暮らしの甦生~新しい経済~

人間による環境破壊はスピードを増して進んでいます。日々に私たち人間は消費活動のために資源を搾取し、その搾取したもので経済を上昇させることに暇がありません。しかし、そのほとんどを消費し、廃棄し、また新たなものを創り出しています。

産み出すばかり創り出すばかりというのは歪な姿で自然は循環することでバランスを整えています。現在は、スマートなんやらといって生活を豊かにするとか言っていますが便利なことを豊かにするという考え方では、本当の意味で人類が発展繁栄してきた心と物の両面を豊かにすることはできないように思います。

現在は、豊かさ=便利さ、快適さというようにあらゆる教育によって刷り込んでいき、誰もがそこに疑問を感じなくなってきてもいるように思います。しかし真の豊かさ=暮らしであり、暮らしは生き方ですから単なる便利な生活をすることではないのです。

暮らしというものを私たちの先祖はどのように捉えていたか、それは「徳」という行いによって表現されていたように思います。徳を積んでいくというのは、澄んだ循環を促していくということです。澄んだ循環が本質的な経済を創り、それによって子孫の繁栄と発展が約束されたからです。

その仕組みは、伝統や伝承といったものの中に色濃く遺っています。

私が暮らしを甦生させる理由は、澄んだ循環によって新しい経済を創造したいからです。ブロックチェーンの学校を創る理由もまた、ここにあります。如何に私たちの生き方が変わり、その生き方が変わった人たちの指先から世界が変わっていくか。それを信じているのです。

子どもたちのこの先の未来、過ごしていく地球の世の中はどうなっているでしょう。100年後、200年後の私たちの子孫は、どのような地球の恩恵、自然の恩寵をいただいて仕合せに暮らしているでしょう。今のままでいくら人類にお金が大量にあったとしても、そんなもの地球環境が破壊されればただの紙屑同然ですし、金やダイヤモンドがあってもそんなもので豊かな暮らしはありません。

このような時代、人類史では何回もあったのでしょうか。その都度に文明は滅んだのでしょうか。そして自然治癒によって地球はまた甦生したのでしょうか。確かに言えることは、人類は何度も何度も滅ぶということで学習してきたことは間違いありません。

だからこそ、今回こそはと志ある人たちや目覚めた人、気づいた人たちが自分の持ち場で挑戦していくのです。私も子ども第一義の理念を掲げる以上、自分の天分をやり切っていけるところまで暮らしの甦生に命を懸けていきたいと思います。

手入れの神髄

2年前に自然農の田んぼの土を500キロ聴福庵に運びこみ、みんなで土を塗り固めて自作した「おくどさん」の仕上げを伝統技術を持つ左官職人さんたちに来ていただき行いました。

今回、依頼した左官仕上げには「漆喰磨き」というものをお願いしました。これは以前、京都の角屋にあるおくどさんに一目ぼれし、どうやったらあのような白銀に黒艶がでるような風格が出るのだろかと感じたことからです。それを深めて調べているうちに現地の方から、これは左官の漆喰磨きという仕上げを行ったこと、また日々に使う人たちが大切に手入れをして拭いて磨いているから輝きを増したことなどをお聴きしました。

「洗練されて磨くと光る」というのは、もっとも志すところであり、伝統技術の持つ神妙な真理でもありますからそれを学び直したいと一念発起し今回の「おくどさん」を創ることにしたのです。

左官仕上げを依頼した「漆喰磨き」は漆喰を鏝で磨き続け、鏡面に仕上げる工法の事です。全国の文化財などで見かけることがありますがこの漆喰磨きの技法は秘伝としているところが多いらしく次第にその技術が継承されなくなってきているといいます。

おくどさんの本来の活用の意味も大切ですが、左官の先人たちが命がけで編み出した日本独特の磨き上げの技術を子どもたちに遺して譲りたいとも願い、全国から有名な伝統左官職人さんたちに来ていただき「漆喰磨き」を行ったのです。

実際に拝見すると、凄まじい集中力と緊張感で約2ミリほど塗ったものを0.03ミリ以下になるまで磨き上げ光りはじめていきました。最後は、素手で丁寧に何十回も手擦りをしておられました。おくどさんを綺麗に撫でるように仕上げていく様子に、まるで親が子どもを撫育するような境地を実感することができました。

左官職人は特殊な鏝をたくさん用いて作業をします。今回もはじめて見る鏝を使い、丁寧にプロセスや場所に合わせて使い分けていました。しかし最後にその鏝を手放し、手を鏝にしている姿を観て左官の原型を実感しました。

みんなこの「手」からはじまるのだと、つまり手作業、手入れ、というこの「手」にこそ不思議な力が宿っているのを感じたのです。このパソコンのキーボードを打つのも手です。私たちはこの「手」に思いを籠めて、手を用いてその思いを実現していきます。

手には心があり、心は手から伝わってそのものに魂を吹き込みます。

伝統や伝承もまたこの「手」から行われています。手塩にかけて育てるという言い方や、手法や手段、お手本という言葉もあります。この手による磨きは、いのちの磨きであり「いのちとの対話」なのです。

これから行おうとするおくどさんの「手入れ」の神髄に触れた一日になりました。左官職人さんの真心の籠った手仕事に心から感謝しています。

これからしっかりと手入れを行い、磨きに磨きをかけて子どもたちの心にその光が届いていくようにいのちとの対話、そして生き方の手入れをしていきたいと思います。

石から学ぶ

今度、BAの外回りに石垣を設置していきますが石垣の歴史を深めていると城壁の歴史になり日本の伝統技術があることを実感します。特に全国各地に残っている城壁の石垣は何百年もの風雨や戦争に耐えて今も美しいままで遺っています。

世界各地にも城壁や石壁がありますが、それぞれの国の石の文化を伝承するものです。

日本で有名な城壁の石垣を組む会社が残っています。滋賀県大津市坂本を中心に活躍する「粟田建設」という会社です。現会長の粟田純司氏は「第14代目石匠」の名跡を継ぎ平成12年には当時の労働省(現厚生労働省)から「現代の名工」に認定、平成13年には「大津市文化奨励賞」を、そして平成17年には「黄綬褒章受章」を授与されているといいます。

この会社はもともと戦国時代に各大名がこぞって召し上げた伝説の集団「穴太衆(あのうしゅう)」を起源にしています。もともと戦国時代の城はその石垣の高さや強度さが戦いの士気を左右し、戦いを制するには「穴太」の力が必要だったからです。この穴太衆が得意とした「野面積(のづらづみ)」と呼ばれる自然の石を組み上げる石工術は、現代技術を凌ぐほどの強度を誇っているといいます。

先祖代々、「石の声を聴け」というものを大切にし現場ではメジャーなどで計る前に石が何を言っているか、どの石が使ってほしいと言っているかを聴いていくともいいます。

非科学的に思われるかもしれませんが、実際に実証実験するとコンクリートの壁よりも年数も強度も俄然この穴太衆が組んだものの方が耐久性があるといいます。

昨日、BAの慰霊塔を建てるために石材屋さんを訪ねて石を見てまわりましたがその際も多種多様な石が置いてありましたがそれぞれに個性があり、それぞれに使い道が異なることを教えていただきました。

どの石を用いるのか、その一つひとつを見極めて配置していく技術というものは人間が集団でチームを組んで大切なものを守っていこうするという意識にも似ているように感じます。

現当主のことを調べていると、このようなことを仰っています。

「僕らの石積みは人間社会と一緒なんです。大きい人もいれば小さい人もいる。性格のいい人も悪い人も。それらが組み合わさったのがこの世の中で、だから面白い」

「個性があればあるほど、それが生きてくる。あえて悪い石を使うこともあります。大きい石はより大きく見せてあげる。そのために、まわりに小さい石を配置する。すべてに役割があって、大事なんです。『綺麗な石ばかり使ってなにがおもろいねん!』とお祖父さんはよく言っていました」

山から石を探してきてイメージ通りに一つの石も余らないで使い切るという神業のようなこともやってのけるといいます。まさに、石の心を受け継ぐ集団がこの穴太衆であり日本の伝統技術の誇りです。

石垣や城壁をどのような心で守り続けるのか、そしてどのような仕組みで建ち続けることができるのかということをすべてを「石」から教わっているようにも感じます。古代の人たちは、石を見てそこに何かしらの心を感じ、その石から学び、教えを刻んでいたのかもしれません。

石とのご縁が続きますが、石から学び子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

BAへの挑戦

人間が成長するとき、それは失敗を経験するときのように思います。上手くいかないことが増えれば増えるほど、自分の持てるすべてを発揮して挑もうとします。その上で敵わないと実感するときや、コテンパンに打ちのめされるとき、さらに実力をつける必要を感じて正面からやり直そうとするものです。

人は知らず知らずにうちにわかった気になったりして基本や基礎を磨くための鍛錬を怠るものです。とても地味なその訓練や場数こそが、さらなる飛躍を与えてくれます。

世界のHONDAとして、今でいうユニコーン企業にまで発展させた創業者に本田宗一郎氏がいます。何かに挑戦するとき、その挑戦する生き方や生き様にとても勇気をいただきます。その言葉をいくつか紹介します。

「失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。」

問題とは、上手くいったときに出てくるものではありません。上手くいかないからこそ人は本気になり真剣になります。何度も何度も挑戦しているからこそ、根性が磨かれるのです。

「困らなきゃだめです。人間というのは困ることだ。絶対絶命のときに出る力が本当の力なんだ。人間はやろうと思えば、大抵のことは出来るんだから。」

本当の力とは、出し惜しみする力ではなく絶体絶命の境地で全身全霊が出てくるものです。人間は必ず夢を実現できると根底から信じるからこそ、無理難題に挑むのでしょう。それはこの言葉にも出ています。

「人類の歴史の中で本当に強い人間などいない。いるのは弱さに甘んじている人間と、強くなろうと努力している人間だけだ。」

だからといって、自信があったわけではないとも言います。勇気を奮いだして挑んでいたことがこの言葉からもわかります。

「苦しい時もある。夜眠れぬこともあるだろう。どうしても壁がつき破れなくて、俺はダメな人間だと劣等感にさいなまれるかもしれない。私自身、その繰り返しだった。」

失敗をしてきた人ほど、苦労してきた人ほどに、自分を励ます言葉をたくさんもっています。同時に、他人を励ます言葉も持っているのです。本田宗一郎は、「抵抗こそ伸びるチャンスだ」と捉えていました。

人間は必ず次に向かおうとするとき、大きな試練が待っています。その試練があるからこそ次のステージで活躍できる原動力になるのです。その活躍のための試練は失敗連続ですがそれが自分を鍛え磨き、道へと導くように思います。最後に、この本田宗一郎氏のこの言葉で締めくくります。

「私の最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きるところにある。」

私もこのBAへの挑戦が、子どもたちの希望になるよう全身全霊で挑みたいと思います。

看板、暖簾、商標のつながり

看板の歴史を深めていると、暖簾、そして屋号や商標の歴史にもつながってきます。暖簾も平安時代ころから使われていたといわれます。最初は日差しをよける、風をよける、塵をよける、人目をよける、などを目的に農村、漁村、山村の家々の開放部に架けらていたそうです。

それが鎌倉時代の頃には暖簾の真ん中に、さまざまな文様や屋号が描かれるようになったといいます。それが室町時代になると、あらゆる商家がそれぞれ独自の意匠を取り入れ、屋号や業種などを伝える看板の一つになっていったといいます。

しかし文字が読めない人がたくさんいましたからそこには動物や植物から色々な道具類のかたち、天文地理から単純な記号等で描かれたとあります。その描かれたものがそのまま屋号になったケースもあったそうです。

実際に暖簾に屋号などの文字を見かけるようになったのは桃山時代で、江戸時代に入り人々の識字率が高まると文字の入った暖簾になっていったといいます。そこから、屋号、業種、商品名等文字を染め抜いた白抜きのデザインが多く見られるようになり 商家の看板、広告として発展し同時に暖簾に使われる色も多様化したといいます。

看板も暖簾と同じ歴史を辿っていますから、ほぼ暖簾と同様に絵から文字になり、屋号になり、商標になっていきました。現代の看板の原型はこのようにして発展してきたということです。看板という字は、看(み)せるための板(いた)という意味だそうでその文字になる前は”鑑板”の文字を当てられていたといいます。現代の看板ではロゴや商標が描かれています。

この商標はトレードマークといわれたり、ブランドといわれますがもともと家畜などに焼き印を施し、他人の家畜と区別したのが始まりだといいます。何人もの放牧農家が入り交じって放牧を行うと、どれが誰のものか分からなくなります。そこで、焼き印を押すことで、自分と他人の家畜を区別できるようにしておけば、それぞれの家畜の所有者がすぐに分かりました。さらに、良質な家畜を提供する生産者のものであることを、第三者、例えばお客さんが選ぶこともできるためこの方法をとられました。

商標とは、商品やサービスを提供するときに使いますが昔の家畜に焼き印を入れていた歴史があってのものなのです。

看板や暖簾に描かれる商標とは、このような歴史が凝縮されたものです。今、建造中のBA(場)はどのようになるのか、今、まさに検討中ですが新しい幕開けを楽しんでいきたいと思います。

看板の甦生

今度、BAの開設にあたり看板を制作することになります。その看板は江戸時代の木製のものを磨き直し甦生させ、アートディレクターがデザインを温故知新したものを後輩と一緒に手作りで魂を籠めて造りこんでいく予定です。

現代では、景観のことをまったく無視したような統一感のない看板が都市部だけではなく田舎にも乱立しています。特に夜になればLEDランプ等でガチャガチャと照らされ風情を感じるものも少なくなってきました。

そもそも看板とは何か、その歴史を含めて深めてみようと思います。

看板の歴史はとても古く、イタリアのポンペイ遺跡や前3000年のバビロン時代に明らかに看板とみられるものが見つかったといわれています。そして日本では大宝律令の開市令に「肆標(いちくらのしるし)」を表示することが定められ、これが看板の始まりとされています。奈良県の長谷寺などへの寺社への参詣客でにぎわった街道に出店した市である「三輪の海拓榴市(つばいち)」に見てとれるそうです。

この時の看板は、何を取り扱うのかを伝えるためのもので屋号などはなかったそうです。むかしは文字が読める人が少なかったので、そのものに関する道具(お酒や味噌を創る道具等)をそのまま看板にしたり、商品そのものの絵を描いて伝えていたといいます。

それに商売的な要素が組み込まれたのは江戸時代に入ってからといわれます。江戸の商工業の発達と共に職種による看板の定型化が進み、それに金箔、蒔絵などを施して豪華さを競い、広告として大金をかけるようになったといいます。

確かに、それまでのシンプルな立て札のようなものから江戸になると急に看板にデザインが入ってくるようになります。そのため一時期は看板は木地に墨字、金具は銅製に限ると幕府が禁令を出すほどに看板は賑わいました。

また京都の町家などでは、格子戸の形状で自らの商売を伝えていたところもあります。炭屋、糸屋、麹屋、米屋などもありました。

看板の種類として多かったのは軒看板で暖簾と同じような目的で、朝晩店を開ける時と閉める時に掛け外しました。特にこの軒看板は古ければ古いほど店の値打ちがあるとされ、永続して信頼されている店舗として大変価値がある店であるとし、ひとつの指標として使われたといいます。

看板の名に恥じないようにや、看板に泥を塗るという言葉があるように、看板とは信用であったという意味もあるように思います。特に年代ものの看板は、それだけ大切に代々看板(生き方)を磨いてきた証だったのかもしれません。

看板の諺では「一枚看板」というものがあります。これは京都・大阪地方の上方歌舞伎には、劇場の前に飾る大きな看板のことを「一枚看板」と呼んだことからきています。江戸では大名題(おおなだい)と呼びました、具体的には、この看板の上部にメインの役者の絵が描かれていたことで歌舞伎などの芝居一座で中心となる人を「一枚看板」と呼ぶようになりました。看板娘というものも、もっとも看板を背負って活躍する人物ということになります。

まだまだ看板は奥が深いのですが、看板には下位概念としての宣伝目的と、上位概念としての生き方の顕現があるように思います。本来の看板は、何を生業にするかという意味と同時に、その看板に相応しい生き方を実践したかということが合致していたのでしょう。

今度、取り組む看板もまた復古創新の「場」に相応しいものにしたいと思っています。子どもたちのために、伝統を伝承して文化を繋いでいきたいと思います。

思いの呼吸

人の「思い」というものは、時代を超えて存在しているものです。例えば、先祖代々の思いは子孫たちの思いの中に息づいていつまでの残存しています。その思いに触れるためには、先祖と同じ生き方をするときに触れられるものです。

私たちは日常の生活の中では、その思いを持っていてもその思いに気づきません。なぜなら、その思いは澄み切って醸成されたもので、まるで空気のように無味無臭です。しかし空気のように、心を澄ませて深呼吸すればその思いに気づきます。

私たちは生き方を変えるとき、生き方に触れるとき、その空気を呼吸して力に転換することができるのです。それは必ずだれにもできます、なぜなら私たちは「思い」を共有することができる生命だからです。

だからこそ、「思い」に人が集まるというのは、その思いを呼吸する人たちということになります。同じ思いを空気のように呼吸することでその思いが共鳴し共有され、人々が場に集います。

その場に集うことで、新たな思いが重なりその思いがまたさらに磨かれて澄み切って光ります。長い時間をかけてきて磨かれた思いは、その時代、その代々の子孫によって大切に守られていくのです。

子どもの仕事をするというのは、その視座において子どもに何を譲っていくのかを真摯に向き合って取り組む仕事であるべきです。私は子ども第一義の理念をもって実践していますが、思いによって助けられ、思いによって活かされています。

思いこそ祈りであり、思いこそがいのちの呼吸なのです。

暮らしの中の思いの呼吸を大切に、日々の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

いのちを磨く

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という諺があります。これは自分の命を犠牲にする覚悟があってこそ、初めて窮地を脱して物事を成就することができるという意味で使われます。

この「覚悟」を顕す言葉は、まさに人間の持つ決心や本気を示す諺でもあります。何かに取り組もうとするとき、全身全霊で取り組む人とそれなりに取り組む人がいます。

同じ一回の出来事でも、真剣である人はその場数は確実に自己を錬磨していきます。そうやって磨ききった人のことを百戦錬磨の人とも言われます。この百戦錬磨の「百戦」は数多くの戦いのことで「錬磨」は練り磨くことをいい、多くの戦いにのぞんで武芸を鍛え磨くことをいいました。

覚悟の力とは、この真剣勝負の場数によって高まり磨かれていくように思います。その覚悟の心は、身を捨ててこそということなのでしょう。自己保身や他人の評価を気にしたり、自分の初心を忘れたりしていては錬磨することができません。

どんな日々であろうが、どんな挑戦であろうが、やるからには身を捨てる覚悟で取り組む人には真剣や本気の凄みがあります。

先日、致知出版の巻頭言で坂村真民さんの詩を拝読して感じ入るものがありました。題は「鈍刀を磨く」というものです。ここに覚悟ある人の生き方を見てとれ、どんな場所でもどんな場数でもそれでも磨くことの大切さを語られていましたので紹介します。

『鈍刀を磨く』

「鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが 何もそんなことばに 耳を貸す必要はない せっせと磨くのだ 刀は光らないかも知れないが 磨く本人が変わってく つまり刀がすまぬすまぬと言いながら 磨く本人を光るものにしてくれるのだ そこが甚深微妙の世界だ だからせっせと磨くのだ」

ここでは光るかどうかではなく、真剣に磨くかどうかを語られます。そもそも真剣という意味は「本気で取り組む」という意味です。木刀や竹刀ではなく、いのちのやり取りをする真剣を使うという意味。

どんな場数であっても、それを木刀や竹刀のぬるま湯の危機感のない中でやる練習と、真剣勝負の覚悟や本気でやる練習では「磨く」という意味の本質が変わってきます。

つまり下位概念の磨くは、単なる訓練や練習のことを指しますが上位概念での磨くとはいのちを削り研ぎ澄ませていくということであることはすぐにわかります。いのちを削るというのは、本気で取り組むということです。

今の時代、マンネリ化しやすく別に本気でなくても本気風でやって無難であっても失敗しなければある程度の評価はされます。しかしそれでは、自己研鑽になっていくこともありません。

子どもたちに生き方を伝承していくためにも、覚悟を決めていのちを磨き続けることを味わっていきたいと思います。

 

自分を生ききる

世の中には色々な人がいます。何かに突出した才能を持っているがいますが、その人は一部では障害だと分類され苦労もしています。何かに秀でればその逆に何かは削られていきます。それが才能ですから、人は目的に合わせて自分の才能を磨いていくうちにその人のオリジナリティが開花していくように思います。

しかし、その過程において協力してくれる人たちがいるかどうかはとても大切なことのように思います。自分の才能を活かすにも、その才能を活かすために支えてくれる人、使ってくれる人が必要になるからです。

お互いの組み合わせた、それぞれの能力の掛け合わせによって私たちは偉大なことができていきます。決して一人ではできないことも、みんなの持ち味や才能を合わせれば不思議なこともまたできるようになっていきます。

それは言い換えるのなら、それぞれの才能が磨かれ「徳」が出てきたともいえるのです。この徳というのは、自然界が創造する場のようにありとあらゆるものが調和していのちを開花させていくようにみんなの協力によって顕現していくものです。

誰もが真摯に自分を生ききり、それを助けてくれる存在があることを信じて生きていきます。花に蝶や蜂が飛来して花粉を繋いでいくように、太陽や雨がいのちを育むように自分を生ききると必ず誰かが手を差し伸べてくれます。

どんなに自分が周りと違うことで差別されたと思っても、周りを卑下したり、文句を言ったり、復讐心を抱いたりすることでは徳は出てくることはありません。徳は、自分自身を生ききることで次第に周囲と和合して顕れるものだからです。

自分を生ききるには、いのちへの感謝が必要ですが同時に自分を信じることが大切です。自分自身の才能を自分が信じ、周囲への感謝を忘れずに子どもたちに伝承していきたいと思います。

和の調菜人

聴福庵では炭火を使った湯豆腐料理をすることがありますが、地下水と備長炭の絶妙の調和で美味しく仕上がった湯豆腐はいつも来庵した人たちの心身を癒し喜んでもらっています。

この湯豆腐は、江戸時代の中期には日本人の生活に根づいたそうですが江戸初期にはまだ特別の日のときの食べ物だったといいます。特に農民にとっては非常に贅沢な料理でいつでも食べられるわけにはいかなかったようです。

実際に徳川家康と秀忠の時代には村々ではうどんやそばと共に豆腐の製造も行ってはならず、農民がそれらを食べることも許されない禁令が出されていたといいます。さらに家光のときの「慶安御触書」には豆腐は贅沢品として、農民に製造することを禁じています。 そのころの将軍家の朝食は、豆腐の淡汁、さわさわ豆腐、いり豆腐、昼の膳には豆腐をいったんくずして加工したものが出されていたといいます。

実際に湯豆腐の料理は、水、昆布、豆腐だけです。実際の調理方法は、地下水のチカラ、炭火のチカラ、鉄鍋のチカラ、そして素材のチカラだけです。これらのチカラを如何に引き出すか、それは私の和の調理の原点でもあります。これらは精進料理ともいいますが、だからこそ澄み切った深い味わいを楽しめるのです。

そして豆腐の80パーセントから90パーセントは水分ですから、この水が重要なのはすぐにわかります。そして豆腐をつくるのは熱ですから火です。この水と火の具合をよく直感し研ぎ澄ませて手間暇と時間をかければ必ず人間が全身全霊で美味しいと思えるようなものができてきます。

私は調理師免許などもなければ、料理人として生計を立てているわけではありません。しかし暮らしを甦生するなかで、何が本来の料理だったか、何がはじまりだったかは学んできました。

学びというものは、単に知識を得て資格を取る事ではありません。すべて伝統の智慧や先人の努力の積み重ねた今の中に生きていますからそれを謙虚に学び、それを今に甦生させていくだけでいいのです。

世界に誇る、日本ならでは和の料理とは実にシンプルなものです。

今日も、先祖が深く関係しご縁があった懐かしい来賓があります。主人のおもてなしと生き方を観ていただき、一緒に団欒を味わいたいと思います。