発達障碍が当たり前

世の中には生まれつき特殊能力を持った人が存在しています。肉体的な能力であれば、それが傍から見ても特別だとわかりますが内面的な能力であれば外からわからないので一般人と同じように思えてしまうものです。

また本人もその能力のことを他人に話さなければ自分が持っている能力はみんな持っていると思っていますから当たり前にその能力を使っては変な人だと笑われたりするものです。

しかしあるとき、もしもその能力に気づいたならどんな気持ちになるだろうかと思うのです。世界の中で他の人にはないものを持っていたら、かえって孤独や不安にならないだろうかとも思います。そしてそれを他人に伝えることができるのだろうかとも思います。

発達障碍の中には、様々な能力を持っている人たちがいます。特徴として集中力が人並み外れていたり、空想力や想像力がずば抜けていたりと、明らかに一般的な平均の能力を凌駕している人がいます。しかしその反面、一般的な能力が他の人たちより劣っていたり、もしくはその能力自体をもっていないということもあります。

するとイジメの対象になったり、気味悪がられたり、仲間外れにされたりもするものです。できる限り、ひた隠しにして生きていてもいつかは自分で普通ではないことに気づきますから孤独で苦しむこともあるように思います。

本来は、人類にはそれぞれに天から与えられた特殊な能力を持っていますからそのユニークさを発揮して社会を豊かにしていくことが本筋であったはずです。特定の教育によって、みんな同じでなければならないと平均値を目指し平均を押し付けていたら特殊能力の人たちまで潰してしまいます。個性を活かす教育とは、それぞれの違いを尊重してそれをみんなで活かす社會を目指す教育です。

ひとりひとりがみんな普通になることを目指すのではなく、一人一人がみんな変でもいいとそのままの姿を認める環境を用意して関係を見守っていくことのように思います。

違っててもいいと言える温かな雰囲気や、ユニークさをみんながたたえ合うような明るい場が一人一人の個性を尊重する環境になっていくと思います。そのためにも発達障碍が当たり前な社會になることが個性を認めるための大前提になる必要があるのです。

体験を実践に換えて、子どもたちのために社風を創造していきたいと思います。

情報共有の本質

組織で協力しやすい職場環境を築くのに情報共有というものがあります。これは単に、自分の知っている情報を他と共有するという意味もありますが、他を巻き込んで一緒に情報を掘り下げていくという意味もあります。

この情報とは、日本で造られた造語で江戸時代には存在しなかった言葉です。実際には、軍隊の敵情報告という言葉の真ん中の2語を抜粋し「情報」と使ったことから生まれたそうです。

ではそれまではどのような言葉が、代わりに存在していたのか。

一説によれば現在の情報量は、平安時代の人の一生分、江戸時代の人の一年分であるとも言われます。つまり、むかしの人はそれだけ情報が少ない中で問題もなく生活をしてきたということです。知らなくてもいいことは知らなくても済む社會があったということです。

現代は、日々に猛烈な量の情報が黙っていても入ってきますから無人島や山奥で生活しない限りは情報が追いかけてくるものです。世界の隅っこで起きた事件ですら、翌日には世界中の人たちが知っているという事実。江戸時代は、飛脚で何日もかけて短い文章を一部の人たちの間で行われていたのを見ると如何に世の中が変わってしまったかも観えてくるものです。

むかしは少ない情報量であっても、それを察知するだけの信頼関係がありました。言い方を換えるのなら、心が通じ合っていたとも言えます。情報過多の時代は、心を通じ合わせるというコミュニケーションが頭で理解することばかりになり少なくなってきたように思います。

現代のように複雑になってくればくるほどコミュニケーションも複雑になります。どのように心を通じ合わせていくかは、それぞれの意識にかかっています。意識を合わせていくというのは心を通わせ合う情報共有をするということです。

子どもたちが安心して協力し合う社会になっていくように今の私たちが道筋をつけていきたいと思います。

 

成長し合う組織

道具にはそれぞれに一長一短があるように、人間にもそれぞれに一長一短というものがあります。他にも一利一害、 一失一得、一得一失のように、完ぺきなものなどは存在しないということです。

如何にいいところを伸ばし、わるいところをカバーしていくか。そのためには、それぞれにその状態を維持していくために分を弁える謙虚さが必要であるように思います。自分の能力に過信しては、他を裁くような価値観をもっていたら自分ばかりが完璧だと信じ込んでしまい、何でも自分がやった方がいいような感覚になってしまいます。それが過信を生み傲慢さを発展させギスギスした関係を増長させていきます。

日本人は特に学校などで真面目で我慢して一生懸命にやることを美徳として教え込まれてきていますから、何でも無理してでも自分でやることを優先しがちです。そのうち仕事がパンクして自分がダウンしてもそれでも無理して頑張ればという思考に陥ることもあります。そこから一人では限界があることを学び、信頼や協力の大切さを知ります。

自分の得意なところを他の人に任せれば、その人はその得意なところをその人から学べるメリットが出てきます。また自分にしかできないことは周りの人たちのカバーができます。みんなで取り組むということは、自分の得意なことを周りの人に享受し自分の苦手なところは周りに得意な人を見つける手立てにもなるのです。

ひとりで完璧な能力を持つことを目指せば、できる人になれて評価されますができない人の気持ちがわからなくなっていきます。本来はできない頃の気持ちを忘れてはいけないはずなのに、できる仕事しかしなければできないことなどは思い出すこともありません。

それが成長の限界をつくり、自分の立場や能力に固執しているうちにチームワークや時代の変化についていけなくなっていくのかもしれません。自分にできるようになって得意になったのならすぐに他の人に仕事を任せてできるようにしていくことをみんなでやっていたら、全員がみんなである一定のクオリティの仕事ができるようになります。

協力して働くというのは、みんなができるようになるということです。そしてみんなができるようになるというのは、得意なところがさらに引き出されチームとしての最高パフォーマンスが上がるということです。

成長し合う組織、成長し合う関係が続くというのは仕合せな関係です。

引き続き、子どもたちに譲り遺したい関係を創造するために挑戦を続けていきたいと思います。

 

世界の広さ

はじめて海外に留学した時に、世界では価値観が異なっているのを感じて自分の知らない世界を認識したことを覚えています。ある国の常識はある国では非常識になり、今まで正しいと信じ込んでいたことが如何に狭い世界だけのものであったかを知るのです。

正論ばかりを述べていた自分がその時は、実は正しいことではなかったかもしれないと知り、「郷に入っては郷に従え」の意味を痛感したものです。この諺は元をたどると中国の古典、「礼記」の 「入竟而問禁。入國而問俗。」にあるそうです。これを意訳すれば 「国境を越えたらまず国で禁止されていることを尋ねなさい。そして別の国に入ったらその国の慣習や風俗を最初に尋ねなさい」ということです。

自分の知らない国にはその国特有の文化や価値観があります。長い時間をかけて、その国の風土や歴史がその国の人々の暮らしの価値観を醸成してきたのです。自分の当たり前はその国では通用せず、常に自分がその国の価値観に合わせて変化させていく必要が出てきます。

相手を尊重するというのは、この価値観の受容に似ています。相手の言っていることを一理あるとして、その人の価値観を学び自分もその価値観を体験してみる。その上で自分の価値観もまた理解してもらい折り合いをつけていく。世界というのは、それぞれの人たちの中にあるものですからいくら同じ地球に住んでいたとしても価値観を通した世界は人の数だけ多種多様に存在しているのです。

そして私もまたこの留学を通して、自分の価値観でビジネスを展開していくことを決めたように思います。それぞれに価値観が異なってもいいのなら、自分の世界観を世界の価値観の中で打ち出していいと感じたからです。

私たちの価値観は子ども第一義の理念にそって、もしも自分が子どもだったら、そして未来の子どもたちにどんなものが譲れ何を片付けておくかと考え抜けば新しい価値観が出てきます。人類は、それぞれに問題意識やそれぞれの使命があり、一人一人が突き詰めて一つの真理に辿り着きます。そのプロセスで得た気づきを、周りの人たちと学び合い共有しながらまた混沌複雑な中から自分なりの答えを導き出して発信していくのです。

世界はこのようにできていますから、新しい世界は新しい価値観と共に変わっていくのです。人生の大事な局面において、自分の価値観をしっかりと持って歩んでいくことが道につながっていきます。

道に入るには、それぞれで道を模索する人たちとの出会いによって自分の道を見出し具体的な行動によって道を切り拓くのです。そういう意味ではまだ私は留学中のままなのかもしれません。

はじめての留学は私にとっては、世界観や自分の道に出会うための大切なプロセスだったように思います。今思えば世界の広さとは、その価値観の多様さのことなのでしょう。

広い世界で自分を生きることを子どもたちに伝承していきたいと思います。

いい道具

先日、いい会社やいい人など何が「いい」のかと書きましたがこれにいい道具というものもあるように思います。技術革新というものは、時代と共に何度も訪れますがそのたびにいい道具とは何かと道具を発明し開発する人々は哲学をもってその問いに正対していくように思います。

現在のように、何でも便利になってきてあらゆる道具に囲まれて生活をしていますがその中でいい道具に囲まれているかどうかはまた別物のように思います。

この「いい道具」とは何か、少し深めてみようと思います。

そもそもこの「いい」というものは、誰かにとってのみ都合がいいものである「いい」というものではありません。その「いい」になればその人はいいものでも他の誰かにとってはよくないものになっていきます。一つの「いい」だけに固執してそればかりをしていけばすぐに全体のバランスが崩れて悪いものになってしまうものです。

では何が「いい」のか、それは全体が調和するものです。別の言い方では「循環」するものということになります。全体が循環するものは、自然です。この自然に沿っているものが全体のバランスを調和するものですから中立で中庸、つまり「いい」ものであるのは自明の理です。

この「いい」ものは、例えばむかしの道具であれば自然物から創造され、それを使うことで自然を活かし、さらには最後は自然に帰るという循環のサイクルにしっかりと入っています。

古来よりいいものはすべて自然の循環の中にあり、自然の循環から外れてしまうものを悪いものとしているのです。その循環から離れてもしも一時的に、自分のところだけその流れが留まるようにいくら操作してもそのうちそこが澱み腐っていきます。それが天地自然の法理だから何人たりともであってもそれを変えることはできません。それが機械であろうがAIであろうが、無理なものは無理、それが道理というものです。自然の力は偉大ですから私たちの想像を超える天災や自然災害などによりその道理に気づかされます。むかしの人たちは、それを自覚していました。ひょっとするとかつて何度も文明実験を繰り返してその境地に達したのかもしれません。文明と文化の和合はその時代を生きるものたちの使命です。

長くなりましたが自然の循環を毀さないようにすべてのものは働いているのが自然の摂理です。そしてこの自然の摂理に沿ったもの、それを私は「徳」ともいいますがこれが循環することによって世の中が他と支え合い共生しているのです。

いい道具を創る人は、いい人が使う道具を造る必要があります。いい人といい道具は、自然の力を引き出してより徳を活性化させ循環を促進していきます。

子どもたちに「いい世の中」を譲り渡していけるように今、やるべきことに専念していきたいと思います。

自然の道~シンプルにする~

物事をシンプルにしていくことは、現代のような複雑な世の中ではとても重要なことのように思います。このシンプルさは、物事を本質的にするということでもありますがそれとは別に心や思想のシンプルさというものがあるように思います。物と心を一体化する中で如何にシンプルにしていくか、そこに物事を突き詰めていき自分を磨く面白さがあるように思うのです。

このシンプルさというものは、日本語では素直さと言ってもいいかもしれません。物事を素直に受け止める人はいつもシンプルで本質的です。時折、あるがままのことをありのままに観えている人に出会うと尊敬の念がこみあげてきます。

いくら本を読んで知識を蓄えても、どのような智慧に触れたとしても、子どものような純粋な心で透明な澄んだ目で世の中を見て心のままに話ができる人は美しい世の中の原型を持っています。こういう人を自然体の人というのでしょう。

自然体の人になるには、自分自身の心を整理する必要があります。そのためには、自分が何を感じたか、自分がなぜそれをやるのか、自分にとっての意味が何かと、直観を信頼して歩んでいく必要があります。つまり自分に素直になって行動していく必要があるということです。

そうすれば時折、障害や困難、不安や恐怖、他人からの誹謗中傷や非難などもあります。それで常識的に従っていけばまた複雑さは複雑さを呼び、何をしたいのか何をしているのかわからなくなっていくのです。

素直になるというのは、直観を信じるということです。そして直観が分かるのは素直だからです。この素直になるというのは、松下幸之助さんが一生涯かけて修行したとお聴きしたことがありますがまさにその境地になってこそ物事の真実に生きるという自然の道なのでしょう。

自然の道は果てしなく限りない、まさに永遠ですからこの今も素直であるかと自問自答、自反慎独をしながら坦々蕩々と日々を楽しみながら歩んでいくことが人としてこの世に生を受けた私たち人間の道です。

言うは易く実行は思いのほか難しいことですが、だからこそ挑み甲斐がある道で遣り甲斐がある歓びの一生です。日々に一期一会に自然の道を意識しながら、この今に自分を懸けていきたいと思います。

道に迷う

人間は忙しくなると心をおざなりにしていくものです。言い換えれば、現実の速度に心が着いてこれないと心が消えてしまい妄念や妄想ばかりが増えていくものです。この心とは初心のことで、「何のために」ということを思い出せなくなっていくという具合です。

この「何のために」ということがしっかりしている人は、あまり日々の現象に対して道から外れるようなことが少なく実践を着実に積み重ねて本来の目的に向かって歩んでいきます。

しかしこの道に迷いが出てくると、不安や恐怖などが押し寄せて心が落ち着いて行動することができなくなってきます。感情ばかりに左右され、感情に呑まれていたら心は消えて忙しい状態になるからです。心が忙しくならない方法の一つが、そもそも何のためにはじめたのかと常に初心に帰っていくことのように思います。

また道を共に歩んでいる同志や仲間に心を見守ってもらうことも方法の一つです。自分のことを過信せず、いつも命綱を信頼できる人に預けながら崖っぷちを歩んでいくように導いてくれる人に自分の心を委ねながら歩む具合です。この関係は、自分自身との信頼関係の築き方と同じです。自己の調和やバランスもこの信頼関係が結ばれて実現していくように思います。

「何のために」という動機は、すべての根源ですからそれさえ忘れなければ心は自分から離れることはありません。道に迷う時には深呼吸をして、一体何のために自分はこれをやるのかと改めて自分自身を省みて目的を忘れていなかったと思い出せば心は寄り添ってきます。

私の場合は現実的に方向音痴で都会や屋内ではすぐに道に迷います。道に迷うということを自覚していますから、迷ったらすぐに人に聴くようにしています。周りはみんな親切な方ばかりでいつも間違いを指摘してくれます。時折、よくわからない指摘もありますがわからなければまた他の人に聴き直します。まあ、よく間違いますから自覚していることで救われているのかもしれません。

自分が間違っているのではないかと自覚することは、人の話をちゃんと聴いているだろうかと反省することと同じです。自分の解釈で独善的に間違っていないと固執するときほど、大きな間違いをする可能性があります。間違っていないはず、あっているはずとこの「はず」がつくとき、人が自分を過信し傲慢さが膨らんでいくからです。

姿勢として、何か間違っていませんかと人生の答え合わせをし続けて最終的に合っているということが道に生かされたということかもしれません。導師は常に一心一体です。

大切な人が道に迷ったとき、手助けできる距離で見守れるように自分自身を襟を正して精進を地道に続けていきたいと思います。

 

道を怠らない

先日、稲盛和夫氏の言葉で「謙虚は魔除け」という言葉を知りました。これはとても感じ入り、すぐにノートにメモを取りました。確かに、謙虚であるときは不思議と福が集まり好転する循環が発生してきます。しかしこれが傲慢になるとき、ありとあらゆる魔が差し込んでくるものです。

その「魔」とは何か、少し深めてみようと思います。

この「魔」は辞書には、「人を迷わすもの。修行をさまたげ、善事を害する悪神。人間わざでない、不思議な力をもち、悪をなすもの」と書かれています。ブリタニカ国際大百科事典には「古くは摩,磨とも書いたが梁の武帝のとき,魔にしたのが始りといわれる。しかし,武帝以前に魔の字は存在したらしい。魔はサンスクリット語 māraの音写,魔羅の略語で,殺すものという意味。翻訳語に殺者,奪命,悪魔などがあるが,人の生命を奪い,善事を妨げる悪い鬼神をさす。仏教では魔の内観的意味として,煩悩など衆生を悩ますものを魔といい,自己の身心から生じる障礙を内魔,外界から加わる障礙を外魔という。」と紹介されています。

つまりシンプルに言えば、人間修養の妨げになるものであり人間の煩悩のことを言うように思います。人間には誰しも己の中に魔が住んでいるといいます。これを「己心の魔」とも言います。己の中から湧き出てくる魔を如何に払い除いていくかに「福」が関わっているということでしょう。

この己心の魔は、自分自身に宿る煩悩や欲望で仏教では五欲や十悪などと言われますが人それぞれに非常に多くの煩悩が存在します。人間としてどう生きていくかと向き合い取り組みはじめても常にその煩悩が邪魔をしてくるのです。この「邪魔」とは文字通り、道を歩む妨げになるものです。

その「魔」を除けることで道を安心して歩んでいくことができます。神社では御守りやお札などで魔除けをします。同様に生きる上で心がける御守りを持つということは、様々な自戒をもって歩んでいくことに似ています。その一つに、謙虚というものがあるのです。

中道を歩みバランスを崩さずに歩んでいくことはとても難しいものです。一度、己心の魔に呑まれたら都合よく解釈をして自分がズレていることにも気づきません。そうならないように常に自己を正しく反省するために、物差しになるのは同じように修行をしている謙虚な人々の生き方を学び直したり、その人たちに触れたり、諫言や叱ってくださるようなアドバイスを自ら学んだりという素直さが必要です。

そして素直になれば、自分の傲慢さで自分の魔に打ち克つ謙遜があります。本物の自分でいるか、あるがままの自分を自覚しているかと確かめていくのです。自分の心が澄んでいないのではないかと常に確認している人は、常に今を善き心にしようとします。このように生きている人は、まさに「謙ゆえに福、虚ゆえに幸」なのでしょう。

道を歩む心構えを歪めないように、日々に深く反省し子どもたちや大切な人たちを見守れるように私自身の精進を怠らず謙虚を魔除けにして努めていきたいと思います。

ずっと一緒に居たい人たち

人間は自分に本当の自信があると謙虚でいられるものです。自分の存在がすべてに満ちていて同時に他人も同様にすべてが満ちていると思う人は感謝の心を忘れることはありません。

もっともっととないものねだりをしては、今に不満足、自分に不満足であれば自信を持つことができず人間関係にも綻びが出てくるものです。自分に自信を持つというのは単に自分で納得できる能力を持てばいいのでもなく、周囲から評価されることの実績を出せばいいのでもなく、自分のあるがままを認め、他人のあるがままを認める強さがあってはじめて持てるのかもしれません。

幼い頃からの教育で、ないものばかりを指摘され減点法で平均より高い成績を出すようにと刷り込まれてくると自分は不完全であるように思いこんでしまうものです。そのため完全であることを求めては不平不満や言い訳などで現実を誤魔化すようになっていきます。

そうすると現実が仕合せでないから自信がさらに失われ、余計に他人の自信を奪ってしまうような生き方をしてしまうものです。本来、等身大のあるがままの自分を認めることができるのなら人はないものを求めずにあるものに感謝できるようになります。

向上心という名の自己否定は自信を奪うだけでかえって思いやりや感謝から遠ざけてしまうように思います。さらに拍車をかけて、忙しさや疲れや余裕のなさが蔓延るとお互いに傷つけあうような世知辛い社会をつくってしまいます。その悪循環はさらに自信を奪い合う連鎖を助長してしまうのです。

それを断ち切るには、まず自他をゆるす必要があるのかもしれません。自分をゆるせるのは自分を肯定することができるからです。そして同様に相手がゆるせるのも相手を肯定することでできるからです。

自己肯定ができて自他肯定ができるという具合に、大前提として自分はそのままでいい、あなたのままでいい、自分のままでいいとあるがままの価値を認めることです。そのままの魅力をどう活かすか、欠点もまた魅力になるほどにどう磨くか、そういう生き方が自己肯定感をより高めて本物の自信に近づきます。

自分の苦手なところもちゃんと自覚しつつ、それを信頼する人たちに助けてもらう。そして自分の得意なところでみんなに貢献していくという具合に、あるものを活かしないものもまたそれも人間関係を築くための魅力にしていけばいいのでしょう。

全部できなくてもできないところは仲間がカバーしてくれることで自分のことも活かせ周囲も活かせます。共生と貢献の関係を築くのです。そして全部自分ひとりでやるのではなく、できない自分をゆるし、できない周囲をゆるし、一緒に生きていこうとすることです。

「一緒に」生きるというのは、仲間がいるということで仕合せに生きていくことを選ぶということです。そしてずっと一緒に居たい人たちとは、どんな状況でも「お互いの価値を認め合える人たち」のことです。

そのような仲間に巡り合える人生の仕合せは格別なものです。

まさにパートナーとは、存在価値を肯定してくれる人ということなのでしょう。引き続き今の閉塞感の満ちた日本の社会で、子どもたちが自己否定するのを当然だと思ってしまわないように社業を通して仕事を通してイノベーションに貢献していきたいと思います。

 

心の中の平和

昨日、ある園の理念研修で「一人ひとりの中に心の平和をつくる」という理念を学び直すことができました。乳幼児期は人格形成の基礎だからこそ、何よりも重要だという動機から初代の方が開設してから約70年の歳月が経っています。

この心の中の平和という言葉を思う時、ユネスコ憲章の理念を思い出します。

「戦争は人間の心の中で生まれるものであるから、人間の心の中に平和の砦を築かなければならない」

平和を願う人々はみんな心の中にある平和を築こうと世界に発信していくものです。戦争を産出す原因は、心の中で戦争が続いていくからです。その戦争は、比較競争や差別や格差などから発生する疑心暗鬼が原因になっているように思います。お互いを信じ合い道徳を守り助け合い協力しよういう心が失われていきます。そのためにも、感謝や信頼、協力や尊重などということを学ぶ必要が出てきます。

人間は、それぞれ生まれた環境も育った環境も異なりますが人間としてどうあることが心の平和を築いていけるか深めていけばその方法が観えてくるものです。

私が実践し提案する一円対話も、協働も初心の内省も徳報酬もすべてはこの一点「心の中の平和」を創るために広げていこうとしているものです。人々の中に心の平和ができるのなら、そこには平和な社會や未来が築けて徳世が築けます。

何度も何度も戦争を繰り返し、人類は一体どこに辿り着こうとしているのか。今を生きる私たちはもう一度それを深く見つめる必要があるように思います。

そして今まで過去の歴史になかった新たなパラダイムが誕生が求められます。

子どもたちのためにも、自分にできることを脚下の実践をもって努めていきたいと思います。