21世紀型日本民家

昨年、私たちの聴福庵に訪れた方が自宅を聴福庵と同じように落ち着いた空間、穏やかで和む場にしたいと熱望されました。その際は、古民家の年輪や時は刻まれたものでそれを磨き直してできたこの独特の場、間、和は難しいとお断りしました。

しかし、ぜひ寝室の和室だけは健康を維持するためにも本物の和で休みたいと仰っていたので和室だけはとお手伝いすることにしました。具体的には、和室に備長炭を500キロ入れ、水晶の欠片を50キロ、また伝統の七島イの畳を古来からの形式で丁寧に畳職人が仕上げたものを入れ、壁紙には手漉きの秋月和紙と襖には京都にある伝統唐紙で若松紋様と枝桜紋様を仕立てました。また装飾には、菊炭を50キロほど、唐紙の行燈をはじめ、照明も創作の作家のものにしています。

それが終わり、これでひと段落と安心していたらどうしてもリビングやトイレにカビ臭さがあり室内の空気が悪いので何とかできないかと相談を受けました。和室をそれまでのものと変えてからはよく眠れるようになったと大変感謝され、どうしても健康のためにもっとも過ごす場の空気を改善したいと依頼されました。

そこから悩んだ末に、居心地の善い空間として本物の伝統の素材によって改修することを決めてこの一か月取り組んできました。

具体的には、壁面はすべて伝統の漆喰を塗り、トイレには土佐漆喰、その天井には珪藻土を施しました。また床の間風の場所には、その土地の伝統の土を用いた割れ壁塗り。主な柱をはじめ、梁には古色の弁柄、階段や扉には渋墨を塗り、そのほかの床をはじめ様々な建具は場所には柿渋で仕上げました。

また窓のすべてに障子を施し、和紙は手漉きの秋月和紙を、室内の床下には大量の竹炭、そして空気の循環を計算し空調の配置とファンを取り付けました。修繕が終わり、確認すると明らかに室内全体の空気が異なり、空気が澄み渡っていました。

さらに、落ち着いた空間というニーズに対応するため日本の伝統職人が一つ一つ丁寧に手掛けたビンテージの家具を揃えていきました。具体的には、明治頃の七段箪笥に武家箪笥、欅のキッチンテーブルに大きな八角火鉢テーブル、本漆塗りのローテーブルをはじめ60年前の手作りのソファーや、七島イの円座、岐阜美濃和紙の照明や藍染の筒描きなどです。

そして室礼には、古伊万里の花器や室町時代の古備前の壺をはじめ、古く懐かしいもので飾りました。夜は灯りを楽しめるようにと、和ろうそくや行燈などを設置し、光の加減には特にこだわりました。

この後は、トイレと洗面所の陶器を有田焼で仕上げて庭をデザインすれば終了です。この私のデザインを見た方はこれを和モダンや古民家風といいますが、私は和モダンとは思っていません。日本人本来の伝統を守り美しい暮らしのままに家屋を甦生するのは和風ではないし古民家風ではないのです。

21世紀型の日本民家はかくあるべきという思いから、このように仕上げたのです。時代が変わっても、変えていいものと変えてはならないものがあります。それが正しく継承してこそ、本物がわかるということです。

もしも次回の修繕の依頼があるのなら、今度は和で洋を丸ごと呑み込んでみたいものです。子どもたちに遺していきたい伝統や思い、その生き方を一つ一つ形にして智慧を譲り渡していきたいと思います。

おもてなしの本質

昨日は、大阪の藤井寺にある佐藤禎三さんのひな祭りを拝見するご縁がありました。3月3日をはさむ土日含む数日間、屋敷内全部を自由に開放しいろいろなお雛様をお披露目してくださいます。

すでに30年間、毎年これを自費で実施されてこられたことも驚くことながら4日間で約4000人ほどの来訪者の方々にお茶やお菓子も無料で提供されておられます。

「おもてなしの本質」とは何か、まさに生き方から深く学び直させていただきました。

佐藤禎三さんは、ご自分の数寄を純粋に徹底して極められておられまさに当代一流の数寄者であり遊び心に満ちた方でおられました。すべての暮らしの古道具も佐藤禎三さんの手にかかれば甦り喜びます。そしてすべての人形や陶器などの「もののいのち」もまるで披露宴のときように活き活きと輝きます。美しいものが穏やかに和して独特の空間を創造し場が落ち着いています。

そしてその喜ばせよう、喜ぼうとする純粋な想いとおもてなしの室礼は人々を深く感動させます。その物事の意味や本質を見極め、それを深く咀嚼し理解したものを自己のいのちを輝かせるように遊んでいくということが如何に美しいか、日本の精神文化や和の心の意味を改めて学び直させていただくばかりです。

また最後に、お抹茶と和菓子をいただき「ご馳走様でした」と感謝を込めて来訪者は笑顔で帰られます。ここにもお祀りされている韋駄天尊のように礼を盡されます。この韋駄天はもともとはバラモン教の神さまでしたが仏教に取り入れられて仏法や仏教徒を守る神様です。

「韋駄天」の由来と伝承はお釈迦さまがお亡くなりになった後、お釈迦さまの歯を盗んだ盗人を駿足で追いかけて捕まえ歯を取り戻したことから足が速い人のこといいます。

そして日本の礼儀の一つ「ごちそうさまでした」は漢字でご「馳走」さまであり「韋駄天」が駆け巡って食物を集めたことに起因します。ここからおもてなしをする「美味しい料理」という意味に転じ、その準備をしていただいたことに感謝する言葉になったといいます。

ご準備していただいたのを楽しみ喜ばれ恩着せることも一切なく、そこには自他の喜びのみがある。すべてのものが活き活きと喜ぶ価値観に触れることは、美しい暮らしそのものに通じています。

この学びを子どもたちの未来へ託せるよう、自己精進を味わって私も数寄を愉しみたいと思います。

恥を知る~日本人の精神文化~

昨日は鹿児島県知覧にある富屋旅館で理念研修を行いました。ここの旅館は、特攻の母として多くの方々に親しまれた鳥濱トメさんが開いた富屋食堂がそのまま時代の変遷を経て継承されている場所です。

日本人なら一度は訪れたい場所としてここの富屋旅館があります。なぜ日本人ならというのかといえば、ここには日本人の精神文化の源流が「場・間・和」の教え(知恵)が旅館と共に息づいているからです。

私たちはつい当たり前のことを忘れてしまいますが、私たちの血肉には先祖代々から伝承されてきた生き方というものがあります。この生き方とは、日本人の特徴でもあり日本人の人格でもあります。

例えば、震災の時など日本国民が冷静さや威厳を保って対応している様子を世界の各地で称賛されました。どのような状況下であっても日本人が略奪や暴動を起こさず、相互に助け合っている和の姿に世界が感動するのです。

今ではあまり日本人のことを話すと右だとか宗教だとか、色々と批判されたりします。しかし本来は自分たちのルーツがどのようなもので何を大切に生きてきたかということが誇りであり、みんなそれを大切にしているから自信をもって自分の国の素晴らしさや美点をもって世界の善きものと調和し尊重し合って共存共栄していくことができるのです。

そんな当たり前のことを思い出さないくらい、日本人は誇りを失ってしまったように私は思います。日本人として美しいと感じる生き方や、素晴らしいと思える精神性は人間として私たちがどのようにこれまで成長してきたかといった発達の真実であり努力の結晶なのです。

その一つには、「武士道」というものがあります。私も祖父や父から「恥を知る」という教えを伝承されました。これは江戸中期の侍の本「葉隠」の中で「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉に通じます。これは、生き方として死んだ身になっていれば、恥も間違いもなく正しく生きることができるという意味で解釈されます。

いつ死んでも恥じないような生き方をせよ、つまりは自分に対して正直に、素直に、そして後悔がなく立派な人間になりなさいということにつながっています。新渡戸稲造はこの武士道の源流は孔子のいう仁義そのものであるといいます。

日本人は元来、その精神文化の中にこの仁義というものをもっています。みんなが己を律し、己に打ち克ち、お互いに尊重し合って想い合って生きていく民族性があることは世界が認めているのです。

そしてこれは親から子へ、先祖から子孫へと代々受け継がれてきた民族の智慧の結晶り、親祖からの初心なのです。初心を忘れてしまえば私たちはあらゆるものに流されてしまいます。そうならないように、むかしはみんなで恥を重んじ、恥ずかしくない生き方をみんなで守ってきたのです。

災害や震災のとき、私たちに日本人がなぜお互いに律し合い想い合うのが世界に称賛されるのか。それはこの恥を知る心をみんなで守ってきたからなのです。

道徳というものは、徳の道とかくように代々徳が積まれてきた道のことです。日本人の徳とはこの恥の精神であり、それを代々の先人たちが守ってきたことで私たちは何を優先して生きてきたかを知り、どのような初心を持ち続けるかということを学ぶ学問なのです。

子どもたちが、日本人として大切なことを忘れないように引き続き私にできる使命を私の身の丈でこれからも全うしていきたいと思います。

最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。

生き方を見守る仕事

人間の脳は、自分の見たいように変換し自分の都合の良いように現実を書き換えていく力を持っています。そのため、刷り込みなどの洗脳的な教育を受けるとそれが変えることができない現実であると認識してしまい自分に制限をかけてしまうことがあります。

自分の制限を自分にかけるということがどういうことかというと、いくら目の前に手が届くところに取りたい物が置いてあったとしてもどうしても心理的に取ることができないのです。その時の脳はいくらでも理由をつけて、その物を取ってはならないと制限をかけます。知識というものは脳が司るため、その知識を知っていることによってできないと思い込むことでそれが選択肢からも外れてしまうのです。

思い込みや偏見を作り出すこの脳とどのように付き合っていくか、これはこれからの時代の重要な要素になっていくように思います。なぜなら脳の状態が現実世界に反映されていき仮想の世界で生きていく人が増えていくからです。これだけ日々の情報が氾濫していけば脳の情報処理も追いつかなくなっていきます。人間はコンピューターではありませんから、脳で処理する以前に心が感知し感情で情報を調和していく作業が必要です。

現在、メンタルコーチングなどが必要になってきたのは多様性がさらに加速度的に発展していくこの時代のおいてこの感情の調和が追い付かない人が増えてきたからでもあります。幼少期から自分に与えた環境が性格に影響を及ぼしてきましたが、その性格を変えなければならないときにサポートが必要になってきたのです。

自分ではわからないことを導いてくれたり、トレーニングを手伝ってくれたり、適切なアドバイスで客観視を手伝ってくれたり、自己分析をしてくれたり、まさにコーチングが必要なのです。

生き方を転換するというのは、自分というものを見つめ直し新しい自分、本来の自分を取り戻し人格を磨き直すということなのでしょう。

自分の生き方と向き合い生き方を変えた人ほど、その人の取り組んできた過程は同様に生き方を変えたいと思っている人たちの勇気や自信になっていきます。メンターとも言いますが、このメンタルをコーチングする存在によって、自分自身の刷り込みを知り、自分自身の潜在意識を知り、自分自身の脳の癖や見え方を知り、自分自身の意識を知り、本当の自分自身という存在を確認できるのです。

一人で悩む必要はなく、同じように生き方を変えてきた人たちのアドバイスをもらいそれを素直に聴いて自分と正対していくことで歪みを矯正していくことはできます。人は後天的にも脳との折り合いをつけ、性格をいつからでも変えていくことはできるのです。

子どもたちが大人になる過程で刷り込まれた歪んだ様々な認識を、取り払い仕合せに生き方を変えていけるように見守る学びを深めていきたいと思います。

人生のスキル

2000年に労働に関する計量分析手法を発展させた実績でノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授のジェームズ・J・ヘックマン氏がいます。この方は、「5歳までの教育が人の一生を左右する」という言葉を残しています。

これはヘッグマン氏が研究した「ペリー就学前プロジェクト」「アベセダリアンプロジェクト」という2つの研究に因るものです。具体的には、恵まれない家庭の子どもたちを対象に2つのグループに分けて幼少期より成人するまでの期間に追跡調査を行い幼少期の環境を実質的に改善する事実を導き出すという研究です。ここでヘッグマン氏は5歳までに与えた教育がその後の人生に大きな影響を与えることと、5歳までに重要なのはIQに代表される認知能力だけでなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力がかなり重要になってくることに気づいたのです。

つまりは、5歳までにどのような教育環境があったか、その上でその子がどのような非認知能力を磨いたかということが一生を左右すると言及したのです。この非認知能力とは人格形成で得られる性格スキルのことです。具体的にはこの研究から下記の性格スキルに絞り込みました。

■粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
■好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
■明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的。
■思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性。
■感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定。
となっています。これを現代の社会人でいえばいくら資格を持っていて実務能力だけが高くてもその知識や技能を活かしつつ、「他者と協力して一つの仕事を作り上げていく」というような協調性・社会性などが必要です。この単に知識や能力や資格などでいくら優秀だと評価されていたとしても、実際に仕事をしていていつも怒ってばかりや、いつもイライラしていたり、周りを威圧したり評価したり、文句を言ったり批判したりしていたらいくら優秀でもそれではみんな嫌がって仕事を創り上げていくことはできません。
仕事は、すべて性格があってのものです。人への気配りや、場を明るくしたり、目的を握り、視野を広げ、前向きに考え、みんなが快適であるように自分を使っていくなど、実際の実務以外にその器のようなものがあってみんなの協力を引き出していくのです。先ほどの性格スキルは、その非認知能力のことを言うのです。
大人になったとき、その力が存分に発揮されるのならその人は仕合せに豊かに、仲間と一緒に成長して成功も得る可能性が高いというのは自明の理です。
この非認知能力を伸ばすには、心の教育が必要だといいます。
心はどのように育つのか、それを向き合ってみるとわかります。様々な体験を通して振り返りその体験の意味を学び直したり、自分自身の性格をよりよく磨くために考え方を転じたり、新しい習慣や笑顔、そして周囲に気楽な雰囲気を与える人になろうと努めたりと、つまりは「生き方」をどうするかを決めるという学問をするということです。
そしてこれは教えられるものではなく、周囲の大人の生き方がもっとも影響を子どもに与えることはだれでもわかります。だからこそ私たちの会社は、子ども第一義の理念を実践すべく、生き方と働き方を分けないで取り組んでいくのです。これが人生のスキルなのです。
これは5歳までにできなかったから無理ではありません、人の一生は長く影響が大きかった5歳までが一区切りですが、それでも生き方を変えた大人の存在は人類全体に多大な影響を及ぼすのです。
引き続き何のために社業に取り組むのかを追求しながら、かんながらの道を切り拓いていきたいと思います。

そのものの本質を知る

私たちが当たり前に認識しているものを再認識する作業というものは、そのものの本質を理解するのにとても役立つものです。私はすぐに由来や経緯、その理由などを深めるタイプのようで日々に新しい発見がたくさんあります。

人間は情報量が一定量を超えて好奇心が失われていくと、その物事や現象が単なる知識が増えるのみになってしまいます。その知識を体験に昇華したり、それをさらに好奇心を持って探求するにはその事象や意味を深掘っていくのがもっとも効果があるように思います。

例えば、銀行というものはいつからはじまりどのような由来だったかと深めてみます。すると、日本での銀行の命名は明治時代に英語のBANKを日本語に翻訳する際に、お金を表す「金」や「銀」と、中国でお店を表す「行」という字をあわせて、「金行」や「銀行」という言葉が考えられ語呂の良さから「銀行」が選ばれたとあります。

またBANKの由来は、これは12世紀頃、商業のさかんだった北イタリアの両替商が使っていた「長机・腰掛(BANCO)」が語源だそうです。それに世界最初の銀行は、紀元前3000年前バビロニア王朝がはじまりと言われたり、その後は両替を中心にお金の貸し付けが行われ、日本で現在でも有名な銀行である三井住友などの大手銀行は江戸時代からの両替商だったことなどもわかってきます。

金融という字も、由来を調べれば「融」は融ける(とける)という字ですがこれは「鍋で煮込む」ことを表す漢字で鍋から出る蒸気を「虫」に見立てます。そしてこの融とお金を合わせて「お金を自由にする、お金を自由に通す」という意味になっているといいます。

そしてこの金融の歴史を調べていけば、「お金」というもののルーツを辿ることになります。すると、人類においてこのお金が生まれた歴史、物々交換から次第に現在の仮想通貨などまで辿ると何が共通していて何が変わっていくのかも観えてきます。

人類の意識として、大前提にある「お金」がどうなっているのか。そこを突き詰めていけば、人間がどのようにお金を発明してどの道具がどのように人類に影響を与えているのかがわかります。

一つのことを深めれば、そこから人類にたどり着く。このように何でも興味や好奇心をもって歩んでいけば、そもそもの由来やルーツを知るきっかけになります。今を知るには、今までどうだったのかを知ることが今を学ぶもっとも大切な方法です。

子どもたちの今を伝承していくためにも、その物事の本質を学び直していきたいと思います。

愛のある環境

人間はそれぞれに自分のやりたいことをやろうとするものです。それを認めてもらえれば人は自信を持ち、認めてもらえなければ不安になるものです。自分自身が自分を認める人は、素のままの自分であることができ主体性は発揮されます。しかし素の自分を隠したり制限をかける人は他人に合わせて自分の軸を歪めていきますから自分らしくいることができなくなります。

自分というものとの付き合い方を見直すことは、自分自身を見つめる作業であり、仕合せに生きるための原点に気づく大切な機会になります。

人間は与えられた環境や遺伝子によって観念が仕上がっていくものです。その観念がマインドセットされると、その観念そのものに自分というものが出来上がってきます。脳は、自分の観念が自分だと思い込むと自分というものを演じ始めます。

本来、人間には心があり心はありのままであるがままを感じます。そのまま心が感じたままで生きていければいいのですが、脳が観念によって真実を歪めるため様々な感情が現れてきます。その一つの感情にトラウマというものがあります。このトラウマは、過去の何かの出来事による傷がついたものを脳の観念で認識し似たようなことが起きようとすると自分の心が傷つかないように別の現象に挿げ替えようとするのです。

つまりは根底の観念の方を操作し、起きる出来事を真実とは別のものに置き換えようとします。例えば、無理をして食べると不味いことになるという観念が大前提にあれば食わず嫌いになっていくという具合です。食べてみなければわからないものも、きっと不味いと思い込んでいますから食べることはありません。そしてたとえ食べたとしてもきっと不味いと思い込んでいますから美味しいものであっても脳が不味くしてしまうのです。

このように思い込みや刷り込みによって前提になっている観念を操作していれば、現実や真実が正しく感知できませんから感情も次第に自然なものではなくなっていきます。

感情とは、ありのままの現状をあるがままに感じた時に調和して自分の中に融解していくものです。そうやって仕合せを味わい、喜怒哀楽の体験を積むから人生が丸ごと調和して仕合せの境地を得ています。ここが歪むと、感情が歪みますからありのままの現状を感情が調和できませんから、苦しくなり不幸や孤独に苛まれるのです。

人間は、そうやって自分自身が脳や観念で心をイジメ続けると本当の自分が辛くなっていきます。自罰的にイジメているからこそ他人に今度は意地悪な人になっていきます。意地悪な人ばかり増えてしまえば社会はとても世知辛く、居心地の悪いものになってしまいます。

イジメをなくすためには、自分イジメをやめさせるしかありません。自分をイジメることがなくなれば意地悪な人もいなくなります。そのためには、もっと大人たちが寛容な社會を子どもたちに築いていき許し合い認め合う愛のある環境を創造し譲っていく必要を感じます。

子どもたちが安心して暮らして、健やかに素のままの自分で許される仕合せに充たされるように自分自身の意識をさらに解放していきたいと思います。

正しいよりも楽しいを~執着を手放すこと~

人は何かに執着してしまうと、なかなかそれを手放すことができません。ようやく手に入れたもの、もしくは手に入れたいと思うものが次第に執着を強くしていきます。執着には色々とありますが、自分が得たいと思っているものが執着になるのは間違いありません。執着に囚われれば、どうすればいいかとばかりに悩み苦しみます。

本来は、楽しかったものも執着するから苦しいものになっていきます。得られない苦しみ、思い通りにならない苦しみが余計に執着を強くしていくのです。その執着の本質は我執や我欲であり、強くなればなるほど苦しみも比例して強くなるのです。

この我執や我欲は、自分のままでいられないことに起因するように思います。本来の自然体の自分、言い換えれば劣等感や罪悪感、自責感などがない状態、いわば幼い子どものままであれば執着はありません。ありのままの自分、あるがままの自分であることができるのならそれは何でも手放している状態です。

幼い子どもが、次の遊びに行くとき、それまで持っていたものをいともたやすく手放して次の遊びに移っていきます。好奇心旺盛で失う不安や怖さよりも、楽しい方を選択していくのです。手放すというのは常に楽しくあろうとする生き方を実践していくことのように私は思います。

楽しくないことが多いのは我執や執着が多いからです。我執や執着も時としては、自分の遣り甲斐や生きがいの原動力にもなりますがそれは楽しくあることが大前提であるときです。ただ苦しいのであれば、それは完全に執着に呑まれている状態ということです。

もっと気楽に、もっと楽しく、硬く握りしめて緊張状態を維持するよりもリラックスをし思い通りにならないことを面白がり、天にお任せしたら信じて今の境地を味わおうとすることで手放す訓練ができるように思います。

苦しいから楽になりたいという楽ではなく、楽な状態でいるから楽しくなるという工夫が自分を自然の姿に回帰させていくようにも思います。こうでなければならないや、こうあらねばならないといった正論や自己正当を少し休めてこのままでいい、きっとこれでいいと「正しいよりも楽しい」を選択していけば執着はいつか手放すことができると思います。

子どもたちの生き方から学び直し、楽しい方を選んでいきたいと思います。

世界を創る

人間は、自分の見ている世界が常識になってくればくるほど他人の話を素直に聴くことができなくなるように思います。周りから説得されたり、周りを説得したりしているうちに自分の世界観のようなものが確立されてしまいそれが執着になってしまうからです。

執着になれば常識はますます固定観念になりますから、本当の世界や現実を正しく見ていく力が失われていきます。自分の観念に縛られて固執してしまえば、自分が正しい、周りが間違っているという思い込みに苛まれるものです。

本来、世界は無数無限に存在していて一人ひとりに多種多様な世界が広がっています。もしも相手の目で世界を観れば、同じようには観えてはなく、別のものに観えているのです。だからこそ、違いが出てくるのであり認識のズレも産まれます。一つの価値観や世界観だけで統一できるものなどはなく、それぞれの世界を調和してみんなで目指す世界に近づけていくのが人間の性のように思います。

そのためには、自分以外の考えがどうなっているのかをもっと真剣に聴く必要があるように思います。この人はこう考えるのか、この人はこのように見えるのか、こんな見方があるのか、どんな心の持ち方をしているのかだろうかと自分自身が素直に世界に心を開いて学んでいくのです。

そうやっていろいろな考え方を知れば知るほど、多種多様な人がいることがとても豊かであることを知り、現実も色々な人がいるからこそ助け合って解決していけるのだという事実に気づくからです。

人間はこんな世界がいいとビジョンやイメージを持つ人に共感し、賛同していくものです。その人は常識ではないことを言いますが、新しい常識にするために自分の理想を世の中の現実世界に訴求していきます。私の友人をはじめ、恩師みんなそうやって自分のビジョンを世界に発信しています。しかしその世界以外認めないとなってしまうと、そもそもの調和の社會が遠ざかってしまいます。だからこそ、色々な考え方があるけれど、こうありたいという共感をみんなと分かち合っていくのです。

世界は共感によって仕上がっていきます。

共感するものをどう世の中で生み出していくかは、その人の観ている世界に真実や本質があり、それが人類共通の理想とつながっているからです。仏陀も、孔子も、キリストであってもみんなそこに向き合ってきました。

時代は変化の真っただ中ですか、古今を貫いて存在する真実を学び直して心を磨いていきたいと思います。