場の振り返り

人間は共感することでつながっていく生き物です。チームワークの在り方などいろいろな形ができてきますが、根本にはお互いに共感しあうことで絆を深めていくように思います。

人間にはそれぞれに「思い」があります。その思いがどんなものであるか、その思いに対して自分はどう思うか、それをお互いに傾聴し、共感し合い、そしてゆるしあうことで人は繋がりや結びつきを深めていくからです。

その共感は単に理念的なもの、思想的なものへの共感をすればいいというわけではありません。その人がどう感じたか、何を気づいたか、それをお互いに耳を傾けることで相手の気持ちを汲んでいくという思いの連鎖をつなげていく必要があります。

この連鎖とは、相手を慮る事、相手を思いやる事、相手を尊敬することでつながります。つまり、お互いに尊重し合う関係でない限り本当の意味で共感することはないのです。

カタチばかりの共感をしても、尊重し合っていないのだからそれはどちらかが一方的に共感風のようなことをしただけです。本来の共感は常に互いに平等であり尊重ですから「思いやりを通じ合わせた」時にこそ「共感」になっているのです。

では思いやりを通じ合わせるためにどうすればいいか、それはお互いの事を深く理解し合い、お互いが相手のことを深く思いやるという関係を築いていくことが最善であることは自明の理です。

そのために「場」を用意し、その場の醸成によってお互いのことを深く分かり合う時間を持つ必要があります。この時の場とは、人生の大切な時間を共有することであり共に生きている仲間のことを深く分かり合い信じあうという体験の場を創造するということでもあります。

チームというのは一朝一夕にはできません。なぜなら「一緒」になるためにも体験の場数を増やし、そのプロセスを積み重ねていく必要があるからです。どのような「場」をみんなで練り上げていったか、それはその時々の場の振り返りによって顕現してきます。

私が一円対話を実践する理由は、その場の振り返りを見極めチームの状態を理解し、善きチームに導くための場を醸成していくためです。子どもたちが、自分たちで善きチームを築き仲間の力を借りて共生と貢献の素晴らしさに気づき充実した人生が過ごせるように場をさらに高めていきたいと思います。

自然の徳

昨日は、BAの箱庭に苔をいれ整える作業を行いました。日本庭園には、石、苔、紅葉などの木、そして観音竹や灯篭があります。今回は、ブロックチェーンを祀る神社を建立するため御神前を清浄な空気で満たせるようにあらゆる工夫を凝らしています。

例えば、全体には大量の備長炭や竹炭を使い、また水の通り、風の通りがいいように配置し、また光が揺らぐように照明関連などを配置しました。

私は障害があるのか、小さな光でも眩しく感じます。それに光が揺らいだり、動いたり、また留まったりするのを感じます。それに暗闇の様子や陰翳を強く感じるタイプのようで、黒を感じる種類が多く、多種多様な黒を感じて使い分けることができます。

私が古民家甦生の中で相性がいいのは、その陰翳を自由に扱うことができるからです。今ですら、照明器具が発達し明々と一日中同じ明るさの中で過ごしますが私はそれが苦手です。

水から反射してくる光や、透明な風で揺られながら訪れる光は心を澄ませるだけではなく身体も癒されていきます。

日本庭園の素晴らしさは、この風、光、土、水、石、木、いのちの絶妙な組み合わせに自然の徳を実感するからです。

自然の徳が、人間の心身を癒していくように私の取り組む徳積みが人類を平和に導いていけるように挑戦を続けていきたいと思います。

石の徳

昨日は、BAに建立する留魂碑を故高橋剛さんのお父さんと一緒にノミで文字を手彫りで刻む作業を行いました。二人ともはじめての体験でしたが、石に文字を刻むことを通して故人の供養になったのではないかと感じました。

そもそも石に遺志を刻むというのは、なんとなく感覚で理解していましたが実際にノミをもって手彫りで刻んでいると、心が穏やかな気持ちに包まれてきます。石というのはどこかごつごつと固く、頑強なものというイメージを持っていましたがノミで彫っていると柔らかく静かで穏やかな存在であることに気づきます。

この穏やかになる気持ちはどこから来るのか、本当に不思議でかつての先人たちが仏像や石碑を彫刻したのは心を静めるためでもあったのではないかとも感じました。

石は、私たちのいのちよりもずっと永くこの世に存在しているものです。まるで永遠ともいえる悠久の時間をゆったりと過ごしています。その存在に触れていると、「時間」というものに触れるように思うのです。

悲しみが時が解決してくれるように、時間というものはその過ぎていく過程で様々なことを許し、また慈しみ、安らぎを与えます。同様に、石が持つ時間は私たちの心に深くそれらの時の徳を与えているのではないかと感じるのです。

私の直観では、石は時そのものを司る存在なのです。

時が石に刻まれていくことで、石がすべてを包み恕してくれます。私たちが石を身近において石に見守られていると感じることができるのは、その石の徳に感応しいのちが安心することができるからです。

次回は、今回刻んだ文字の仕上げを行います。一つ一つの物語を石と共に刻み、初心を次世代へ伝承していきたいと思います。

本当の暮らし

昨日は、聴福庵でブロックチェーンハッカソンを行いました。暮らしの場の中で働くことでどのような効果があるのか、実証実験も兼ねてでしたが非常に有意義な時間を過ごすことができました。

現代は、個人が優先されすぎてきて仕事とプライベートを分け過ぎてかえって日々の暮らしが貧しくなってきているように思います。仕事もプライベートも充実するというのは、本来、暮らしが充実するということです。

この暮らしとは、言い換えれば人生のことであり、人生の中に仕事があるのであって、仕事の中に人生があるのではないと言えばすぐにわかると思います。

どのような人生を歩みたいかを決めたなら、暮らしが始まります。その暮らしの中で、どのように働くのかと思えば当然幸福で充実した日々を送りたいと願うものです。

そして人生の豊かさとは、味わい深い今の集積によって満たされていきます。つまり、いのちの営み、いのちのハタラキを充分に実感する時間を味わって過ごしているということなのです。

この暮らしという言葉もそれぞれの人たちが色をつけては様々な定義で使われています。

しかし本当の暮らしのことは頭ではわからず、いのちで理解するものです。いのちの理解は、具体的にはいのちのハタラキと一緒に過ごしている時にしか感じません、それは丁寧に生きて、手間暇をかけて味わうという悠久の時間、また永遠の時間と共にあるときに感じるものです。

先人の暮しは、常に人生の意味を味わっているものばかりでした。

現代は特に忙しくなる仕組みが動いていますから、心の病を抱えたり、身体が不健康になったり、何か本当の仕合せなのかに気づきにくくなってきています。人生を救済するというのは、本来は先生や宗教の務めだったのかもしれませんが今の時代はそれも難しくなってきていますから本物の場の必要性を感じます。

子どもたちが、自分の人生の暮しを味わえるよう私がまず挑戦して実践で示していきたいと思います。

庭石の意味

現在、建設中のBAの中庭には立石があります。この庭石は、日本庭園では重要な役割を果たしています。むかしから水は海や川や滝、植物は自然らしさを表現し、石は山岳を表現し、石は不変であることから「永遠」という意味があるといいます。

その石の産出場所としては、山、海、川があります。

山石はゴツゴツした角のある石で山間部などの地表面に露出しているものや地中に埋まっているものを掘り起こしています。山さびがつきやすく植物の根が入り込んでいるものがあります。今回のBAのメインの立石は、植物の化石のようなものが石と合体して永遠の時間を感じさせるものです。また川石は丸みが出て趣のある庭石で最も庭に合うといわれます。そして海石は波の力によって表面の変化に富んでいてよく貝が付着しているといわれます。

庭に据えられた立派な庭石は、どっしりとした見ごたえがあります。そして石の風化作用を見ることで独特な侘びや寂びの感情が表現されていきます。

庭石は日本人の心の静けさを取り戻すのにとても役立つかもしれません。今回は、この庭石の周囲に苔や観音竹などの植栽を入れ、山水の風景を表現します。そしてその周囲を炭が囲むことで、宇宙に浮かぶ庭園をイメージします。

まさにブロックチェーンアカデミーに相応しい庭になるでしょう。子どもたちに、日本の文化が伝承できるようにつながりを大切に丁寧に進めていきたいと思います。

徳の貯金の経済学

銀行に貯金通帳があるように、私たちの人生には徳の貯金通帳というものがあります。また経済にも同様に、道徳という貯金通帳があります。人生の中で生きていくうえで、私たちは知らず知らずのうちにこの徳の貯金通帳を使っているとも言えます。

それに気づいている人は、長い目で見て子孫たちのために自分の人生を徳積みに活かしていきます。その反対に、気づかない人はその先祖からの徳を全部自分の代で使い切ってしまいます。

この徳は、通常では損得を含めて考えますがそもそもこの損得とは自分にとっての損得であって本来の自然や宇宙には損も得もありません。天地自然の運行のようにある生きものにとって都合が悪いことが損になっても、同時にそれは全体で長い目で観ると他の大きな生命にとっては善いことになっているからです。

先日、ある人から台風が来ると人間は都合が悪くても海の生命にとってはかき混ぜてくれることでサンゴが甦り魚が潤うというお話をお聴きしました。これらのように損得を超えた徳は常に循環をして私たちの根底の暮らしを支えているとも言えます。

これらの仕組みをそのままに暮らしに活かしたのが里山とも言えます。自然を活かし、自然の循環を邪魔しないように自然の一部としてその徳を循環させていくためにも徳を積んでいくという生き方。面倒でも手間暇かかっても、少し損をみんながすることで徳を積み重ねていくのです。その方が、心が豊かになり、仕合せも増えていくのを知っていたのです。

徳の貯金は、いわば心の貯金でもあります。

心の豊かさは、単にお金持ちになれば豊かになるのではありません。心の豊かさは、むしろ徳を積む人のこそ豊かになるのです。

これからの時代、昔の人たちが当たり前に観えていた目に見えなくなってしまった徳の貯金という経済学を学び直す必要があるように感じています。そうして新しい徳の経済を積んでいくことで未来への心豊かな伝承が広がっていきます。

私は決して大金持ちではありませんが、本当に幸運にいつも恵まれています。有難いことにこれもまたご先祖様からの徳の恩恵をいただいているからです。その恩徳に報いていけるよう、私自身も徳を磨いていきたいと思います。

日本人の風情

今年もそろそろ干し柿をつくり聴福庵の箱庭に飾る季節がやってきました。次第に乾燥が進み、食べごろになっていく様子を見ていることが豊かであり食べると一層仕合せな気持ちになります。

現代は、なんでもお金で買いますが本来の豊かさはこの取り組みのプロセスの中にあります。美味しさとは、単に舌先で味わうものではなく心で取り組む中で味わいが深くなっていくのです。

暮らしが充実していくということは、それだけ日々のプロセスそのものが満たされていくということであり、小さな喜びや仕合せにたくさん出会いご縁に感謝することができるようになるということです。

話を干し柿に戻しますが、この干し柿は渋くて食べられない渋柿を干すことでできるものです。この干し柿に用いられる柿は、乾燥させることで渋柿の可溶性のタンニンが渋抜きがされ渋味がなくなり、甘味が強く感じられるようになるという仕組みです。しかもその甘さは砂糖の約1.5倍とも言われています。

具体的に日本に柿が伝わったのは弥生時代といわれていますが文献では平安時代に干し柿の存在が確認できるそうです。また927年に完成した『延喜式』に祭礼用の菓子として記載されています。

健康食品としての効果もあり高カロリーで食物繊維も豊富にあり、マンガン、カリウムもたくさん入っています。また取り立ての柿はビタミンCが豊富ですが、それが干しているうちに減っていきますがβ-カロチンが増えていきます。また柿自体に悪酔い防止作用があり二日酔いの時によく熟した甘柿を一つ食べると気分が良くなるとも言われています。

もう1000年以上前から私たちの暮らしに存在していたこの干し柿は、貴重な冬の食料としても甘味としてもまた薬としても愛されてきたものです。冬の風物詩でもあるこの干し柿が、日本の原風景の中から消えていくのは寂しいものです。

冬の味わい深さ、冬の楽しみが増えていくのは日本人の風情を楽しむ心の豊かさの象徴の一つです。子どもたちに、充実する暮らしが伝承できるように身近なところから大切に過ごしていきたいと思います。

当たり前を見直す

昨日より鹿児島から長年一緒に子ども主体の保育に取り組んでこられた方々が聴福庵に来庵しています。長い間、体調を崩していた方の快気祝いも兼ねての来庵でしたがとても豊かで癒しの多い時間を過ごすことができました。

自然農での畑での作業や、炭団炬燵でのゆったりしたお茶のお時間、夜は炭料理の数々をともに楽しみました。

感覚が鋭い方は、來庵するとすぐにその雰囲気が分かります。今回も来てすぐに玄関で感動の涙を流され、手を合わせておられました。また地下水の水が美味しいこともあり、何度もお水を飲んでは癒されておられました。

今では当たり前になった水も、むかしは井戸から汲んで水甕に入れてそれを一日使っていました。それに火も、薪を山林からとってきたり炭をつくってそれを少しずつ活用しながら大事にしていました。

何でも便利になりましたが、時代が変われば当たり前は変わるものです。

むかし当たり前だったことは、今では大変珍しくなっています。私が取り組んでいる、暮らしフルネスの生活はむかしの当たり前の善いところはそのままに、現代の当たり前のよくないところを改善して今を温故知新しています。

当たり前を見直していくということは、今を見直していくということです。

懐かしい日々の暮らしは、心の豊かさや充実さ、そしてゆとりややさしさ、思いやりを思い出させてくれます。

子どもの仕事をするからこそ、当たり前を見直していきたいと思います。

消えないもの

現在、日本では消えかけている文化があります。それは伝統工芸品を含め、日本の先人たちが築き上げてきた自然から学んできた技術です。それはマニュアルでは残せず、暗黙知の伝承ですから共に学び取り組む中でしみこんでいくものです。

しかしその文化は、時代の流行があり時としては時代に合わなくなることもあればまた時節が到来すれば時代に合うこともあります。それが流行ですから、その流行が訪れるまでじっと耐えて待つ必要があります。

時として何をしても、それが合わない時代もあります。そんな時でも、色々と工夫して新しい技術を取り入れながら温故知新して取り組んでいくうちに、そこで学んだ技術がかつての先人たちの思いもつかなかったような独創性が産まれたりします。

またそこで産まれた新しい独創的なものが、世の中全体に大きな影響を与えることがあります。文化が消えかけていくことは確かに悲壮感がありますが、同時にそれは世界に向けてかつての技術を発信して新しい時代を産んでいくための切っ掛けにもなるのです。

すでに世界では日本のお茶や、日本酒、焼酎、出汁、和服などが認められ海外の需要が大幅に増えているともいいます。日本では人気がなくなってきている文化が世界で花開こうとしています。

つまり消えかけるときこそ実はチャンスであり、それをもう一段別のステージで挑戦する機会にすればいいのです。

私は性根が明るいから悲壮感がないのかもしれませんが、同時に消えかけても消えることはないと信じているから明るいのかもしれません。子どもたちに確かな文化を伝承するためにも、自分自身が温故知新を楽しんでいきたいと思います。

仲間は力

人は自分にできないことがあるからこそ仲間が必要です。仲間とは力であり、力は仲間の存在によって引き出されていくものです。現代では、能力主義や評価を気にするあまりできないことを隠し、できることだけで人とつながろうとします。しかし一人でできることは少なく、そして脆いですから仲間の存在や信頼があればできないことへも挑むことができるように思います。

では仲間とはどのようなものか、それを省みるとどんなことがあっても離れていても最後までご縁を活かし合う関係ではないかとも感じます。その時だけの関係というよりも最後までそばにいるような絆をもった関係です。

そう考えると、いつもそばにいるというのは苦しみも悲しみも喜びも分かち合う関係があるということです。それは絆ができているともいえます。お互いの違いを認め合っても、お互いのことを信頼し続ける。それだけお互いのことを分かり合っているとも言えます。

本心や本音で分かり合えるからこそ仲間になります。本心や本音を最期まで隠すのは、評価や認められたいと外側ばかりを見つめては自分の内面を誤魔化すからかもしれません。自分が仕合せになるためにも、自分の本心や本音を打ち明ける仲間が必要なのです。

仲間がいれば、一人でも頑張れますが仲間がいなければ一人では頑張れないのです。一人で頑張れるのは、それをわかってくれる、信じてくれる、助けてくれる、支えてくれる存在を感じることで力が湧いてくるからです。

仲間は力です。

力を精いっぱい出して自分のやりたいことに挑むためにも貴重な仲間の存在とつながりを大切にしながら歩んでいきたいと思います。