日本博

今日は、日本博「神宿る島」国際文化芸術プロジェクトのフィールドワークを聴福庵で開催します。この国際文化芸術プロジェクトは、伝統とともに継承されてきた精神と思想を基層にし、さまざまな文化芸術プログラムを通して「日本の心」と「日本の美」を世界に発信していくというものです。

「自然の摂理の中で畏怖の念を抱き、謙虚に向き合いながら森里川海への感謝と祈りを捧げて暮らしを営んできた日本において、古代から育まれてきた “常若(とこわか)”という思想があります。常若とは、自然界ではすべての物質は絶えず循環し、生まれ変わりつづけることで維持されていることから、循環する時間の象徴であり、地球と人類が如何にお互いの生命を維持しつつ、共存すべきかを顕しています。」

この常若は、私の取り組んでいる甦生とほとんど同じ定義です。時代と共にくすんでくる様々なのものを磨き直して今の時代に相応しい価値を顕現させていく。つまり本質や普遍を磨き直して新たにする、温故知新ともいい、徳積ともいいます。

聴福庵という「場」が選定された理由もまた、この同じ目的のために取り組んでいることが共感されたものであり、具体的な姿かたちとして顕現した「暮らしフルネス」の一端を感じていただくことで循環というものの本質を知ることができると私は思います。

また今日の実施内容としては「先人の知恵と暮らしを取り戻すための再生。 時代と共に現代にリノベーションされた 築120年の古民家「聴福庵」。 日々姿を変えていく中で生まれゆく温もりと ゆとりに、古より受け継がれてきた智慧を感じる 古民家での暮らしの中に入り、目には見えない生命の循環と、先人たちの培ってきた生き方を学ぶ。」となっています。

具体的には、朝からいつも通りの暮らしの中で一緒に手入れや磨くことを体験し、鰹節や竈ご飯を炊き、お漬物をつけ食べてその循環の中の智慧と一体になるというものです。

私たちは本来、自然から離れずに暮らしていました。それが自然を喜ばすことであり、私達も喜ぶことであり、それが仕合せというものの正体だと知っていました。自然から離れたことで私たちは循環からも離れ、仕合せからも離れていきました。

一緒に地球で生きていくものどうし、お互いが喜び合うように水をかけあい、土を耕しあい、菌達と発酵し合い、仲睦まじく優しい気持ちで生活を味わい豊穣のいのちを楽しみました。

当たり前であった前提がもう思い出せなくなるほどに崩れてしまった現代ですが、その中でも本来の日本的な暮らし、日本人の生き方を大切にしていくのは「子どもたちの未来のため」であることは私の信条です。

「徳をみんなで磨き合っていくことで子どもが安心して暮らしていける世の中になること。」

それだけが願いであり祈りです。この日本博での私の生き方と暮らし方を伝承していきたいと思います。

 

侘美寂美

日本人には長い年月で醸成されてきた美意識というものがあります。これはその国々の風土と歴史によって美醜の別が顕現してくるものです。それを別の言い方では美学とも言います。

私は古い懐かしいものに触れる機会が多くあるからか、侘びや寂びのようなものに触れるご縁も多くあります。これは一つの日本の美意識ですが、それが何かというものを一言で言うことはできません。

美意識に触れることで自分の中にあるものと触れ合っていく、まさに記憶との連結であり、懐かしい何かがそれを美しいと感じさせるのです。それは例えば、ものの形状や書、詩や風景、音律、もしくは生き方にまで至ります。

どの切り口からも侘びや寂びを語ることができ、その時、私たちは自分の深淵にある民族の感性や感覚、魂がその美意識と語り合っているということです。

鈴木大拙氏がこのように侘び寂びを表現しています。

「わびの真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物(冨・力・名)に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、これがわびを本質的に組成するものである。」

「美とはかならずしも形の完全を指していうのではない。この不完全どころか醜というべき形のなかに、美を体現することが日本の美術家の得意の妙技の一つである。この不完全の美に古色や古拙味(原始的無骨さ)が伴えば、日本の鑑賞家が賞美するところのさびがあらわれる。古色と原始性とは現実味ではないかも知れぬ。美術品が表面的にでも史的時代感を示せば、そこにさびが存する。さびは鄙びた無虚飾や古拙な不完全に存する、見た目の単純さや無造作な仕事ぶりに存する、豊富な歴史的な連想(かならずしも現存しなくてもよい)に存する、そして最後にそれはくだんの事物を芸術的作品の程度に引き上げるところの説明しがたき要素を含んでいる。」

侘びや寂びとは、本来の洗練された価値のままであることだと私は思います。自然のもつ素朴さの中にこそ真実の美がある。つまり自然の美こそが美の至宝であると実感していると思うのです。

自然は葉っぱ一枚、生物の姿かたち一つがまさに芸術そのものです。複雑にみえてその実は大変に洗練されたシンプルさがあります。素朴にシンプルが観えるということは、この侘びや寂びもまた観えているということだと私は思います。

私のブログの文章は思いつきで書いていますから長いしシンプルではありません。しかし何度も何度も真理を見つめ心と対話し磨き続けていけばいつの日か大変シンプルなものになる日も来るかもしれません。そんな侘美や寂美を楽しみ味わいながら歩む人生もまた美意識の一つかもしれません。

子どもたちに譲り遺していきたい生き方を実践していきたいと思います。

徳積堂 

世界にカフェがあるように、日本にも古来からカフェの役割を果たしていたところがあります。それを御堂ともいい、茶堂ともいいます。

むかしよく時代劇などを見ていたら、村の小高い場所や、みんなの集まりやすい場所にはお寺やお堂があります。そして峠や辻などの境界には茶堂があります。

四国はお遍路さんがあったので多いといいますが、その建築物は茅葺の小さな建物でその三面に壁がなく、いつでも誰でもどこからでも上がれるようになっています。ここには、 村人たちの憩いの場であり、通行人や旅人、商人たち、あらゆる人々が村人からお茶などのおもてなしをうけたり情報交換をした憩いの場であったといいます。

禅語で有名な「喫茶去」がありますが、これはいつでも、どこでも、誰にでも同じ心でお茶を点てることを意味するそうです。つまり「特別なことをしようと思わず、いつも通りに平常心にお茶を点てることが大切である」ことを説いているといいます。

穏やかな心で、いつも通りにお茶を点てることでみんなが安心するのです。

私は茶堂や御堂は、いつも心を開いて平等に分け隔てなく刷り込みなどもなく「いのちそのもの」を尊重し合う信頼の場ではないかと感じています。

お茶の接待を受けるということは、裏表のない真心でお茶を点てるということです。そしてそれはご縁を大切に一期一会で巡り合えた奇跡に感謝し合うことでもあります。

私たちは少しでも時間や場や関係がズレればお会いすることはありません。このブログもまた、御縁がなければ目に留まることもありません。それだけご縁は縁尋奇妙であり、そのご縁の仕合せを私たちは全身で味わうことができるのです。それを一杯の差し出したお湯やお水でというのが根源的なつながりを直観させるように思います。

仏教には、山川草木悉皆成仏という言葉があります。この世のありとあらゆるものは、仏そのものであるということをいいます。そして神道には、八百万の神々といってこの世のすべては神様であるともいいます。つまりは、分け隔てなく遍くものをあるがままに認め合う世の中を創造しそれぞれのいのちを自然のままによろこばすこと。

私は「かんながらの道」とも言いますがこれを実感することで人は大切な懐かしい何かにふと気づくように思います。そして「徳」もまたこの普遍の真理そのものを顕していると私は思います。

これから新たに開く伝統の「徳積堂(とくつみどう)」では、同じ祈りを生きる人たちと共に、かつての御堂や茶堂を今の時代に復古起新して子どもたちにそのご縁を伝承していきたいと思います。

時代のターンテーブルのようにここから新たな懐かしい未来のクニづくりがはじまります。

五徳の場

私はよく火鉢を用いて火を熾しますがその中に「五徳」というものがあります。現代の人はあまり見かけることがないと思いますが、鉄瓶や鍋などをのせてお湯を温めたり料理をする際に用いるものです。

その形状が〇に足がついたもの、それが逆さになって爪のようなものが3本~5本くらいついたもの、色々とありますがとても五徳という名前になるようには思えないのです。

そこで少しこの五徳について調べてみました。

まず、山田宗徧という方が書き記したの「茶道要録(ちゃどうようろく)」に仏書にある自在徳、熾盛徳、端厳徳、名称徳、吉祥徳、尊貴徳の六徳があり、その自在徳を除いたことで五徳を由来とするとあります。

この自在徳というのを除く理由は、この五徳という直接火鉢や囲炉裏の中においてある五徳では重たいものや重心のバランスが取れない、火加減を調整するのが難しいなどがあり自在鉤というものが発案されたことからだそうです。

この自在鉤というのは、ひょっとしたらどこかの田舎の古民家で見かけたことがあるかもしれませんが天井から鉄棒や竹などを吊るし鉤のところに鍋などを引っかけて上下に調整して使うものです。五徳を使わないところではこの自在鉤がありますから、本来の六徳であったものの一つを取り除いたから五徳となったということです。

そもそも私はサウナをつくった時にも感じましたが、茶室の源流は仏教にあると確信しています。また五行の徳といって算命学では万物は五行(木・火・土・金・水)で成り立っていると信じられてきています。具体的には、木が福、火が寿、土が禄、金が官、水が印です。順に行けば、幸福、寿命、財、名誉、智慧です。この5つの徳を調和させ一度に活かす場所、それが囲炉裏であり火鉢なのです。

私は日々に火を熾してその徳を磨き、徳を高める実践をしますからこの五徳は常に意識しています。そう考えると、むかしの人たちはこの囲炉裏や火鉢によって心を整え、五徳、もしくは六徳を実践してきたのです。

今回、新たに手掛ける徳積堂はこの五徳と火鉢が茶堂の中心に据え置かれます。千利休がもしも生きていたら、この世の中の心の荒みをみてどうするだろうか。私は千利休ではありませんがきっと私のやっていることに深く共感してくれるのではないかとも信じています。

引き続き、暮らしフルネスの中心にこの五徳があることを念じ、徳積の活動を真摯に取り組んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの本当の価値

現在、働き方改革でオフィスをなくしていく会社が増えています。そもそもこのオフィスとは何か、オフィスをなくすとは何か、深める必要があると私は思います。私たち日本人は古来から、職住一体型の生き方をしてきた民族です。暮らしの中に働くことがあり、私たちは仕事のために働くのではなく暮らしの一部として働いていました。

オフィスがはじまりサラリーマンになり、なんとなく会社に行き仕事をして給料をもらうことが目的のようになっていますが本来はみんなで協力して楽しく豊かに稼ぎ暮らし通して世界人類をはじめ自然と共生してみんなが仕合せになるために働きました。

改めて少しこの辺を整理してみたいと思います。

例えば、私たちは小さいころから学校というものに通いはじめ学校で勉強を教わってきました。しかし学校を卒業したらそれまで義務教育のように誰かが教えてくれる環境や管理される環境がなくなりますから自分で学問を深めていく必要が出てきます。

私も最初に学校というところを卒業してから、それまでの学びと実社会に出てからの学びが全く別物であることを実感しました。勉強をするのではなく、学問を深める。言い換えれば、手段としての勉強ではなく目的としての学問、つまりは道に入るために道を見出し、道を歩み、道に達するための学び方に換わってくるのです。

そうすると、1週間で2日が休みだから何もしないとか、夏休みだから仕事をしないとかそういうレベルの話ではなくなります。このブログのように日々に休むこともなく、道を探求して歩みを続けていくのです。それは学問を楽しみ味わい、一度しかない人生に導かれながら道を切り拓いていくという生き方と暮らし方に転換されていくのです。

そうやって日々の暮らし方が換わっていくとすべての日々の仕事は「ライフワーク(天職)」になりそして人生の目的は「ライトワーク(魂を磨く)」ことになります。そして真の自己の人生そのものを真摯に歩むこと自体が丸ごと世の中のみんなの仕合せそのものつながっていくという境地に入るのです。

そうすると日々は常に学びそのものであり、暮らしはすべて感謝そのものに換わっていきます。学校にいくから学ぶのではなく、学ぶ場のすべてが学校になるのです。つまり自分のいる「場」が人生の道場と化すのです。

私が言うオフィスをなくすというのはこのことに似ています。つまりオフィスをなくすというのは、それまでの仕事をやめて暮らしそのものにするということです。暮らしを豊かに仕合せにすること、暮らしフルネスともいいますがそこは自他一体、すべて分かれているものがない一円合一されている状態になっているということです。

自分の日々の生き方がまさに働き方になり、それが暮らし方として世の中を仕合せにする=暮らしフルネスなのです。これは人類が本来あるべき理想の姿であり、私たちは協力して自律し合ってはじめて暮らしを整えて共存共栄してここまで助け合って生きた存在なのです。

オフィスがあるから大切なことに気づかないのなら、一度思い切ってオフィスをなくしてみればわかります。そしてなくしたオフィスの代わりに何をはじめるのか、何が変わるのか、それを具体的に私がカタチにしたのが「暮らしフルネス」なのです。私と一緒に体験をすれば私の存在から何かを感じ取れると思います。天人合一や真の自己、そして神人一体は生き方と働き方の一致、暮らしの革命によって実現するからです。

何かをやめてみてはじめてそれが何だったのか、必要だったのかがわかります。みんな始める勇気が必要なようにやめる勇気も必要なのです。何をやめることで何がはじまるのか、オフィスをやめれば何がはじまるのか。

私はそれを子どもたちの未来のために、勇気を出していち早く実践してきましたから今のコロナ禍が転じて福になってきているのを実感します。世界人類の仕合せな未来のためにここから一石を投じていきたいと思います。

学問の醍醐味~失敗という自信~

人間は失敗することで自信をつけていくものです。失敗すると自信を失うというのが普通ですが、長い時間をかけて物事を観れば実はそれが自信そのもになっているように思うのです。

私は、何をするのにも最初に結構な失敗ばかりをします。その失敗は、何かを壊してしまったり、何かを失ったり、不本意で不注意からか、または知らなかったからということで初歩的なミスをしてしまいます。

修復できると信じてはいても、その時はできないと思ってしまい心を痛めます。特に人間関係などもかなりの失意があり、なぜそうなったのかと何度も反省をしては後悔することもあります。

しかしそこまでいくと、きっと人間塞翁が馬ではないかと開き直り時間をかけてじっくりと修復のために努力をしつづけていきます。すると、そのうち修復や修繕をされたり、かつての失敗からの教訓が活かされてきてその後の大切な場面場面で過去の失敗に救われることになるのです。

そうしていると、失敗が大きな自信になり、自分自身が諦めずに信じぬき挑戦するための下支えになっていることに気づくのです。つまりは、基礎を固めていく時間であったかのようにその後の上物の建物を盤石にするための醸成期間であったと実感するのです。

このことからも私たちは如何に目のまえの目先のことに囚われやすいかということにも気づきます。人生を全体で総括りするとき、本当は何だったのか、それを知ることで、自分の人生の意味づけを行っていくのです。

その意味づけが、まさにその人の目的であり、それを味わい、魂を磨こうとしてその物語とのご縁が生まれてつながっていくのです。

だからこそ失敗とは何か、そして真の成長とは何か、自信とは何を意味するものなのかを学ぶのでしょう。学問の醍醐味は、これらのプロセスを通して自分自身という存在と徳性を高めていくことです。

子どもたちに日本民族のお手本としての生き方が遺し譲れるように、引き続き学問を楽しみその妙味を伝承していきたいと思います。

月への信仰

昨日は、里芋の収穫をしてみんなでお味噌汁にいれて食べました。とても美味しく、心も体にも沁みわたりました。もともと里芋は、むかしから私たち日本人が食べていた主食であり稲が入るまではずっと私たちの暮らしを支えてくれていたものです。

自然農の畑でしっかりと順応して野性味が溢れる味わいは、他の雑草たちに負けじと一生懸命に生きたいのちがずっしりと入っています。

昨夜は月明かりがとても眩く、目が覚めてしまいましたがこの里芋を収穫する時期の月を「芋名月(いもめいげつ)」といい、むかしから里芋を月にお祀りしていた風習があります。十五夜は芋を供え、十三夜には栗、または大豆を供えます。なので十三夜は栗名月、豆名月ともいわれます。

里芋の収穫儀礼は懐かしく、今の稲のように収穫を祝い祈りそれぞれが月に信仰していたのでしょう。この月の信仰においては、私たちはかぐや姫の名前を社名にしているのもありとても深い関係があります。

そもそも日本人がの月の信仰は縄文時代よりもずっと前からはじまっているもので特に縄文時代の人々は自然に宿る精霊と共に暮らし、月は月の満ち欠けによる潮の干満や、女性の月経周期が月とも関係していることから月は自然神の象徴として信仰していたといいます。満月の明かりでお祀りをしていたことが遺跡などからも見つかっています。

日本は、太陽と月、そして天津神、国津神、天孫族や出雲族のように別の2種類の民族が相調和しあい交互に交流してこの国を守り続けてきました。そして長い間混ざり合わさって助け合って今の私たちがあります。

太陽の時代があれば月の時代もあり、本来は太陽と月は昼と夜、天照と月詠が交互に守り合う世界ですから対立しているのではなく調和している存在です。

太陽には太陽への信仰の行事があるように、月には月への信仰があります。現在は、太陽が強く太陽ばかりを信仰することで明々として目に入る眩い光ばかりを照らす世の中になっています。

しかし月は、陰を映す存在であり、薄明かりの中で照らされる徳を顕現する世の中です。私はこの月を深く信じる生き方をしており、月のもつ陰徳を信仰しています。その象徴として、かぐや姫の物語を社名にしており、ロゴマークも月、そして実践は徳積みが中心、さらには行事などもお米作りや発酵、炭を用い、お餅を搗きお供えなどもします。

西洋人は月に対してはあまりいいイメージはありません。死の対象であったり狼男などが出るともいいます。私たち日本人は、月は神様であり、美しく澄んだ光をはなつ月詠、もしくは輝夜姫です。

この時期は、私にとっても特別に月を愛でて味わい月と共に暮らしを楽しむ季節です。子どもたちにもこの月の存在がいつまでも心の徳を照らし続けてくれるように古来からの月への信仰の行事も甦生させていきたいと思います。

自然体

自然の感覚が分かる人がいます。その自然というものの理解の深さというか微細さを知るというのは、とても価値があることのように私は思います。なぜなら、自然への理解の深さこそ真理への深さだと実感するからです。

その自然は、人間がどこか切り取った自然理解のことではありません。あるがままにいいものはいい、そして本物の価値を理解できるということです。

何が本物であり、何がそうではないか。

その感覚を持っている人はこの自然あふれる世界において美しく素晴らしい日々に触れながら暮らしていくことができるからです。この世に生まれてこの自然に感動する日々を送れるということはそれだけで仕合せに生きているということでもあります。

少しの風や光、水や虫の音、そして空や月の揺らぎ、なにもかもが感動の世界です。自分の五感をはじめ、すべての感覚はその美しいものをとらえ好奇心は発揮し続けられていきます。

心のままに心の世界を堪能し、心の赴くままに真善美を味わいます。その感動は感謝であり、歓喜であり、感激にもなります。

何もない中に仕合せを感じ、何かがあればそれも仕合せを感じる。

情動もまた感動の一つですから、子ども心のようにドキドキワクワクと情熱が冷めません。人生の価値とは何か、それはこの自然であること、自然になること、自然体で生きることだと私は思います。

人は色々なしがらみや刷り込み、そして周囲の環境や人間関係によって本来の自然とは少し離れた存在になってしまいます。しかし時折でも暮らしの中で、自然に触れることで本来の生きる仕合せを整えていくことができるように思います。

暮らしフルネスにはそういう仕合せもまたあります。

子どもたちが健やかに仕合せな日々を、素直に喜び好奇心を失わず自然体で自然と愛し合えるように見守り場を育てていきたいと思います。

人生の目的

人生の目的というものがあります。これは全人類の目的のことであり、人は何のために生まれてきたのかという深い問いのことです。

これは人によって別の答えがあるように感じていますが、実際にはどの人も最終的には同じ目的を共有するように思います。況や、本来すべての生き物たちは同じ目的を持っているともいえるのです。

しかしその目的は、空気や水、太陽のようにあまりにも当たり前に存在するものですから改めて議論されることがありません。それに人間は、枝葉などの細部は言葉で認識できていても宇宙のような偉大な存在のことはなかなか認識することができないのです。

目的も同様に、偉大な存在ゆえに、当たり前であるゆえになかなか理解されていないところであろうと思います。

敢えて言葉にすると私は人生の目的は何かといえば、魂を磨くことであろうと思います。どのいのちもすべては魂を磨くことに向かっているのは、自然界を観ていれば自明するものです。そしてそれは「ただ磨くのみ」なのです。無目的に見えるそのただ磨くということの中にこそ、本来の目的があるということ。

無目的の中に目的があるというと、何を言うのかと思われるかもしれませんが目的の本質は大宇宙や自然の運行と同様に調和しているのです。調和するからこそ、磨く必要がある。

つまり、私たちは大きな円の中でいのちを巡らせている存在あり常に魂はその中のご縁を縦横無尽につなぎあっています。そして互いにその場その時にふれあい磨き合い、また新たな調和を産み出します。

最初から永遠であり、終わりもない永久無限の存在とも言えます。

だからこそ「ただ磨くのみ」なのです。

私の思う徳の本体とはこれのことです。いつの日か、科学がある一定のレベルを超えて磨かれその本質を顕現するとき、必ず私はこの人生の目的にたどり着くように思います。そしてそれは磨ききり洗練されたとき、生き方の中から出てくるものであろうとも思います。

子どもたちにどのような生き方を遺していけるか、心の中にあるこの存在を人々の魂に伝承しつつ、磨き合いを楽しんでいきたいと思います。

変化の本質

時の書と呼ばれるものに中国の「易経」があります。時の変化と兆しをよく読み、何をすべきかを記しています。時というものに注目し、変化というものがなぜ起きるのか、それを突き詰めて追及したものではないかと私は思います。

私も自然農の実践者ですが、常に風を感じて時を読みます。なぜなら種蒔きの時機や収穫の時を間違えないようにするためです。どんなに何度も種を蒔いても、育たない時機に蒔いても芽は出ることはありません。常に天の運行や大地の状態、そして風向きや気候をよく観察していなければ自然の変化に合わせて行動していくことができないからです。

自然は常に「兆し」を知らせるのであり、私はその兆しをよく観察して自分の行動を決めています。兆しはどのような時に、発生するのか、それを易経を紹介しながら少し私なりの直観の整理をします。

「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」

これはなんでもそうですが、変化は常に振り子のように左右に、もしくは砂時計のように上下に振れます。陰に極まれば陽になり、陽に極まれば陰になる。世の中がもっとも暗い時には明るい方へと移動し、その逆もまた然りです。

自然は常にバランスを保つことが真理ですから、絶望の果てに希望があり、希望がまた絶望を呼びます。一見、終わりだと思っている最中にこそ始まりがあり、始まりの時こそ終わりが出てくるのです。

変化に調和する人は、その状況をよく観察して道を拓いていくのです。

「君子豹変す。小人は面を革む」

これは、リーダーは変化に合わせて自分を素早く的確に適応させていきます。そのためには、居心地のよい場所を瞬時に離れてでも危険に身を晒してでもその変化の兆しに適応していく方を優先させます。この豹変とは、大切なものを守るために変化に合わせるということです。大切なものを守るのか、それとも自分を守るのか。大切なものは何かを知っているからこそ、そのために変化するのです。その反対に、変化を恐れる人は表面上の変化だけはしますが本質的には変化はしません。理由は、変化そのものを怖がっているからです。

実は時が変化しているとき、不安なのは自分も一緒に変化していないことに気づいているからです。変化している最中は、自分も一緒に変化しているからこそ不安や恐れはなくなります。変わっているのを本能的に知っていながらもいつまでも変わろうとはしないで、変わろうとしているふりをする。自分を守るために周りを変化させるのか、それとも自分から変化に合わせて自分を変化させるのか。

これは自然を相手に自分をコントロールするか、自分の都合で自然をコントロールするかと同じ話です。

どうにもならない大きな変化、つまり災害級の時の変化が来ている時にそれをなんとかしようとするのは小さな存在の私たちには不可能です。自然への畏敬や畏怖があるからこそ、君子は豹変すると私は思います。

最後に、

「積善の家には必ず余慶あり」

日々の暮らしの中で、小さな徳を磨き続ける人は必ず善を積み続けています。そういう家は、不思議な余慶や恩恵をいただきます。これは自然の他力をいただくことに似ています。種を蒔けば、自然に太陽の恵み、雨の恵み、風の恵み、土の発酵、いのちの調和による見守り、あらゆる恩恵をいたきながらすくすくと育っていきます。

これは種だけで育ったわけではなく、その種を活かそう、その種を見守ろうといった大自然の徳が働くからです。自然を敵視する人や自分の都合ばかりを優先して全体快適でない生き方をする人はこの余慶があまり入ってきません。自分でできることがわずかしかないと本当の自己を直視することができれば、如何に自分の徳を磨いていくかということに正対するはずです。

日々は善を積み徳を磨くための大切な機会です。

時を歩む人たちはみんな、同じ法則や真理をもって道を拓いていきます。これからの子どもたち、子孫のことを思えば思うのほどにその大切さが身に沁みます。引き続き、今、ここで脚下の実践を楽しみたいと思います。