心の掃除

人間は心が「荒む」(すさむ)と感謝を忘れていくものです。心が荒れて行動が乱れれば、次第にゆとりや余裕が消え、冷静さを失い、すべてが乱暴になり周囲にとげとげしくなり悪影響をまき散らします。

この荒むの語源は「凄まじい」からきていて、この凄まじいは恐怖を感じるほどにひどいさま、興ざめするほどにすごい恐ろしさからきています。

人間というものは、心が荒んでくると本人にも色々と問題が起きます。精神が病んだり、心と体のバランスが崩れたり、そうなると自制もきかず何をするかわかりません。人間は心が荒まないように工夫することで、本来の穏やかで調和した自分を維持していくことができるのです。

心が荒む理由としては、現実に対して心が御座なりになってついてこれないときや自分の心を誤魔化したり、無理をして心に嘘をついたりするときに特に影響を受けるように思います。日ごろの自分の心がけと心の持ち方ひとつで、心が和やかである人もいれば心が荒む人もいますから如何に自分自身に対して正直で居続けるか、あるがままで丁寧に生きていくかは人生にとってとても大切な素養と工夫であるように思います。

私は一昨年より暮らしの甦生をする中で、如何に日々の手入れを怠らないか、掃除を大切にするかということを学び直しました。家の神様に対しても、荒ぶる神(荒魂)にならないように感謝の心で洗い清めてお掃除と手入れ、片付けを行うことで荒ぶることもなく和やかなままの状態でいていただくようにつとめます。そのようなことを怠ればすぐに家に問題が発生し、色々な反省が波のように押し寄せてくるからです。数々の暮らしの年中行事は、すべてにおいて日ごろの心の準備と心の手入れ、心の掃除が行き届くことで万事整うのです。

掃除道の鍵山秀三郎氏も、「掃除とは心の荒びを取り払うことである」とはっきりと定義されています。日々のことを掃除にはじまり掃除に終わることで丁寧に片付けていく、その片づけをする心はまさに「感謝の実践」であり丁寧に生きていくことは、「心の和みを醸成する」ためにも必要なのです。

掃除を怠ることで心が雑にならないようにと暮らしを整えていくことは、心が荒まないようにとゆとりを維持していくコツであり秘訣なのでしょう。先人たちはその大切さを知っていたからこそ、日々の暮らしを丁寧に紡いできたのかもしれません。

余計なものを断捨離し、余計な垢を綺麗に洗い流し、整理整頓して美しく保ち続けること。単に増やし続けて雑に扱えばいいのではなく、一つ一つ片付けてまた次の準備をする。かつての日本の家で当たり前にあった四季折々を丁寧に生きて片付けを行い心を整えていく工夫が心の持ち方の智慧として私たちへ伝承されてきたのでしょう。

粗雑で乱暴な生き方は自分自身の心を痛めてしまいます。そうして心を痛め心が病めば日常がさらに色あせて頂いている感謝よりも足りないことへの不平不満に頭をもたげてしまいます。これだけ自分への御縁や感謝をいただいていることを忘れてしまうことこそ不仕合せであり、悲しいことはありません。そのような時こそ、一休みし心の掃除を行い心を澄まし心を整え心を慎み、自分自身の心が全体と一つになるように心を調和していくまで掃除をしながら待つしかありません。

人間の日々の暮らしは人生の生き方です。

感謝で生きていくことは心の掃除をしていく人生の生き方を実践していくということです。掃除道の鍵山氏は、心は取り出せないからこそ、身近にあるものを磨くこと、そして片付けること、綺麗に掃除すること、それが自分自身の心を掃除することになるということを仰っています。

人間誰にしろ自分らしく正直に仕合せを求めて生きていく以上、心の掃除は人生最大の徳目なのです。

今年もあと残り少しですが、丁寧に片づけをしながら心の和魂を鏡に映しながらかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

自分の答えを持つ

幼いころから一斉画一の生産管理教育の評価に晒されていると、自分の頭で考えるということをやめてしまうものです。誰かによって都合が良い人になることは優秀になることであり、その優秀の定義は誰かによって定められたものになるのです。

たとえば、上下関係であれば上の人の言うことをよく聞く人が素直であり、上の人のいうことを従順にしっかりと指示通りにやることを優秀と言われます。さらに優秀なのは、上の人のやりたいことを先回りして準備して上の人がやる以上に実現すればさらに優秀だと褒めたたえられ評価されます。

しかしこれをやり続けるとどうなるか、それは上の人の正解ばかりを探すことを真面目にやることがもっとも正しいことだと信じ込むようになります。するとどうなるか、自分の中の正解ばかりを探して真実や本質を見抜く力が減退していくのです。それは他人の答えを探し続けるようになるからです。

本来、真実や本質を見抜くためには「自分の答えを持て」といった自分の中で根本や本質を突き詰めていく必要があります。自分の中で自分で答えを出すには、自分からその人の持つ答えを正解と捉えるのではなくどのようにその人がその答えに辿り着いたのかを自分自身の力で強く求め近づいていくしかありません。

何度も何度も実践し議論して深めていく中でようやくその人が辿り着いた答えに自分も出会います。その時、その答えによって導かれた背景の価値に気づくのです。それが本質に辿り着くということです。

しかし他人の正解ばかりを追い求め自分の答えのない状態に陥ると、上の人から指摘されたことはマイナスなことを言われたと思いすぐに足りないところを探してしまいます。自分の中で評価や採点癖が沁みついていたら「できない自分をできるようにする」ことだけに固執し正解思考にばかりに囚われてしまいます。そのように人間は評価で裁くという物差しを持ってしまうと罪悪感で動けなくなるのです。すると他人常識的なルールに縛られた都合のよい人間が出来上がってしまいます。

そういう時は、正解ばかりを探す前に「気づかなかった、近づかなかった、もっと自分よりも深いのかもしれない」などといったすぐに他人の正解を探さずにその人の持つ本質に気づくように自分自身の在り方を正し、上の人の指示を理解しようとばかりに脳を使う前に、自分自身のそもそもの考え方を指導してもらうといった素直な姿勢になる必要があるのです。

自分の答えを持つ人は、自分で考えることができる人です。自分で考えることができる人になることが、人生の主人公になります。主人公になれば人生を他人のせいにせず、言い訳もせず、あるがままに自分らしく生きていくことになるのです。

しかし生産管理教育の刷り込みが深い人ほど真面目で優秀と周りは褒めますから余計に刷り込みは取りにくいのかもしれません。必ずどんな事物にも物事にも常に本質や根本があり、それを正しく理解していくことが会社を理解し商品を理解し、戦略を理解し、そしてそれを自分なりに応用して創造していく力になりますし、さらにはそれを他人に伝えるためには自分自身がその本質を「ものにする」必要がありますから自分の答えを持つことは人生において決して避けては通れません。

いつまでも上の人に対して刷り込みの下の人になる上下構造に縛られず、本質の深さや根本の質で議論できるように近づく今までとは異なった努力をしていくことが自分の眠っていた考える力揺さぶり目覚めさせることかもしれません。

子どもたちが自分の頭で考えて自分の答えに気づけるように、議論できる関係や環境を世の中へ広め構築していきたいと思います。

見守る組織

人は安心していなければ弱さをさらけ出すことができません。居心地がよい場所とは弱さを見せ合える環境があるということです。もしも何かを言ってしまってそれが悪いことになると決めつけていたり、裏切られる、見切られる、責められる、評価が下がるなどそういう観念をそれぞれが持ったままであれば安心することなどできません。

安心の居場所とは、そういうネガティブなことであっても平気で言い合えるような信頼関係があることで実現するとも言えます。人間は発達するためには、安心できる環境がなければなりません。それぞれの持ち味を活かすためにも、まずはじめに安心があることが何よりも前提になっているのです。

安心できる環境をつくるためには、それぞれが人間として成長できる場を用意する必要があります。そこには仕事とプライベートを分けたり、生き方と働き方を分けたりするものではなく人生で関わってくれる仲間や同志といった存在が必要になります。

同志や仲間というものは、時には非常に厳しい言葉であっても言葉を選ばずに愛情深く伝えます。また深いところで強く励まし高い信頼関係において絆を結びます。一緒にいて安心できるというのは、色々な次元のことがあるのです。

自分がどんな姿を見せても、芯のところは尊敬しあっている。共に目指している理想の実現のために発達し続けている、その過程が今の姿であると認識していることもまた大切なことかもしれません。

見守る組織というものは、安心組織です。

どのように安心する関係を築き上げているかが、そのチーム力の源泉になります。子どもたちが安心して発達するために、大人同士の関係もまた深めていきたいと思います。

安心して育つ環境

人間には表情というものがあります。これは、心の状態を顕しているものでその人の心が表に出てきている状態とも言えます。心が澱んでいれば表情も暗くなり、心が澄んでいれば表情もまた清らかです。心を頑なに隠していれば表情もまたそれ相応になり、心が楽しければ笑顔で明るい表情になります。

心がどのように働いているか、それを観察することがもっとも心の状態に気づく鍵でもあります。そして心は本来は、子ども心というように純粋無垢なままの状態で存在し続けます。しかしその心が日々の知識や刷り込みによって頭で考えることが増えていくことによって心の周りに垢のようなものがこびりついてきます。

その垢を洗い流していかないかぎり、心が表に出てくることがありません。大人になればなるほどにその垢がこびりついてきますからそれに気を付けて生きていくことが仕合せに近づくコツのように思います。

この垢はではどのようについてくるか、それは自分に嘘をつくことでこびりつきます。自分の本心を隠し、周囲にわからないようにするために嘘をつき誤魔化すこと、本当の自分の素をさらけ出さずに周囲に合わせて自分を偽り表現していく、そういうことを繰り返すことによって垢は出てきます。つまりは不自然な姿で居続けたことで、その不自然さが自然を覆い隠していくかのようにです。

そうならないようにしていくために、どのような環境を用意していけばいいか。みんなが無理をしないで安心して素のままでいられるためにはどうすればいいか。教育者はまずそこに目を向けて、安心して育つ環境を用意していく必要があると私は思うのです。

安心して育つ環境は自分自身にも言えることです。自分のままでいい、あるがままいいと自分が思っているかどうか。無理をして我慢をしていないか、周りの期待に応えるために本当の自分を隠していないか。自問自答する必要があります。

そして自分を肯定できているか、自分を好きでいるか、自分というものの存在を丸ごと認めているかといった揺るがない自信を持つ必要があります。

引き続き子どもたちが安心して成長していけ自分の持ち味を発揮していけ仕合せな人生が歩めるように安心して育つ環境を用意していきたいと思います。

居心地とは何か

居心地がよい場所というものがあります。そこにいくと自分らしくあるがままの自分で居られるという場所です。人それぞれにその居心地がよい場所というものを持っています。

ある人は、自宅の部屋であったり、ある人は故郷の思い出の場所であったり、ある人は誰かと一緒にいるときであったり、またある人は自分が所属するコミュニティであったり、それぞれです。

しかしこの居心地がよいというのは、自分自身を知るうえでとても大切なことのように思うのです。なぜか気持ちが安らぐや気分が落ち着くというのは、自分の居場所として自分が素直に出せているということ。その逆に、自分を偽り我慢して自分を出さずに抑え込んでいるところは居心地が悪いということになります。

自分が無理をしている人がいると、その場所は居心地が悪くなっていきます。無理をしていない人が増えれば増えるほど居心地はよくなります。居心地のよさは、みんなが無理をしない環境があるということです。そのためには自分がまず先に無理をするのをやめてみる必要があります。無理をして我慢をして自分を誤魔化していたら、気が付けばもっとも自分がその環境を居心地が悪いものにしているのかもしれません。

なぜ自分らしくいられないのか、なぜ無理をするのか、それは他人からの評価を過度に気にしたり、失敗を過剰に怖がったり、不安や不信から心配ばかりで保身ばかりを気にするからかもしれません。しかしそれが回りまわって自分自身が居心地が悪い場所にしていくのです。

居心地の善さは、まず自分自身が心を落ち着ける必要があります。自分のままでいてもいいと自分自身が安心すること、このままでいい、あるがままでいいと自分自身を認めること、そして同時に周囲のあるがままも認めること。お互いに認め合うことができるのなら寛容な心で許し合うことができます。自分ができないことを周りがやることに嫉妬したり、自分ができないと思われないように虚勢を張ってみても現実は苦しみばかりが襲ってくるだけです。優秀かどうかばかりを気にして、能力ばかりを査定するような自意識を持っていたら緊張状態が続くばかりで頑張る悪循環に陥り頑なになるから笑顔はなくなり、周りの笑顔も次第に奪っていきます。優秀さを目指すばかりの人間たちがみんな無理をして頑張る職場に笑顔はありません。

自分からいつも笑っている人は、優秀さではなく仕合せが基準になっていますから自分自身が楽しいだけでなく周りも同時に気楽にしていきます。気楽さというのは、頑固さとは逆ですから何があっても丸ごと善いことであると信じ切るといった全体性に対する楽観性のようなものです。

居心地のよさは、まさにこのように全体に見守られていると実感しながらきっと大丈夫だとそれぞれが信じて歩んでいくことのようにも思います。むかしの日本の信仰のように、八百万の神々が共に歩んでいるのだからと安心するような境地です。それは決して否定排除ではなく、尊重と共存関係が大前提であったの自明の理です。

子どもたちが安心して自分の居場所をそれぞれの場所で創造できるよう、素直な自分のままでいられる環境を創造していきたいと思います。

正月の意味

正月を迎えるために準備をしていますが、改めてなぜ歳神様をお祀りするのかといった原点を改めて調べていると気づくことがたくさんあります。今では、生活様式が変わりむかしの暮らしが消失していますからかつての伝統的な暮らしの名残だけがいくつか残るばかりですが本来はすべて意味があったものです。

たとえば、歳神様というものは神道の神様であり年神様は、家々に1年の実りと幸せをもたらすために、高い山から降りてくると考えられている新年の神様です。この「とし」の語源は、穀物、稲、またはその実りを意味しています。だから歳神とは、稲の神、稲の実りをもたらす田の神ということです。家々では五穀豊穣を祈り、多くの実りが訪れるようにと歳神様をお祀りしたのです。

初日の出を見に行くのもまた、歳神様の降臨を拝むために行われていたものです。そして正月に門松やしめ飾り、鏡餅を飾ったりするのは、すべて歳神様をおもてなしするための準備です。門松はその家に入るための依り代として玄関に配置されます。そして床の間の鏡餅こそ、歳神様のご神体そのものになるのです。

歳神様にお供えした鏡餅を直来でいただくのが、鏡開きでありお雑煮であり、かき揚げ餅になります。そしてその供えものこそが「お節(せち)」であり、年神から与えられる魂として「お年玉」ということになります。むかしは、お金はなく御餅をお年玉として子どもたちに配っていたように思います。節目にはお米のお力をおかりするためにお餅を食べていたのです。

このようになんとなく続けられている正月に目を向けると、なぜこの正月を行うのかの本当の理由が観えてきます。私たちが生きながらえてきたのは、お米を食べてきたからです。そのお米に対して感謝の心で慎み暮らし新しい一年の初心を定めてまた暮らしを積み重ねて充実させていく。

自然と共に歩みながらその恩恵に感謝し、その恩恵の御蔭様で生きていくことの大切さを思い返すための節目でもあったのです。大切な習慣が意味を失い、場合によっては違う意味で用いられ商売に活用されていくのは残念なことです。

子どもたちのためにも、むかしからの伝統を今の時代でも温故知新して伝承しながら大切なものをつなぎ譲り遺していきたいと思います。

 

 

 

主体性の本質~お手伝い~

「お手伝い」という言葉があります。これは「手伝う」に「お」の接頭語が入ったものですが当たり前に使っている言葉ですが大変な意味があるように思います。この手に伝えるという合わせた言葉、とても深く味わい深いものがあります。現在では、チームだとか協力とか主体性とか色々な言葉が組織運営について出てきますがこの当たり前の「お手伝い」が何よりも仕事の本質であるようにも思います。

幼いころから、家のお手伝いをして育ってきますが人間は当たり前に協力して働くためにはその働くための智慧を自然に身に着けていきました。その代表的なものが、農業であり里山での暮らしの中で集団を通して助け合い生きる力を育んできたのです。たとえば、みんなで助け合い屋根をふきかえたり、堤防の修理や、家々の柿の実を収穫したり、子どももみんなで見守り、お年寄りもみんなでお世話をする。

これは自分のもののようで自分のものではなく、みんなのものであって自分のものでもある。つまりは生活共同体、共存関係を結んでいたのです。沖縄ではその関係を「ゆいまーる」ともいい相互扶助の関係を築き上げていました。

現在では、自分は自分、他人は他人となってしまってみんなのものという意識は消失してきているように思います。そのことから本来のお手伝いということも意味が異なり単なる役割分担や担当制のように変わってきているように思うのです。つまりは歪んだ個人主義が蔓延しつながりが切られたことで「一緒に生きている」という実感がますますなくなってきているように感じます。

本来の「お手伝い」とは、この「一緒に」という気持ちをお互いが持っていることのことを言います。本当の主体性とは、「自分はみんなと一緒に生きている」という共存意識を持っている人たちのみに発揮されるものだからです。

だからこそ他人事にせず、自分のことだという当事者意識が生まれます。そして会社も同様に、自分の会社であって自分だけのものではなくみんなのものである。みんなのものだからこそ自分も手伝うことができて有難いと感じながら働くことが相互扶助でお互いを活かしあい助け合うことができるということでしょう。

自分というものと全体とのつながりが消えてしまうと主体性は消失します。すると、孤立感や孤独感、そしてやらされ感やさせられ感に変わってしまうのです。結局、何か自分に何かの出来事があったときに気づくのが自分が助けてもらえ所属する会社、仲間や友人、家族など周囲のコミュニティの中があることに気づき直すのです。

だからこそそのコミュニティを守ろうと「お手伝い」をすることは当然のことであり、それが「自分もみんなも守る=お手伝い」ということなのです。手伝っているようで手伝ってもらっているのは自分、見守っているようで見守られているのは自分自身であるという真実に気づくことが共存共栄していくという人間の智慧の本質なのです。

チームかどうか役割とか担当とか議論する前に、そもそもは果たして自分とは自分だけのものなのか、そんなことは一人では生きていけないからすぐにわかるはずです。いくらお金があったとしても、助けてくれる人たちがいなければそのお金を使うこともありません。つまり人間は自分であって自分ではないものの存在に気づけるかどうかが何よりも先なのでしょう。

みんなで一緒に生きていく、その一緒になっている組織を守っていくということにどれだけ真剣に関わり本気で取り組むかが主体性の本質です。引き続き、課題をチャンスにして本当の問題に向き合っていきたいと思います。

 

努力の素晴らしさ~場数の価値~

以前、ある年配の人から「あなたは若いのに経験が多いのはなぜ?」だと質問されたことがあります。この経験とは、場数のことでどのような場数を踏んできたかということの話になります。そしてこの場数とは、努力してきた経験の数のことを言います。

場数が多い人は、それだけ努力してきた過程の中で得た智慧の質量もありますから本番に強くなります。逆に場数が少ない人は、経験していませんから努力が足りないとも言えます。この場数が努力を測るモノサシなのはここからもわかります。そしてこの場数とは、単に回数をこなせばいいのではなくどれだけ努力の回数があったかということを示唆していることに気づきます。

たとえば、何かに挑戦すれば必ず失敗をします。その都度、挫折をし理想が高いほどに心も折れます。しかしそこからまた立ち上がり再び挑戦をします。そのためには何回も何回も検証をし、努力を積み重ねて真剣勝負でまた挑んでいきます。

私の場合は、何でもすぐにやってみてはそれを継続するという実践タイプのようで失敗の場数は他人よりも多いように思います。情熱と気力が強く好奇心旺盛なこともありますが、まずはやってみようとします。当然、素人がいきなり高い一流のレベルに挑むのですから挫折は本当に日常茶飯事です。特に、大きな怪我をしたり病気になったりすることもあれば心が深く傷つくようなことや精神が病んでしまうようなことに出会うこともあります。

ある時は身も心もボロボロになり、またある時は涙しながらもそれでもまたしつこくやってみようとします。簡単に言えば、ただ諦めが悪いのでしょう。しかしこの諦めの悪さ故に場数の質量を高めて努力することの仕合せや歓びに出会い信じる力に換えてこれたようにも思うのです。

その努力は、大半は誰か大切な人を思いやる真心から出てくるものですがその努力によって自分自身がいろいろなことができるようになる歓びも同時に得られます。他人に喜ばれるものが、自分の能力でできるようになることはとても仕合せなことことです。きっと自分が誰かの役に立てるという歓びを知ってしまっているのです。

そして努力の経験が増えれば増えるほどに、周囲に対する努力のすばらしさ、諦めないことで必ず実現するという勇気の応援、最期まで相手に寄り添い信じ抜く見守りの原動力を得られているように思います。根の明るさはそこからやってくるのです。

私の場合は、高い理想に対して何度も何度も挑戦していて時折疲れたら過去にできなかったことをやったりしてみます。するとあれだけ大変だったことがいともたやすく出来るようになっていることに驚き、やはり努力が裏切らないということを確かめるのです。

気が付けばいつもかなり高いレベルのことに挑んでいるばかりのことが増えそう簡単にはすぐに結果が出ないものばかりになってきました。むかしは、半分くらいは多少の努力で達していたものが今ではほんのわずかな成功率でしか得られない大変難しい努力のことばかりしかやっていません。

しかしそれでもこの努力はなぜかやめられませんから、苦しいばかりではなく本心では難しいからこそきっと心は深く楽しんでいるのかもしれません。人生の中で善い場数を増やしていくには、日々の努力を楽しんでいく必要があります。それは壁を乗り越える仕合せであったり、新しい発見であったり、何度も何度も挑める歓びであったり、次こそはと色々とまた試してみる、つまり「創意工夫の充実した日々」を送ることです。

努力をし続けることは、決して言葉では教えることはできません。しかし真剣に何度も困難に挑んでも立ち上がりまた挑む姿は努力の価値を伝承していけるようにも思います。人生は生きていることが何よりも場数、疲れたらまた休み、そしてまた立ち上がり挑めばいい。そうやって努力を続けられることが何よりも有難いように思います。

引き続き、子どもたちのためにも努力の素晴らしさを伝承していけるように誰よりも場数を味わい楽しんでいきたいと思います。

坦蕩々

生きていると日々に大変なことが発生します。理想が高ければ高いほど、また純粋であればあるほどに思い通りにはならないような出来事が波のように押し寄せてくるものです。

その都度、心や感情はざわつきますが生き方を訓練する機会として日々の初心に立ち返り自分を大切にしていけば波風は収まってくるものです。

以前、ある方に「波がたっても風を立てるな」と教えていただいたことがあります。その方も、心を澄ませていく実践を日々に取り組んでおられる方で生き方の訓練によって安心の境地を会得しておられました。

人間には偽りの自分と本来の自分というものが誰にしろあり、日々の暮らしの中でその自分自身をしっかりと見つめているからこそ本当の自分を磨いていくことができるように思います。

そのために学問はあり、学問は自己を修養するために存在するのです。孔子が  「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」と言いましたが、周りの目を気にして評判や評価のために勉強しているだけでは自分のことをさらに誤魔化していくばかりです。

何のために学ぶのかということを、腹に据えて人間学に取り組む人たちは真摯に自己と向き合い自分の与えられた使命に粛々と楽しんで取り組んでいけるように思います。これが楽しくなくなるのは、まだまだ学問が本当の意味で自分のためのものになっていないからかもしれません。

中江藤樹はこう言います。

「順境にいても安んじ 逆境にいても安んじ 常に坦蕩々として苦しめるところなし これを真楽というなり 萬の苦を逃れ 真楽を得るを学問のめあてとす」

意訳ですが、順調であろうが逆境であろうが、上手くいこうがいかまいが、自分にとって最高の状態でも、もしくは酷く悪い状況の時ですら、傲慢にならず慢心せず謙虚に心は静かに落ち着いたままで同じ処に居て安定し安心している。常に心は「平のまま」で波風を立てることもなく日常のように実践を続けて煩悶とすることがない。これらの安心立命の境地こそ「真楽」というのである。すべての自我妄執の苦難を切り抜け、この真楽を会得することが学問の本懐であると。この真楽とはまさに、もっとも深い感謝であり仕合せの学びの境地です。学問が楽しくて仕方がないのでしょう。人生をもっとも有意義に活かしきった姿です。

孔子はこうも言います。

「子曰わく、君子は坦(たいら)かに蕩蕩(とうとう)たり。小人は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。」

これも意訳ですが、自分を磨いていく人物は順逆の状況でも常に初心を保ち波風立てずに穏やかでゆとりがある。この逆に日々に磨かない人はつまらないことにいちいち波風立てて迷走し不安になり、落ち着きが無く自分や未来の心配ばかりをしている。そうならないように学問があり、人は人間を磨く学問がある御蔭で時々の状況で大きく崩れなくなるのかもしれません。

この孔子の言う「坦蕩蕩」、まさに平らで大らか、いい言葉です。もしも一人一人が、この「坦蕩蕩制」をやったらこの世の中は君子が増えて人々がみんな安心立命しながら笑い合い助け合い真楽の世の中を築けるかもしれません。

日々の実践は、大変な時にも生き方を貫けるかどうかで試されます。順境も逆境も人生を磨くための試金石です。時間という手助けもありますから、また原点回帰して根さえ残っていればそこから新たな芽が生えだしてきます。甦生や新生はいのちの常です。

日々に気楽に極楽に頑張らずに無理をせずに坦蕩蕩と、そうやって真楽の境地を得て子どもたちに安心立命することの価値や意味を伝承していきたいと思います。

見守る側としての心構えと心がけを楽しんでいきたいと思います。

 

自分を大切にするということ

中江藤樹の「致良知」という言葉があります。これは今の時代は素直になり切ること、真心のままになること、人徳を究めることなどと定義してもいいかもしれません。中江藤樹は人間には誰にしろ「良知」という美しい心を持って生まれているといいました。これは虚心赤心でもあります。まるで生まれたての赤ちゃんがはじめから周囲を信頼仕切らないと生きていけないように生まれながらにしてすべてのいのちと仲よく親しみ睦み合い尊敬し合い認め合う心が備わっているということです。

私の日ごろからの言い方では、これを「初心を大切にする」とも言います。しかし人間は日々の私欲が我欲、また感謝を忘れて足るを知らなくなってくるとその初心が曇っていき本来の備わっていた真心を見失ってしまいます。そうならないためにも、日々に内省し自分の心にだぶついてくるその欲を洗い清めていく必要があります。

そのために中江藤樹が実践したのは「五事を正す」というものです。これは「貌、言、視、聴、思」を常に意識するということです。つまり和やかな顔つきをし、思いやりのあることばで話しかけ、澄んだ目でものごとを見つめ、耳を傾けて人の話を聴き、真心をこめて相手のことを思いやるということです。

この平易な言葉で説明できる五事は、実際に自己観察してみるとすぐに我が入りこみ以上のような心のままでいることは難しい状態です。だからこそ、普段から自分の心と向き合い、自分の心を大切にし、心の命じるままに心を実践していく必要があります。

その心の実践で今の時代で大切にした方がいいと私が感じるのは「自分を大切にすること」のように思います。これは自分を優先すればいい、自分勝手にすればいい、我儘を聞いてあげればいいという意味ではありません。それに、単に自分を守ればいいということでもありません。

これは自分に孝行するということです。言い換えれば自分を敬うのです。

中江藤樹はこう言います、「私たちの心や体は、父母からうけたものであり、父母の心や体は、先祖からうけつがれたものであります。それはもともと、大自然から授かったものです。孝行とは、父母を大切にし、先祖を尊び、大自然をうやまうことです。そのためには自らの良知をみがき、体をすこやかにし、行いを正しくし、家族やまわりの人々と仲よく親しみ合うことが大切です。さらに、子どもをあたたかい心でしっかりと育てることも孝行です。」

自分を大切にするというのは、ご先祖様からいただいたこの借り物の自分を大切にしていくということです。そのためにはご先祖様を敬い、今の自分を育ててくださった父母や周囲の環境を敬い、日々に自他を愛して優しく思いやりの日常を過ごしていくということです。同様に子孫たちにも、その孝行を盡していくことが「自分を大切にする」ということなのです。

自分を大切にする人は、致良知が磨かれていきます。そして噓偽りない真心の人になっていきます。「自分を大切にする」とはつまり自分に嘘をつかず自分を誤魔化さず自分を責めず、自分に奢らず、自分を粗末にせず、親孝行や子どもたちをあたたかい心で見守るときのように自分自身に接していくということなのです。

時代を超えて、中江藤樹が大切にした生き方は今の時代の人々の生きる指南になっていきます。先人を敬い、本来の学問を子どもたちに伝承していきたいと思います。