鑑餅~円満福~

本日は、年代物の手掘りの木臼と百日紅の杵を使い餅つきをして鏡餅をつくります。今ではどこでも簡単に買って来れますが、そうすると餅つきをするプロセスがなくなってしまうものです。本来は、この餅つきの中に意味が籠められており歳神様をおもてなしする大切な信仰行事の一つです。

鏡餅の名前の由来であるこの鏡は、日本の神話の中で出てくる三種の神器の一つ「八咫鏡」からとったものです。丸い餅の形が銅鏡に似ていてその鏡に映る自分を「鑑みる(かんがみる)」ということから「鑑餅」となり次第に「鏡餅」と名前が変化したと言われています。この「鑑」という字は、「金」は金属の象形を覆う様子を指し、臣は大きく見開いた目の象形文字、そして臣の右横にあるのはタライを覗く様子の象形文字、皿は水の入っているタライの象形文字です。この金と監の合わさった会意兼形声文字である鑑には、金属製の鏡を意味します。ありのままの価値をそのままに映し出すという意味でもあり、鑑定、鑑賞などでつかわれます。

八咫鏡は、天照大神のご神体として今でも伊勢神宮でお祀りされているといいます。説明にはこうあります。

「鏡はその人の真影を映すので,天照大神は孫瓊瓊杵(ににぎ)尊を大八洲国(おおやしまぐに)につかわすときにこの鏡を渡して,もっぱらわが魂としてわが前にいつくがごとくいつきまつれと勅した。その鏡がいまも伊勢神宮に神体として祭られる八咫鏡(やたのかがみ)であるとする。鏡をもって神体とすること《皇大神宮儀式帳》を見ても,荒祭宮(あらまつりのみや)は大神宮の荒魂(あらみたま)宮と称し御形は鏡であるとする」

つまりは鏡を観ればそこに天照大神が顕現するとあります。神社や神棚には、鏡がお祀りされています。その鏡は、まさに自分の姿のありのままを映し出す存在して真実をうつす鏡とされたのです。その鏡が曇り澱めば真実はうつりません。だからこそ磨き清め、払い清めて澄んだ真心を高めなさいとしたのでしょう。

この鑑みることを想う時、私は吉田松陰の辞世の句を思い出します。

「吾今 国の為に死す; 死して 君親に負かず; 悠悠たり 天地の事; 鑑照 明神に在り」

天が観てくださっている、必ず真心は明るみになるという鏡の境地です。祈り歩めば、必ず天が照明するということ。天命のままに生きたことは、必ず天がその意味や価値を明らかにするということでしょう。

話を鏡餅に戻せば、丸形のお餅は円満や心臓を表し家族の心身の円満を意味します。二段重ねなのは、太陽と月、陰陽を表し日月円満、つまり日々が充実して円満に過ごせることを意味します。

またお年玉の由来もこの鏡餅からで、これは歳神様の依り代になったものだから「歳神の魂」が宿ったものからきています。つまり御歳神魂(おとしだま)ということです。年長者から子どもたちに食べさせたことで、お年玉を配るようになったといいます。

また鏡餅は、橙、干し柿、昆布、四方紅、御幣、三宝、扇などと一緒に飾りお祀りします。これは説明が長くなるのでまた別の機会に紹介しますが縁起は時代の流れと共に少しずつ増えていき変化してきたのでしょう。本来は、八咫鏡である鏡餅が原型なのは自明の理です。

どのような心で正月をお迎えするか、歳神様をおもてなすか、それは鏡餅を家族で創る中で感得できるものです。今では、食中毒になるとか、すべて機械任せで量産したりとか、食べ物でもない見た目だけの鏡餅とかに代用されたりとむかしから変えてはならないものまで便利に変わってきました。

餅つきには楽しく笑い、感謝と澄んだ心でついてはひっつきのばし、こねては丸くしていく、まさにこれは私たちの会社で大切にしている「一円観」の思想にも通じています。円満は福に通じるということです。

すべて円満福の素直で明るい心は、私たち日本人の精神文化でありアイデンティティの一つです。子どもたちに伝承していきたいことを鑑みて、暮らしの実践を積み重ねていきたいと思います。

門松と信仰

昨日は、聴福庵に門松を飾り正月の準備を行いました。最近では、あまり家々の門に門松飾りを見かけなくなりましたがこれも古来から続いている日本の伝統の一つです。

そもそも門松の意味は簡単に言えば、正月に遠来から歳神様が家に来てくださるようにその目印としてお祀りするものです。より詳しくは、折口信夫氏の「門松のはなし」が最も的を得ているように思います。

「日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。歳神様は、三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰には、此考妣二位の神来訪の印象が伝承されてゐる様です」

色々な説が時代と共に変化していますが、一般的には山から降臨する田の神様が歳神様だとも言われます。五穀豊穣を約束する神様が、家に来て福を授けてくださいます。床の間におもてなしする鏡餅は、正月の間、滞在してくださる神様の依り代です。稲作を中心に私たちは暮らしと信仰を一致させ永続する家としての智慧を結集したものの一つがこの正月であったのです。

門松の松は、常緑樹は榊と同様にいのちが宿る木とされ古来より神様の依り代になりました。また松を「待つ」と言霊の響きを同じくし、神様を待つとしています。松飾がある期間を「松の内」とし、その間は神様が家にいるかのように生活を慎みました。そして山にお帰りになるころにちょうど節分があり五穀豊穣を祈願するために五穀を蒔き歳神様をお見送りするとも言われます。

行事はそのもの単体で見ては意味がわからないものも、つなげてみるとその行事の意味や信仰していた日本人の心やカタチが観えてくるのです。

聴福庵では、古式の門松を飾ります。これは平安時代の「小松引き」が由来です。そのため玄関には「根」がついたままの松を飾ります。これは歳神様が訪れて幸せが根付くようにという縁起によるものです。そして裏玄関には根が切られた松を飾っています。これは厄を断ち切り根付かせないという縁起によるものです。

日本人は、むかしから物事の解釈を常に福になるように転じ続けてきました。根があってもいい、根がなくてもいい、それをどのように捉えるか、そのすべてを感謝に換えて言葉や文化、伝統を創り上げてきました。

信仰というものの本質は、どんなことがあっても丸ごと信じるという生きる姿勢の実践のことです。自然災害が世界で最も多い国だからこそ、自然災害から自然崇拝が誕生してくるのは自明の理です。宗教ではなく、「信仰」というものがあるのは私たちがそれだけこの自然風土の変化に晒されて逞しく変化に順応しながら生きてきたからです。

暮らしや行事は、私たちが自然の中で仕合せに生きぬいていくための先人の智慧と親祖の真心を感じます。時代が変わることは仕方がないことですが、変えていいものと変えてはならないものを確かに見つめ子どもたちのために先人の恩を繋いで結んでいきたいと思います。

 

幸福と変化

人間には二通りの生き方があります。一つは、誰かのせいでと他人のせいにしてしまう生き方。もう一つは、誰かの御蔭様でと他人の御蔭にしてしまう生き方です。この二通りの生き方は、自分の人生の幸福に大きな作用を働くだけでなく、人間関係においても大きな影響を与えます。

たとえば、事物を誰かのせいやもしくは自分のせいだと責めることばかりに躍起になっている意識は変化に対応できる考え方ではありません。変化に対応するには、受け容れる力が必要になりますから現実から逃れるために何かのせいにしても物事は前に進むことがありません。

その逆に、事物はすべて御蔭様という考え方を持つ人は自他をせめず自分に矢印を向けて現実をあるがままに受け止め、変化というものを受け容れていきます。これは人間が感謝の時が変化に対応しやすく、自分の思い通りであることが当たり前と思い違いをする時が変化に対応できなくなるということです。

人間は生きていれば、日々に小さなことから大きなことまで変化に遭遇しストレスを抱えます。そのストレスは、無理をして取り除くためにエネルギーを使い切るのではなくストレスを受け容れて立ち直る方へと転じた方が幸福を感じます。私はそれを「福に転じる」といいますが、何でも福に転じる人はすべての出来事を前向きに捉えて変化そのものを楽しんでいくことができるのです。

変化を楽しむ力というものは、一つは好奇心があると思います。大変なことがあっても、面白そうと思える意識、めんどくさいことがあっても、真心を使えるチャンスだと思える意識、その人の生き方次第で現実の受け止め方が全く異なり変化のスピードも変わっていくのです。

自分の思い通りいくことが、人生にとって良いことだと思っている人と、自分の思い通りではないけれど思った以上のことをいただいていると思っている人では、人生行路の歩み方、感じ方が異なります。

人間は誰もが幸せになろうとしますが、仕合せで居続けるには変化し続けている必要があります。それはどんな世の中や周囲が変わっても、自分がそれに順応していつも感謝のままで居続けられる状態、御蔭様を感じ続けられる状態、その心境を現実と一致させていく努力が必要になると感じるからです。

謙虚さというものは、人生にもっとも大きな影響を持つものです。同様に傲慢というものもまた、人生に大きな影響を与えます。生きていれば、人間は手入れを怠り掃除をしなくなりエゴの穢れのようなものがこびりついていきます。日々にそのエゴを増大し穢れを払うために様々な感謝の工夫を仕事にまで昇華できた人たちがこの世に最幸の組織を実現させていきます。

子どもたちが憧れる生き方と働き方を実現するために、職場の文化が世界を変えていくことを信じてもう一歩深く踏み込み、腰を据えて挑戦を続けていきたいと思います。

ポジティブ力 ~生来の楽観性を使い切る~

人間にはそもそも生まれながらに持っている楽観性があります。どんなに厳しい状況や環境においても生きようとする力のことです。この力は例えば自律神経なども同様に、自らで呼吸をし続け心臓を動かし続けるように自動的に活動をし続けます。生きているというのは、それだけで生存しようと前向きになっているものでそもそも生き物にはポジティブな素地があります。

人間は、感情の生き物ですから喜怒哀楽が備わっています。時折、苦しいことがあってもまたそこから立ち直り前に向かいます。どんな人間でも紆余曲折、失敗と成長はつきものですから挑戦と失敗、改善は人生の命題です。その中間において生きている実感を感じ、幸せを感じるのもまた人生です。

現在、ハーバード大学においても幸福になるための授業が盛んに行われています。時代を超えて人間の深い要求は、幸福感や幸福度です。それを改めて学問として追及することは人類の未来に向けて大切な意義を持つように思います。そのハーバード大学で有名なポジティブ心理学の講師に、タル・ベル・シャハー氏がいます。この方の講義では幸福はその人の心の持ち方、考え方次第であるといいます。

「いかなる状況でも、ポジティブなことを探すゲームをしなさい。感情の95%は物事をどんなふうに解釈するかで決まります。」

日々にないものねだりをせずにある方を観ることや、頂いている御縁や機会、仲間や課題に挑めることがある方に感謝できれば感情は調和していくといいます。そして、「幸せへの鍵は、目標を達成することにではなく、目標を追求するプロセスにある」といいます。決してゴールや結果、達成するか解決するかではなくその過程そのものが幸福なのだと。現在は、すぐに目標を早く解決しようと焦り周りに対して辛辣な態度や言葉を投げつける人もいます。そうなっては不幸は増し、幸福感が減退して過程をすぐに終わらせようとします。それでは幸福感は得られないといいます。

「新しい行動を取り入れるあるいは古い行動を変えるということはどれも大変でほとんどが失敗します。必要なのは自制心ではありません。習慣化できるかどうかです。」

「やろうと決めたことをやり遂げるためにはたとえそれがよいことだと分かっていたとしても自己コントロールだけでは不充分です。新しい習慣を創造するには価値のある目標に動機づけられた状態で習慣化する活動を具体的に決め決まった時間に行う必要があります。」

そしてポジティブに生きるには、自制ではなく習慣化することだと言います。諺にある「継続は力なり」です。日々は、楽しいことや大変なことを面白がり豊かに愉快にニコニコ顔で命がけで生きていても目的は手放したくないものです。その目的を忘れないためにも初心を維持し続けるためにも、「習慣」が必要なのです。

習慣はどんな境遇や環境、また感情や体調が変化しても粛々と活動し続けます。まるで自律神経や呼吸のようにそれを止めてしまわないように生き続けます。言い換えるのならそれは生来に備わっている「生きる力」(ポジティブ力)を使っているということです。

生きる力というものは、自然のリズム、いのちのリズムで全体と調和することです。言い換えれば、バランス力であり万物一体善の境地でいるということです。これを先人たちは、中庸といったり、平常心といったり、悟りとも呼びました。先ほどのタル氏は幸福になるために必要なこととしてこういいます。

「まずは自分の幸せを目指しなさい。不幸せな人間は他人を思いやることなどできません。」

生きていく中で、人格を磨き徳を積むというのもまた幸福に生きていくために必要不可欠なものだったのかもしれません。子どもたちが生まれてきたいのち、生きる力を減退せずに仕合せに生きていくためにも生き方を示して伝承していきたいと思います。

心の掃除

人間は心が「荒む」(すさむ)と感謝を忘れていくものです。心が荒れて行動が乱れれば、次第にゆとりや余裕が消え、冷静さを失い、すべてが乱暴になり周囲にとげとげしくなり悪影響をまき散らします。

この荒むの語源は「凄まじい」からきていて、この凄まじいは恐怖を感じるほどにひどいさま、興ざめするほどにすごい恐ろしさからきています。

人間というものは、心が荒んでくると本人にも色々と問題が起きます。精神が病んだり、心と体のバランスが崩れたり、そうなると自制もきかず何をするかわかりません。人間は心が荒まないように工夫することで、本来の穏やかで調和した自分を維持していくことができるのです。

心が荒む理由としては、現実に対して心が御座なりになってついてこれないときや自分の心を誤魔化したり、無理をして心に嘘をついたりするときに特に影響を受けるように思います。日ごろの自分の心がけと心の持ち方ひとつで、心が和やかである人もいれば心が荒む人もいますから如何に自分自身に対して正直で居続けるか、あるがままで丁寧に生きていくかは人生にとってとても大切な素養と工夫であるように思います。

私は一昨年より暮らしの甦生をする中で、如何に日々の手入れを怠らないか、掃除を大切にするかということを学び直しました。家の神様に対しても、荒ぶる神(荒魂)にならないように感謝の心で洗い清めてお掃除と手入れ、片付けを行うことで荒ぶることもなく和やかなままの状態でいていただくようにつとめます。そのようなことを怠ればすぐに家に問題が発生し、色々な反省が波のように押し寄せてくるからです。数々の暮らしの年中行事は、すべてにおいて日ごろの心の準備と心の手入れ、心の掃除が行き届くことで万事整うのです。

掃除道の鍵山秀三郎氏も、「掃除とは心の荒びを取り払うことである」とはっきりと定義されています。日々のことを掃除にはじまり掃除に終わることで丁寧に片付けていく、その片づけをする心はまさに「感謝の実践」であり丁寧に生きていくことは、「心の和みを醸成する」ためにも必要なのです。

掃除を怠ることで心が雑にならないようにと暮らしを整えていくことは、心が荒まないようにとゆとりを維持していくコツであり秘訣なのでしょう。先人たちはその大切さを知っていたからこそ、日々の暮らしを丁寧に紡いできたのかもしれません。

余計なものを断捨離し、余計な垢を綺麗に洗い流し、整理整頓して美しく保ち続けること。単に増やし続けて雑に扱えばいいのではなく、一つ一つ片付けてまた次の準備をする。かつての日本の家で当たり前にあった四季折々を丁寧に生きて片付けを行い心を整えていく工夫が心の持ち方の智慧として私たちへ伝承されてきたのでしょう。

粗雑で乱暴な生き方は自分自身の心を痛めてしまいます。そうして心を痛め心が病めば日常がさらに色あせて頂いている感謝よりも足りないことへの不平不満に頭をもたげてしまいます。これだけ自分への御縁や感謝をいただいていることを忘れてしまうことこそ不仕合せであり、悲しいことはありません。そのような時こそ、一休みし心の掃除を行い心を澄まし心を整え心を慎み、自分自身の心が全体と一つになるように心を調和していくまで掃除をしながら待つしかありません。

人間の日々の暮らしは人生の生き方です。

感謝で生きていくことは心の掃除をしていく人生の生き方を実践していくということです。掃除道の鍵山氏は、心は取り出せないからこそ、身近にあるものを磨くこと、そして片付けること、綺麗に掃除すること、それが自分自身の心を掃除することになるということを仰っています。

人間誰にしろ自分らしく正直に仕合せを求めて生きていく以上、心の掃除は人生最大の徳目なのです。

今年もあと残り少しですが、丁寧に片づけをしながら心の和魂を鏡に映しながらかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

自分の答えを持つ

幼いころから一斉画一の生産管理教育の評価に晒されていると、自分の頭で考えるということをやめてしまうものです。誰かによって都合が良い人になることは優秀になることであり、その優秀の定義は誰かによって定められたものになるのです。

たとえば、上下関係であれば上の人の言うことをよく聞く人が素直であり、上の人のいうことを従順にしっかりと指示通りにやることを優秀と言われます。さらに優秀なのは、上の人のやりたいことを先回りして準備して上の人がやる以上に実現すればさらに優秀だと褒めたたえられ評価されます。

しかしこれをやり続けるとどうなるか、それは上の人の正解ばかりを探すことを真面目にやることがもっとも正しいことだと信じ込むようになります。するとどうなるか、自分の中の正解ばかりを探して真実や本質を見抜く力が減退していくのです。それは他人の答えを探し続けるようになるからです。

本来、真実や本質を見抜くためには「自分の答えを持て」といった自分の中で根本や本質を突き詰めていく必要があります。自分の中で自分で答えを出すには、自分からその人の持つ答えを正解と捉えるのではなくどのようにその人がその答えに辿り着いたのかを自分自身の力で強く求め近づいていくしかありません。

何度も何度も実践し議論して深めていく中でようやくその人が辿り着いた答えに自分も出会います。その時、その答えによって導かれた背景の価値に気づくのです。それが本質に辿り着くということです。

しかし他人の正解ばかりを追い求め自分の答えのない状態に陥ると、上の人から指摘されたことはマイナスなことを言われたと思いすぐに足りないところを探してしまいます。自分の中で評価や採点癖が沁みついていたら「できない自分をできるようにする」ことだけに固執し正解思考にばかりに囚われてしまいます。そのように人間は評価で裁くという物差しを持ってしまうと罪悪感で動けなくなるのです。すると他人常識的なルールに縛られた都合のよい人間が出来上がってしまいます。

そういう時は、正解ばかりを探す前に「気づかなかった、近づかなかった、もっと自分よりも深いのかもしれない」などといったすぐに他人の正解を探さずにその人の持つ本質に気づくように自分自身の在り方を正し、上の人の指示を理解しようとばかりに脳を使う前に、自分自身のそもそもの考え方を指導してもらうといった素直な姿勢になる必要があるのです。

自分の答えを持つ人は、自分で考えることができる人です。自分で考えることができる人になることが、人生の主人公になります。主人公になれば人生を他人のせいにせず、言い訳もせず、あるがままに自分らしく生きていくことになるのです。

しかし生産管理教育の刷り込みが深い人ほど真面目で優秀と周りは褒めますから余計に刷り込みは取りにくいのかもしれません。必ずどんな事物にも物事にも常に本質や根本があり、それを正しく理解していくことが会社を理解し商品を理解し、戦略を理解し、そしてそれを自分なりに応用して創造していく力になりますし、さらにはそれを他人に伝えるためには自分自身がその本質を「ものにする」必要がありますから自分の答えを持つことは人生において決して避けては通れません。

いつまでも上の人に対して刷り込みの下の人になる上下構造に縛られず、本質の深さや根本の質で議論できるように近づく今までとは異なった努力をしていくことが自分の眠っていた考える力揺さぶり目覚めさせることかもしれません。

子どもたちが自分の頭で考えて自分の答えに気づけるように、議論できる関係や環境を世の中へ広め構築していきたいと思います。

見守る組織

人は安心していなければ弱さをさらけ出すことができません。居心地がよい場所とは弱さを見せ合える環境があるということです。もしも何かを言ってしまってそれが悪いことになると決めつけていたり、裏切られる、見切られる、責められる、評価が下がるなどそういう観念をそれぞれが持ったままであれば安心することなどできません。

安心の居場所とは、そういうネガティブなことであっても平気で言い合えるような信頼関係があることで実現するとも言えます。人間は発達するためには、安心できる環境がなければなりません。それぞれの持ち味を活かすためにも、まずはじめに安心があることが何よりも前提になっているのです。

安心できる環境をつくるためには、それぞれが人間として成長できる場を用意する必要があります。そこには仕事とプライベートを分けたり、生き方と働き方を分けたりするものではなく人生で関わってくれる仲間や同志といった存在が必要になります。

同志や仲間というものは、時には非常に厳しい言葉であっても言葉を選ばずに愛情深く伝えます。また深いところで強く励まし高い信頼関係において絆を結びます。一緒にいて安心できるというのは、色々な次元のことがあるのです。

自分がどんな姿を見せても、芯のところは尊敬しあっている。共に目指している理想の実現のために発達し続けている、その過程が今の姿であると認識していることもまた大切なことかもしれません。

見守る組織というものは、安心組織です。

どのように安心する関係を築き上げているかが、そのチーム力の源泉になります。子どもたちが安心して発達するために、大人同士の関係もまた深めていきたいと思います。

安心して育つ環境

人間には表情というものがあります。これは、心の状態を顕しているものでその人の心が表に出てきている状態とも言えます。心が澱んでいれば表情も暗くなり、心が澄んでいれば表情もまた清らかです。心を頑なに隠していれば表情もまたそれ相応になり、心が楽しければ笑顔で明るい表情になります。

心がどのように働いているか、それを観察することがもっとも心の状態に気づく鍵でもあります。そして心は本来は、子ども心というように純粋無垢なままの状態で存在し続けます。しかしその心が日々の知識や刷り込みによって頭で考えることが増えていくことによって心の周りに垢のようなものがこびりついてきます。

その垢を洗い流していかないかぎり、心が表に出てくることがありません。大人になればなるほどにその垢がこびりついてきますからそれに気を付けて生きていくことが仕合せに近づくコツのように思います。

この垢はではどのようについてくるか、それは自分に嘘をつくことでこびりつきます。自分の本心を隠し、周囲にわからないようにするために嘘をつき誤魔化すこと、本当の自分の素をさらけ出さずに周囲に合わせて自分を偽り表現していく、そういうことを繰り返すことによって垢は出てきます。つまりは不自然な姿で居続けたことで、その不自然さが自然を覆い隠していくかのようにです。

そうならないようにしていくために、どのような環境を用意していけばいいか。みんなが無理をしないで安心して素のままでいられるためにはどうすればいいか。教育者はまずそこに目を向けて、安心して育つ環境を用意していく必要があると私は思うのです。

安心して育つ環境は自分自身にも言えることです。自分のままでいい、あるがままいいと自分が思っているかどうか。無理をして我慢をしていないか、周りの期待に応えるために本当の自分を隠していないか。自問自答する必要があります。

そして自分を肯定できているか、自分を好きでいるか、自分というものの存在を丸ごと認めているかといった揺るがない自信を持つ必要があります。

引き続き子どもたちが安心して成長していけ自分の持ち味を発揮していけ仕合せな人生が歩めるように安心して育つ環境を用意していきたいと思います。

居心地とは何か

居心地がよい場所というものがあります。そこにいくと自分らしくあるがままの自分で居られるという場所です。人それぞれにその居心地がよい場所というものを持っています。

ある人は、自宅の部屋であったり、ある人は故郷の思い出の場所であったり、ある人は誰かと一緒にいるときであったり、またある人は自分が所属するコミュニティであったり、それぞれです。

しかしこの居心地がよいというのは、自分自身を知るうえでとても大切なことのように思うのです。なぜか気持ちが安らぐや気分が落ち着くというのは、自分の居場所として自分が素直に出せているということ。その逆に、自分を偽り我慢して自分を出さずに抑え込んでいるところは居心地が悪いということになります。

自分が無理をしている人がいると、その場所は居心地が悪くなっていきます。無理をしていない人が増えれば増えるほど居心地はよくなります。居心地のよさは、みんなが無理をしない環境があるということです。そのためには自分がまず先に無理をするのをやめてみる必要があります。無理をして我慢をして自分を誤魔化していたら、気が付けばもっとも自分がその環境を居心地が悪いものにしているのかもしれません。

なぜ自分らしくいられないのか、なぜ無理をするのか、それは他人からの評価を過度に気にしたり、失敗を過剰に怖がったり、不安や不信から心配ばかりで保身ばかりを気にするからかもしれません。しかしそれが回りまわって自分自身が居心地が悪い場所にしていくのです。

居心地の善さは、まず自分自身が心を落ち着ける必要があります。自分のままでいてもいいと自分自身が安心すること、このままでいい、あるがままでいいと自分自身を認めること、そして同時に周囲のあるがままも認めること。お互いに認め合うことができるのなら寛容な心で許し合うことができます。自分ができないことを周りがやることに嫉妬したり、自分ができないと思われないように虚勢を張ってみても現実は苦しみばかりが襲ってくるだけです。優秀かどうかばかりを気にして、能力ばかりを査定するような自意識を持っていたら緊張状態が続くばかりで頑張る悪循環に陥り頑なになるから笑顔はなくなり、周りの笑顔も次第に奪っていきます。優秀さを目指すばかりの人間たちがみんな無理をして頑張る職場に笑顔はありません。

自分からいつも笑っている人は、優秀さではなく仕合せが基準になっていますから自分自身が楽しいだけでなく周りも同時に気楽にしていきます。気楽さというのは、頑固さとは逆ですから何があっても丸ごと善いことであると信じ切るといった全体性に対する楽観性のようなものです。

居心地のよさは、まさにこのように全体に見守られていると実感しながらきっと大丈夫だとそれぞれが信じて歩んでいくことのようにも思います。むかしの日本の信仰のように、八百万の神々が共に歩んでいるのだからと安心するような境地です。それは決して否定排除ではなく、尊重と共存関係が大前提であったの自明の理です。

子どもたちが安心して自分の居場所をそれぞれの場所で創造できるよう、素直な自分のままでいられる環境を創造していきたいと思います。

正月の意味

正月を迎えるために準備をしていますが、改めてなぜ歳神様をお祀りするのかといった原点を改めて調べていると気づくことがたくさんあります。今では、生活様式が変わりむかしの暮らしが消失していますからかつての伝統的な暮らしの名残だけがいくつか残るばかりですが本来はすべて意味があったものです。

たとえば、歳神様というものは神道の神様であり年神様は、家々に1年の実りと幸せをもたらすために、高い山から降りてくると考えられている新年の神様です。この「とし」の語源は、穀物、稲、またはその実りを意味しています。だから歳神とは、稲の神、稲の実りをもたらす田の神ということです。家々では五穀豊穣を祈り、多くの実りが訪れるようにと歳神様をお祀りしたのです。

初日の出を見に行くのもまた、歳神様の降臨を拝むために行われていたものです。そして正月に門松やしめ飾り、鏡餅を飾ったりするのは、すべて歳神様をおもてなしするための準備です。門松はその家に入るための依り代として玄関に配置されます。そして床の間の鏡餅こそ、歳神様のご神体そのものになるのです。

歳神様にお供えした鏡餅を直来でいただくのが、鏡開きでありお雑煮であり、かき揚げ餅になります。そしてその供えものこそが「お節(せち)」であり、年神から与えられる魂として「お年玉」ということになります。むかしは、お金はなく御餅をお年玉として子どもたちに配っていたように思います。節目にはお米のお力をおかりするためにお餅を食べていたのです。

このようになんとなく続けられている正月に目を向けると、なぜこの正月を行うのかの本当の理由が観えてきます。私たちが生きながらえてきたのは、お米を食べてきたからです。そのお米に対して感謝の心で慎み暮らし新しい一年の初心を定めてまた暮らしを積み重ねて充実させていく。

自然と共に歩みながらその恩恵に感謝し、その恩恵の御蔭様で生きていくことの大切さを思い返すための節目でもあったのです。大切な習慣が意味を失い、場合によっては違う意味で用いられ商売に活用されていくのは残念なことです。

子どもたちのためにも、むかしからの伝統を今の時代でも温故知新して伝承しながら大切なものをつなぎ譲り遺していきたいと思います。