懐かしい未来の覚悟

突然変なことを書きますが、人間には「時」という概念があります。そしてその時を中心に過去と未来という常識を持っています。過去と未来は、同じ方向にのみ進んでおりタイムマシンなどがなければ過去に戻ることはできません。そして時間が逆さに戻っていくこともありません。

私たちは時に縛られ、時を常識として認識し、時の中で自我というものを認識するのです。それでは、他の生き物たちはどうなのでしょう。この時という概念を持っているのか、植物や昆虫たち、菌に至るまで彼らのいのちは過去や未来というものをどのように認識しているのか。そもそもの時間の経過というものに囚われてしまっていたら、本当のものを知覚することは難しいように感じます。

懐かしい未来という言葉があります。これは過去と未来を同時に語るものです。本来、過去のことは歴史といい、未来のことは予言といいます。しかし、この過去と未来とをいくらそこで知識で認識しても、今ということの本当の事実を直観することはできているのでしょうか。

私たちは今を生きていて、過去を生きるのではなく未来を生きるのでもない。だとしたら、この今という現実が未来であり過去であるのなら懐かしい未来とは変わることのない普遍的な存在として生成していこうとも言えるのです。

いつまでも変わらないもの、人類がずっと地球の中で自然と一体になってきた暮らし。その美しい光景の一つになっていることは時を忘れるときにこそ思い出すものです。

本来、時空とは無のことであり、私たちは無であることで時の中に入ります。時の本来の意味は、無であり空です。懐かしい未来とは、その無であり空である暮らしの中に存在する今を生きることです。

今を生きる暮らしとは、悠久の営みの中で廻るいのちになることです。

本来のあるべき生き方を思い出すには、常識を超えて予言に生きるしかありません。それは予言そのものになるように今を生きる、懐かしいままに今を生きる、未来と過去を融合させた永遠の今になるとも言えます。

シフトとは、それだけ今を昇華し尽くすときにこそ発生するものです。私も今、天命に生きようとしていますが様々な時の縛りや刷り込みに縛られなかなか自分を全開放することができません。

子どもたちの懐かしい未来のために、勇気を出して素直に正直にあるがまま、ありのままに直観を生きていきたいと思います。

カグヤのコロナシフト

人は立ち止まることで、色々なことを見つめ直すことができます。それは止ることで次の動くことが観えてくるからです。

私たちはコロナの御蔭で、今までの生き方や歩き方を見つめ直す機会を得ています。具体的には、流されていた自分、常識だからと続けていた自分、そういうものだと思い込んでいた自分、それまでの自分自身の意識との対話を行うということです。

その上で、何をやめてしまうか、そして何をはじめるかを決めることが新しい生き方をしていくということになるのでしょう。

そもそも人生の初心や目的は、何かがあったからと優先順位が下がることはありません。目的地までのプロセスは、その時々で変化はありますが目的地が変わるというのは最初から道を歩んでいないということになります。

人は、道を歩むことで人生を創造していきますからまずは道に入る必要はあるのは当然です。今回のコロナにおけるシフトは、道が別のものに代わったのではなくそれまでの歩み方を換えていこうという転換が起きているということです。

それまでの当たり前を疑い、新しい常識を生きていこうとする。いわば、目的に対しての歩み方との折り合いをつけるという具合でしょうか。コロナの前に無理に戻すのをやめて、コロナ後のもっと素晴らしい世の中になるように創意工夫と試行錯誤をしていこうということです。

つまりは、目的や初心を貫くために別の方法でやってみようという実験をするということです。こうでなければならないという発想を捨て、もっと自由に開放していこうとする。その上で、自然との調和や、社會の協調、徳との和合など、ステージを一つ上げて意識改革を進めようということでしょう。

カグヤは子ども第一義の理念は不動ですが、その上で生き方は働き方の一致はより高度な視座で取り組んでみようと思っています。今まで以上に、理念経営の舵取りは明確になりますが面白く豊かに実験を楽しんでみたいと思います。

コロナ後の生き方

新型コロナウイルス感染の経過が日々に報道され、いよいよ全国的に解除に向かっていきます。この後、第二波、第三波が来るのではないかと心配されていますが本当に心配すべきはこの教訓から何を得たかということをもっと真摯に受け取り今と自分を改善して未来を変えていくことだと私は思います。

人は機会を通して学ぶ人と、機会を得ても一向に学ばない人がいます。そして学んで変わる人と、学ぶふりをして変わらない人がいます。大切なことは、機会はなぜ発生したのかというその意味や本質を深めることです。

この機会は、確かな学ぶチャンスであり、そして変わるための切っ掛けを与えてもらったのです。こういう時は、過去に同様に感染症と対峙して日々を刷新し続けた偉人たちの言葉に励まされます。

英国の看護師、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親と称されたフローレンス・ナイチンゲールは変化を常に見据えていました。

「あなた方は進歩し続けない限りは退歩していることになるのです。目的を高く掲げなさい。」

「物事を始めるチャンスを、私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある。」

「人生を生きるには、修練が必要です。「まずまずの目的、過ち多き行為、ぐらぐらしている意志」のうちに人生をうやむやに過ごしてはなりません。」

「看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要がある。」

「何かに対して「使命」を感じるとはどういうことであろうか?それは何が「正しく」何が「最善」であるかという、あなた自身がもっている高い理念を達成させるために自分の仕事をすることであり、もしその仕事をしないでいたら「指摘される」からするというのではない、ということではなかろうか。これが「熱中するということ」であり、自分の使命を全うするためには、誰もがもっていなければならないものなのである。」

如何に、真摯に変化をし続けるか、それが学ぶことであり改善することであると語りかけてきます。また学ぶということの本質にはこのような言葉が遺っています。

「経験をもたらすのは観察だけなのである。」

よく観察するものは、そのもののプロセスの意味から深く学ぶものです。私も観察オタクですが、じっと直視してそのものが何のメッセージを届けようとしたのか、そしてどう受け取ることがもっともその出来事から学ぶことになるのかを心がけています。

現実には、時は過ぎ去っていきますがその瞬間瞬間に決断を連続するのが人生です。選ばないという生き方は、単に何も考えないことではなく、無限の選択肢を常に考えつつも来たものを素直に受け止めてそれを活かすという一期一会にご縁を生きる覚悟を持っているのです。

中国の故事にある「木鶏」のように生きることは、簡単ではないからこそ常に自分自身と正対し問答を通して平常心を磨いていく必要があるように私は思います。

コロナ後の変化は、この先の会社や人生を左右する大きな決断ですがフローレンス・ナイチンゲールの「進歩のない組織で持ちこたえたものはない。」という言葉に奮い立たされるようにも思います。

最後に、日本を代表する感染症と対峙してきた偉人、野口英世の言葉で締めくくります。

「人は能力だけでは、この世に立つことはできない。たとえ、立身しても、機械と同様だ。人は能力と共に、徳を持つことが必要である。」

コロナ後の、私の生き方は「徳」に集中すること。

子どもたちのために、覚悟を決めて熱中していきたいと思います。

暮らしフルネスの生き方

新型コロナウイルスのことで、毎日ひっきりなしに報道されますがコロナ後をどうするかということもそれぞれの覚者が発信していくことになるだろうと思います。そもそも私はコロナ後というのは人類の意識の問題であって、実際に地球規模で事実として発生している事柄を直視することで本来のあるべき姿を見直すことが重要だと感じています。

感染症というものは、人類が好き勝手に自然との距離を壊し、都市化とグローバル化によって人口密度を高め過ぎたことによって引き起こされるものです。人口が80億を超え、都市の隅々に無理やり詰め込むかのような生活を続ければどんな生きものであっても病気になります。

養鶏場や養豚場で、抗生物質入りの食事を食べさせながら働かせているのをみてはまさか人間が同じようになっているとは思わないかもしれませんが事実、私たちは似たような環境下によって都市部で生活しているのです。添加物入りの食事や、薬局による薬漬け、そして日常的に電磁波に晒され、満員電車などの高ストレス、運動不足、空気汚染などとても本来の自然の中に暮らしてきた人類の元々の環境とはかけ離れてしまっているのも忘れてしまったのです。

コロナの御蔭で、私は自然との距離がまた近くなり、暮らしフルネスの人生を味わう時間を持つことができています。ある意味で、オンライン化されたことでこの人間らしい本来の暮らしを維持しながら、人間社會での活動も共に発展させていくことができます。

コロナで気づいた人たちは、暮らしが変わったはずです。その暮らしを如何に充実させながら、地球も喜び、人類も喜び、生き物たちが喜ぶ生き方をするか。ここが人類の未来の分水嶺であることは間違いありません。

しかし事実をみせないかのように、連日コロナ叩きをし、世論も感染者を差別し、責任転嫁する相手を探し、批判や否定ばかりで目を背けるような動きがあるのも事実です。誰にとっていったい都合が悪いからそうするのか、コロナのせいではなく、コロナの御蔭になぜならないのか。

もっと視野を広げ、視座を高め、地球から観たらどうだったのか、歴史から観たらどうだったのか、そしていのちから観たらどうだったのか、あらゆる角度から今回の出来事の深い意味を洞察する必要があると私は思います。

子どもたちのために、ここで変わらなければ何度もこのようなことは繰り返され、そのたびに環境は破壊されもっと住みにくい世界になってしまいます。短期的で視野狭窄な世界を生きることを已め、もっと悠久で雄大な自然に抱かれながら共に生きることを選んでいきたいと思います。

古来の伝承

昨日、休耕田を甦生したものの一部に真菰を植えました。この真菰は、ウィキペディアを引用すると「マコモ(Zizania latifolia、真菰)は、イネ科マコモ属の多年草。別名ハナガツミ。 東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。」とあります。

以前、庭先のビオトープで植えたことがありますが清々しい雰囲気で揺れる真菰に癒されたものです。またマコモタケは料理しても美味しく、貴重な味わいだったことを覚えています。

歴史を辿れば、お米が入ってくる前から日本人には重宝されてきた伝統食で縄文時代以前には衣食住すべてに欠かせない存在だったと推察されています。その理由は、実や新芽は食料となり、干したものはゴザや蓑笠、屋根などあらゆる場面で暮らしの道具になりました。それに神事でも常に真菰が使われ、現在でも伝統的な古神道を実践している格の高い神社では御神体やしめ縄にも古来からの真菰が使われています。また仏教でも、お盆を飾る盆ゴザには真菰で編んだものを今でも使っています。

稲作が入ってからは手軽に藁が入手できるようになり真菰が使われなくなりましたが、本来は真菰を神聖な作物として古来の日本人たちは直観し、暮らしに取り入れて現代まで大切にしてきたことがわかります。

穢れを祓うチカラがもっとも高い作物として、麻と同様に日本人はその効果を実感して受け継がれてきたように思います。また日本人以外では、北米のインディアンが大切にこの真菰を食べて暮らしに取り入れているそうです。

色々と便利なものが出てきては、代用してきましたがそれはあくまで一時的なもので本来、どのようなものであったか、もともと何のためにそのものを使ってきたかということが歴史の変遷の中で薄れていくものです。

復古甦生させていくというのは、元来の意味をもう一度紡ぎ直し、その確かな目的や意図を再確認して新しくしていくことでいのちを繋いでいくことです。

意味があったものが意味がなくなるのは、その意味を確認する確かな場が失われていくからです。子どもたちが確かな意味をそのままに伝承してその力が子孫まで及ぶように丁寧に古来からの道を復活させていきたいと思います。

智慧の伝承

昨日はメビウスガーデン(無双庭園)づくりを引き続き行いました。天気は曇りでとても涼しい風が吹き、御蔭で作業がとても捗りました。

大量の土を運び、またそこに瓦をはめ込み、また土を掘るの繰り返しで非常に体力を消耗する作業です。しかし、着実に形になっていく姿に遣り甲斐と一体感を味わえます。

先人たちは、みんなこの一つの作業を通してものづくりをすることで信頼や絆、そして智慧の伝承や生きがいや遣り甲斐を感じていたはずです。建造物が人間の手間暇と真心で創造されることはとても尊いことで、その建造物を子孫たちが見つめてみると心打つものがあるのはそこに確かな意味を感じることができるからかもしれません。

現代は、機械や道具であっという間にできてしまいますが今回のメビウスガーデン(無双庭園)は土や粘土、石などでつくる造形物をほとんど手で最初から最後まで手掛けていきます。

まるで土遊びをするかのように、何度も何度も造っては壊し、修正し、また創るという作業の繰り返しですがどこかそこに喜びと仕合せがあります。左官職人さんたちが、自らの手で仕上げていく喜びを感じているように私もまた自らの手で造形物を仕上げていく仕合せを味わっています。

便利に何でも簡単に仕上げられることを良しとする世の中で、不便で時間がかかり難しいことに取り組むことは意味がわからないといわれます。しかし、この意味がわからないのではなく意味が分からなくなったというのが本当のところでしょう。

意味とは、先人たちの生き方に具体的に同じように一緒に取り組んでみたときその深い意味が伝わってくるのです。伊勢神宮の式年遷宮のように、解体し、組み立てる作業を通して信仰が伝わるように、私たちの先人が遺した暮らしの智慧もまた甦生させていくことによって伝わっていくのです。

この智慧の伝承という役目は、人類にとって実はもっとも意味がある行為です。なんでも科学の発展だけが意味があるように語られますが、そんなものは長続きもせずすぐに陳腐化していきます。しかしこの智慧の伝承は、何千年も何万年も恒久的に必要になるのです。

智慧が伝承するということは、その智慧をものにしてそれぞれの時代で適応し応用する元を学ぶことになります。時代が変わって、新しくなっていくなかで智慧があるかないかではその活用においての基本がわからなくなります。基本があって応用がはじめてできるのですから、まずはその基本中の基本である智慧の伝承が先であるのです。

教育が机上のものになり、智慧が目に見えない機会の中で行われているうちにものづくりする人たちの精神や心魂、技術の中に伝承が消えていきました。智慧が消えれば、そのうち知識だけになり本体の価値や意味が消失します。まさに意味不明になっていきます。

そうならないように、今を生きる人たちはたとえ無駄で無意味といわれても智慧の伝承に取り組む必要があります。そういう職人さんたちが文化人たちが減っていくことは残念ですが、まだまだ心ある人たちによってたとえ少数でも引継ぎは行われています。

私も智慧を伝承するものの一人として、誇りをもって子どもたちのために取り組んでたいと思います。

メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。

 

信用第一(信徳目)

BAにある水風呂に甦生させた鉄の羽釜は、「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油でかつて醤油をつくるために用いられていたものです。このヤマサ醤油は、1645年から続いている老舗で業界第2位のシェアを誇ります。ホームページを拝見しても非常に徳の高い経営をされており、変化を恐れずに果敢に温故知新しているのがわかります。

そもそも老舗というのは、時代の篩にかけられても生き残っている企業ということです。それはどの時代にも必要であったということの証明でもあります。その企業の暖簾を守り続けてきた結果として老舗という称号を与えられます。

この老舗とは何か、私は「信用」であるように思います。

信用とは、確かなものであり、正直・誠実さの顕れでもあります。そこに頼めば間違いがないと、時代を超えて信頼されている徳のことです。

大切な理念や家訓、文化をそれぞれの時代の人たちが真摯に守るために挑戦を惜しまずに実績を積み重ねてきて生き残ってきた「信用」が商売になっているのです。

確かにその時代時代の流行があり、その時々ではあらゆる競合他社が産まれ時には倒産の憂き目にあうようなこともあると思います。しかし流行は過ぎてしまえば、風邪などのように元通りに落ち着きます。その時、人々はまた老舗の信用を安心して頼るようになるのです。

つまり老舗は、流行に左右されずに確かな存在として人々の安心基地になってきたということです。どんなに時代がブレても理念や初心はブレないというその生き方。その生き方を守る家人たちの働き方が、100年も500年もまた1000年も続く礎になってきたのです。

例えば、世界最初の畳油醸造の老舗に室次本店があります。その室次醸造の家訓にはこういうものがあります。

「良い醤油を造りたいなら、自分を磨け。 醸造にはごまかしはない。 誠心誠意がなければならない。 その人柄や性格がその味に香り、色に出てくる。」

これが理念になり文化になりそこで働く人たちが何よりも優先してきた生き方がこの醤油のすべてを証明して信用が確立され今に続いているように思います。まさに、良い醤油をつくるということがどいうことなのか。この人間としての「信用」を守り続けてきたからこその今があるのです。

どの時代においても歴史的に観返せば、企業は大きいか小さいかが問題ではなく、「信用」があるかどうかが本来の問題なのです。信用がない会社は長続きせず、信用がある会社だからこそ生き残ることができるのです。

生存戦略としてもっとも大切であり重要なのがこの「信用を守る」という智慧であることは歴史が証明しています。つまりこれは決して企業だけに限らず、人間社會において何よりも最も重要なのがこの「信用第一」ということでしょう。

信用を守るためには、変化を恐れずに果敢に挑戦を続けていく必要があります。そしてもっとも大切なものを守るために、あらゆるものを活かし未来を見据えて行動していく必要があります。

まさに現在は、時代の分水嶺でありそれぞれの企業が大きく試されるときです。私も信用という徳を守るために、日本を代表する先人たちの老舗に生き方を働き方を学びながら実践を積み重ねていきたいと思います。

暮らしのロールモデル

これから自然農園の田畑を、暮らしフルネスの農場として甦生するために昨日は大勢で畑の草刈りを行い、荒地を甦生して耕しました。日差しが強くて、体力をだいぶ消耗しましたがいつものむかしの田んぼでのお昼ご飯のように玄米を竈で炊き、採れたての新玉ネギを使ってハヤシライスをつくりみんなで一緒に食べたら疲れも取れました。これから畝をつくり、マルチをして種蒔きをして収穫まで見守ります。

思い返せば、自然農に取り組んでから随分と長い月日が流れました。肥料も農薬も使わずに耕さずに草も虫も敵にしないという農法でしたが山間の野生化した荒れ地では人力でいくら手入れをしていても害獣たちが波のように押し寄せ、また雑草の生命力が明らかに人工的な野菜を凌駕し、なかなか自然循環の一部として許してもらえるようにはなりませんでした。

しかし、約10年の間、伝統の高菜を育てているうちにその境目というかどこまでが許されてどこまでが許されないかということを学びました。もちろん、農薬や化学肥料は一切用いないのですが今の時代に存在する科学は道具もある一定のものは活用して賢く取り組むのです。

かつては自然農だから一切耕さないと意地をはっていましたが、場所や農地によっては多少の手配は必要です。私の自宅の庭は、完全に自然農の理念で簡単に野菜がつくれます。それは住宅地がある場所であり、自然はやや人間側に傾いているため害獣もおらず、虫も雑草もそんなに強力ではありません。つまり人間が里山のように形成している場での農業のやり方と、完全に人里離れた山林の傍の場での農業のやり方では異なるということです。重複しますがなんでも一律にマニュアル通りにいくようなことは一切なく、その場その場に応じた工夫と改善は必要なのです。

古民家甦生を通して私はその辺の柔軟性を身に着けました。そのものの徳を引き出すことが何よりも優先するものであり、それ以外のものはある程度は裁量に任せて工夫の余地があるのです。

大事なことは、徳を引き出すのであれば道理は叶うということです。

これから野生化の農場をうまく管理して、そこに新たな自然循環の実証実験の場にしていきます。自然に寄り添い、自然を喜ばせるために如何に人間が自然から学び自然に近づき、自然の許容範囲に対して折り合いをつけつつ、全体の徳を引き出していくか。

挑戦ははじまったばかりですが、新しい取り組みにわくわくしてきました。何年たっても青春は失われず、いつまでも情熱は子ども心のままです。こういう時だからこそ、みんなのお役に立てるように暮らしのロールモデルを模索していきたいと思います。

徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。