最近、現場で理念を研修しているところの話を聞くことがあります。しかしこの理念という言葉は、使っている人によってその言葉の定義が全く異なることに気づきます。それは経営という言葉も同じく、使う人の生き方や考え方によってまったくその意味が異なるのです。
これはその人が話す理念や経営の意味や定義、それ自体をどのように理解しているかで言葉の意味が変わります。これは例えば、本気や覚悟なども同じくどれくらい本気か、何が本気か、覚悟とは何か、覚悟を決めるとはどれだけのことを言うのかと同様にそれはその人の生き方や生き様を反映するものだからです。
しかし先日、拝見した他の会社が取り組んでいるという理念はとても生き方や生き様を反映したものではありませんでした。教科書的に単に一つのルールを覚えさせ守らせるだけのような理念の使い方、冊子を作るだけでそれを活かすことがない。しかもそれを最初に破っているのが経営者となれば一体誰がそんな理念に着いてくるのかということです。縛るものを開放するのが理念であるという人と、より縛るために理念を使う人もいる。結局は理念は道具と同じく使う人にとっては薬にもなれば凶器にもなるということです。
また同様に色々な企業が理念経営の研修などをやっていますが、果たしてそれが経営者の嘘偽りない本心からの本質の生き様や初心を記されたものか、本物かどうかを確かめるにはその理念を取材する人間の理念への定義がどうなっているかをまずは確認する必要があると私は思います。
理念を取材する人間がどのように理念というものを定義しているか、そしてその人は理念に正直に生きているか、理念をどれだけ大切に実行できている人かということが大切だということです。
形骸化する理念や、現場で使われない理念は文字通りスローガンでお飾りです。理念はコピーライターが取材するものではなく理念経営を実践する経営者しかできないものです。言葉を操るだけならそんなものはかえって言い訳の材料になったり、人々の不平不満の材料に用いられます。そのようなはっきりと定まっていない状態の理念をいくら研修を現場に何回もしても、浸透させたものがそもそも定まっていなかったのならばそれでは逆効果にもなることもあるということです。
だからこそ理念を聴くということはその人の遺言を聴くくらいの一大事だという認識を持つ必要があると私は思います。遺言がもしも間違っていたら、亡くなった人も報われないかもしれません。本当にその人が意図したこと、その人が心の奥底から願ったものだからこそ、その言葉には真実が宿り力が発揮されるのです。それが理念の本質なのです。
そもそも理念を扱う仕事をしているのなら、まずは自分自身が理念に向き合って正直に取り組み、その取り組む姿勢のままに理念に取り組む人たちに覚悟を決めさえ応援し支え見守り続けなければなりません。
結局は人間は、すべて生き方からはじまり生き様の間でこの世の使命を果たすのですからその初心を最期まで貫徹させてあげることが本当の思いやりになります。だからこそ人は生き方を通してお互いを磨き、生き様を通して協力し合い夢を生きる仕合せに出会うように思います。
そして何よりも理念研修で大切にするのなら、理念を高所から掲げて下に振り下ろすような凶器のような使い方をするのではなく、経営者自身がもっとも低所におりてみんながしっかりとその理念を理解してくださるように自分自身が説明を丁寧に根気強く行い、粘り強く伝え、そして自分自身に至らないところがあればそれを反省し自らが謙虚に修正していくかありません。当たり前のことですがトップとはもっとも高いところにいて偉そうにするのではなく、何よりも自分に素直になって謙虚に反省を怠らないで努力する人物になっていくことです。これをリーダーとも言いますが、このリーダーやトップもまた生き方ですから言葉の意味が使う人物にとってまったく異なるのは気を付けなければなりません。
子どもたちを観ていたら生まれながらに何のために生きるのかを学ばされ、どう生きるのを真摯に歩むのを感じます。それをもっとも身近で導く大人だからこそ、私はこの理念という言葉と真摯に向き合い子どもに恥じない位置で受け止める必要があると思うのです。
言葉を使い分ける前に、その言葉の大前提の自分の初心と向き合うのが理念研修なのです。
森信三氏の言葉です。
「人間の値打ちというものはその人が大切な事柄に対してどれほど決心し努力することができるかどうかによって決まる。」
人を導くことは、生き方を与えることです。引き続き、私たちは私たちの信じる子ども第一義の理念を磨き、仲間と共に本物の理念経営、つまり初心伝承を支援していきたいと思います。