今年も無事に萩にある松陰神社に参拝することができました。幼い頃から志を学ぶ師と仰ぎ学び続けてきましたが苦しかった年、辛かった年の後ほど此処に来ると志風によって偉大に応援されている気持ちになります。
自分の頭で考えたことがどれだけあった一年であったか、どれだけ他人との答え合わせに生きるのではなく自分の答えを生きたか。ここに来ると毎回不思議ですが自分自身の人生の主人公として魂を磨ききったかと師に問われている気持ちになります。
きっと吉田松陰にとっては日々歳月の艱難辛苦こそが学問を通して自己を磨き自己を確立する善い機会だと歓喜し道の探求と実践を積み重ねた日々を送っていたように思います。それが生前に遺している言葉の数々からも省みることができます。
計愈々(いよいよ)違(たが)ひて志愈々堅し。天の我れを試むる、我れ亦(また)何をか憂へん。
仮令(たとい)獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋(せっさ)怠るべきに非(あら)ず。
志荘(こころざし そう)ならば安(いず)くんぞ往(ゆ)くとして学を成すべからざらんや。
夫れ重きを以て任と為す者、才を以て恃みと為すに足らず。知を以て恃みと為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉に従ひて而る後可なり。
志を立ててもって万事の源となす 。
この「志を持つことをすべての原点」とした吉田松陰の教えは、松下村塾の塾生たちの生き方に多大な影響を与えました。そしてそれは死後もまた、純粋な日本人の魂に語り掛け続けています。
気が充実するというのは、機が充実するということです。これはその機会が満ちるのを待つという状況であり、それまでは気を蓄え機(タイミング)まで力を磨き続けるということです。この「気」こそまさに志から発するものであり、気力の充実は志力の充実でもあります。志が結実するとき、まさにそれが時機でありその時期に応じている結晶が結果として顕現します。
すべての機会を自分を磨くためにあるとする生き方は、今のような人生とはあまり関係のない歪んだ学問がひろまっている時代にはとても大切な指針になるように思えます。学問は他人のためではなく、自分のためであるといったのは孔子の時代からあったことですから今さらどうこう言っても仕方がなく、指針として生き方を学び直すしかありません。
志とは、刀と砥石の関係であり魂は志があってはじめて磨かれるのです。
最後に今年のテーマに近い言葉に出会いました。どの時代においても変化に適応していくことは学問の要です。
「天下に機あり、務(む)あり。機を知らざれば務を知ること能(あた)わず。時務(時務)を知らざるは俊傑(しゅんけつ)に非(あら)ず。」