心の太陽

人間は振り返ることで、自分というものに出会います。自分のことを知るもっとも有効な手段は、この振り返りをするという習慣を持つことです。1日にたとえ5分でも、10分でも振り返る人は、自分を見失うことはありません。

私はこの日々のブログは振り返ったことを深めたものを綴っています。振り返りの時間は、もっともゆっくり振り返れる深夜に行います。そのほかにも、朝起きてからの日記や夜寝る前、他にも日中でも少し時間があれば振り返ります。

いつから振り返りオタクのようになったのか、それはメンターの影響が大きいと思います。

私のメンターは、「省みる」ということを何よりも重要にする生き方をなさっています。論語の三省を人生の自戒のようにされておられます。この三省は、一日に三回省みるという意味ではなく、漢字の三は、無限に広がっていく三ですから何度も何度も振り返るということです。

孔子は、論語で自分のことを三省で語ります。

「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」

毎日、孔子は自分の初心を失っていなかったか、自分を見失っていなかったかと、動機はどうだったかと、3つの軸によって自分自身を振り返っていたのです。

例えば、ご縁を大切に生きていきたいと願ったなら、自分はご縁に対して誠実だったか、活かしきったかと、ご縁あるたびに自分の動機や初心を確認していかなければなりません。そのうえで、安易なことをやっていたらすぐに反省し、ただちに修正できるものはし、できないものは次に活かし改善する必要があります。

こうやって習慣を持つことで、次第に自分を見失うことなく心のままに生きていくことができるようになるのです。

人生は自分自身との対話です。

自分がどう生きたか、納得のいく人生だったか、それは自分にしかわかりません。自分の心を無視して誰かのせいや環境のせい、言い訳をしてそのまま終わるのも一つの人生、それをすべて自分を磨く機会であり砥石だと福に転じて自分を味わい盡していくのもまた人生。

選択するのは常に自分自身の心です。

決心するというのは、その心を最期まで維持し続けるということです。そうい意味でこの維持こそが習慣であり、継続が力そのものである由縁なのです。

心は常に存在し、消えることはありません。脳の作用や感情によって霧がかかり曇ってしまっているだけです。どんなに曇ってもどんなに嵐がきても、太陽がまた出てくるように心も同様に風がやみ穏やかになれば澄んだ空気と共に太陽は現れます。だからこそ、私たち人間は心にいつも太陽を持ち続ける必要があると私は思います。

この振り返りの習慣は、心の太陽を確認する習慣です。

自分を見失わず、子どもたちが自分の人生を生ききることができるように私自身の背中を通して子どもたちに伝承していきたいと思います。

人類保育の道

人類は、集団をつくることで生き延びてきた生きものとも言えます。敢えて集団をつくったのは、自分を守るためでもありました。一人だととても弱く、生き延びていくことができません。

だからこそ集団をつくり仲間を持つことで、協力し合い助け合ってきました。その証拠に、人間は一人でやっていても面白くないや楽しくないなどという感情を含め、仲間と一緒に取り組むことで仕合せを感じるようにできているからです。

無人島で一人で暮らしてみるイメージを持てばすぐにわかりますが、いくら成功したからと一緒に喜んでくれたり、感謝されたり、ほめて貰ったり、共感しあったりすることがなけばそのうちつまらなくなっていくものです。

人は人と一緒にいることで、ヒトが人間になったといいうことでしょう。その人間の特徴とは何か、それは「仲間を大切に思う心」ということでしょう。以前、NHKのグレートジャーニーの中で皮肉にも人類は仲間を大切に思うことから戦争が起きたという表現がありました。確かに、仲間というもので敵味方を分けるとそこにはお互いに正義が生まれます。本来は仲間同士で起きた、尊重と寛容の精神で助け合うところを損得利権や自我欲が優先され身勝手な正義が集団によって認知されればそこには対立構造が生まれてしまいます。

対立から対話へというのは、本来、みんな仲間ではないかと確認し合おうということです。同じ組織の中で敵味方に分かれて、いざこざをしているところを見かけますが本来の仲間とは何かということを思い出すことでしょう。

組織というものは、自分を大きな意味で守っているところです。自分を守っているところだからこそ、その守っているところを守ろう。それを拡大させていけば、家族から会社、地域社会、そして国家、世界、地球というように守り守られている存在に気づくのです。

視野の狭さというものは、この逆であり、自分を守ることを自分で必死にやればやるほどに家族を守れず、会社を守れず、地域も守れず、国家も守れず、世界も地球も守れません。

自分を守っているものは何かともう一度、客観的に見つめることで自分が本来守るべきものは何か、そして自分はなんと大きなものに守られていたのかと感謝に立ち返ることができるのです。

これと同様に地域貢献とかボランティアとかを仕事と分けるのではなく、自分を守ってくださっているものを守ろうとすることは人類の発展や地球の成長に必要なことなのです。特に子どもたちの未来を思えば、自分が守っているものが何かを確かめることができます。

人間は、集団をつくりましたが問題はそこに甘えすぎてしまうことです。それは自律ではなく、自立でもない。守られるのが当たり前となってしまい、自分が貢献することをやめてしまえばそれは単なる甘ったれになってしまいます。

得意なことができる人に甘えることは、自分の得意なところで貢献する覚悟がありますから共生と貢献の関係が成り立ちます。自分ができないことは得意な人に頼る、しかし周りができないことは自分の得意に頼ってもらう。まさに信頼関係を築くことで、仲間を思いやる心が人類を対話や平和へと導くように私は思います。

身近な人たちとの小さな人間関係が、世界の戦争にも平和にも左右していきます。一人一人の人間の心の中に如何に平和を築くかは、人類の最大のテーマであり私たち子孫に与えられた最も重大な課題です。

自立と自律は、私たちの本業のテーマでありそれが仕事です。

引き続き、人類の未来を省みながら保育の道を弘げていきたいと思います。

 

居場所

先日、居心地について改めて考える機会がありました。この居心地という言葉は、居と心地からできた日本語です。居は落ち着く場所のこと、そして心地は仏教語であり、心を大地から支えるものとあります。心が落ち着き心の支えになっている居処ということになります。

この居場所というものは、改めて考えてみるととても大切なものであることがわかります。人間は何をして誰といてどこにいてどうしていることがもっとも気楽にいられるか、この居場所とは自分の心が安らぐこと、常に落ち着いている空間や関係ができていることをいいます。

つまりは日本文化でいうところの場と間と和が存在し、心がそのものと一体になって自然に解けこんでいるようなものをいうように思います。

そして居心地が悪いとは何か、それは自分が無理をして自分本来の心が落ち着かないこと。この無理をするというのは、素の自分の価値を否定し自分を偽っている状態になっているということです。言い換えれば、素を出せないということです。この時の素とは何か、それは素心のことで素直でいられない状態になっているということです。

素直になれないのはなぜか、それは自分の感情に囚われたり、相手を勝手に思い込んだり、自分が他人にどう見られているかばかりを気にして本音を誤魔化していたりという状態のことを言います。

本人にとっても居心地が悪いと思いますが、周囲の人たちもそのような人たちがいることで居心地が悪くなるものです。居心地の善さというのは、みんなで協力して居心地を善くしていく必要があります。

それはどのようにしていけばいいか、それは本音の対話を通じて行われていきます。本音の対話とは、心音の対話です。心がどのように感じたかを素直に言える関係、お互いに素心のままで尊いと思いやれる関係、そういう絆を結び合っている居場所は居心地が善いと感じるものです。

人間は色々な価値観の人がいます、生まれながらに異なれば育った環境でも異なります。そういう人たちを同一の価値観で同一の環境下で管理することは不可能です。特に現代は多様性が尊重され、人口減少の中でより協力して助け合って生きていく時代に入っていますから余計に居心地を気にすることが増えています。

だからこそ居心地がよくなるための努力を、みんなで一緒に取り組んでいく必要があります。一人ひとりが、お互いを認め合い、尊重し合う関係を築き、役割や力が発揮できるような場や空間を環境に創りこんでいくこと。

これからのリーダーは、この「居場所」の価値に気づけなければ人々の調和や協働を引き出していくことはできません。今の職場や日本の環境を見つめ直し、何の刷り込みを取り払い、何をどこから改善するのか、そのプロセスを経て本物の居場所を創造うのが私たちの会社の本業の一つです。

子どもたちが安心して自分らしく生きて、自己を発揮していけるように見守る環境を弘げていきたいと思います。

 

次のステージ

人は自分の意識次第で世界観が異なります。この世界が一体どのように観えているか、それはその人の意識次第です。しかしこの意識というものが、すべての世界を見ていますからこの世を生きていくのに大きな影響を与えてしまうのです。

この大きな影響は例えてみるとすぐにわかります。ある人は、この世界を自分にとってよくないものばかりと思ってみていればこの世界への不平不満は募るばかりです。しかし逆に、この世界は自分のとって善いことばかりと思っている人はこの世界は十分足りていて満足しています。

そしてまたある人は、この世界は最初からすべてにおいて完全であるとし宇宙のように存在そのものがあり活かされていると思っている人であればこの世は自分次第ですべて叶うものであると特別な世界を創造していくことができるのです。

つまりは、ある・ないで意識する世界の人。そもそもが存在があると意識する世界の人。この差は、同じ場所にいても世界が全く異なって観える境地にあるということです。

人間は、何をもって先達というのか。そして道の達人というのか。それはもちろん技能もありますが、その意識が完全に一般的な人たちと次元が異なっているのです。この異なりは、観えている世界観が異なるということです。

雨を見てもただの雨ではなくその人は、自然を観ます。智慧を見てもただのそれは智慧ではなく、宇宙そのものを観ます。このように意識が達した人は、居ながらにして無、無にして在、そういう境地の体得があるのです。

私も直観的に機縁や機智を獲得していくタイプですから、観えている世界の異なりはよく感じます。ある時、リンゴが木から落ちて万有引力を悟るように意識は私たち人類の世界を丸ごと変革してしまうのです。

子どもたちの意識を、身勝手な大人が刷り込んで可能性をつぶさないように、子どもの無限の可能性を引き出せるような生き方や会社にしていきたいと思います。次のステージを楽しみたいと思います。

天のメッセージ

人生の羅針盤の言葉の一つに、老子があります。孔孟の教えも己に克つことに満ちていますが、自分で自分を正しく理解し、己を制し律し克つことができて人間力は磨かれています。

しかし、どうしても己に負けて無意識にうちに現実から乖離し、真実から遠ざかってしまうと本当のことや真理がねじ曲がってしまうものです。そういう時こそ、先人の智慧に触れ反省をして素直に謙虚に学び直す必要があります。

老子は特に、人間力について精通しているように思います。

「賢者は人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがない。」

「優しくなりなさい。そうすれば勇敢になれる。つつましくなりなさい。そうすれば広い心を持てる。人の前を行かないようにしなさい。そうすれば人を導く者になれる。」

謙虚でいなさいと諭します。まさに謙虚は魔除けなのです。

そしてこうも言います。

「他人を知るものは賢いが、自分自身を知るものは目ざめた人である。他人に打ち勝つものは強いが、自分自身に打ち勝つものは偉大である。」

「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。」

自分自身に打ち克つことが本当の「力」であると。力とは、決して能力や権力ことではなくまさに自分に克つことこそが「力」の本質だといいます。

そしてこうもいいます。

「優しい言葉をかければ、信頼が生まれる。相手の身になって考えれば、結びつきが生まれる。相手の身になって与えれば、愛が芽生える。」

本物の信頼とは、優しい言葉の中にあるもので相手の身になっているからこそ結ばれると。そして思いやりをもって接すればそれが愛になると。どの時代もどのような人も、信頼はやさしさと思いやり、まごころを通してしか結ばれないということです。

無為自然を説く老子はこう言います。

「現実を現実として、あるがままに受け入れなさい。物事をそれが進みたいように、自然に前に流れさせてやりなさい。」

すべては天にお任せしていけば、なるようになると。だからこそ素直に謙虚に任せて信じて自然であれといいます。

最後に、老子の格言です。

「足るを知れば辱められず、止まるを知ればあやうからず。」

私自身、日々のご縁をすべて天のメッセージと受け止めながら自分自身を見つめ反省して生き方を老子に学び直したいと思います。

祈年祭4

昨日は、千葉県神崎にあるむかしの田んぼで無事に祈年祭を行うことができました。前回同様に、むかしの田んぼの中に祭壇を設けお祀りして宮司様に祝詞を奏上していただきました。

祝詞も仕来たりも古代からの祈りが甦生されたもので、祈年祭の意味を深く味わう善いご縁になりました。美しい空と田んぼ、澄んだ空気、そして春風に純白の和紙がたなびく様子にこれからはじまる稲との四季の暮らしを想い、荘厳で清浄な心持になりました。

お祀りが終了し、宮司様と一緒にみんなでお神酒をいただきましたがその際に「おめでとうございます」という声を合わせました。

通常ならば何もまだ収穫をしたわけでもなく、結果が出たわけでもないのになぜおめでとうございますなのかと思うかもしれません。しかしこれは古代から連綿と続いている日本人の精神文化を象徴するものなのです。

「前祝」という考え方があります。これはあることが善い結果になるように確信して祈り、結果が出る前に先に祝ってしまうという考え方のことです。よく前祝として、祝宴を開いたり、桜の花の下で宴会をして新しい年度の未来を祝うものもその一つです。

これを別の言い方では予祝とも言いますが、予めそうなると信じて先に祝ってしまうというのはどのようなことがあったとしてもそれは丸ごと「福」であると信じる気持ちがあるということです。この「福を待つ」という生き方は、どんなことがあっても希望を失わず与えられたすべてのご縁を神様からの恩恵としてみんなで受け取り味わっていこうとする素直で謙虚な生き様です。

宇宙自然の道理として、福は追いかけるものではないということ。すでに福は身近に訪れており、それを信じて待つことこそが福を知り福になるという真理をいうのでしょう。

幸福に気づかない人は、希望や夢までつまらないものに変えてしまいます。なんでも面白がるところに発酵があり、どんなことでも天与の徳であると楽しむところに希望や夢が存在しています。

私たちのご先祖様たちが、かつてどのような環境下や状況下であっても希望を見失わず福を待ち、夢を実現してきたから今の私たちが生き残っています。その中で特に大切に重んじてきたものこそ、いのり福で居続けることだったのでしょう。

子どもたちにも、そのような先人たちの智慧や遺徳、また伝承されてきた前祝の意味や価値をむかしの田んぼを通して継承していきたいと思います。

祈年祭2

祈年祭について昨日から深めていますが、「とし」は稲のことで「祭」は政を行うことでですが、祈りとは何かということです。

神道の「神祗令義解」には、「謂ふ、祈は猶ほ祷の如し、歳災作らず、時令を順度ならしめむと欲して、即ち神祗官に於て祭る、故に祈年と曰ふ、」と書かれています。ここで祈るのことを「祷」のことだと定義されています。この祷は「禱」のことで、示す辺に寿ですが、寿は「言を祝う」が由来です。祝うは福ですから、福が到来することを意味します。そして古語日本語の「いのる」は「」(斎) + 「のる」(宣る)が語源です。

ここから私が直観するのは、いのちのままでいること。いのちのままに言うことに従うこと、信じるままに生きること、安心して自分の役目を天意に従い全うすることという意味であろうと思います。

なぜ先に祈りからはじまるのかは、自分自身の中にすでに備わっているものを大切にして取り組んでいけば、その結果として顕れたものが幸福になるという智慧を示しているからではないかと私は思います。

そして祝詞も、祝福と言葉の詩からできた語です。先人たちや先祖たちが、同じように取り組んできたことで素晴らしいご縁に導かれた祝福に出会ったこと。同じように福が訪れますよという安心の声を伝承しています。

道に迷いそうなときは、その物事を福に感じられなくなるときです。なんでも福に転じる人は、自分のいのちの声に従うことを自覚し、天命に従い使命を全うすることが祝福そのものになることを体現し続けます。

私たちにとっての祈りは、宇宙自然の道理のままに暮らしていこうとした親祖からの「生き方の伝承」です。四季や四時の循環において、田の神さまが稲を見守り一緒に育てて暮らしを助けてくださっている。私たちはこの日本の風土に守られながら、稲を育てて寿命を永らえていこうとした民族。その民族の生き方が祈りの中に宿っているのです。

祈年祭はその確かな初心を風化しないように、ずっと稲と田と人々によって大切に受け継がれてきました。戦後に、それまでの日本人の精神文化や暮らしの大元が解体されて急速に意識が西洋化していきましたがそれでも親祖の初心が消えることは決してありません。永遠の祈りは、いつも私たちのいのちと一体になって受け継がれています。

引き続き祈年祭を甦生しながら、子どもたちにその意味を伝承していきたいと思います。

大切なことを忘れないDAY 8年目

東日本大震災から今日で8年目を迎えました。あの時の東京で被災した私もあの揺れの大きさや自然の畏怖は忘れることはできません。あの時を思い返すと、まるで昨日のようにその怖さが思い出されます。

新宿の高層ビルの中、周りの高いビルが左右に揺れて今にも折れそうな具合です。これが折れたら間違いなく死ぬだろうとほぼ諦めの状態でテーブルの下に隠れていました。

その後は、電車などすべてが止まっており帰宅するとキッチン周りがぐちゃぐちゃになっていました。この揺れの恐怖でも大変なのに、その後に津波が来たと思うと想像を絶するものです。そしてあの原発のメルトダウンが発生し、空から放射能が降ってくるという人災がやってきました。あの人災が立ち直れないほどの災害で、自然は回復しても人災はなかなか回復することができません。

私たちはすぐにサテライトオフィスを福岡に設け、そこに社員と家族を連れて移動しましたが移動できない人もいました。遠方からできることとしたら物資の調達やお手紙などで励ましくらいでした。

あの体験がなければ、私たちは今のようにむかしの田んぼでお米を作ったりすることもなく、自然農法や発酵技術を学ぶこともなく、むかしの暮らしとして古民家の甦生や、伝統の継承なども学ぶこともなかったと思うと私たちは今でもあのことを忘れてはないと感じるのです。

毎年この日は、会社で「大切なことを忘れないDAY」として、日本人の生き方や道徳、そして何を優先するべきか、日本人とは何かということを学び合います。これは子どもたちが将来、同じような体験をするとき先人をはじめ私たちがどのようにそれを受け止めて乗り越えてきたか、そしてその禍いを転じてどう福にしてきたかというモデルを示すための実践の一つです。

いつの日も、いつの時代も、最期まで遺り、子孫の徳になっていくのは先人たちの譲り遺した想いと生き方、生き様です。

子どもの志事とは何か、私たちの本業は何か、忘れない日にしたいと思います。

刷り込みに気づく

物事には見方というものがあります。その人がどのような見方をしているか、それは生き方が左右していることがわかります。あるものを見る人と、ないものばかりを見る人では生き方が異なります。

そして見方や生き方が異なるから判断もまたその通りになってきます。例えば、ないものばかりを見る人は常に物事の悪い方やマイナスな方ばかりに意識を持っています。何か事があればよくなかった方、できなかった方、ダメだった方に意識を持つようになります。すると、改善という言葉に対してもマイナスをプラスにする方法のことだと思い込んでしまうのです。

その逆に、あるものばかりを見る人は常に物事の善い方やプラスの方を意識します。何か事があれば楽観的にこのままでいい、ちょうどいい、うまくいっていると感じポジティブな意識を持つようになります。すると改善という言葉は、プラスがもっと良くなる、さらにいいことになると思い込んでいきます。

これは意識の差が出ていることは明白です。人間、足るを知る意識の人の方が仕合せになるからです。ないものねだりばかりをしては不平不満をして生きていては笑顔もなくなりますし、周囲の人間関係も良好に築けません。

そしてこの意識の差は一生を左右していきます。生き方を変えるというのは、この物事の見方を変えることをいいます。自分の脳の癖や、思考のパターンを変革していくことは行動を変えて習慣を換えていくしかありません。

この習慣を換えていくために人は、敢えて今までの自分と決別した行動をとったり、勇気を出して今までのものを手放したりすることで成長していきます。ありたい自分を創り上げていくことは、自分自身を新たに創造していくことです。それは新しい自分に出会うことであり、自分自身を自分で育てていく主人になることです。

自分の意識を改変していくということを意識するには、自分自身の意識が人生を左右していることに気づくのが先です。周りばかりを見るのではなく、自分の物事の見方がどうなっているのかを自らがメンテナンスしていくのが何よりも優先だからです。

自己改革というのは、価値観の改革であり世界観の改革です。思い通りにいかないときこそ、感情が揺さぶられ苦しい時こそ、一度、自分自身の意識がどうなっているのかを見つめるチャンスだと思うことのように思います。

変わっていく面白さ、刷り込みは取り払えることを子どもたちに背中で見せていきたいと思います。

 

初心を忘れるな

人間にはそれぞれに得意分野というものがあります。自分が得意なものを周囲に知ってもらってそれを活かしてもらえることは仕合せなことです。同じように周りの人たちにもそれぞれに得意分野というものがあります。

その得意分野を持ち合いながら助け合えることで人はみんなで大きなことを実現できるように思います。この得意は、特異でもあり、それぞれの異なりを活かすという寛容さや共感が必要です。

もしも自分のやり方ばかりが正しいと固執し他を認めなければすぐにギクシャクしてしまいます。お互いを認め合うためには、まず自分自身を認め、同様に他を認めるというプロセスが必要です。

自分らしさや自分のままであること、そのうえで同じように周りもそのように自由に認めていくこと。さらにお互いに自由なままで共通の理念や目的のために折り合いをつけながら助け合うこと。これらは人間としてのスキルになってきます。この人間スキルが、人間学であり修養でもあります。

この人間を磨いていく時期は、思いどおりにもならず苦しいかもしれません。しかしその苦しい時期は、自分が人間を磨いている時期だとし、慎独しながら自分の心に耳を傾け、本来の動機はどうだったかと初心を振り返り、何のため誰のためにやっていたのかと理念に立ち返るしかありません。

人は暗闇の中で灯台を見失えば、どうしても焦りや不安から感情に呑み込まれてしまいます。そのような時こそ、自分の心の中にある灯台を見出し、心の灯台を信じて暗闇を歩んでいくしかありません。

仏陀に、自灯明、法灯明という言葉があります。これは「自らを灯明とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ」といいます。

大事なのは、他人に依拠してはならぬと。自らを灯明にせよということです。

自分自身の初心を忘れるなという言葉は、この言葉と同じ意味です。引き続き、子どもたちのために自らの灯明を照らし続けていきたいと思います。