BAのはじまり

今年の冬至は12月22日になります。この日にBAを開校することになりますが、なぜこの日にしたのかというのには理由があります。

冬至の日は、北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり日照時間が最も短くなる日でもあります。つまりこの日がもっとも暗い日であり、その日を境に1年で日が長くなり明るくなっていくということです。

この日は古来より「太陽が生まれ変わる日」とされ世界各地で冬至の祝祭が盛大に行われていたという重要な日とされてきました。

私たちは本来、太陽と共に目覚め、太陽と共に生きます。目覚めるというのは、暗闇から目覚めるという意味でもあります。太陽が自然を照らし、その自然の実相から私たちは真実に気づき生まれ変わるのです。

それに対して、旧正月、節分というものがあります。これは二十四節季の「節」でもわかるように季節の始まりの日です。この日から立春となり、四季が廻るとされてきました。

しかし私は本来は、そうではなく「冬」こそがいのちの四季のスタートであると思っています。それは種になるからです。いのちは種で終わり、種ではじまります。その種を育むのは冬です。冬至というのは、種であることであり、種から目覚めるという意味でもあります。

今回のBAの「A」は、Awakening(目覚め)の文字です。

私たちはもっとも深く暗い世の中から目覚め、気づき、そしてまた平和で健やかな明るい世の中に易えていくということ。その祈りを籠めて、この日としています。

「場道」は、私たちの生き方を見つめる大切な機会になると信じています。

子どもたちに先人からの叡智が伝承していけるように、逆行小舟を楽しんでいきたいと思います。

場を磨く

人間は、どうしても他と比較したり他人の評価を気にするものです。そもそも何のためにということをいくら決めていたとしても、そういう他人の目に晒されているうちに自分の初心を忘れてしまうものです。

何のためということがあれば、その人の本当にやろうとしていることにつながるためそこに迷いが消えていきます。逆を言えば、人は目的を忘れることを迷うといっているのであり目的を大事に初心を忘れなければ迷うことはないということです。

吉田松陰にこのような言葉が遺っています。

「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

この爽快であるというのは、迷いがないこと。悔いのない生き方、成長する生き方を優先している人だからこそやつれるようなことがないということです。

どんなことも初心を忘れなければそれは成長の糧になり、学びの意味につながるのです。まさに一度きりの人生、どんな時も明るく朗らかにいのちを燃やしていくのが人生の意味につながります。

思えば私は17歳のころからずっと吉田松陰の書に薫陶を受けてきました。松陰神社に行けば、一つ必ずインスピレーションをいただきそれを学びの目標にしてきました。何か事を成そうとするとき、心の支えの中にはこの吉田松陰の言葉があります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」

BAの開校に向けて、私は覚悟を磨く決心をしています。そしてそれは遺志を継ぐ思いからです。最後にこの言葉で締めくくります。

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

ハタラキを守り、ハタラキを弘め、子どもたちの未来のために世界の方向性を易えていくために場を磨いていきたいと思います。

循環の幸福

私たちは死んだら必ず土に還ります。いのちは地球から出てきて、私たちは地球のものを食べ、いのちを分けてもらいながらこの地上で役割を果たしていきます。そのいのちを充実させていくことを暮らしといい、死ぬと墓とかくようにいのちは地球の内部をまた循環していきます。

それなのに、この人類はこの地上を農薬などの科学物質で汚し穢し舗装をしては呼吸をできなくしていきます。温暖化というのは目くらましで、本来は地球の循環を止めていくことで人類が好き勝手にできる領域を増やしていくのがグローバリゼーションの本質なのでしょう。

人類の仮想空間とは、自然から乖離した人類だけが中心になり存在する世界を築くことです。今のAIの台頭もまた、進化により過渡期に入ったということでしょう。仮想の生命は電気がなくならない限り死ぬこともなく永遠ですから、これでついに人類の夢がひとつ叶ったと言えるでしょう。

しかしです、そこにいのちはありませんし循環することもありません。私たちは、仮想世界の密度が上がっていくことと同時に「いのち」の存在をはっきりと自覚するようになっていきます。それは人間には死があるからです。

地球の中で循環することは、私たちに本当の永遠をもたらしてくれます。それはその時々の深い人生の味わいを感じることができるからです。これらの感じる力は、いのちの充実によって行われます。

そしていのちが充実するのなら、そこには必ず循環の幸福があります。

いくら化学が進んでも、いくら文明が究極的なレベルに高まっても決していのちが充たされることはありません。そして必ず最期はその循環の幸福を求めるはずです。

自分たちが一体、どのような存在であったのか、知識量が膨大に増え頭がこれだけよくなった時代なのだから少し考えればわかるはずです。

子どもたちに循環の幸福が伝承できるように、暮らしフルネスを場で弘めていきたいと思います。

徳を積む人たち

最近、「徳」のことを聴かれ徳の話をすることが増えてきました。しかしこの「徳」という言葉、本来もっとも日本人に親しまれ日本で当たり前にあったものであるのは歴史を鑑みればわかります。

それが現代になり、「徳」という言葉をあまり耳にすることなく、字も書けない人が増えているといいます。それはなぜかということです。

これは私の洞察ですが、一つには自然から離れたからということ。その自然とは、単に人工都市か自然かということではなく、人間の思い通りにして自然を尊重することから離れたということです。

そしてもう一つには、先祖や先人の恩恵や真心に感謝する機会が失われたということ。これは単に、仏壇があるとか顕彰しなくなったということではなく、その先人からのつながりに感謝することをやめて目に見えるものばかりを信じるようになったことです。

またもう一つは、伝統文化という先人の智慧がプツリと切れたということ。これは単に伝統文化に興味がなくなったということではなく、新しく便利なものが価値があると信じて古いものは価値がないと捨てていくようになったことです。古いものは、何世代もかけて一生をつぎ込み実験実証をして子孫たちによりよいものを渡していこうと努力したいのちのリレーで出来上がっています。そのバトンを受け取らず、個人主義の名のもとに個人の人生を優先し、連綿とつながり人生を切ったことです。

実際には他にも大小はありますが、「徳」が観えなくなった背景にはこれらのような文化消滅の仕掛けが働いているようにも思います。文化がない国が、文化のある国を毀す、不易と流行は時代の常ですがまさかここまでかとその破壊力に驚くばかりです。

しかしどの時代も、それを小さくとも守り次世代へつなげてきた人たちがいます。徳を積む人たちです。そういう徳を積む人たちによって、私たちの暮らしは約束されてきたのもまた真実です。

子どもの仕事とは何か、幅広いように見えてしまいますが実際の子どもの仕事とはシンプルに言えば人類の子孫のために自分たちのいのちを使っていくことです。どういう世の中にしてほしかという思想は文化と共に存在します。

徳を後世に引き継いでいきたいと思います。

覚醒

人間は自分の頭で考えて物事を主体的に自分から取り組んでいくことができれば他人のせいにすることはありません。言い換えれば、他人のせいにする生き方というのは自分自身が常識を鵜呑みにして思考停止している状態であり、自分の頭で本質や意味を深堀りすることをやめてしまっているともいえます。

自分で考えるというのは、本当は何かということを深めていくということです。誰かが出した答えに従ったり、大勢いの人たちが語る価値観を常識と信じて、当たり前であることに慣れてしまい本質を学ぶことをやめてしまうと自分で考えることができなくなるのです。

主体性という言葉は、単に自分からやっていれば主体性というわけではありません。世の中の常識を疑い、当たり前を毀し、自分の頭ですべてを自分の責任として捉えることができたとき主体は自分になります。

人生というものは、その他大勢の中の一つではなく自分に与えられた大切なものです。その人生を味わい盡す人は、何のために自分が産まれ、何の役割を持ち、何に活かすかということを求めては学を志していくものです。

つまり学とは何か、それは自己というものを確立することとも言えます。自分というものがどのようなものか、自分をどう磨いて自分自身になっていくか。それは他人のせいにしている人生を生きていたら磨く機会も失われてしまいます。

日々に様々な出来事と出会い、私たちはその都度、何のためにということに気づき、どうあるかということを問いていくことができます。そうして日々に自分の頭で今発生していることを内省し深めていけば己の為すべきことが観えてきます。

現在の世間一般の勉強はどこかそういう自己確立とは関係のないところで知識ばかり、正解ばかりを刷り込まれているように思います。自立は自己確立ですから、自分自身が人生の主人公にならない限り、自律することもなく、そして協力し合うこともないように思います。

現在、そういうことから個人主義が歪み、協力ができない組織も増えてきています。まずは他人のせいにするのをやめ、自分で自分の人生を深めることを決め、日々に初心を忘れずに自己研鑽をしなければあっという間に主人公であることをやめてしまうことを気づく必要があります。

「目覚め」というのは、英語ではAwakeningともいいます。「目覚める」というのは、それまでぼやけていたもの、昏睡から覚醒するということです。いつまでも刷り込みや洗脳で自分で考えるのをやめていたらあっという間に死を迎える時機がきます。

だからこそ、自分の頭で考える習慣を持つために誰かのせいにするのをやめる自分を決めることから学び直すことだと私は思います。今回開校する「BA」のAは、この「Awakening」の頭文字をとったものです。

永い眠りから覚めて、人類の創始理念や初心を思い出せる人が増えていくように新しい場道を拓いてみたいと思います。

 

子どものため?

世の中には子どもの為といいながらまったく子どものためではなく、大人たちの都合のためということをやっている人たちがいます。実際に本当の問題を挿げ替えては、子どもを利用して自分たちの利益を得ようとします。

簡単にそれを見極める方法は、子どもの立場になって子ども自身が喜ぶことかと子どもに聴いてみれば一目瞭然です。子どもが何かの行動をするとき、必ずそこには理由があります。その理由を心を寄り添い耳を傾ければ次第にそれが伝わってくるものです。

しかし今の人たちは、忙しさを理由にしたり、経済状況を理由にしたり、世の中の常識を理由にしたりして子どもの声を聴こうとはしません。現在の環境問題でも同様です。

自然のためにといいながら如何に人間の都合のためにに溢れているか。本音と建て前を使い分けては、さも善いことをしているようにみんなで声高に発信して勘違いや思い込みによって当たり前の方を換えてしまいます。これを偽善とも言います。

実際に善か悪かをここで裁きたいというのではなく、本来の善いことのためにもう少しみんなで見極めるための議論を尽くしたいと思うのです。みんな人間は誰しもが善心をもって生まれてきます、特に赤ちゃんのときには誰もがその徳が備わり生まれてきます。

その時、私たちは何が真実であるかをいのちのハタラキから学ぶはずです。笑顔の価値や、信頼するものの価値、活かされていること、守られていることの意味を知ります。

私たちは自然の一部ですから、自然にそれらの徳が分かるようにできています。子どもの声を聴かなくなるというのはその徳を穢すことと同じです。そのためには今の大人がよく子どもの立場になって子どもを主人公としたときに、今のままで本当の善いのかとみんなで考えることです。

待機児童を解消することが本当に子どものためなのか、発達障害と診断し隔離したり排除したり抗うつ剤を飲ませることが果たして子どものためなのか。よく考えてみることです。

子ども第一義を理念にする私たちの本当の目的は、子どもたちのことを丸ごと信じて子どもの声を聴いて今の世の中を変革していくことです。まさに今は人類の過渡期であり、地球循環の変わり目です。

気づいた人たちと一緒にいのちを賭していきたいと思います。

 

ぬくもり

私たちは皮膚で温度を感じますが同時に「ぬくもり」というものを別で感じているようにも思います。このぬくもりとは、いのちの温度でありそれは単なる冷熱ではなくまさにその温度の超えた存在のぬくもりを五感で直観しているともいえます。

例えば、「手仕事のぬくもり」というものがあります。心を込めてゆっくりと丁寧に手を使ってつくりあげたものにはぬくもりを感じます。機械で簡単便利にさっさと仕上がったものではなく、一品一品丁寧に時間をかけて取り組んでいればいるほどそのものからぬくもりが出てきます。

このぬくもりは、一体何処から来るのか。私たちはこの不思議さに気づけるかどうかで暮らしの豊かさも変わってきます。そして何よりこの暮らしの豊かに気づくには何よりも先に「手入れ」というものをまず学ばなければなりません。

「手入れ」とは、そのもののいのちに触れて甦生させていくことです。つまり、そのもののぬくもりに直接的に触れることによってその「いのちのぬくもり」を味わうという一連の動作のことです。拭いてあげたり、磨いてあげたり、整えてあげたり、修繕してあげたりと直接的に触れて甦生させていくのです。

私は日々の暮らしの中で、手入れを楽しんでいますがこれはぬくもりを味わっているということです。

無機質で機械的に手仕事ではなく造られたものはあまりいのちのぬくもりを感じません。しかしそれも少しだけでも手を入れてあげれば、ぬくもりを感じられるようになります。具体的には、生け花を添えたり、手漉きの和紙を敷いたり、何か見せ方を設えてあげることでもぬくもりは現れます。

生きものたちはみんなそのぬくもりを感じることで、いのちの仕合せや豊かさを感じて自然と合一して心を平和にしていくのです。

今度、BAでは志半ばで斃れた友人の遺志を石に刻むことにしています。その友人は生前にこういう言葉を遺していました。

『頭でひねり出した理論的正しさだけではなく、コードを書くこの手の感性を信じること。それが、自分が書くコードと世の中をリンクさせ、ソフトウェア開発のダイナミックさを引き出す道だと思う。だから、どんな立場になっても、コードのそばにいるよ。』(高橋剛より)

この手の感性を信じるということは、「ぬくもり」を持って取り組んでいくことが何よりも大切なのだと私は受け取りました。そのいのちのぬくもりを感じながら、取り組んでいくことでいのちは様々な世界に融合し広がっていくということ。

自他を自然にして、「いのちの中に入る」ということが私たちは「この世で何かを産み出す」ということなのでしょう。

BAは間もなく開校しますが、有人の見守りをいつでも感じながら前進できるように石碑にその言葉の真意を刻みます。子どもたちに、先人の生き方が伝承できるよう私自身もぬくもりを大切にしながら取り組んでいきたいと思います。

仕事は生き方

先日、BAの打ち合わせ中に脳出血で倒れた左官職人さんが手術後の経過がよく麻痺もなく無事に回復しているというお知らせがありました。一緒に家をつくり、思いを込めて取り組んでいる間は心を通じ合わせていく仲間ですから急な出来事に大きなショックを受けたのを思い出します。

この左官職人の方は、人格が素晴らしく何よりも左官仕事を心の底から愛しています。以前、一人で黙々と朝早くから夜遅くまで取り組んでいる姿をみて一人でずっと何日も同じ作業をしていて辛いことなどないのですかとお聴きしたら「左官仕事が好きなので辛いと思ったことは一度もない」と笑顔で返されたのを覚えています。

あの時、好きな仕事ができる仕合せというものと同時にこういう人に仕事をお願いしたいと思ったものです。

仕事は生き方が現われます。

実際に、好きな仕事をする人と、仕事を好きになる人がいます。そこには目的意識を持っているかどうかが深層心理に隠れているように思います。

例えば、人生を一度きりとしたときにこの今の仕事もまた一度きりです。大切な人生の時間を愛おしむように使うのだから、自分を何に活かすか、自分をどう使うかは人生の貴重な今の集積になっていきます。

その今の心の持ち方をどのように正対して歩んでいくかは、それぞれにその人の人生の取り組み方や姿勢が深くかかわります。自分の人生を大切にしている人は、どんな出来事もご縁も自分の人生の充実や学びの糧にして発達し発展を楽しみ味わうことができます。人はすぐに仕事に優劣をつけたり、価値のあるなしをつけたり、評価をつけては損得などを言いますが本来の仕事にそんなものはないのです。

技能や技術、結果だけではないそこに生き方があることを忘れてはいけません。

最後に、倒れた時はなぜこのタイミングでこの場所でと悲しい気持ちになりましたがこうなってみてよく考え直してみると私と二人の時であったこと、私がすぐに救急車を呼んですぐに来たこと、その後、迅速に手術したこと、左官も一仕事終えて次の打ち合わせの時機であったこと、応急処置もスムーズだったこと、すべて運が善かったことの連続であったことに気づきます。

無事に祈りが通じて回復していく吉報を得て、人間万事塞翁が馬であることを改めて感じ直しました。

私の取り組む生き方は、この人間万事塞翁が馬そのものです。子どもたちにも私の生き方が仕合せにつながるように祈りながら歩んでいきたいと思います。

暮らしフルネス

人は日々に色々なことを感じて生きています。しかしその生きることの深さや浅さはそれぞれの感じ方によって異なるものです。

ある人は、どんなに色々なことがある日々を過ごしていても微細な自然の変化に気づきとても心豊かに様々なことを感じ取っている人もいればまったく自然から離れて味わうことをしない人もいます。

同じ人間であっても、感じ方一つでまったくその味わうことの深さや浅さが異なるのです。

人は心がありますから、心は鋭敏かつ微細にほんの小さなことでも味わおうとしますそういう人は心の豊かな人であり、人生の意味を深めている人です。

現代は、頭で考えているばかりで味わうことを減らし過ぎたように思います。生きていくよりも不安を解消することや欲を満たすことばかりに知性を働かせすぎて、本来のいのちのハタラキやいのちの存在のことを忘れてしまっているようにも思います。

この今というものは、一期一会でありまさに此処が自分の生きている場所です。その場を味わい感じるというのは、人生の醍醐味を知るということです。

人生は一度きりだからこそ、心を充たすように生き、心豊かに生き、仕合せをみんなで分け合っていくことで心を高め心を磨いていけるようにも思います。

苦労もまた、心が豊かになる一つのご縁ですし、仕合せもまた心を豊かにする一つの暮らしです。

暮らしフルネスとは、一期一会の人生を深く味わうということです。

引き続き、新しい時代に人間にとっての真の豊かさとは何かを伝承し子どもたちの未来につないでいきたいと思います。

自由の意味

人間には何をもって自由でいるかの定義がそれぞれにあるように思います。例えば、金銭的な自由というのを自由であると思っていたり、職業的な自由を自由と思っていたり、権力や武力を持っていることを自由と思っていたり、世の中には自由の価値観はそれぞれで異なっているのです。

しかしその自由はよく洞察してみると、誰かが刷り込んだ自由であって本来の自由ではないことはすぐに自明します。特に人間社会においては、昔から奴隷制度や支配の歴史は連綿と繰り返されてきた事実であり、本当の意味で自由であったという時代は少ないのではないかとも思うのです。

もしも人間の思い通りになることが自由であると思い込んでいるのなら、その前提条件が外れない限りこの世の中の本質や真実を理解することはないように私は思います。それぞれがもし好き勝手に自分の思い通りにしようとしたらこの世界は紛争が絶えず、利害関係によって人間はさらに不自由を増やしていきます。

この自由というものの考え方をどれだけ本気で学ぶか、そこに人間が人間としての大切な素養と学びの本質があるように思うのです。

ではどのようにしてこの世界に蔓延する思い込みや刷り込みから自由になるか。

それはまず本当の自分という存在に気づくことからのように思います。そしてそれは深い自己との内省によって気づくものです。つまり自分とは何か、自分は本当はどのような存在であるのかに自己と対話をして気づくということです。

自己との対話ができるとき、人ははじめて自由の意味を知るように思います。

世の中の常識から解放され、様々な人間社会の刷り込みを取り払いあるがままでありのままでいのちを働かせていくことができることのなかにこそ自由自在の境地があります。

この世に存在させていただいた以上、子どもたちの自由のために日々の暮らしの中で自己の魂や心に従っていのちを磨いていきたいと思います。