自然の基盤

今回の新型コロナウイルスは、人間社會にとっては非常に大きな問題ですが虫たちや植物たちにとってはそれよりも気候変動の方が大きな問題になっているように思います。

一部では、かえって空気汚染が解消され人間が自粛することによって生活範囲がひろがり快適になっている動植物もいると思います。地球には人間だけが住んでいるのではなく、あらゆる生物が折り合いをつけて自然と共生しているのだからどちらかの天国がどちらかの地獄でもあり、お互いに謙虚に支え合って生きているのが地球のいのちの本体です。

私が気になるのは、コロナウイルスで経済が打撃を受けて世界恐慌や戦争になることではありません。もちろんそれも心配ですが、人間は何をするかもっとも分からない生きものですからこればかりは予想などできず、常に福に転じていくよう日々の暮らしを整えていくしかありません。

しかし気候変動は、生物界全体に大きな影響を及ぼします。一つの生き物が息絶えてしまえば、それを支え合う大くの生きものたちもまた息絶えてしまいます。絶滅の連鎖です。

この絶滅の連鎖は、最終的にはすべての生命の生息をとめいのちの水そのもののハタラキも停止させてしまいます。現在の火星のようになるのも時間の問題です。地球は、あらゆる生きものたちが有機的につながることで生命を維持しています。この絶妙でもっとも微妙なバランスが崩れることは、その間を流れる水の流れもまた止めてしまいます。

水は人間の身体でいう血液であり、血液が流れるから細胞は活動します。血液を流し続けるには、細胞たちの活動とハタラキが欠かせません。そのために、私たちは肉体を通して地球の生命の実相を学び、その肉体から発する様々な感情を得ては何が健康であり、何が不健全であるかを学びます。

いくらAIや意識や脳を進化させても、陰ながらすべてを支える地球の存在を抜きにして私たちはこの暮らしを保つことはできません。

気候変動機において、如何に多種多様な生物を守り共生を持続させていくか。人間ができることはまだまだたくさんあります。まずは、今の人間の経済のみを優先する姿を見直し、徳を積み、徳を広げるという自然の基盤となる道徳経済の世界に易えていくことだと私は思います。

子どもたち、子孫たちのためにも、今できることを今やらなければなりません。自然との共生は、足元から変えていくことができます。このチャンスを活かして、新しい挑戦に取り組みたいと思います。

モビリティの本懐

最近、あることからモビリティのことを深めている中でふと乗り物の歴史について学び直す機会がありました。私たちの現代においては、自転車や車は当たり前で飛行機も新幹線も当然身近にあるものです。しかし150年前まではそのどれもが存在しておらず、私たちの乗り物は大きな変化を遂げていきました。

現代では車社会も一つの終焉を迎えており、移動手段が激変していく時代を迎えています。乗り物としての存在と、そもそも乗り物を使って何をしたかったのかという人類の目的の狭間で新しいものが創造されていくのは時間の問題です。

改めて少し移動手段の歴史を整理してみると、そもそも紀元前1万年以上前は足で歩いていました。そこから筏や丸太がではじめ丸木舟は紀元前7千年くらいに出てきたといいます。そして紀元前5千年にはソリが生まれ、紀元前三千五百年頃には車輪付きの車が誕生しました。これをロバなどが引いていたといいます。そして紀元前三千年頃には、乗馬や帆走船がでてきて交易船によって栄えていきました。そのあとも、少しずつ改良され様々な自然物を活かした乗り物が利用されていきました。

急激に現代のように科学の乗り物が進化したのは蒸気による動力の発明からだといわれます。この発明から、より多くの荷物、スピード、そして遠くまでいけるようになりました。

産業革命はその後、様々な科学技術の進歩と共にあらゆるものが発明されていきました。1769年には、蒸気で走る三輪自動車が発明され、1783年には蒸気船、1802年には蒸気機関車、1886年にはついにガソリンを使った車が誕生しました。1903年には飛行機という具合です。ここから100年はさらに進化し、原子力潜水艦、人口衛星、宇宙ロケット、新幹線、リニア、ジェット機、電気自動車、水素自動車、他にもこの数年で様々なエネルギーを活用した乗り物が誕生しています。

私たちは、乗り物を使い科学を発展させていきました。言い換えれば科学の発展と乗り物は常に一体に進歩してきたとも言えます。しかしそのことから、環境汚染が広がり、人間の生活速度が変わり、世界中に資本主義経済が発展する動機となりました。

物流は日々に便利になり、今日ウェブ上で注文したものがその日のうちに届く具合です。さらに仮想空間ができたことで、体は移動しなくてもVR等により意識が移動できます。他にも、AIやIOTが進みそもそも移動する必要がない状態が生まれています。

人類の乗り物は、単なる移動手段ではないことは歴史を学べば明確です。

だからこそ、本来、モビリティの本質は何かを人類は問われているように私は思います。ゆったりとスローに移動するということは、ひょっとしたら今の人たちからしたら変人の戯言のように思われるかもしれません。

しかし、私の提案する暮らしフルネスは敢えてそれを先進技術で補う仕組みを取り入れています。時代が変わりますが、人類の目的や人生の意味は普遍的です。

子どもたちが安心して地球に豊かに住み続けられるように、新しい取り組みを発信していきたいと思います。

場の共有

人間は、「場を共有」することで共存共栄してきた生きものです。ここでの場とは、同じ空間と時間を一緒にするという意味です。同じ空間と時間をというのは、人生は生まれてきた中で色々な人たちとご縁があります。その一度きりのわずかな時間に、誰と一緒に生きていくか、誰と時間と空間をシェアしていくかということでその人生の質は決まります。

つまり人生は、場によって創造され場によって演出され場によって顕現するということです。だからこそ、場の共有は同じ時代、同じ場所、同じ空間を共にする仲間との大切な分かち合う時間だとも言えます。

人生は、色々な目的がありそれぞれに志があります。これだけ多くの人間がいても、一生のうちで関わるのはわずかな数です。そのわずかな数によって人生は彩られ、その奇跡とも言えるような組み合わせによって体験する内容が異なっていきます。

あの時、出会うことがなければ、あるいは、あの時一緒の場に遭遇しなければと、一期一会に人は場によってあらゆるご縁を導きだしていきます。

そしてどのような場を体験したいかという、それぞれの目的に合わせた夢や理想に向けて人は場を重なり合わせていくように思います。それがまさに「場の共有」の実践なのです。

それは家庭でも然り、職場でも然り、ライフワークでも然り、どのような人と、どのような場にしていくかは人生にとって大変重要なテーマであることは間違いない事実です。

だからこそ「場の共有」と正対し、どのような場を創造していくかは一人一人の主体性と責任が関わるものです。場を整わすことも、その場を活かそうとするからであり、場を清めるのも、場の目的を明確にして場を高めるためでもあります。

私の主催する場の道場は、場にこそいのちの原点があり、場にこそご縁の真髄があると確信しているものです。場によって人が変わり、場によって世界が換わる。これからの時代、新しい場の共有が人類の進む道に大きな影響を与えるはずです。

子どもたちのためにも、場を深め、場を譲り、場を遺していきたいと思います。

場の重要性

世界では古来から「場」には健康や幸福に大きな影響があることが信じられてきましたが現代は、都会を中心に空きさえあれば無理やりに場所を削ってはそこに人間都合で様々な建物を建てていきます。特に日本では、もともと墓地だったところや伝統的に大切にしてきた場所でさえ経済的な都合で自分勝手に移動させていきます。

本来、その場所には特別な力があって敢えてその場所を神社にしたり、墓地にしたり、石碑を建てたりして触らないようにしていたものにまで勝手に触っては壊していきます。

そのことから、原因不明の病気が流行ったり、疫病が増えたり、事故や怪我、事件が発生したりすることが増えています。科学では証明されないからと好き勝手に先人たちの体験や経験からの知恵を粗末にすればそのしっぺ返しが子孫たちに及んでしまいます。

現代人の問題は、とにかく視野が狭いということです。そして短期的であり、視座が高くないというところにあります。目が届く範囲の物事にばかり執着し、目には観えないものを軽んじているというところです。

目に見えないものはすべてオカルトであるとは限りません。目に見えないからこそ、心の目で捉える必要があるのです。心の目は、目には見えないものを観ることができます。心は、深く広い視野と高い視座、そして先人たちへの畏敬の念がなければ働かないのです。

しかし世界では、場が影響をすることを調査研究している事例もたくさん出てきています。例えば、ドイツで発表された「オパシック・ストレス」は、1920年代に、ドイツの特定の地域で、ガンの発症率が、他の地域に比べて非常に高いことから、原因を調査し発見された現象です。この「ジオ(Geo)」はギリシャ語で「地球の」、「パシック(pathic)」は同じくギリシャ語で「苦痛」地下からの有害エネルギーを、意味します。現代では、地上の、高圧電線や電波、電磁波、放射線などの、人口周波数も含めて、ジオパシック・ストレスと呼んでいます。

これは場が非常に乱れた磁場になっていてそのことで木にコブができていたり、ダウジングで反応が出たりもします。それを人体も、長期にわたり影響を受け続けることで徐々に体力や免疫力を弱め、様々な慢性的な症状を引き起こすといわれます。

地場や地磁気が乱れるというのは、目には見えないし感じにくいものですが確かに自然界で存在しているものです。野生の鳥たちはその地磁気を感じますし、虫たちや植物たちも地場の良しあしでその棲む場所を換えていきます。

それくらい私たちのいのちは、存在する場所が重要な要になってくるのです。その存在の場を軽んじていたら、知らず知らずに人生に多大な影響を受けてしまいます。子孫のためにも、場を譲りの残していくことは先祖になる自分たちの大切な使命であり責任です。

子どもたちのためにも、場の重要性を世界に示していきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

自粛よりも優先するもの

現在、コロナウイルスで自粛要請がありますがおかしなことがたくさんあることに気づきます。これはあくまで自粛できる人に限るものであり、自粛したくてもできない人たちのことは入っていません。

例えば、先日、期限があるため免許の更新にいきましたがとても密集していてマスクを外す回数も多く、換気もよくない密室で消毒するものもたいしてありません。免許は更新しなければ失効しますからどんなに感染拡大で警戒があっても行かないわけにはいきません。法律を優先しての判断でしょうが、結局は法律を破れないからそれぞれで自粛といいますが法律優先であればだれも自粛などできないのです。

他にも、保育園や幼稚園には毎日たくさんの子どもたちが来ます。あれだけ密集してマスクもできない子どもたちが日々に接していたら感染が拡がるのは当たり前です。特に保育園や幼稚園は、日ごろから感染症の集積場のようにあらゆる感染症をもらってくるところですから今回のコロナウイルスのような感染力が高いものであれば防ぐのはほぼ不可能です。

学校は休校するのに、保育園幼稚園は休校しないというよくわからない理由のせいで何を国家が優先しているのかもよくわかりません。感染拡大は国民のせいとなれば、みんな協力しようとすることができなくなります。

こういう時こそ、法律は一時的に度外視してでも国民を守り、そして国民もこういう時だからこそみんなで助け合い協力して乗り越えていこうとする必要がありますが現在のような疑心暗鬼の状態で不安や不満ばかりが蔓延すればせっかく日本にある人徳的に乗り越えてきた絆や知恵を活かすことができません。

国民を信じて、リーダーを信じるというのは、お互いに一つの目的のために協力しあうために尽力するときにこそ発揮されます。これは会社組織でも同じことです。社長も社員を守るために尽力し、社員も会社を守るために尽力するとき絆も知恵も活かせます。

まず何を優先するかを示さない限り、みんなは安心して助け合おうとしないのです。国家はいわば、家庭の大きなものです。家長が家族を守り、家族は家を守るために尽力する。

この当たり前のことができなくなっていることが、今回の自粛要請には見え隠れするのです。みんな他人事のようになっている組織の末路は、想像すればすぐにどうなるかわかります。会社でいえば、社員に自粛しろといいながら同時になんとかしろということを社長が言っては社長は何も具体的なことをしないということです。そんな状態の会社で、みんなが協力し合ってまとまる雰囲気がでるわけがないことは簡単にわかります。

家の経営、会社の経営、国家の経営、その道はどれも同じで規模間や人数は関係ありません。みんなが助け合うために組織を創造したのだから、本来の組織の意味を学び、活かしてこそ困難を乗り越える原動力になります。

死人がたくさん出て、悲しみがより深くなってきています。早く、目覚めて気づいて勇気をもって果敢に挑戦してほしいと願います。まずは自分から取り組み示していきたいと思います。

自然の篩

日本人として生まれるというのは、日本の風土が育てたといのちというものもありますが日本人の体質というか遺伝的なものも持っているものです。その両方が上手くかみ合ったとき、日本的な意識と日本人的な暮らしを味わうことができます。

この日本的なものとは、中国には中国的なもの、ドイツにはドイツ的なものがあります。それは生活文化の中で発見することができます。海外に住んでみてすぐにわかるのは、その生活文化がその国にしっくりくるようにできているということです。

今までどのように暮らしを営んできたか、その風土とどのように付き合ってきたか、そこにその民族の生き方が反映されています。民族の生き方は、その後私たちに言葉としてではなく教えられたことがなくても感覚として刻み込まれています。

それは五感でも感じますし、第六感でも感じます。例えば「懐かしい」という感覚の中には、かつてその生き方に触れたことがったことを思い出した時に感じているものです。

この懐かしいものを味わうとき、私たちは同時に太古の記憶にアクセスしてかつての暮らしを思い出しているのです。そしてその懐かしさがしっくりくるとき、まさに自分たちの生活習慣を確認し直しているのです。

それは遠い遠い先祖まで遡ることもありますが、私たちはそこから分かれて今がありますからその経過の中で学んだことを篩にかけて今があります。そしてこれからも私たちは篩にかけていきます。

自然界は、長い歴史の中で様々なシーンで時代が変わるとき、環境が変わるとき、自然が篩にかけていきます。もっとも生き残るものを残し、そうではないものを淘汰させていくのです。

私たちはその時々の価値観を抽象的に今に反映させて、なんとなく世界を創りこんで世界がそうなっていると信じ込んでいますが自然は流転しながら常に変化を已みません。自然が変化するとき、私達もまた変化を求められます。自然に合わせて自分を変えていく生き方は、歴史に学び、温故知新して今を刷新していくことです。

今回のコロナウイルスは、新しい環境変化の兆しを伝えてきたものかもしれません。

これからどう生きていくか、生き方の何を見つめ直すか、早速行動に移していきたいと思います。

有事に古典を活かす

有事の時には、過去の歴史の中で同様に乗り越えてきた方々の格言が参考になるものです。それは子孫へ、自分たちが学んだことを伝承し、似たことがあった時にそれを活用して乗り越えるための気づきを与えてくださっているからです。

有難いことにはじめて起きたことであっても、過去の人たちもみんなはじめてのことに挑み、そこから学び、乗り越えてきたから今の私たちにその教訓が語り継がれています。

その教訓をどう活かすか、そこから何を気づくか、学問が試される瞬間です。

中国の古典は、長い歴史があり参考になるものがたくさんあります。私は論語や易経が好きですが、それ以外にも有事の際の身の処し方や生き方が書かれます。

「臨禍忘憂、憂必及之」(春秋)

(災難に直面していながら、やがてくる憂いを危惧しないでいると、きっとその憂いが現実のものとなる)

現在の災難に直面している時こそ、これからやってくるであろう憂うべき危険な状態をそのままにしているとそれが必ずやってくるということです。いわば、今すぐに愁いを払うために準備せよということです。

また呻吟後には、「天下之禍多隱成而卒至、或偶激而遂成。隱成者貴預防、偶激者貴堅忍」とあります。

(不幸な出来事は、裏で進行していたものが急に表に出てくるか、あるいは、ふとしたキッカケで表に現われてくることが多い。裏で進行しているものに対しては、早めに手立てを講じる必要があるし、ふとしたキッカケで現われてくるものに対しては、辛抱強く対処する以外に道はない。 )

これは今のコロナウイルスの事に似ています。国家や政府が色々と裏で進行していたことには何らかの手立ては考えないといけないけれど、天敵のようなものが出てきたら辛抱強く対処していくことです。

私が今参考にしている呂新吾はこういいます。「雨畢而除道、水涸而成梁。草木節解而備藏、隕霜而冬裘具、清風至而修城郭宮室。」

(雨の時期が終わって道をきれいにし、水が涸れてから橋をつくる。穀物を取り入れてから備蓄し、冬の初めに冬服の用意をし、危険のないときに城の内外を修繕する。
つまり、万事、物事というのは先の準備を怠らぬようにしなければならない)

今しかできないことを、このタイミングで行うにはいい機会です。それは自然農のように、季節は廻りますからちゃんと今後の展開のために準備を怠らないで進めていくということです。これは縮まって困窮するのではなく、今まで通り理念や初心を優先してやるべきことを真摯に取り組むということです。

そして菜根譚です。「 天之機緘不測。抑而伸、伸而抑、皆是播弄英雄、顛倒豪傑処。君子只是逆来順受、居安思危。天亦無所用其伎倆矣。」

(天が人間の運命をあやつるからくりは、人知ではとうてい推し量ることはできない。抑えて苦しめたかと思うと、伸ばして喜ばせ、伸ばしたかと思うと抑えたりして、みな、英雄をほしいままにもてあそび、豪傑を打ち倒したりするものである。
ただし、道に達した人だけは、天が逆境を与えれば順境として受けとめ、平安な時にも緊急の時に対する準備をしている。だから天もこのような人に対しては、どんな手だても施すことができない。)

・・ただし道を達した人だけは、天の逆行を順境と転じて福にし、平安の時にも常に有事に備えて日々の実践を怠らない。まさにこのような人にはどんな手も通用しない。つまり、決して油断せずに天理に沿って原理原則を大切にしながら天命と運命、人事を盡して生きている一期一会の人物こそ有事の際も影響を被らないということでしょう。

私は、ずっと若いころから崔後渠の「六然」という言葉を一期一会と同じくらい座右にしてきました。これを安岡正篤氏が訳したものがありこれを紹介して、終わります。

自処超然(ちょうぜん)自ら処すること超然:自分自身のことにとらわれてはいけません。
処人藹然(あいぜん)人に処すること藹然:人に対する時は、いつもなごやかでいなさい。
有事斬然(ざんぜん)有事には斬然:事が起これば、勇断をもって処理しなさい。
無事澄然(ちょうぜん)無事には澄然:何事もなければ、澄みきった心でいなさい。
得意澹然(たんぜん)得意には淡然:自分の思い通りになったときには、自慢せずにあっさりしていなさい。
失意泰然(たいぜん)失意には泰然:自分の思い通りにならないときにも、取り乱すことなくゆったりとしていなさい。

こうありたいと思います。

 

衆知を集める~クラシフルソン~

昨年末にハッカソンと聴福庵で行いましたが、次回は暮らしフルネスを取り入れて色々と試行錯誤してみます。もともとの「ハッカソン(Hackathon)」とは、ハック(Hack)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語のことです。これはエンジニア、デザイナー、プランナー、マーケティターなどがそれぞれでチームを組み、与えられたテーマを設定し技術やアイデアを持ち寄り短期間で集中してサービスやシステム、アプリケーションの開発をして成果を競いあう仕組みです。

この「ハック」「ハッカー」は、本来システムやソフトウェアを解析、改造するなど、「たたき切る」「切り刻む」「耕す」という本来の言葉の意味がありますが、「物事をブラッシュアップしていく」という意味だそうです。

実際には、日本でいう「ハレ」と「ケ」のように日常の同じ作業ばかりで繰り返されるマンネリ化を防ぐ効果もあったり、視点や目線を換えてみることで新たな観点を見立てるという効果もあります。

「場」を換えるだけでも、発想も視点も変わりますから場の道場(BA)を活用することは大変な効果もあります。

そしてもう一つハッカソンとは別に「アイデアソン(Ideathon)」というものがあります。これはアイデア(Idea)とマラソン(Marathon)を掛け合わせた造語である特定のテーマについて多様なメンバーが集まり対話を通じて新たなアイデア創出やビジネスモデルの構築を短期間で行う仕組みがあります。

これはITエンジニアに限らず、多様な人たちがみんなでアイデアを持ち寄って集合知を創造するときに使います。日本では車座になって、長老を中心にみんなで意見を出し合って物事を判断していた歴史がありますが敢えて偶発的な対話の中で思いもがけないようなアイデアに出会うというのはまさに人類発展の仕組みの一つです。

これらを、私の場や和、間の思想と合体させ「クラシフルソン」というものを開発中です。これは「暮らしフルネス」(KURASHI)×「マラソン」(MARATHON)を掛け合わせた造語で、暮らしの中でもっとも和合した衆知を集める仕組みです。

ブロックチェーン神社にお祀りしている八意思兼神というのは、その道の神様です。

この神様が喜ぶような働き方を、BAで創造していきたいと思います。