組み換えの蚊は同時にいなくなると仮定していましたが実際には交配するなかで野生の蚊から遺伝子組み換えられた蚊の遺伝子を受け継いだ個体が多数発見されたのです。その遺伝子組み換えられた蚊から同じ組み替えられた蚊が3~4パーセント誕生するようです。つまり人為的に遺伝子を改造された子孫がその後も引き継がれて野生に誕生しているということです。

この遺伝子を組み換えられた蚊のグループは、従来の蚊よりもさらに強い抵抗力や強毒性のようなものを持つことが考えられるそうです。

遺伝子を組み換えて操作するはずが、かえって手が付けられないものを作ってしまうという事実。これはコロナウイルスにも似たようなことが起きているのではないかと私は感じます。

人類は、この遺伝子組み換えという技術の危険性をよく理解せずに使いますが自然のバランスを壊せばどうなることがあるのかを必ず知る日が来るはずです。この遺伝子というものは、何億年も何千万年も前からある私たちの姿を創造するいのちの根源です。それを操作すれば、奇形をはじめあらゆる問題が発生します。

遺伝子を傷つけるようなもの、それを組み換えるようなものをすればこの世に本来存在するはずもなかったような不自然な存在が現れます。人工的に人為的につくられたものは、自然のバランスを崩すだけでなくかえってそれを今度また元に戻すために膨大な量のエネルギーや犠牲を払うことになります。

本来、自然を無視した人工物や人為的なものを取り払って自然に沿ったものにしていこうとなれば自然はバランスがととのいやすくなります。しかしその逆をやればどうなるかといえば、かえって人間にとって不都合なことばかりが発生するのです。

このまま、学び直すことなく人類が突き進めばそのうち「人類の失敗」という歴史が本に掲載される日も来るように思います。その失敗は、すべて以上のように自然界のバランスを崩した出来事や内容で埋め尽くされるはずです。

日本人の先人たちは、それをよく学んでいました。それによって山や川を大切にし、生き物たちや自然を深く崇拝し、自然と共生しながら永続し循環できるバランスの中心を持てる生き方、つまり伝統的な「暮らし」を実現させました。

最近、コロナウイルスは台湾モデルが世界に賞賛されていると聞きます。なぜ、日本がそうならないのか。残念に思います。どちらにしても、人類は失敗から学び改善するところに成長もあります。現実や事実を直視し、暮らしフルネス™が世界を導けるように実践を続けていきたいと思います。

資源のもと

私たちの身体をはじめ、この世のすべてのものは資源でできています。原資になっているものは土ですが、土から化けて形になり最後はまた土に還ります。そしてその土とは、水と火と木と石などあらゆるものが融和している存在です。

私たちは資源を使い、この世で生活をして暮らしを成り立たせています。自然は、それぞれ資源の共有によって共生し合い助け合ってその暮らしをより豊かにしています。

衣食住もまた資源を活用することでつくります。その資源のもとは、自然の他の生き物や存在から得ているものです。当たり前に食べている卵も、またお米もそのどれもが資源でありそれを使うためにはほかの資源の暮らしを保障する必要があるのです。

その仕組みを自覚していた先人たちは、如何に自然が豊かになるか、お互いの豊かさを活かし合っていけばいいかに知恵を絞りました。それが里山循環の仕組みであったり、現在の風土に見合った衣食住の仕組みであったりするのです。

お互いが資源であるからこそ、その資源を大切に活かしきろうとしたのです。私たちの人生も一生も資源を使うことでできています。この身体を使って何をするのか、どう豊かな人生を送るのか。つまりこの貴重な資源の使い道を選択できる自由が一人ひとりにあります。

ある人は、資源を使い私利私欲を満たすためだけに使います。またある人は、それを社会貢献のために使おうとします。本来、貴重な資源を使って私たちは暮らしているのですからその資源がまたほかの資源を豊かにし共生していくことの方が仕合せを感じます。なぜなら、ずっと活かされる存在であり続けることができるからです。

それは言い換えれば永遠のいのちを持っていることを実感できるからでもあります。自分の資源がいただいたもので存在できており、またその資源が子孫や他をずっと活かすためにあると思えるからです。

私たちは資源という見方をすれば、多くの存在の助けによってできた資源です。その資源への恩恵や徳をどのようにお返ししていくか。気づいた人たちはそのために一所懸命にその土地で恩返しをしていきます。それが故郷の資源に還っていくことです。資源を使い消費することばかりを楽しむのではなく、新たな資源を産み出し、その資源でふるさとが豊かになるような取り組みをみんなではじめていくことです。

子どもたちにさらに豊かな資源が譲り遺せるように、真摯に手入れや修繕を通してその意味を伝道していきたいと思います。

 

幸福の原点

昨日は、福岡にある自然農のむかしの田んぼで田植えを行いました。ここは無肥料無農薬で、山水をかけ流しているため沢蟹やエビなどの生き物たちがたくさんいます。

今回は神事も兼ねて田植えをしましたから早乙女の衣装も用意して田植え歌も流しつつ執り行いました。この早乙女というのは、世界大百科事典によればこうあります。

「田植に,苗を本田に植える仕事をする女性をいう。ウエメ(植女),ソウトメ,ショトメなどともいう。本来は,田植に際して田の神を祭る特定の女性を指したものと考えられる。かつては田主(たあるじ)の家族の若い女性を家早乙女,内早乙女などと呼びこれにあてたらしい。相互扶助を目的としたゆい組の女性だけを早乙女と呼ぶ例もある。いずれも敬称として用いられている。田植に女性の労働が重んじられたこともあり,しだいに田植に参加する女性すべてを早乙女と呼ぶようになったと思われる。」

また百科事典ペディアによればこうも書かれます。

「田植に従事する女性。古くは植女(うえめ)ともいい,田植女の総称ではなく,田の神に奉仕する特定の女性をさした。田の神を早男(そうとく)と呼ぶのがそれを暗示する。田植は,豊作を祈る祭の日でもあるので,早乙女の服装は地方によって異なるが,普通,紺の単(ひとえ)に赤だすき,白手ぬぐいをかぶって新しい菅笠(すげがさ)をつける。」

この早乙女は古来から里山の「結(ゆい)」の仕組みとセットで存在し、早乙女たちがそれぞれの田んぼに移動しながらみんなの田植えを手伝いながら神事をし田んぼの神様に喜んでいただきながら豊作を祈り、その場の人たちの仲間を集めながら相互扶助の精神を醸成する役割を果たしたようです。

家々の田んぼをみんなで手伝いながら田植えをするために、早乙女たちが家々の田んぼを巡りながらみんなで明るく楽しい時間を過ごしていたことが目に映ります。豊作を信じて、おめでとうございますという声掛けとともに田植え歌のリズムに乗せて手伝いに来た人たちといっしょに家々の田んぼの稲の苗を植えていく。

きっと、稲もみんなで育てる、田んぼもみんなで守るという意識をもって一緒にその場を磨いていたように思います。田植えをしてからは、草とりから畔の手入れ、そして収穫、はさかけ、籾摺り、脱穀、新嘗祭、しめ縄づくり、藁ぶき屋根の補修などさらに一緒に暮らしていく中での協働作業の機会が増えていきます。

お米という字は、八十八の手間暇がかかるという意味でできた漢字だといえますがその手間暇が協働で一緒に暮らすためのものであるのならこれこそが人類の真の豊かさであることがわかります。

物質的な豊かさや金銭的な豊かさとは別に、暮らしを共にして仲間と助け合い見守りあう豊かさは古今の普遍の幸福の原点です。

今年も稲の巡りとともにしながら暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

ふるさとの甦生

私たちは自分たちの「いのち」をいつも見守ってくれている「ふるさと」のことを忘れると、当たり前ではない偉大な「御恩」に気づかなくなっていくものです。今の自分があるのは、御恩の集積の結果でありそれになんとかお返しをしたいと思う心の中にふるさとがあるからです。

今、ふるさとへの恩返しといえばふるさと納税のことなどが言われますが決してふるさとに納税したからといってご恩返しができたということではないと私は思います。一つの手段ですが、かえってそのふるさと納税の問題で村や町が資本主義の影響で荒れてしまいさらにふるさとが消滅していった事例も増えているように思います。

なんでもまず前提に「お金」のことを考える世の中になってから、都市を運営する方法で田舎もやろうとしだしてから田舎の魅力も同時に失われてきたように思います。

本来は、それぞれが個々人でふるさとのために何ができるかをよく考えて取り組んでいくことからはじめることだと私は思います。そのために資金も必要ですが、できるところからはじめていけば仲間が増えてそのうちふるさとが喜び、人も喜び、御恩も喜んでいくように思います。

そのふるさとへの御恩返しにおいて、もっとも大切なことは「魅力」を磨きなおすことです。これは、そこに住む人たちができることですし、ふるさとに戻ってきた人、もしくはそこを新たなふるさとにしようと移住する人たちでもできることです。

それは、その場所の単なる過去の栄光や遺跡を自慢することではありません。もしくは、なんとなく目新しいものや人気があるもの、流行のものを出すことが魅力ではありません。

魅力とは徳を磨いていくことで発揮されるものです。そもそもこの徳と魅力は似ているところがあります。そのままでは魅力は輝くことはありません、あくまで磨いていくことで魅力は高まって光っていきます。

「あなたは自分のふるさとの魅力を磨いていますか?」 そして、「あなたは自分自身の魅力を磨きましたか?」

この二つの問いだけで、私たちは徳というものの存在やふるさとへの御恩返しにつながっていくと私は感じているのです。その場所を、今までよりももっと素晴らしい場所にしていく。もしくは自分の徳を磨き、子孫たちにその徳をもっと素晴らしいものにして譲渡していく。

与えられたものに不満を言ったり、不足を嘆くのではなく磨くのです。それは足るを知り、あなたにしか与えられていないたった一つの天与の道を磨くのです。そうすることが、ふるさとへの御恩返しになるのです。

実際、毎日のように見学者が来て話を聴きにきて説明しますが私が取り組んでいることは実は誰にでもできることです。ふるさとのことを愛する心は、感謝に生きる心でもあります。その心をもっている人は豊かであり仕合せです。その仕合せが末永く継続できるように私たちはふるさとへ御恩返ししていく必要があります。それが子どもたちの仕合せな未来への約束でもあります。

仕事でやることではなく、心をもって魅力を磨くことは個々人でできるのです。

みんなでそうやってふるさとを磨いていけば、光り輝き出したふるさとを観て元氣になっていく人たちが増えていきます。ふるさとが甦生すれば、その土地だけではなく人々も元氣になっていくのです。

日本が元氣になれば世界も元氣になります。

元氣になれば、人間は足るを知り自然との共生のすばらしさ、平和の美しさ、本物や伝統文化の価値を実感しなおすことができます。

引き続き、この場からふるさとの甦生を楽しんでいきたいと思います。

 

暮らしの習慣

一般的なスケジュール(予定)とは別にルーティン(習慣)というものがあります。スケジュールは、決められたものを計画通りに実行していくことをいいますが習慣は暮らしの中で取り組む繰り返しの実践のような位置づけで用いられます。

ルーティン(習慣)を持っている人は、そこに一つのリズムも持っています。毎日を整えていくための一つとしてこの習慣を大切にすることはとても重要なことだと思います。

例えば、私はこのブログを毎朝欠かさず書いています。前の日、もしくは直前までに振り返りをし日々を省みてそこから気づいたことや発見したことを深めたり実践を磨いています。日々に取り組むことで、毎日のリズムができ同時に意識を磨いていくことができています。

この意識には、変化というものを捉えるというものもあります。同じことを徹底的に磨き続けることで前のこととは異なっているものの発見がたくさんあります。同じことをしていても決して同じことは起きることはなく、必ず何らかの変化を感じ取ることができます。

このブログの場合は、以前と同じテーマで書いているのにも関わらず10年前の記事と今書く記事では内容が同じでも表現の仕方や理解の深さ、また言葉の磨き方が変わってしまっています。自分でそこではじめて、日々のルーティン(習慣)によって磨かれたということを実感するのです。

私たちはルーティンを通して自分を磨いていくことができます、別の言い方をすると暮らしの習慣によって自分を変えていくことができるということです。理想の自分、目指している姿に近づけていくためにどのようなルーティンを暮らしの中で実現するのかを決める必要があります。

ここでのどんな暮らしをしていくのかは、つまりどんな自分をつくっていくのかと同義語ということでしょう。

暮らしフルネス™は、この自分を磨いていくための実践をどう豊かなもので満たしていくかということでもあります。足るを知る暮らしのルーティン、自然と共生するルーティン、自分を整えていくためのルーティン、あらゆるルーティン(習慣)は私たちの人生を深く支えているのでしょう。

本物の変化は小さなルーティンの積み重ねと磨き合いによって起こります。これから新しくはじめる新たなルーティンが子どもたちの未来をより豊かにしていくように祈りつつ行動を開始していきたいと思います。

 

 

ご縁に導かれるということ

人はご縁に導かれて人生を歩んでいくものです。しかし実際に日常を生きていると、そのつながりを感じる間もないほどに多くの出会いがあり別れがあり日々は前進していきますから感じにくいものです。

例えば、ある出会いがないと次の出会いにつながらないということはみんな体験しているものです。不思議なもので、出会った人が次の出会いと深い関係性を持っています。それと直観のいい人は、感覚的に察知してご縁を大切にしていくのです。すると、早ければすぐに、遅くても数年後には一緒にそのご縁を活かしあうような出来事や物語とつながっていきます。

私は直観が鋭い方かもしれませんが、気になるご縁を先に感知していきます。何かその人との未来が実感するものがあるのです。頭では考えられないかもしれませんが、心が感応して不思議なご縁を感じていきます。このご縁は別に自分に対してメリットとかデメリットがとかではなく「ご縁がある」と感じるものです。

そう考えてみると、ご縁があるとはご縁に導かれ続けることに委ね続けるということでしょう。ご縁があるのはその時、その場所、その組み合わせでなければならず、まさに絶妙に一期一会にご縁を結び合うのです。それがお互いのいのちや魂に深い影響を与えてさらにこの世で大切な役割を果たすための触媒になっていくのです。

仏教でいう山川草木悉皆成仏というのでしょうか。みんなが触媒となってお互いに深い関係を結んでいくという世界。これが私たちのいのちの仕組みということなのでしょう。だからこそ、ご縁というものを感じることが何よりも大切なのです。自分が知らず知らずのうちに与えたご縁がその人にとっての深いご縁になり世界がまた変わっていく。逆に、与えられたご縁によって自分の世界が変わり、そのことを触媒としてまた別の世界に導かれていく。

だからこそ私たちはご縁を大切に人生を生き切る必要があるのです。

私も、この数年で出会う人も語り合う話も、具体的な関わりも大きく変化してきました。ここからまた新たなご縁が深まり始めています。二度とないこのご縁を大切に導かれていきたいと思います。

徳を掘り起こす

明日は、いよいよ徳積堂がオープンする日です。この日を迎えるまでかなりの時間をかけて準備してきましたが、無事に始動できることが仕合せです。もともと徳の循環をはじめるための実験の場として醸成していきましたがこれからどのような変化をこの場が築いていくのか楽しみです。

今回のオープニングイベントは徳の掘り起こしをテーマに古代から今までの歴史を学び直す機会にしています。そもそも歴史とはそのまま真実であり、どのような経緯で今ここまできたのかを明確に顕すものです。

時としてその時代の権力者が歴史を私物化して、真実を歪めていることもありますが本来の歴史はいくら歪めても最後には必ず正体がはっきりするものです。それはそこに「場」が遺っているからであり、その場にアクセスする人たちによって本当のことが次第に明らかになっていくからです。

例えば、日本の歴史では菅原道真公のように如何に罪人であるかのように時の政権が歴史を抹殺して功績をなかったことにしたとしても、その後、ご縁のある人たちや遺跡や文化財などの掘り起こしによってその徳が顕彰されていくのです。

いくら歴史を誤魔化して私物化しても、いつかは明るみになり返ってそのことでさらに歴史の真実や徳は人々に語り継がれるようになるのです。

歴史というものは、今まで歩いてきた軌跡でありこれから何処に向かっていくのかの大切な方針や初心を示すものです。私たちは個人の人生を生きてはいますが、大きな意味としては歴史を生きているのです。この現代もまた、古代から続く歴史の連続の一部であり未来もまた歴史につながり顕現してきます。

今の自分の布置を理解することは、今の自分に譲られてきた徳を理解することでもあります。

私たちが歴史を掘り起こす必要があるのは、自分たちが今までどのように歴史を生き抜き暮らしてきたか。そして先人たちの数々の人生での思いや祈り、願いを歴史とともにどのように暮らし生きていくのか、その遺徳を感受しなおすことで私たちが何を徳としてきたかを甦生させる意味もあるのです。

徳の甦生は、徳の循環のはじまりになります。

子どもたちが、自分たちの歴史やルーツを知ることこそ根のある暮らしを実践することであり、栄養豊富な風土から養分を吸い上げて世界や未来で活躍するための場の醸成になっていきます。

まずはこの時、この徳積堂から子どもたちに確かな未来を譲っていきたいと思います。

徳循環の道理

私たちの身の回りには自然由来のものと、そうではない人工的なものが存在しています。例えば、建築でいえば土壁や柱などは自然由来です。それに対して、ビニールクロスやユニットバスなどは人工的なものです。

本来、自然界は自然が造形したもので仕上がっているものです。それは自然の篩にかけられるなかでも生き残る智慧で存在しているもので形成しています。石も土も木も、また火も水もすべて自然界を維持するための大切な要素を果たしあうことで存在を助け合い半永久的に循環しながら維持しています。

しかし人間が人工的につくるものは、自然に反して本来自然の中で存在しないものを産み出しますから循環することができません。循環しないものは、自然の篩にかけられてそのうち消滅していきます。

つまりこの世の道理としてシンプルなものは、循環しないものは消滅し循環するものだけは永続するということです。こういう真理や道理は、この世にいる限りは変えることはできません。どのような生物にも生死が存在するように、変えることができない事実が真理としてあります。

現代を観てみたらどうでしょうか。

人類はここ百年で循環しないものばかりを産み出してきました。それはゴミとしてこの世にとどまり、自然の消滅を待つまで循環せずにこの世に存在していきます。本来、循環とはお互いに存在そのものが互助と利他で巡っており、お互いの役割がお互いの社会に必要不可欠な共生関係を結んでいるものです。

自然との共生という言い方をしますが、これは自然由来の中に人間も入って一緒に循環の一助になることを言います。里山などはその典型で、自然の巡りを助けるように私たちは自然の資源を上手に活用し、取りすぎず余らなすぎずに適当に分けていただきながらその分、周囲の生き物たち全体を活かそうとしていきます。

私が取り組んでいるむかしの田んぼもまた、生き物たちがいっぱいになるような環境を用意しお米をつくっています。お米づくりは、実は微生物をはじめたくさんの生命たちが水田に溢れ自然の循環を活性化していきます。それにより、水も空気も浄化され、私たちの身体も食を通して循環して浄化されていくのです。

循環というものは、お互いを活かしあうことですがそれは決して人工的に行うものでは廻らず、必ず自然の巡りと調和して発生するのです。私は、これから徳積堂を始動させ循環についてここから発信していきますがそもそも循環が徳そのものであり、循環を促すことが徳を積むことになるのです。

現代では逆行しているかもしれませんが、そのうち何が本来の持続可能なのか。延命治療ではなく、根源治癒とはどういうことを言うのか。気づく人たちとともに人類の未来を切り拓いていきたいと思います。

歴史を創る

この世の中には、ずっと残るものと残らないものがあります。それは歴史を学べば気づけるものです。例えば、建築物であれば長いものでは1000年以上もありますがほとんどのものは100年持つことは現代ではあまりありません。記憶も同様に3代くらいは口伝などで引き継いでもその前の代のことを覚えている人はほとんどありません。こうやって時代には、残るものと残らないものが篩にかけられて選別されていきます。

私たちは今を生きていますが、前のことでは生きてはいけません。過去の栄耀栄華がしがみついて生きていくことはできず、常に今を刷新して前進し続けることでこの世に存続することができています。

一見、時代的に長いものを観たとしてもそれはずっと同じままでいたことはありません。つまり、その時代時代に変化し続けて手入れをしているから今も持つのです。

あの法隆寺は1300年建っていますが、これも何もしていないのではありません。それをずっと守るために信仰を絶やさずに手入れを怠らないから今でも建っています。つまりは、その時代時代にそれを守る人が出たからといことです。そして守るためには、単に維持していけばいいのではありません。

時としては攻めて変革をしたり、またある時は守りに徹して粛々と大勢の批判に耐えながらも本質を貫いたりと、真摯に手入れをし続けてきたのです。

この手入れが悪いと、そこまでで途絶えてしまいます。今でも甦生し続けているものの手入れはなんでもいいわけではなく、常に本質を守りながらその時代の価値観に対応し続けるという初心を忘れない温故知新の知恵を持つ人たちが挑戦が必要なのです。

それが歴史を創るということなのです。

歴史は残すだけのものではなく、創り続けるものなのです。だからこそ新しく創めることに挑戦していく必要があります。今までのものを創新するのです。

私が取り組んでいることは、なかなか理解されないことですがそのうち時代が変われば理解されると思います。それまでは挑戦を楽しみ味わい、新たな未来のために歴史を掘り起こし、甦生し、磨いて創り続けたいと思います。

徳循環の社会実験

今週末はいよいよ徳積堂のオープンです。徳循環の社会を創造すべく、念願が叶いいよいよ「徳」を甦生させる活動を本格化していきます。今の時代の徳とはどういうものか、それぞれの時代で徳の大切さは語られてきましたがこれから新しい時代の幕開けに際しここから新たな徳の真価を発信していきたいと思います。

「徳」においての私の先生といえば、二宮尊徳です。私は二宮尊徳を非常に尊敬していて、30代の10年間はずっと二宮尊徳の遺した言葉や遺跡を歩き、またその言葉の意味をなぞるように学んできました。どの遺した言葉も私の魂に深く響き、それを社業にも反映させていきました。

例えば、「一円対話」というのは二宮尊徳の一円観を参考にしたものです。聴福人は、桜町陣屋の近くの親鸞上人の高田山でのメモ帳にあった言葉で閃いたものです。また今の時代の人たちが捨てるものを拾い集めて甦生するようになったのも二宮尊徳の生きざまから学んだものです。実は他にもこれから私が取り組むもののほとんどは、似たようなことを実行していくかもしれません。

金融に取り組むのも、積小為大からでもあり、至誠、分度なども今の会社経営だけではなく、あらゆる私の取り組みの根底を支えています。それはこの世の自然の真理を活かしたというところに深い信頼があるからだろうと思います。

いよいよ徳積堂を始動するにあたり、既存の価値観との融和するためにその土を醸成していきます。そのためにまず取り組むのは、「推譲」の真価です。

二宮尊徳に「譲って損なく、奪って益なし」があります。

言い換えるのならこれは、みんなで譲っていくことは徳になり、奪うのをやめば徳になる。徳の循環を実現するために、ここから温故知新した社会実験をスタートさせていきたいと思います。