傳灯の巡礼

私の故郷は小さな町ですが、四国のお遍路さんの道のように八十八か所巡礼を行っていた形跡が残っています。これは明治のころに、村の方々が協力して各地域にお地蔵様を設置し、御大師様を祀り巡礼を続けていたものです。

今では、そのお地蔵様もどこにいったのかわからないほどで全部ではありませんがところどころで子孫の方か、自治会によって守られています。一部はかなり荒廃していて、誰も見ておらずどこに行ったのかわからないものもあるそうです。

巡礼するための導師が、だいぶ前に他の町へ引っ越したのを最後に春と秋に行われていた恒例の巡礼もなくなったそうです。当時は、巡礼のお世話をする方々もそのお地蔵さんの近くにおられお遍路さんを見守ってくださっていたようです。

この原点になっているのは、四国八十八か所巡礼です。これは今から1200年前に弘法大師空海が42歳の時に人々の災難を除くために四国八十八ヶ所霊場を開創されたことが発祥です。このお遍路は約1400kmの行程をお大師様の足跡を辿りながら身心を清め煩悩を滅して生きる喜びと感謝を体感する祈りの旅だと伝わっています。いろいろな説がありますが、空海が自身の厄払いのためにはじめたというものもあれば、弟子の僧侶たちが空海を慕い遺跡を巡拝したためというものあれば、山伏などの聖がもともと修行として巡礼していたなど言い伝えとして残っています。

この八十八という数字は、人間には全部で八十八の煩悩があるといわれ四国霊場を八十八ヶ所巡ることによって煩悩が消え心願成就するということです。この巡礼者のことをお遍路さんといい、むかしは接待宿があったりして托鉢だけで四国を一巡できるほどだったといいます。

巡礼する人と巡礼者を見守る人々の間で、信仰は澄まされていたのを感じます。その後の霊場は四国だけではなく、全国各地に広がっています。私の小さな町にも、八十八体のお地蔵様が祀られ南大師遍照金剛と称された白い袈裟と金剛杖を持った方がが年に2回ほど子どもたちと一緒に町のなかを手を合わせて拝みながら巡礼していたのかと思いを馳せると懐かしい気持ちになります。

日本人は、古来より自然とともに祈り、人々の幸せを願い拝み感謝で道を歩んできました。現代では、あまり信仰は生き方ではなく一つの宗教観もしくは職業観のようになってしまっていますが本来は人間としてどう生きるかという生きる道です。

今回、改めてお地蔵様の建屋を建て替えるという任務をいただきこの時の空海と同じ年になった私も使命を新たに確認しています。子どもたちのためにも、大切な傳燈が途切れないように真摯に今にできることを感謝でやり切っていきたいと思います。

太陽の徳

先日、盆栽の手入れのことで盆栽師と話をしていたら夕陽は強いので日陰の方がいいという話が出ました。この夕陽の強さとは、朝陽に比べて夕陽の方が日焼けするという意味です。よく考えてみると、外での作業も夕陽の方が肌の日焼けもきつく、体力の消耗もありますが朝陽の方はあまりそうは感じません。

調べてみると太陽の光自体は同じでも地球の大気は朝より夕方の方が気温が高く、水蒸気量や浮遊物質も多い。だから、朝日は眩しく、夕日は赤みが強くて輝きが弱いことが多いという説が一般的だそうです。

よく西日がきついという言い方もしますが、実際は西日はそんなに強いわけではありません。しかし太陽熱の集積により、夕陽の時間帯が特に熱を特に感じてしまうということです。

熱は私たちは単に熱い冷たいという比較の熱のことを指しますが、本来は熱には「蓄熱」といった熱量があると私は思います。熱が集積し蓄熱して熱が溜まっていくのです。植物をはじめ、人間もこの蓄熱によっていのちを活性化させていきます。体温もそうですが、生きていくためには温度は欠かせません。その温度が一日の中で溜まると、その蓄熱量で体に影響が出てきます。熱が足りないと熱を上げ、熱が高すぎると下げようとします。一定の熱量を維持するのは、バランスを整えるためでしょう。

実際には西日は紫外線の量が少なく、夕日の赤い光を浴びると肌の代謝が高まり、真皮のコラーゲン合成が促進される効果があるそうです。西日で緩やかな光を浴びて賛散歩などをすると心身の癒しになるそうです。朝陽も爽やかな光を浴びれば脳にセロトニンが分泌され心身が癒されます。このように朝陽も夕陽も、太陽の光は心身を癒し生きていくために欠かせないものです。

太陽といっても、光もあれば熱もあり、また目には見えない波動があったりといのちを活かすための存在です。その太陽の徳とともに私たちはいのちを維持していますから心身の調和も健康にも大きな影響を持つのです。

日々に心身に太陽を持ち、太陽への感謝を忘れないで生きていきたいと思います。

 

 

脱皮するということ

脱皮という言葉があります。これは辞書をひけば「昆虫や甲殻類などの節足動物や線形動物のように体表に堅いキチン質の殻をもつ動物が,成長の過程で古い殻を脱ぎ捨てること。節足動物では脱皮に伴って変態し,昆虫類では通常幼虫期に5~7回,蛹で1回の脱皮を行い成虫になる。しかし,甲殻類や無翅昆虫では成虫になっても脱皮を続ける。カエルやヘビなどの脊椎動物が皮膚を更新することも脱皮という。 」と書かれます。

しかしすべての生き物は脱皮することを何らかの形で行っているように思います。人間でいえば皮膚や髪が生え変わったり、爪が伸びるのもまた脱皮の一部とも言えます。そして成長するということは、脱皮を繰り返していくということのようにも思えます。

その脱皮には辞書をよればもう一つ「古い考え方や習慣から抜け出して新しい方向に進むこと。」という意味もます。外側の外殻だけが脱皮するのではなく、同時に内面内容もまた脱皮していくということでしょう。

それまででは合わなくなったものを、新しい成長ステージに合わせて今までのものを捨てていくということ。脱皮は昆虫たちも命がけですが、成長とは本来このようにすべてにおいて命がけの取り組みともいえます。昆虫たちは脱皮に失敗すると死んでしまいます、それは外敵に襲われたり、もしくは脱げなかった皮によったり、もしくは途中で力尽きたりと様々な理由です。しかしそこまでしてでも脱皮しなければならないということ、生きていくためには、生き残るためには命がけで脱皮していくしかないということです。成長に伴う痛みは、脱皮とともに剥がれ落ちていくそれまでの自分ということでしょう。

この脱皮にもっとも影響を与えるのは、脱皮ホルモンという物質です。この成長ホルモンの一種が働くことで、変異や脱皮がはじまります。人間もまた、このホルモンの変化によって体調が左右されたり自律神経が調整されています。このホルモンのバランスは成長期に起きるものであり、新しいステージに向けて脱皮しようと試みているようにも思います。

脱皮するというタイミングを逃さずに成長ホルモンが出てくるという事実に触れてみると、成長とは自然と共生する中で一生の四季に合わせて訪れるものかもしれません。その成長の時機を味わいながら、新しい世界に入っていくための準備をしていきたいと思います。

体の声を聴きながら、静かに時を待ってみたいと思います。

盆の美

先日、ある盆栽師の方とのご縁があり黒松の盆栽を育てることになりました。黒松は盆栽の王様とも呼ばれるほど品格が高く、家の中に置くと周囲の雰囲気がガラリと変わってしまうものです。

10数年前になぜかよく人からプレゼントで盆栽を貰っていたのですが、出張が多く水やりができず二度ほど枯らしてしまったことがあります。鉢植えの場合は、出張前後に水切れがないように環境を整えるので枯れることは少なかったのですが盆栽は簡単にはいかず一度枯らしてしまうと盆栽はちょっとという気持ちになります。今でも出張が多いのですが、改めて木ともう少し向き合ってみようという気持ちになり再挑戦することにしています。

古民家では、樹齢60年のボケの木があり新春には紅白の美しい花を咲かせます。この盆栽も一年を通してみるとどの時期に花が咲き、どの時期に新芽が芽吹き、どの時期に剪定すれいいのかを木を見ればわかってきました。通常の本で知る知識で分類分けされた木を知るのではなく、その木に向き合いその木の持ち味や魅力を引き出して木の持つ美しさを愛でることができたのなら盆栽の歓びも見つかるかもしれません。

日本では床の間の室礼をはじめ、様々なものをお盆にのせて美を愛でます。他にも箱庭の中で苔や砂利、灯篭などを配置し清浄な美を表現したりします。他にも一輪挿しや四季折々の自然を風鈴や簀戸、炭などで暮らしの美を奏でます。これらは日本的な精神文化の一つであり、魂の歓びでもあります。

この盆栽の盆という字は、仏教との縁が深く古代サンスクリット語のullambanaからきている言葉で「魂」を表します。お盆といえば、私たちは先祖があの世から家に帰ってこられるとして供養をしますがその供養の際にも盆に品物をのせてお祀りしています。

盆栽のほかにも盆景があり、同様に盆の中で一つの美を表現します。その美意識は、一つの精神文化であり人間の持っている自然観や宇宙観などをそれぞれの価値観の中で表現する芸術でもあります。

盆栽の面白さは、木と向き合いながら自分と向き合うことでもあるように思います。自分というものが木によって気づかされ、木が自分というものに気づかせていく。いのちはどれも対話を通して行っていくものですから、声なき声を聴き、形なきものの声を聴くようになるにはまだまだ日々の心の修養が必要です。

現代のように日々に追われ忙しく、やることばかりが増えては心を落ち着かせていく時間を設けようとはしなくなります。そういう時に、心を盆に据えて盆の中で心を穏やかにする空間や、心静かに自分と向き合う時間は人間を清浄に保っていくための一工夫かもしれません。

盆栽を身近に置くことは、自分自身を確立していく方法かもしれません。子どもたちが日本の先祖たちがどのように生きてきたか、その生き方を伝承していけるように丁寧に育ててみたいと思います。

オタクの本質

先日、日本の保育を学び直そうと集まった若い保育者たちとオタクの話で盛り上がりました。このオタクも年々イメージが変わってきていて、この言葉が出てきたことのオタクと現代のオタクでは言葉の意味も使われ方も変わってきています。私もすぐに深めては入り込んでいくタイプですからオタクだといわれることもあります。では、そもそもオタクとは何か、ここを深めてみたいと思います。

「オタク」というのは本来の語義と同様、「あなた」「きみ」という二人称としてある種の人々の間で使われていた言葉から生まれました。相手の名前を呼ばずに「お宅は、」と互いに話しかけるところからオタクという言葉が発生したといいます。

コミュニケーションが苦手な人たちが一定の距離をもって互いに呼び合っていた名称が、その人たちの様子で「自分の殻に閉じこもる人」「人とうまくコミュニケーションがとれない人」という意味になってきました。それが時代の変化とともに「2次元の世界(アニメなど)に没頭するような傾向の趣味を持った人」などという具合にイメージも変わってきました。そのうちアニメだけではなく「一風変わった趣味を持つ人」や「こだわりの趣味を持つ人」となったといいます。そういう人には、「私は○○オタクです」と自己紹介したり、「あの人は○○オタク」と紹介したりするようになりました。

今ではほとんど「オタク文化」と呼ばれ、日本的サブカルチャーとして認知され世界にも発信され人気が出ています。このサブカルチャーの意味は、メインンカルチャーではないものがサブカルチャーです。略してサブカルとも呼ばれます。例えば日本のメインカルチャーは、歌舞伎や浮世絵、日本画、生け花とかの伝統文化のことを指し
サブカルチャーは最近になって認められてきた大衆文化で映画とかアニメとかゲームとかテレビ番組とかJ-POPなどを指します。

現在では、メインカルチャー自体が消失してきたのでもはやメインがサブカルになり、サブカルがメインにとってかわるようになってきています。

話をそろそろオタクとは何かに移しますが、私が思うオタクの本質はその「熱中」にあるように思います。人間は誰にしろ自分にとって熱中するものがあります。その熱中するものをとことん熱中しきればそれはオタクの領域に入ります。

オタクの人たちが熱意をもって深めている話に触れるとそこには大きな情熱を感じます。何かに夢中になって情熱を傾けることは人の感情や心を揺さぶります。人間はみんなそれぞれに生まれてきた使命がありそれぞれに熱中するものに出会える可能性を秘めています。

その熱中するものに出会えることは幸運なことであり、自分が夢中になって熱中できるものに情熱を傾けられるのは生きる仕合せでもあります。それが社会に必要不必要で差別されたりもしますが、人間は使い方次第で社会に有用に活かすことができます。

あらゆる文化が和合し、オタクは進化を遂げていきます。

子どもたちがオタクという偏見で可能性をなくさないように、熱中することの大切さや夢中になることの意義を背中で伝承していきたいと思います。

自然のメッセージを受け取る

人間は体調を崩したり病を得ると如何に健康が有難いものかに気づきます。当たり前だと思っていたことができなくなるとき、当たり前ではないことに気づく、これが感謝の本質かもしれません。この当たり前になるというのは、感謝する気持ちが失われていくからです。

自分を中心に物事をとらえ、軸足がいつも私欲の方になってしまうと感謝の気持ちがなくなって欲望ばかりが増えていきます。この欲望とのバランスが崩れるとき、何かしらの事件が発生して人間は当たり前ではないことに気づいて感謝に回帰するのです。

言い換えるのなら、自己防衛本能というものかもしれませんが自分が欲望に呑まれないように敢えて謙虚であるようにと自分にとって都合が悪いようなことが発生し反省を促してくださるのです。自然治癒の仕組みも似ていて、病気と健康は自分自身が感謝を忘れていないかというメッセージをいただくのです。

病気になったり体調を崩してすぐに気づくのは、自分のやりたいことばかりに体を酷使し、周囲に迷惑をかけていることへの配慮もなくし、まるで物事を自分が動かしているかのように自分が傲慢になっていることに気づきます。

傲慢がさらに別の傲慢を発生し、その連鎖はスピードを上げて増大していくのです。その連鎖にブレーキをかけ、傲慢を中和して謙虚になろうとするのが自然の本能であり、人間の素直さのように思います。

有難いことに素直な人は、傲慢になるまえに何かしらのキッカケがあって謙虚になります。それを繰り返す中で謙虚さを学び、何度も繰り返し体験を経ることでさらに謙虚さが身についてきます。

その謙虚さとは、周囲の御蔭様であることに気づいたり、いつも陰ひなたから支えてくださっている存在に感謝できたり、当たり前ではない恵まれている偉大な御恩に気づけたりと、そういう日々を過ごしていくことができるようになるのです。

決して病になることや体調が崩れることが悪なのではなく、感謝が足りない自分に反省できるかということを学び福に転じていくことで人間が磨かれていくように思います。自然の与えてくださっている様々なご縁や機縁は、いつも真心で私たち人間を育ててくださっています。

足るを知り「ありがとうございます、いつもおかげさまでたすかっています」という感謝の気持ちを忘れずに、メッセージを受け取りながら真心の一日を積み重ねていきたいと思います。

実験の大切さ

「実験」という言葉があります。これはとても良い言葉で、実際の体験のことを言います。「人生は実際に体験してみないとわからない」というのも、とても応援される言葉であるように思います。自分で思っていても、体験してみないことには本当のことはわかりません。自分できっとこうだと決めつけていると、本来の体験の面白さには気づきませんし出会いません。人生の苦労は体験の中にありますが、人生の喜びもまた体験の中にあります。体験しなければ仕合せを豊かに充たしていくことはできないのです。

この「験」という字には、「幾や兆し」という意味もあります。字の由来は中国で、「験」の旧字体は「驗」と書き、この右半分のうち、一番上の「^」と「一」で「集める」という意味があり、さらに2つの「口」(物)と「人」を合わせた形で、多くの物や人を集めまとめることを表しています。つまりは篩にかけてたくさん試していいものをそぎ落として探し当てるという意味だったように思います。

実験は一回やってみて終わりではなく、多くやった方がいいのはそれだけ試行錯誤されれば必要なものだけが残っていくからです。何回も何回も懲りずに場数を踏んでいけば、その実験によって本物だけが残ります。一回だけやってみて出た答えが、いきなり本物や本質であることは少なくほとんどが繰り返し取り組む中で顕現してくるのです。

これは自分を修めることも、自己を探求し自己確立していくのもの同様です。実験を繰り返し、多様な体験をしながら自分というものに向き合っていく中で本当の自分に出会うのです。

現代は、真面目な人が増えて実験を怖がる人が増えているといいます。それは責任や結果を恐れすぎて、挑戦することや実験することで発生する困難により保身が出てくるからのように思います。保身も自分を守るためには大切ですが、保身のためにと実験をしなくなるとそこから新しい体験や経験ができなくなり、変化を避けたことでかえってその保身もできなくなる可能性が出てきます。

この実験が幾であり兆しであるのは、それは変化とともにあるからです。無理に挑戦しようとか賭けていこうとか頑張らなくても、実験してみようといった実際の体験を重視する生き方に換えていくことで発見という気づき、発明という学びに出会えるように思います。

ある人が、今の世はある意味での文明実験であると仰っていましたが人類もまた偉大な実験の途上です。成功も失敗も、正解も不正解もないこの世の中においては実験して得た自分の体験こそが真実です。

実験をしようとすると、親切心から心配しいろいろと批評したり、診断したり、裁いたり、文句をいったりすこともあるかもしれませんがそれでもそれ以上に実験してみないと体験できないからこそ忠告を聞いてそのうえで準備をして実験してみるといいように思います。

子どもたちの一期一会のその人らしい人生が充実していくように、実験の大切さを伝えていきたいと思います。

幾を観通す

四書五経の中の一つ、中庸の有名な言葉に「至誠の道、以て前知す可し(至誠之道、可以前知)」があります。これは私の意訳ですが、真心はすべてを見通しているということです。私心なきものは、私心なきゆえにすべてのものがあるがままにありのままに観得ています。そこにはあらゆるものの現実があり、あまねくものの直観があります。

王陽明はこうもいいます。

「良知には、前も後も無く、ただ現在の〈幾〉を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです」

この「幾」は、私心なきところには必ずそのきざしがあるといいます。そして伝習録の中でこのような問答が記されています。

『誠とは、実理、つまり天理のことであり、他ならぬ良知のことです。天理の霊妙な働きが神ということで、その動きが今や兆そうとする、そこがすなわち「幾」なのです。周濂溪は、誠、神、幾であるのを聖人という。『通書』と説きましたが、聖人は決して未来を前知することを貴ぶのではありません。第一、幸不幸(禍福)がやってくるのは、いかに聖人といえども避けることはできないのです。聖人は、ただ「幾」を知っていて、だから非常事態にあっても、それによって身動きが取れなくなることはありません。良知には、前も後も無く、ただ現在の「幾」を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです。『易』について研究を深め朱子に影響を与えた邵康節が、必ず前知できるとしているのは、利害損得の心をまだとり去り切れていないからです』

私心が取り払われず、心が澄まされないから己に囚われます。自我妄執があればあるほどにその幾は自己中心的な幾になります。本来、全体のためにもっとも善いことは何か、何のために自分が真心を盡すのかをよく修めている人は幾を逃しません。そして同時に、因果律に従って自分に降りかかる禍福を受け容れ準備することができます。

幸運不運がどうかなどが問題ではなく、自分に起きるあらゆるご縁を受け容れ味わうのです。何をもって見通すというか、それは予言や予知のことではなくどんな出来事があったとしても心のままで過ごしていくことで幾を観通すことができるという意味でしょう。それが自然体の境地なのです。

人生は誰にも有限ですし、生老病死は必ず誰にしろ訪れます。子どもたちにいのちがつながるように一期一会の人生の道を味わい、心を磨いていきたいと思います。

 

元気の源

昨日は自然農の畑で妙見高菜の種を蒔き直しました。昨年同様に、蒔き時を間違えたのかほとんどが虫に食べられ他の野草に負けてしまいました。殺虫剤などの農薬を使わない限り、ほとんど虫から新芽を守る手はありません。できる限りの手を尽くしても虫の圧倒的な量や威力にはなかなか手が届きません。

きっとむかしの人たちも同様に、何回も種を蒔き虫の威力が弱くなる時期を待ったかもしれません。もしくは、肥料等で土を活性化して新芽が負けないようにしたのかもしれません。自然農は無肥料無農薬なので、肥料は枯れた草くらいなので自然環境から学び直し、自分の生き方を見つめつつ自然の時期を掴みます。

この畑のある場所は、山の中で周りには畑もないことからイノシシやシカなどもよく出てきます。また雑草や野草の勢いは激しく、少しでも草刈りをしなければあっという間に様々な野草で埋め尽くされます。特に野草は、我先にと高いところを占有して種を遠くに飛ばそうとしますから自分の背丈よりも高い雑草たちが埋め尽くして草刈りが大変で骨が折れます。さらにはそこにツル系の雑草があちこちから畑に侵入してきて、周囲の防護柵などをなぎ倒していきます。一般的な平地の耕しやすい畑とは異なるので、野菜を育てるのにはちょっと不適切ではないかというところに畑があるのです。

しかし地力という意味で、転じて見方を変えてみるとそれだけ土は野草や雑草が瞬く間に広がるほどに肥えているとも言えます。表土を少し削るだけでもミミズや幼虫、様々な虫たちがどんどん出てきます。また多様な雑草の種類も多く、様々な野草が共生しながら楽園のように育ちあっています。その豊かな生態系が存在している場所で、野菜を育てるとイキイキとした野性的な野菜に育ち、その味は決してスーパーなどで買っているものとは大違いです。

私の育てている伝統の妙見高菜はそういう場所でこだわり育てています。だからこそ味にそれぞれの個性が出て、イキイキとした艶と食べ応えがある美味しいものになるのです。

そう考えてみると、この野生の中で育つということはいかに肝心なことかということです。人間もまた自然の中で育てば元気になります。この元気の源とは何かということなのです。

私たちは自分たちの都合で育ちやすいそうに育てやすいようにと、環境ばかりを整えます。自然のままにすることは、大変だからと加工した環境の中で肥料や農薬を与えて膨らませていきます。しかしその本質はどうなっているかということです。見た目を膨らませたとしてもその質はどうなっているのかということです。

自然のままに育つというのは、生きる力、元気の源を成長させていくことです。それは決して環境としては楽なものではなく、どちらかというと厳しく苦労ばかりがある場所ですがそこは生態系が豊かであり、生きる力を発揮している生き物たちで充ちており、野の中で自分のいのちを磨き上げていきます。

その場には確かに人間にとっての快適さはありませんが、人間にとっての心の平安があります。私が取り組んでいる自然農をはじめ、古民家甦生も、会社経営もまた古くて新しい教育を提案するものです。

引き続き、試練を楽しみ、試練から学び、子どもたちに生きる力の本質を伝承していきたいと思います。

善の発心

人間は生きている感謝に心を満たすとき、この有難い御恩に対して何かで報いたいと思うものです。その報いたい思いは、いろいろな徳のカタチになって子孫たちに譲られていくものです。これは決して物だけではなく、生き方であったりしたり、有形無形問わずそれが子孫たちの恩恵として永遠に譲られていくものです。

自分さえよければいいや自分のことのみを優先するようになればあまり恩を感じなくなってしまいます。人が恩を感じられるのは、いつまでも感謝の心のままにかけがえのないこの一期一会の日々を深く味わい生きているからです。

いのち尽きるその日までもったいなく生きようとしている人は、自分に与えられた任務や使命を受け容れ真心で生きていくように思います。古民家にあるようなむかしの道具たちも、そしてその時代の懐かしい思い出を持ったあらゆる場にも真心は残っています。その真心がカタチになっていく一つに、布施というものがあります。

この布施の語源は、サンスクリットの「ダーナ」といい清浄な心で人に法を説いたり物品の施しなどを行うことをいいます。本来の布施の内容は、その布施の生き方を説いているように思います。仏陀は、布施は六波羅蜜の善業の実践のことを言うといいそれを「無財の七施」という言葉でも遺しています。

これは「雑法藏経」というお経の中の言葉で仏陀が人間はたとえ財力や智慧が無くても七施として、七つの施しができるということを示します。「眼施(がんせ) 」は、常に温かく優しい眼差しをおくること。「 和顔施(わがんせ)」は、いつも心地よい素直な笑顔で人に接していくこと。「 言辞施(ごんじせ)」は、穏やかで愛情の籠った誠実な言葉遣いを心がける。「 身施(しんせ)」は、自らの身体を使い奉仕すること。「 心施(しんせ)」は、思いやりの心を持ち、自分を相手の立場になって接していくこと。「 床座施(しょうざせ)」は、座席や場所、地位を譲り相手を慮ること。そして最後の「 房舎施(ぼうしゃせ)」場を与え、場を清めその場を譲ることです。

布施の本質とは、ここからわかるように自分から周囲に真心を盡して周囲の恩徳に報いていこうとする実践を行うということです。自分の中に備わっている人間としての徳を活かし、自分から与えられる善行を行っていこうとすることを恩とも言います。

現代は貨幣経済が中心で西洋の考え方も入ってきているため布施については誤解があり、本来の布施の意味もだいぶ変わってきていますがこれは生き方の話であり布施の生き方をしていこうとすれば自ずから布施によって自他善が結ばれていくということでしょう。

全体善という言葉も今では聞かなくなってきましたが、一人ひとりが布施をし善に生きる世の中こそ仏陀の目指した平和な社會だったのかもしれません。子どもたちが安心して暮らしていける社會のためにも布施的な生き方を学び直し、自分自身の中に善の心を高めていきたいと思います。