徳の正体

私たちの身体には、長い年月で積み重ねられてきた「徳」があります。この徳は、生まれ変わることによって甦生を続けて今の私たちを支えています。この徳は言い方を換えれば「いのち」ともいい、いのちは何度も甦生することで新しくなっていくのです。

このいのちの本質は、「その徳を磨き続ける」ということを顕します。

私が様々な甦生を手掛けるのは、隠れていく徳を顕現させ、日本古来からの先人の徳や風土の徳を伝承し続けるために必要だと思っているからです。

神道はまさにこれを実践するものですが、私はそれは宗教だとは思っておらず文化であると感じています。そしてこの文化は自然が醸成してきたものですから、私は文化は自然であると考えています。つまり自然とは、風土の姿であり風土がカタチになったものです。そして自然とは徳ですから、その徳をもったものを如何に共生の中で活かしあっていくか。万物の徳を磨き合って調和させていくかが、私たちのいのちの本来の姿であろうと思うのです。

現代は、自然からも離れ風土からも離れ、そして文化からも離れ、日本人が日本人であったことを忘れかけてきています。その中で、かつてから連綿を続いてきた徳を積むという生き方も忘れかけてきています。

今の自分が存在するのは、一体何の御蔭なのか。

それはずっと徳を積み重ねていのちを磨き甦生しここまで紡いできてくださった先祖や風土の御蔭であるのは誰でもわかります。その存在を自覚すれば、自然に恩返しをしたいという気持ちが湧いてきます。

この恩に報いるという心が、徳の基本であり徳を実践するための原動力です。

子どもたちにも先祖がしてきてくださったようなことをそのままに伝道していけるように丁寧に徳を積み重ねていきたいと思います。

夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

徳積社會

時代の節目には、色々な人たちが新しい活動を増やしていくものです。そのいくつかの活動は前例にはないものですから周囲から色々と賛否両論が発生するものです。しかしそんなものは歴史をみれば当たり前に行われていたものであり、今更新しくはじまったものではありません。

明治維新の頃などは、吉田松陰などは狂人と名指しされ、地域の人たちからも頭がおかしいから近づくなといわれていたようです。そしてその本人も、仲間や弟子たちに「狂いなさい」と指導していたといいます。そして「思想を維持する精神は狂気でなければならない」とさえ言っています。

つまりは、空気を読めるけれど敢えて読まないという生き方。シンプルに言えば「正直であれ」と説くのです。

天地に照らして正しいと素直さを学問を通じて磨いたうえで、自分の心に正直に思う心があるのであれば、それを自分自身が裏切ってはならないという具合です。それを別の言い方で「至誠」とも言いました。これは吉田松陰の座右の銘です。

時代が変わっていくというのは、それまでの常識や正論が音を立てて崩れていきます。別の国にいけば別の常識があるように、環境が変わればそれまでの常識も変わります。環境と同じく時代が変われば同様に常識も変わるのです。

その中である意味で時代に適応していく人たちは一応にして空気を敢えて読みません。世間からは、変人奇人扱いされますが本人たちにとっては時代の変化が観えているのだから気にもしません。賛否両論あろうが、本人にとっては至誠や正直を貫いているだけです。

つまり正直の徳というものは、もっとも最高の智慧であり磨き上げて洗練された本質の姿です。本物であるともいうことです。これを正直と定義するのです。正直であり続ける人は、自分の心を偽らない人です。その正直さこそが、徳の本体だと気づければ社會は自ずから徳積社會に近づいていきます。

私が取り組む、徳積財団はまさにそのようなものを顕現するための活動基盤の場を目指しています。

子どもたちがどんな時代でも自分らしく正直に健やかに生きられるように、徳積社會を広げていきたいと思います。

大切な智慧

人は目的に合わせて場を創造していくものです。何のためにという目的があって、その場所にはそこに関わる人たちの「思い」が空間の中に蓄積していくからです。その思いが場となり、その場は力をもって多くの人たちを引き寄せていきます。

場力というのは、目には観えませんが確かに存在していてその場の力が働くことで私たちは様々な助力をいただくことができます。

例えば、私の自然農の畑では自然との共生というテーマがあって高菜を植え育てています。ありとあらゆる動物や虫たちが自由に謳歌し、野生のままですがそこで農作業をしていると不思議とストレスなどが消えていきます。

少し横になり、天を仰いでじっと落ち着いているといのちの存在を身近に感じ、小さな虫たちの活動を眺めては自分もその自然の一部であることを認識し心穏やかです。

日ごとは都会のど真ん中で人工物と人工的な目的の影響を受けて働いていますが、都会ではどうしても経済活動の場として用意されていますから何をやっていてもその力の影響を受けていきます。

このように場というものは、目的に合わせてその環境を構成しますから私たちは目的と場というものをよく考えて創造していく必要があるのです。私は世間でいう、自然と共生しようともしないことを暮らしといっても人間中心の世界で人間相手だけに物販をしている人たちを暮らしているとは思っていません。

暮らしとは、自然の循環の中に入って共に生きていくことが前提ですから先人たちのように自然を相手にしながら自然と共にお互いを活かしあう活動をしていくことをいうのです。

暮らしの定義も、和風と同じように暮らし風になってきていますから本物の暮らしを伝承していくことも智慧が必要です。

暮らしフルネスは、基本は原点や原型を重んじます。原始の魂を真摯に受け継ぎ、温故知新して甦生させ、現代でも自然との調和をはかります。新しいサウナがいよいよ着工しますが私の「水」の智慧の集大成として取り組んでいきたいと思います。

子どもたちに、その大切な智慧を伝承していきたいと思います。

知恵を絞る

物事には損得というものがあります。損というのは、何か自分が不利益を被るもの、そして得というのは利益を得るものとして認識されています。しかしその損得は、大きな視点から観ると一時的であって全体としては循環していることがわかります。

地球に置き換えてみれば、すべて地球で行われている損得はすべて「徳」です。つまり、一時的に損であっても長い目でみれば得であり、一時的に得であってもまた長い目でみれば損であることがあるのです。

また自然界で観ていれば、人間にとっての得はその他の生物にとっては損になります。長い目で人間は損をしても、自然環境の思いやり徳を積むことの方が偉大な得を得ることもあります。

自然界の利子で暮らしてきたアイヌの先人たちや、かつての先祖の循環型の生き方は今の時代からみれば原始人的で非効率的のように思われまずが本来の損得の意味を深く理解した行動であったのはきっと後世の人たちによって証明されるように思います。

現代のように物が溢れる大量消費の価値観と資本主義経済の世の中においては、この「徳」の深遠な智慧を理解することはないかもしれません。

しかし身近な暮らしや人間関係の中、その他のどんなことにも一損一得があり、そのどれもが必要なものでそれをどう活かすかというところに人類の智慧があります。利他で生きようとする人には、大きな余慶が入ってきて家が仕合せになるといいます。また自利貧というか、貧乏の影にはつねに自分さえよければいいという孤立が出てきます。

私たちは自然の法則の影響を受けますから、生き方を転換するような出来事が起きては人類はそこから学び直し、何度も文明をやり直してきました。今は、まさに文明の転換期ですがどのようにこれを立て直すのか。

私もブロックチェーンストリート構想を掲げていますが、新しい道徳経済を甦生するために知恵を絞りだしていきたいと思います。

初心のまま

人は生き方を優先すればするほどに正直になっていくものです。自分の本心を偽らず、自分の本当の姿を大切にしながら生き方を手入れすればするほどに素直は磨かれていきます。その素直を磨けば磨くほど、今度は正直になっていきます。無理に周囲に合わせたり、周りを意識することなく、本当の自分の心のままで他人にも自分も接することができるからです。

正直者というのは、自分に対してどう接するか。自分の本心を偽らずにどのように思いやりを持って生きるかということとつながっているようにも思います。

子どもの頃、正直さというのは何よりも安心感がありました。自分のまま自分とつながっていることで自己の調和を味わい仕合せを感じるものです。それが、外発的な力によって次第に正直ではなくなっていき自分を見失ってくると自己肯定感も下がっていくものです。

今を生きる上で課題になるのは、教えられないことの中で本当の自分というものの存在に気づけるかということ。そしてその本当の自分と一体になっていくということ。つまりは自立をする過程において、どのようなプロセスを通ってそれを実現するかということが大切であるように思います。

自分に正直な人は、他人も正直になります。自分に素直な人は、他人にも素直になります。正直さや素直さのもっとも大きな効果は、自分の観念や価値観、その世界が素直さや正直で溢れることでしょう。

それが生き方として出てくれば、その分その生き方を通して周囲にその正直さや素直さの美しさや価値を弘めていけるようにも思います。子どもたちの姿を観ていたら、自分のやりたいことに正直で、自然体で素直そのものです。赤ちゃんをはじめ、初心ないのちはみんな初心のままです。

初心を大切にするという生き方が、子ども心を守っていくように思います。

引き続き、人類の未来に向けて生き方を磨いていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。

人災

災害には、自然に発生したものと人が発生させたものがあります。自然災害の方は、自然の治癒であり全体最適のための災害ですから自然調和が働いて発生します。それは道理に適っており、自然の摂理に従っていくしかありません。自然はそうやって40億年以上前から、地球という存在を調整してくれて今があります。

宇宙のすべての調和は、私たちの見知らぬところで常に循環維持されておりその中で生きものたちは適応しながら生き続けてきたからです。

それに対し、人災は意味合いが変わってきます。この人生は自然の摂理を無視して、人間の都合で調整してきたものが崩れるときに発生します。場合によっては地球の環境も崩し、世界的に大きな災いとなって降り注いでいきます。

例えば、ある小さな島で儲かるからとすべての木々を伐採して島の外に売ってしまえばその島は人が住めない島になっていき人々はその島で生きていくことができなくなります。それは島にある保水力がなくなり、動植物が育たなくなり、生き物たちが生存する環境が破壊されてしまうからです。飢餓や飢饉が発生するのは、そうなることが分かっているのに抑制して自律する判断ができなかったからです。

これをある人は木々がなくなったことが自然災害といいますが、そうなることが分かっていても木々を伐採することをしなかったのだから人災なのです。

つまり自然災害と人災の大きな違いは、そうなるとわかっているのに止めようとしなかった。そうなることは予想がつくのにいつまでも欲に任せて変えようとしなかったということです。人間の欲望によって発生するもの、それが人災なのです。

人災は現在、世界中のありとあらゆるところで発生しています。その人災を未然に防ぐには、それぞれが自律的に自然に寄り添いながら自然の摂理を学び直し、自己抑制しながらみんなで全体調和していけるように人間力を高めていくしかありません。

道徳ともいいますが、人間の道徳心を高めていくしか人災を未然に防ぐ方法はないように思うのです。しかし現代のように、目先の損得、個人の利益ばかりを優先する社会の中ではそういう行為は滑稽さのようにも映ります。徳を積む行為をしていたら、周囲からそれは何のメリットがあるのかとすぐに聞かれるのもまた道徳が荒廃してきているからです。

二宮尊徳は、飢饉や飢餓があった際、ただの自然災害として受け取っているわけではないように私は思います。それでは心田を耕すとは言わないからです。人々の心の荒蕪こそが、この飢饉と飢餓を発生させたことを誰よりも先に見抜いていました。

自然災害の発生は、その原因をよく見つめてみたらすべて人間が起因になっているものがほとんどなのです。膨大な欲望を貪る前に、その欲望を膨大な道徳心に換えて自然から学び直し、自然の智慧を尊敬し、自然と共生しながら豊かに歩む道を我々人類は求めなければなりません。

私たちは今、試されています。

今回の新型コロナもまた人災ですし、世界中の気候変動もまた人災です。まだ間に合うと信じる人たちがそれぞれの場所でそれぞれの生き方で、人災を未然に防ぐために最大限の努力を一緒に取り組んでいくことを望みます。

私も今、できることで子どもたちのために最善を盡していきたいと思います。

想定外の意味

人生は生きていると様々な世界的な災害や出来事に遭遇します。歴史が証明するように人類は、何度も同様な危険に出会い、命懸けで乗り越えてきた子孫が私たちということです。

先人たちは、その時々にその禍いに真摯に向き合い多くの犠牲者が出る中で福に転じて子孫たちに教訓や支援、智慧を授けていきました。それが様々な暮らしの伝承の中に息づいていますし、私たちの遺伝子や本能の中に刻まれてもいます。

しかし喉元過ぎれば熱さを忘れるように、私たちは先人たちの学んだことをすぐに忘れてしまいます。当たり前の生活が当たり前になってしまうのは、それだけ忘れてしまっているということです。

忘れない仕組みというものが、本来はもっとも伝承において必要なことです。忘れないために暮らしを工夫してきたともいっても過言ではありません。津波であれば、石碑や口伝を通して生き残るための教訓を与えました。それを忘れないように、常に暮らしの一部に組み込んでみんなに知れ渡るようにしていきました。

それも時代が変われば、石碑を移動させ、口伝もやめてしまいみんながわからなくなってきたところでまた津波が来ます。犠牲者が出て、それを忘れないようにするには残された人たちがそこからの意味や教訓を守ってこそできるものです。

私たちが先祖を大切にするのは、先祖が人生を懸けて子孫のために人生を使って遺してくれたもの、伝えてくれたものが自分の体内に存在しているからでもあります。この身体の一つ一つもまた、先祖が磨き上げてきた一部です。そういうものを分けていただき生きているのだから、私たちはその意味を深め、自分を大切にすることで先祖の願いや祈りも大切に守っていくことができるように思います。

現在、新型コロナウイルスの感染がはじまり大きな禍が降り注ぎ始めています。過去にも似たようなものではスペイン風邪や、インフルエンザで犠牲になりました。想定外だからという理由で無為無策で行政や国家に頼り切ったり、もしくは誰かのニュースに踊らされるのではなく、自ら想定外と向き合い現実を直視し、自らで事実を集め歴史に学び、最善を盡していくしかありません。

そうやって生き延びるたびに、先人たちのことを思い出し、その子孫への徳の推譲に感謝の思いが湧いてきます。先人や先祖に報いるためにも、真摯に子どもたちのいのちを守っていきたいと思います。

人生の質

人間は受け手の力で物事をどのようにでも解釈することができる生き物です。受け手の感受性というのは、その人の生き方に出てきます。物事が発生するとき、ある人はそれを被害として受け取る人、またある人はそれを感謝で受け取る人、そのように受け手の力次第で物事は全くの捉え方ができてきます。

ご縁を活かす人というのは、この物事の受け取り方が洗練されているように思うのです。ご縁というものの捉え方、そのご縁の感じ方こそが人生をよりよく豊かに生きていくための要諦のように思います。

そしてこのご縁は、自分というものがどのようなことを望んでいるか、自分自身がどのように感じたいのかという自分を知るための道筋でもあります。自分を知り、自分を正していくというのはこの物事の受け取り方を修繕していくことに似ています。

日々に感じ方を見直し、自分の心に照らして修正をし続ける人は自分の人生をよりよく豊かにしていく実践をしている人ということです。毎回毎回、朝起きれば新しい一日がはじまります。その一日を常に初心に照らして新しく味わい続ける人は、どのようなご縁も活かす人になっていきます。

人生の質は、日々のこのご縁を感じる力、ご縁を活かす力、ご縁を味わう力が決め手になるように思います。

どのような日々も、二度とない日々ですし一回きりの大切なご縁ですから自分との出会いを大切に自分とのご縁を真摯に結び合って紡いでいきたいと思います。