美しい味わい 旬

昨日、友人たちと庭で育てている自然農の秋ナスを炭火でじっくりと焼いて食べました。旬ということもありますが、旨味も香りも味もどれも最高で調味料などは必要ありません。

現代は肉や魚などを食べますが、本当に美味しい野菜を食べたことがある人は特に肉が必要とは思わないほどに野菜だけで充分だと感じています。ベジタリアンというとなんだか健康志向で野菜が好きな人というイメージですが、実は肉好きであっても今回のような秋ナスを食べればベジタリアンの楽しみがわかるように思います。

私たちは旬というものの本当の美味しさを知ると、味というものの本質を学び直すように思います。最近はスーパーで旬ではないものも売られているため、余計に調理して味付けをしていかないといけませんが旬のものはそれだけで美味しいのです。

この美味しさは舌先三寸の美味しさではなく、まさに旬の美味しさを美味しいと感じてるのです。つまり旬=美味しいという真実を感じているということです。

旬を食べると美味しいと感じる理由は、それが最高のタイミングでお互いに活かしあうことができるからです。一期一会というか、まさにこの瞬間この今、この時という最高のタイミングを味わっています。これは身体全体、魂全体、心や感情すべてが調和を味わいます。まさにその「美しい味わい」が旬なのです。

私は暮らしフルネスの中で、この旬を食べること、旬であることにこだわり取り入れています。それは人間本来の生き方、また地球の中で生きてきた私たちが食べてきたものの本当の意味などを理解して心豊かに仕合せに幸福を味わうことを学び直すためでもあります。

これからいよいよ今年の稲刈りでまた新米を田んぼの真ん中でみんなと楽しみます。引き続き子どもたちのためにも、本来の美しい味わいを伝道していきたいと思います。

心の準備

何事も、ご縁を迎えるためには準備というものが必要です。一つ一つのご縁が結ばれていくなかで、それを点で捉える人、線で捉える人、面で捉える人、そして丸で捉える人が居います。

それは全体を俯瞰する力であったり、物事の意味を深め続ける力であったり、さらには他力を感じる力であったりと、その人の生き方、人生への正対の仕方によって異なるものです。

人は、自分のことしかわかりませんから自分が何かをしていたらみんな同じではないかとも錯覚するものです。たとえば、「ご縁を大切にする」ということば一つであっても、一人一人その質量は異なりますし、定義も異なります。

すべてが深く関わっている存在の中で、ある人はご先祖様からのご縁を感じて懐かしい存在として関わる人、またある人は未来の先に訪れるであろう子孫たちの邂逅を感じて親切をする人、またある人は、今、此処に一期一会を感じていのちのすべてを傾ける人、それによってご縁は無限に変化していきます。

ただ、すべてにおいて大切なのは「心の準備」をするということです。言い換えればそれは「覚悟する」ということでしょう。この覚悟という言葉は「心の準備」をする人が持つ境地であるのは明らかです。

人間は、ご縁が導いているとわかってはいても心に迷いがあればご縁を感じる力衰えていくものです。つまり、心の迷いは心の準備の過不足によって発生しているとも言えます。

その心の準備には、日ごろの準備もいりますが、準備するためにどれだけの徳を積み重ねてきたかというそれまでの生き様も関与していきます。心を整えていくためにも、その準備に丁寧に、そして本気に誠実に取り組む必要があります。その場しのぎの連続では心の迷いは増えていくだけで、心が安着することがありません。

日本古来からのおもてなしの心というのは、この心の準備を実践するということでしょう。

日々にたくさんの方々と新しいご縁が結ばれていきますが、心の準備を味わい充実した日々を前進しています。このご縁をどう転じていくのかは、覚悟次第です。引き続き、子どもたちの未来のためにも今できることから丹誠を籠めて真摯に取り組んでいきたいと思います。

後の雛 菊の節句

聴福庵では重陽の節句の室礼をしていて、菊の花やお雛様たちが絢爛優美に夏の終わりの節目を美しく彩っています。

そもそも重陽の節句というのは、五節句の一つです。五節句という言葉は知らなくても七夕や雛祭りなどは有名で一度は聞いたことがあると思いますがこの行事は明治頃まではほとんどの家々では暮らしの風景として当たり前に存在していたものです。これも明治以降の西洋文明を追いかけたときに忘れられたものの一つです。

この五節句の「節」というのは、唐時代の中国の暦法で定められた季節の変わり目のことを指します。暦の中で奇数の重なる日を取り出して奇数(陽)が重なると 陰になるとして、それを避けるための避邪の行事が行われたことから季節の旬の植物から生命力をもらい邪気を祓うという目的から始まったといいます。難を転じるという意味もあり、ちょうど季節の変わり目の様々な健康に対する災難を福にする仕組みだったように思います。その後、中国の暦法と日本の農耕を行う人々の風習が合わさり、定められた日に宮中で邪気を祓う宴会が催されるようになりこれを「節句」といわれるようになったといいます。

日本でいう五節句は順に並べると、※1月7日の「人日の節句(七草の節句)」。これは七草粥を食し、その年の健康を願います。そして※3月3日の「上巳の節句(桃の節句」)これは雛人形を飾り、ちらし寿しやはまぐりのお吸い物を食ベて、女の子の健やかな成長を願います。※5月5日の「端午の節句(菖蒲の節句)」これは五月人形やこいのぼりを飾り、男の子の健やかな成長と立身出世を願います。※7月7日は「七夕の節句(笹の節句)」短冊に願いを書き笹に吊るし夢成就を願います。最後の※9月9日は「重陽の節句(菊の節句)」これは菊の薬効により健康を願います。

この重陽の節句が菊の節句ともいわれ、「後(のち)の雛」としてお雛様を飾るという理由を説明するとまず菊の花は古来より薬草としても用いられ、延寿の力があると信じられました。菊のおかげで少年のまま700年も生きたという「菊慈童(きくじどう)」伝説もあるほどです。他の花に比べて花期も長く、日本の国花としても親しまれています。また仙人たちが住むところに咲くと信じられ、長寿に縁起のよいものとしても愛でられてきたのです。「後の雛」の理由は、年中行事は繰り返し行われますが、一年にはじめの行事と終わりの行事があり後にある行事を「後の」といい、3月3日に雛祭りをしていますからこの9月9日のことを後の雛というのです。

また桃の節句は子どもたちの行事というイメージですが重陽の節句は大人たちの行事というイメージもあるため「大人の雛祭り」とも言われたりしています。菊は花弁が折り重なっているイメージもあります。人生を妙味を重ねていきながらも長く咲く姿に、私たちの先祖たちは生き方を菊に倣ったのかもしれません、そして先人たちは自然の生き物や風景をよく観察し、美意識を磨いて自らの徳を高めていきました。つまり先人たちは「自然の美しさの中に生き方を学んだ」のでしょう。

また心の風情というものは、常に日本の四季折々の暮らしの中にあります。

最近は目まぐるしく経済活動ばかりで忙しくしている人ばかりですが、本来のいのちのリズムや時間、そして行事の風景を味わうことが本来の人間の仕合せではないでしょうか。

コロナで立ち止まる機会を得たからこそ、本来の人間らしい暮らしを見直して地球やいのちと共生して心豊かに生きる時間の大切さを伝承していきたいと思います。

調和力

昨日は、聴福庵の庭のお手入れをしましたが今朝からとても庭が清々しく感じます。特に先週は、出張で不在にしていましたので夏の日照りが強すぎたようで紅葉も葉焼けし、無双庭園の方もカラカラになっていました。

植物や木々たちは、自然環境の中に過ごしていますが庭というのは人工的に私たちが植栽をしていますから手入れとお世話が必要です。

これは野生動物か飼育する動物か、もしくは半野生半飼育かという具合に自然とのかかわり方によって異なるものです。

例えば、社内や自宅内の観葉植物は飼育するのだから人が無視して何もしなくなれば枯れてしまいます。風通しや水やり、光の調整が欠かせず一緒に生活する中で気を配りながら育てます。その分、安らぎや癒し、また感情を整えてくれたりして無機質な場所をいつも優しく包んでくれます。

他にはベランダや中庭などは、半分自然に接していますから半分は常に見守りながら手をかける必要があります。もう半分は自然の調和の中にいますから自然に任せていたら雨が降り、風が吹き、光も星も調和の中で育ちます。しかし、本来、その植栽や生きものたちは中庭やベランダが生息地ではなかったのだからその分、こちらが気配りをして環境を調整していく必要が出てきます。それによって美しい情景や、イキイキとした生命エネルギーを発してくれることでこちらも元氣になったり、また心落ち着けて四季の情景を感じることができたりします。

完全の野生となると、山野や海、川や森のようにこちらから自然のところに移動すれば関わることはできます。野生が強いので、こちらが強くないとなかなかその環境に馴染むのも難しくゆっくりと休むということは難しいように思います。

私は自然農を野生の溢れる場所で行っていますが、庭の畑と違ってそこで発生してくる虫や植物も野性味あふれていて太刀打ちできません。そこで手入れをするには、ほぼ野生の中で野生に近いままで育てるといった双方のエネルギーの衝突と調和があります。

こうやって人工的にかかわるところと、自然にかかわるところ、そして野生的にかかわるところなど場所場所でその接し方も気配り方も手入れの仕方も変わります。私たちは地球に住んでいますが、住む場所を換えるたびにその微妙な匙加減で関わり方もまた換えていくのです。

自然とうまく調和していく力、自然を調整する力、自然と調律する力、私たちはこれらを内に備わって生まれてきます。

本来の人類の力を発揮することで私たちがそのかかわり方から自然の存在を謙虚に学び、これからの人類の行く末を考えていけます。子どもたちがこの先、何百年、何千年と生き続けられるように今必要な智慧を伝承していきたいと思います。

徳循環経済

現在、世界は負の循環ともいえる状態をつくりそれを子どもたちが受け継ぐことになります。例えば、資本主義というものも株主のためには何でもするというように倫理や公器といった企業の本来あるべきこともまた競争原理と一部の権力者の富の集中によって私的に流用されています。

自然全体、地球の事よりもまず先に経済活動だけを只管行い続けるという行為が様々な環境や社会を破滅に向かわせています。

この現代の経済の仕組みは、際限なく富を集め続けるというところに起因します。そのためには環境はどうなってもいいという視野に問題があります。本来は、逆で環境(場)をよくするために富を賢く分配していくことでさらに環境が好循環を生んでみんなが仕合せになっていくのです。

例えば、自然環境がさらに調和するような田んぼや畑づくりを行えば私たち人類だけではなく人類の周囲の生態系も豊かになってさらに環境が豊かになって平和な場が創造されていくような具合です。

私たちが取り組んでいるむかしの田んぼがそうなっており、農薬も肥料も一切使いませんが生きものがたくさん増え、生態系がイキイキと循環を促しそのなかで育ったお米が美味しくなり、それを食べる人たちが仕合せを感じるという具合です。

環境への投資は、自分たちさえよければいいという発想ではできません。どうやったらみんなが善くなるか、どうやったら自分以外の人たちも一緒に仕合せになるか、共に生き、共にいのちを輝かせるように働きかけるのです。

本来、それが経済と道徳の一致であり本質的な経済というものでした。二宮尊徳の時に、飢饉や飢餓で大勢いが苦しんだのもまたその一部の搾取する人たちのつくった経済活動が人々の心を荒廃させて土地や環境も破壊していたからその言葉を放ったのです。

現代、私たちは似たような境遇が世界全体に広がっています。

今こそ、ここで観直しをかけなければ子どもたちに譲るものがとても悲しいものばかりになってしまいます。まずは自分の足元から、様々な実践を通してその豊かさや仕合せを伝道していきたいと思います。

目的の進化と人類の行く末

子どもの憧れる会社に取り組んでいると、次第に先人たちの教えや文化の伝承にたどり着きます。自分たちがなぜ今があるのか、そしてこの先に何を譲り遺していくのか、その恩の循環のようなものに出会うからでもあります。

同じように志す企業は、みんな同じプロセスを辿り同じ場所に向かっていくように思います。

現在、世の中は経済の方に大きく傾いていてあまり自然や道徳ということが重要視されていません。一週間の生活の仕方をみてもわかりますが、週休二日制で週末までも経済のために過ごすようにほぼ毎日経済活動を中心に行われます。

むかしは、自然と共生する暮らしを行っていて経済はその中のほんの一部として存在していました。すると、日々は暮らしが中心になりその余力で経済活動を行うことになります。自然とのバランスも保ちやすく、今のような環境を破壊するほどの経済活動は必要ありません。

つまり、経済か自然かという二極ではなく大切なのはそのバランスがどこに在るかということです。そもそも人間の欲望を中心にそちらに偏れば、次第に地球や自然のサイクルとは合わなくなり片方が破壊されていきます。私たちは、欲望を正しく抑制しながらその中でバランスをどう保つかということが必要で許されている範囲の中ではじめて持続可能な生活が保障されていきます。

自ら生活圏を壊していけば、文明は必ず滅びます。豊かさといっても、物質的な豊かさばかりを追い求めていたらその豊かさで滅んでしまえば本末転倒です。豊かさには、物とは別のものがあります。それは心の仕合せといわれるもので、自然を愛でたり、先祖に感謝したり、人々との深い愛の循環や喜びを謳歌するときに感じます。

人間は、そもそも国境などはなく人類という同じテーマをもって歩んでいるだけです。人類の仕合せを思う時、どのような働き方や暮らし方をするのかは私たちに与えられた地球に存在する大切なテーマでありミッションです。

子どもたちのことを思えば思うほどに、私たちはそのテーマを考えない日はありません。気が付くと、環境の会社になり、伝統の会社になり、人を大切にする会社になり、最先端科学に取り組む会社になり、徳を積むことを循環するための会社になります。

これは必然的に、辿るところであり向かうところです。

子どもたちのために、引き続き社業の目的を進化させていきたいと思います。

自然界最強の道理

自然界では強いものが生き残ります。そのため、強い種を残すために日々に切磋琢磨され強さを伸ばしていきます。しかし環境の変化というものは無情でもあり、ある時を境に強いものが弱いものになったりします。

それは病気であったり、ケガであったり、もしくは気候変動によってそれまでの強みが弱みになることもあります。例えば、暑さに強い生き物が急に寒冷化によって弱い生き物になります。このように、自然界では常に弱者と強者が入れ替わり立ち代わり生き残りをかけて命懸けで変化しているのです。

ここではっきりするのがそれでは強者とは何かということです。

自然界での強者は言わずもがな「変化に適応するもの」です。

その時々の変化があってそれにもっとも適応していくとそれが強者ということになります。先ほどのことであれば、暑さに強かったものが寒さに強くなる。それまでの暑さに適応してきた能力を捨て去って寒さに適応する能力に切り替える。すると、強者のままでいられるのです。

しかし実際には、変化のスピードが速ければ早いほどに適応することが難しくなります。私たちの身体が熱中症になるのもまた、急に暑くなってきて身体が適応できないからです。同様に、急激な変化というものは私たちに適応する時間を与えてくれません。

自然界の生き物を観ていたら面白い現象があるものです。それはまるでそうなることを先にわかっていたかのように先に強みを捨てて弱くなり変化に事前に適応するものがあるのです。

それは大変なリスクであり、時として弱さからいのちが終わる心配もありますが自然界の変化にピタリと合わせてきます。その生きものたちが次の時代を担い創っていくのです。

強みはあるとき、弱みになる。そして弱みがあるときに強みになる。その道理は、自然は無常に変化するという真理ということでしょう。自然界最強の生き物とは何か、それは「適応する」生きものなのです。

変化するには、様々な能力が必要です。それは勇気だったり、志だったり、挑戦だったり、実践だったりと多岐に及びます。しかしもっとも大切なのは、信じる力であると思います。

変化は、見方を換えれば千載一遇のチャンスの到来です。引き続き、子どもたちの舞台を用意できるよう最善を盡して変化を味わいたいと思います。

面倒という醍醐味

人は日々に様々なご縁をいただいて暮らしを営みます。その一つひとつのご縁は、そのまま思い出になりますからどのようにご縁を大切にするかで思い出もまた大切になります。

人との出会いを大切にするというのは、言い換えれば人との思い出を大切にすることです。

人との出会いは面倒なことばかりです。しかしそれを面倒くさいと切り捨ててしまったら、ご縁も切り捨て、思い出もまた切り捨てていくことになります。

一枚の絵があるとして、全体で絵は完成しますがその部分部分の細部はあらゆる景色が重ね合わさってできた憧憬でもあります。その憧憬を積み重ねながら人生の一枚の絵を完成させていくなかで、この絵が全体で観たらどのような絵になるのだろうかとワクワクドキドキと好奇心を発揮して取り組んでいくことで人生の醍醐味というか、豊かさや深さを感じることができるように思うのです。

面倒見がいい人という徳が高い人が居ます。

面倒という言葉の語源を調べると、「ほめる」「感心する」などの意味を表している動詞で「めでる」という説。またもう一つは、地方に住む幼児が、人から物を貰った時に額に両手で差し上げて言った「めったい」「めってい」「めんたい」と言う感謝の言葉からの説があります。

そして面倒見がいいというのは、面倒なことを感謝で観ることができる人ということになります。どんなことでも有難いと他人が煩わしいと人が感じるものを敢えて大切にしていく人は徳を積んでいる人です。

徳は別に積もうとしていることが大切なのではなく、徳は大切だと思っている人が徳の人ということです。つまり見返りをそもそも求めていない、そもそもの執着を手放しているから自然に徳が磨かれていくのです。

仏教の話に、仏陀から「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除く」ということばと掃除だけを与えられ、それを繰り返し毎日続けて、ついに大悟して阿羅漢果(あらかんか)を得たという方がいます。ある意味、この故事でいう掃除という面倒なことを敢えて取り組むことで徳を磨き、執着を手放して悟りを得たといいます。

魅力がある人や、徳のある人は、何か当たり前ではないことを大切にし、世の中の当たり前というものにいちいち左右されることはありません。それが如何に価値があることかを誰よりも知り、常に自分軸の中でその当たり前のことを徹底的に大切にされるのです。

その一つがご縁を大切にすることであり、ご縁を活かし続けるという実践でもあります。

日々の学びは、ご縁の連続ですがどのようにそれを活かすかはその人の生き方次第です。子どもたちが未来で、日本人の徳が伝承していけるように日々の面倒なことに喜びを感じ率先垂範して味わい楽しんでいきたいと思います。

ありがとうございました。

欅のなつかしさ

今度の徳積カフェは、欅の古材が全体に配置されています。日本の木造建築の中でも、欅はとても日本の伝統を醸し出しているものでありその気配や色合い、そして模様には懐かしいものを感じます。

この欅(ケヤキ)の語源は”際立つ””美しい”という意味を持つ「けやけし」という説もあり、くっきりした木目が特徴的です。今回のカフェでも様々な欅の木目を楽しめる設計になっています。

木の木目といえばふつうは柾目や板目ですが、そうした分類には収まらない絶妙の模様を、「杢目」(もくめ)と呼んでいるのです。杢目にも様々な種類があり、ざっと書くと「網杢 泡杢 稲妻杢 渦杢 鶉杢 絵巻杢 火炎杢 蟹杢 雉杢 銀杢 孔雀杢 絹糸杢 瘤杢 笹杢 さざ波杢 さば杢 縞杢 如鱗杢 白杢 たくり杢 筍杢 玉杢 縮み杢 鳥眼杢 縮緬杢 虎斑 虎杢 中杢 波杢 縄目杢 バイオリン杢 葡萄杢 放射杢 舞葡萄杢 山杢 りぼん杢 リップルマーク 雲頭の杢 糠杢」などがります。

実は、これ以上にもあらゆる杢目があり木の内面的な表情として味わい深いものがあるのです。

今回のカウンターに使われた神代欅にも模様があり、他の建具や道具たちにも玉杢があります。この玉杢は樹齢の高いケヤキの根元近くで出てくる模様で、独特の丸い模様が現れています。この珍しい模様は、縁起がいいとむかしから重宝されて大切な場所で使われてきたそうです。

例えば、有名な話では相撲部屋の看板はこの玉杢を勝ち星に見立てたりします。欅は重い木材だから看板でつくれば「一度看板を上げたら降ろさない」という意味も縁起担ぎで使われたりしているそうです。

私が古民家甦生を手掛けるなかで、いつもうっとりと美しい表情を見せてくれたのが欅の木でした。蜜蝋などで磨けば、杢目がはっきりと出てきてはその独特の飴色や橙色に輝く木肌は傍にいるだけで空間を優しくします。

ただ欅は扱いにくい木材でもあるそうで、よくねじれたり歪んだり、乾燥に時間もかかり臭いもあるそうです。今回のカフェのカウンターは神代欅なので2000年以上前から土に埋まっていたものなのでとても安定しています。

神社仏閣でなぜこの欅が重宝されて愛されてきたのか、この木は日本の風土に適応した日本人が愛している木であるからだと私は感じています。もちろん日本の風土には様々な木がありますが、もっとも日本人が身近に感じて見守られたと感じる木ではないかと私は経験から直観したのです。

全体が欅で室礼した空間で、懐かしい時間を子どもたちに感じてもらいたいそれを繋いでいきたいと思います。

場道の心得

日本の精神文化として醸成し発展してきたものに、場・間・和があります。これは三位一体であり、三つ巴にそれぞれが混ざり合って調和しているものですからどれも単語が分かれたものではなく一つです。

この三位一体というのは、真理を表現するのに非常に使いやすい言葉です。私たちは単語によって分化させていきますから、実際には分かれていないものも分けて理解していきます。言葉はそうやって分けたものを表現するために使われている道具ですから、こうやってブログを書いていても全体のことや真理のことなどは文章にすればするほど表現が難しく、読み手のことを考えていたら何も書けなくなっていきます。

なので、共感することや、自分で実感したこと、日記のように内面のことをそのままに書いていくことで全体の雰囲気を伝えているだけなのかもしれません。

話を戻せば、先ほどの三位一体ですが例えば心技体というものがあります。これは合わせて一つということで武道や茶道、あらゆる道という修業が伴うものには使われるものです。これらの分かれて存在しているようなものが一つに融合するときに、道は達するということなのでしょう。言い換えれば、このどれも一つでも欠けたら達しないということを意味しています。

そして私に取り組む、場道もまた道ですからこの心技体は欠かせません。では何がこの場によっての心技体であるかということです。これを和でわかりやすく伝えると、私は「もてなし、しつらい、ふるまい」という言い方で三位一体に整える実践をしています。そもそもこれが和の実践の基本であり、そして同様に場と間の実践にもなります。

まず「もてなし」は、心です。「しつらい」は技です、そして「ふるまい」が体です。

これは場道を理解してもらうために、私が自然に準備して感覚で理解してもらいその道を伝道していく方法でもあります。もてなしは、真心を籠めることです。相手のことを思いやり、心の耳を傾けて聴くこと。そしてしつらいは、それを自然の尊敬のままに謙虚におかりし、場を整えていくことです。美しい花の力を借りたり、磨き上げた道具たちに徳に包まれることで万物全体のいのちに礼を盡します。最後のふるまいは、一期一会に接するということです。この人との出会いはここで最初で最後かもしれない、そして深い意味があってこの一瞬を分け合っているという態度で行動することです。もちろん世の中のふるまいのような立ち振る舞いもあります。しかし本来は、見かけだけのものではなくまさに永遠の時をこの今に集中するという態度のことで覚悟のことでもあります。

人生を省みて、その時にどのようにふるまったのか。

つまりその人は、どのような夢や志をもちこの時代の出会いの中での「ふるまい」という上位概念でのふるまいを私はここでの三位一体のふるまいと定義しているのです。これは実は、先ほどの「もてなし、しつらい、ふるまい」の共通する理念を指しているものでもあります。

つまり「生き方」のことです。

場道の真髄と極意は、生き方を日本の文化を通して学び直すことです。先人たちに倣い、本来の日本人の大和魂とは何か、生き方とは何かを、思い出し、それを現在に甦生させていくことで魂を磨き結んでいくのです。

子どもたちが、この先もずっと日本人の先祖たちの徳を譲り受けて輝き続けられるように見守っていきたいと思います。