自立と自律とは

先日、あるお客様の創始理念のお話をお聴きする中で自律と自立について深める機会がありました。

この自律と自立の話というものは、個々人の成長の話などでもよく出てきます。自律の対義語は他律で、自立の対義語が依存です。しかしこの自律と自立の話はどこかその前提が崩れているような気がします。

そもそも自然界において自律や自立などというものがいちいち頭で理解してやっているものか。自然は絶妙なバランスの中で存在しています。そこには自然に自律も自立も存在します。これは地球が自らいのちを維持しているからです。そしてこれは人間の体でも同じです。人間の体は、いちいち意識していなくても自ら呼吸をし心臓を動かし体温を調節していのちを維持します。何もしていなければ、自然に体はバランスを保とうとします。

しかしこのバランスが崩れるのは、自分の体が不自然なものに囲まれ不自然なことを取り込んでいくからです。本来、体の声を聴いて無理をせずに自然に健康を維持していけるのなら自律できている状態がいつまでも維持できます。しかし最初から不自然だからこそ自律することができないのです。

農業であれば、自然にしていれば自然治癒自然浄化があるものが農薬や肥料を足して無理に増産したり変化させようとするから自律できなくなります。よくマネージメントで自律のことを語りますが、本来不自然なことをする環境があるのに自律がと個人に強要するのは勝手な利害の押し付けであることは明白です。

本来の自律とは、調和のことで如何に自然から離れないで生きていくか、足るを知り分度を守り、分限を超えるものは人に譲り、みんなと一緒に安心した社會を維持していくことです。

そして全体調和の中で自分も周囲と一緒に生きていくことを自立といいます。自然では、花と蝶の関係や、土中の微生物のようにお互いを活かし合う関係、お互いによっていのちを助け合う関係、思いやり生きていく関係、つまりは共生していくことが自立です。

生き物はそれ個体だけでは生きていくことはできません、私たちは全体の一部として働き、その尊いいのちを分けてもらっている存在です。その中で精いっぱい自分を生きていくことは、自分のいのちを社會や全体のために使っていくことです。それは感謝でもあります。自分が生きられる御蔭を感じながら生きることができるのならそれが自立でしょう。

自立と自律の本質を間違えてはならないと思います。人間至上主義のように人間が傲慢になればなるほどに、その意味もはき違えられていきます。謙虚にいのちとは何か、人間とは何かを深く見つめれば自ずから自立と自律の本当の意味も観えてくるように思います。

引き続き、見守る大切さをカタチにしながら子どもたちが安心して生きていける社會を醸成していくためにそのお手本になるような生き方を実践していきたいと思います。

 

 

光を磨く

私たちは光を見て、物を確認することができています。これは光を見て脳が認識しているとも言えます。光が一切入ってこない真っ暗闇の中では何も物は見えません、それは光がそのものに反射しないからです。私たちは光の強弱などによってその物体を立体的に脳が認識して捉えることができるのです。

不思議ですが、その光が差し込んできて出てきた物体を見ると時にはそれが美しく感じ、時にはそれが儚く感じます。光というものを通して、その物を透かし見ているのかもしれません。光はいのちを透過させるようにも思います。

この光を見るためには、感性を磨く必要があります。言い換えれば、磨くことで光を観る感性が豊かになります。例えば、どんなものでもしっかりと磨けばそれは光ります。それが砂浜の砂であっても、貝であっても、または骨董品のようなものであっても、綺麗に磨けばそのものは光ります。

この時、光るのは私たちが光を観る感性が磨かれているからです。何も磨かなければただ眩しいだけですが、しっかりと磨いている人にはその感性によって光が本質を映すのが観えるように思います。

私たちは、四季の暮らしの中で様々な光を観ています。その光を観ることで、同じ空間であっても気配が全く異なり、同じ場所であってもまったく違った景色を観ることができます。つまりは、光を通して日常の一期一会を味わっているのです。

その光は、磨かれる場所や磨いている場所でこそ光そのものの美しさが出てきます。この光が集まる場のことを人はパワースポットと呼びます。つまりこのパワースポットとは磨き切られた場所のことを言うのです。

自分を磨く人は、その場によって磨かれた自分の感性を静かに見つめます。そして未熟さを知り、また磨き直していきます。このように神社や場を巡ることは、光に出会う旅路でもあります。そして光は私たちの生き様を通して灯りになります。

いつの時代も光を求めて人々は、集まりそして感性や魂を高めていきます。いのちのテーマは、永久不滅の理です。それぞれのいのちを活かし、子どもたちの持ち味を見守り続けられるように私自身の光を磨き灯りを守り続けていきたいと思います。

橋を架ける

現在、復古起新をしつつ暮らしを甦生させ子どもたちの未来に大切な日本人の心をつなごうと試行錯誤を繰り返しています。歴史を学び、先人たちの真心を読み、空間の中に佇んでいる言霊など、目には観えないものを手繰り寄せながら一つ一つを科学的にまた理論的に言葉にして整理することを続けています。

ユダヤの格言に、「自分の言葉を自分が渡る橋だと思いなさい。 しっかりした橋でないとあなたは渡らないでしょうから。」というものがあります。この言葉や文字もまた橋であり、その橋をしっかりと架けなければ人々はその橋を安心して渡ることができません。

よほどの勇気のある人でなければ濁流の滝つぼの上にある曖昧で不確か、そして今にも崩れそうで危うい橋を渡る人はいません。人々が渡る橋は、あちらとこちらが完全に繋がっていて安心して歩んでいける橋でしょう。その橋をつくるには、まず最初に自分が向こう側に渡る必要があります。そして渡ったら次にそこに橋を架ける必要があります。その橋が架かったのなら、最初は背中を押して一緒に渡っていける人を増やしそのうえで渡れた皆に協力してもらい向こう側とこちら側が安心して交流し行き来できるような立派な橋にしなければなりません。その後はその橋がまた崩れることがないように手入れを怠らずさらにその橋を見守り続ける環境を育てていく必要があります。

この橋を架ける仕事というものは、「つなぐ」ことです。何と何をつなぐかといえば、私でいえば歴史と今をつなぎ、子どもと大人をつなぎ、経済と道徳をつなぎ、自然と人間をつなぎ、人の心と心をつなぎ、世界と自分をつなぎ、文化と文明をつなぎ、目には観えないものと目に見えるものをつなぎます。

そしてこの「つなぐ」というのは、橋を架けるということです。

橋を架けるために、私はこのブログをはじめ、橋を架けるために自分に与えられたすべてを使って自分にできることを遣り切っています。その橋掛けは果たして何年、何十年、況や何百年、何千年かかるものなのか・・・考えると遠大で目が眩みます。

しかしその過程もまた橋になる途上ですから、その橋を架けることを豊かに歓びに換え渡る人たちのことを考えて丹誠を籠めて取り組みたいと思うのです。

日本人の仕事が世界で評価されるのは、後世の人に恥じないような仕事をすることです。私も目先の流行や、様々な我欲や、人間関係に惑わないように空を高く眺め、天の星の見守りを背中に感じながら橋を架けていきたいと思います。

この先も子どもたちが通る未来を楽しみに、橋を架ける人としての人生を歩んでいこうと思います。

質の本質

最近はよく「質」(しつ)に関することが話題に上がります。この「質」とは、本質のことで質が高いというのは限りなく本質に近いということでもあります。この「質」という言葉の成り立ちは価値の釣り合う+金銭が合わさる会意文字であり信に通じ「まこと」の意味を持つともいいます。

具体的に辞書を調べれば、 そのものの良否・粗密・傾向などを決めることになる性質。実際の内容。「量より質」「質が落ちる」 生まれながらに持っている性格や才能。素質。資質。「天賦の質に恵まれる」「蒲柳 (ほりゅう) の質」 論理学で、判断が肯定判断か否定判断かということ。 物の本体。根本。本質。「結合せるを―とし、流動するを気とす」〈暦象新書・中〉 飾りけのないこと。素朴なこと。「古今集の歌よりは―なり」〈歌源〉(goo辞書)とあります。

「質」とはそのものの本体でもあり、変わらぬ真実とも言えます。その本質が分かること、真実が観えていること、その真実に沿って取り組むことが質を高めることになります。

ではなぜ質が下がるのか、質が低くなるのかといえば真実から遠ざかっていったり、本質とは関係ないことをやりはじめるからです。その理由は、人間の個々の我欲や保身によることが多いように思います。

例えば、人間は「足るを知る」ことができれば豊かで質の高い人生を歩むことができます。それぞれが自らの分度を定め、十分に満ち足りているという暮らしを優先することができれば暮らしは人類の本質に近づいていきます。そこには助け合い思いやり、分け合い、尊重され、お互いが自由に幸福を味わっていくことができます。

しかしひとたび、「足るを知らず」、まだまだと欲望を際限なく肥大化していけば自ずから暮らしは消失し、貧しさが増え、人類の本質から遠ざかり比較、競争、画一化、奪い合いと不自由から不幸が増大していきます。

「質」から考えれば、本質的で質の高い暮らしは足るを知ることです。つまりは「質」を高めようというのはより原理原則に沿って真実に近づいていこうという生き方をしようということになります。

質が求められるというのは、それだけ本質的ではないことをやっているからです。今の時代は、本質であることよりも市場経済や金銭の獲得を優先するばかり本質ではないことの中で質を語られます。何をもって質なのかということすら、議論されることも少なくなっています。

そもそもそれは本当に必要なのかとそれぞれが足るを知る議論ができてはじめて、質とは何かということを考える入り口に立つことができるのです。物が増え、欲望もキリがなく、資本主義に呑まれ人類の手に負えなくなっているほどの今日、「質」について真剣に取り組む必要があると私は思います。

子どもたちの本質は何か、そして質の高い保育や暮らしとは何か、それを信念と実行で取り組んでいく本物の人物たちが次の時代を切り拓いていきます。私たちもその時代を創る一人になれるように、本質を見極めながら実践していきたいと思います。

 

 

足元の価値

人は物事に躓くほど自分を見つめ直す機会ができるといいます。それは様々な事柄から目を逸らしてきたから余計に足元を見つめ直す必要が出てくるのかもしれません。

今できることを、今改善できること、今しかできないことをやろうとはせずにできないことや、何か簡単に解決する方法ばかりを追いかけてしまうと大切なことから目を逸らしてしまうものです。

人間は自己中心的ですから、主観的に物事を観ては願望のバイアスがかかっていくものです。こうであればいい、こうあってほしいなどの理想が高ければ高いほどに現実から目を逸らしてしまうものです。現実から目を逸らせば、必要な努力や改善とも向き合いませんから反って理想から遠ざかる一方です。そういう時こそ、足元を見つめ直す必要があるように思います。

この足元を見つめ直すには、客観的に現状を把握し何をどう改善すればいいかという手を一つ一つ丁寧に取り組んでいく必要があります。一発逆転や、一気に問題解決などの安易な方法論に引っかからずに、何をどこから改善し、その改善をどのように今後に活かしていけばいいかといった地味な手を打っていくしかありません。

主観が入れば入るほど、現実から乖離した手を打とうとしますから現実の直視は何度も何度も自己と正対し謙虚に受け止めていく必要があります。理想から遠ざかることを恐れて抵抗し、こんなはずではなかったといくら責めても解決することはありません。現実から逃げても、現実は必ず目の前に現れるのです。

如何に現実の厳しさを謙虚に受け止めて、自分の本当の問題に向き合うか。いろいろな感情が邪魔すると思いますが、その現実を受け止める力こそが真剣さを本物にし、本気を発揮させる力の源泉になります。

もしも自分でできない場合は、信頼できる人に現実を一緒に見つめてもらって課題や問題を整理する時間があってもいいかもしれません。人間は一気に力技でいこうとするときこそ現実を直視しなくなる予兆ですから注意する必要があります。足元を見つめることは一人で向き合いながらも、一緒に向き合ってくださる人があることに感謝することかもしれません。

足元の価値を大切にし、子どもたちのために信念と実行を優先していきたいと思います。

見世蔵造り

旧長崎街道にある聴福庵の近くには、土蔵造りの古民家がまだいくつか遺っています。この土蔵造りのある街道の街並みは圧巻ですが、今ではその街道も廃れ街並みも大きく崩れてきています。現在では、便利になり住みにくいといわれる古民家も少し前までは暮らしやすい家として重宝されていました。

その一つに、この土蔵造りがあります。

この土蔵造りを辞書で調べると「建物の外観が土蔵のように大壁(おおかべ)で塗り籠(こ)めて、柱などの木の部分を露出しない造り方をいう。耐火性があるため、近世以降は土蔵だけではなしに町家の店舗にも用いられた。壁は柱の外側に間渡(まわたし)を打ち付けて塗られる大壁となるため、大壁造ともいう。また、近世の町家にあっては、一階部分は柱を露出するが、二階は土蔵造とし、窓の格子や軒裏の垂木(たるき)も塗り籠めたものを塗屋造(ぬりやづくり)という。江戸時代末期には、とくに耐火性を考慮して壁を厚くして、窓にも土扉をつけ、一見土蔵風にみえる店舗がつくられる。これを店蔵(みせぐら)とよび、土蔵造の典型的なものである。」(日本大百科全書の解説より)

先日、ご縁があった近隣の古民家はこの見世蔵様式で建てられています。この見世蔵とは、江戸期からの商店建築様式のひとつで土蔵つくりですが用途は蔵ではなく店舗として利用されてきました。外見も妻入りではなく桁方向を前面開口し、たたきと畳座敷で構成され、その2階には座敷があります。

この見世蔵の魅力は、漆喰の清涼感と見た目の重厚感です。1階部分は格子戸が設けられ外から中が覗くことがことができるようになっています。土間がある1階部分で商売をしたり、人が往来したのがわかります。本来の土蔵に比べたら火災の際の耐火性能は劣っても土壁でできているので夏の湿度が低くて涼しく感じられ木造住宅よりは耐火性能が高く火事に備えたのがわかります。

この聴福庵のある地域は、150年前に火災がありこの街道沿いの建物はほぼ全焼したということを聞いたことがあります。その時の教訓から土壁造りにしたのかもしれません。

改めて古民家を深めれば、なぜこの建築様式になったのかなどを調べていると歴史的な情緒を感じます。当たり前に疑問を持たない日常の些細な歴史的な建造物も、その意味や理由を考えてみればそこには浪漫があります。

引き続き、ご縁を辿りながら日本の文化を深めてみたいと思います。

 

犬矢来と駒居~風情の仕合せ~

昨日は、聴福庵にある犬矢来(いぬやらい)に柿渋を塗り込み掃除や手入れを行いました。この犬矢来は、駒寄せとも呼ばれ本来は馬が家の塀を蹴ったり犬のオシッコなどで汚れるのを防ぐというという目的があったようです。木で格子を組んだ型・丸竹を数本並べた型・割竹を並べた型などの様式もあるといいます。竹が曲げてある形は滑って壁を登れないことから泥棒の侵入を防ぐ効果もあったようです。

京都にいけば町屋が並ぶ通りにはこの犬矢来や駒居がならび独特な日本の和の風情を醸し出します。先日は、離れの犬走りを玉砂利で敷き詰めましたが同じ「犬」の字がつくこの犬矢来は、犬を追い払うやらう(やらい)という意味で、駒居は馬を寄せるという意味からできた言葉です。現在では雨垂れが飛び散り家の壁を汚したり腐食したりすることを防ぐ効果からも用いられます。

この犬矢来を聴福庵に取り入れるキッカケになったのは、聴福庵は町家づくりのためその原点になっている京都の町家建築を学び直すでその美しさに惹かれたからです。京町屋にある壁伝いに巡らされた駒寄せや犬矢来のある美しい町並みをみていたらその街並みの調和に感動したからです。そこに竹の清々しさや柔らかさ、そして町全体の暮らしを感じることができたからです。

現在では竹製品は少なくなってきましたが、むかしは物が不足していた時代の無限の資源として短期的な成長力があり生産性がもっとも高かった「竹」を暮らしの中で十分に活かすことを考えて竹を用いました。このことからむかしは日本の家の中外のほとんどに竹製品が彩られていたのです。

聴福庵も箱庭には竹垣や観音竹を、側道には黒竹や黄金竹を、玄関には京都の竹を用いた犬矢来、厨房の天井には年代物の煤竹、花籠、竹団扇、竹箸、それに火吹き竹や竹炭装飾に至るまで家の中はあらゆる竹に関係しているものが活動しています。

よく考えてみれば日本人の風情の中に「竹」は欠かせない存在です。それは日本の気候風土が湿度が高く水気が多く腐りやすいからです。その点、竹は水に強く丈夫でいつまでもしなやかに経年変化の中で長持ちする特徴があります。

現在グローバリゼーションや資本主義経済優先の中で、大量生産大量消費して世界中どこでも同じものを安く使い捨てする世の中です。本来の気候風土に合ったものを捨て、プラスチック製品や安易に製造できる化学製品を買い求めます。しかしそのことから、無駄を生み出すだけでなく風土の中で豊かに生きる智慧や風情をも捨てていきます。

生きていく仕合せの中心は、暮らしがあることです。暮らしがない人生は味気もなく、無機質なロボットのようになってしまいます。本来の人間として与えられた感性や地球や自然と一体になる喜び以上に豊かなものはありません。

引き続き子どもたちに、譲り遺していきたいものを丁寧に治し、そして活かし、温故知新していきたいと思います。

真心の日々

人は初心を忘れずに実践をし続けることで道を歩んでいくことができます。道には終わりがないように実践にもまた終わりはありません。実践も日々である理由は、道を歩くのと同じで少しずつでも歩き続けていたら前進していくからです。もしも歩くのをやめたり、休憩ばかりして歩まなければそれが十年、三十年、五十年という歳月が経ったときには遠大な差になっているからです。その差は人生の本質に影響を与えます。

人間は何度も生まれ変わります。その生まれ変わりは、先祖から今に至るまで数百年数千年、数万年、それ以上の歳月をかけて歩み続けてきた道です。人類の成熟に向けてどこまで自分がその道をつなぎ歩んでいけるかは、それぞれの人生に課せられた偉大なテーマであろうと思います。

よく仕事と人生と分けないことを、実践を通して語りますがこれは分けることで本質が失われてしまうからです。これは仕事、これはプライベートを分けるのは自分の知識であり、本来はどれも人生なのだからどれだけ本気で人生を生き切るかということになります。

もしも初心があり日々を歩んでいくのなら、分けずに何でも来たものを選ばずに今に集中して今を生き切ることが必要です。言い換えればそのどれにも必死になって努力し楽しむ人生を歩んでいくということです。

人生の時間は誰にも平等で、その人生にはいつの日か終わりが来ます。そして今一緒にいる仲間やパートナーや縁者たちとのお別れの日が必ず訪れます。今しかできないこと、人生としてやり遂げておきたいこと、そのどれにも妥協せず、言い訳せずに、これも人生であると言い切れるように日々を実践で彩っていきたいものです。

いつ死んでも悔いのない生き方の中に、真心の日々があります。

子どもたちのためにも真心の日々を磨いていきたいと思います。

変わらぬ思い

昨日、聴福庵にタマリュウ(玉竜)を植えました。このタマリュウ(玉竜)は「ジャノヒゲ属」に分類され「ジャノヒゲ(蛇の髭)」は別名「リュウノヒゲ(竜の髭)」と呼ばれます。よく間違えられますがタマリュウはリュウノヒゲの中の1品種です。

このタマリュウ(玉竜)は、葉も綺麗ですが花を咲かせ美しい青い実をつけることで知られます。そして古くから縁起のよい植物として重宝されてきたといいます。薬としても知られており、鬚のような根のところどころにある小さなイモのような部分は、麦門冬という生薬となり、強壮、咳止めに効果があるとされています。

また本州以南に自生するユリ科の常緑多年草であり、以前近くの山の中で採取したことがあります。本来は、葉が長いものが多いのですがこのタマリュウは園芸用に葉が短くなるように改良されてきたものです。

松と同様に冬にも枯れずに青々と光る葉が美しいと感じたのかもしれません。また夏の日照りにも強く、繁殖も強いこともあるのでしょう。むかしから日本の先祖たちは、身近に縁起が良いものを置き、その福に肖ることで様々な福を取り入れてきました。

福はもともとはすべて自然の中にあるものでその自然の福が豊かであるようにと願い祈り続けて子孫を繁栄させてきたのかもしれません。禍転じて福にするという諺にあるように、私たちは常に福を意識して心の持ち方や生き方を学び続けていくのかもしれません。

このタマリュウの花言葉は「変わらぬ思い」「深い心」「不変の心」。いつまでも初心を忘れずに子どもたちのために復古起新するぞという決意と共に聴福庵を見守っていきたいと思います。

居場所

人は自分の居場所を感じることで心が安らかになるものです。しかし自分の居場所がなくて辛い思いをしている人もたくさんいます。過剰に周りを反応を気にしたり、どうせ自分のことは嫌われると決まっていると思い込んだり、もしくは本当の自分をつも我慢して無理をしていたりすると余計に居場所がなくなるものです。

そもそも居場所というものは、自分が居てもいいとゆるせる場所のことでもあります。ここに居てもいいとゆるされているというのは、自分のあるがままでいいと自分が感じられるということです。

自分のダメなところばかりを自分で指摘し、自分がダメだから居場所がないと思い込んでしまうループは余計に居場所をその人から奪うものです。こんな自分でも仲間は許してもらえる、こんな自分でも愛してもらえるといった自分への受容は、そのまま周囲の人たちへも居場所を提供することになります。

実際に自分の居場所がないと思い込んでいる人は、同時に周りの人の居場所もなくしてしまうような対応をしてしまうことがあります。例えば、自分から本音を隠して我慢すれば同時に相手の本音も遮断し相手に無理をさせていくという具合です。

だからこそ、自分のような存在を認めてくださっているという周囲の思いやりや温もりを感じたり、同時に自分からどんな欠点や弱点、短所がある人のことを愛する訓練が必要です。それは言い換えれば、丸ごとの自分を愛することやあるがままの自分も許してあげるという受容がいるのです。

一円対話の中で、傾聴、共感のあと受容があります。この受容とは、すべてを丸ごと認めてあげることでそのままでいいとゆるしてあげることです。言い換えれば、その人の長所も短所も転じてあげて認め褒めたたえるということです。

理想が高い人はすぐに自分を責めていきます。自分の身の丈を超えて努力してきた人ほど、理想との自分と現実の乖離がゆるせないものです。そのために自分を責めては、「これではダメだ」と自分自身に鞭を打っていきます。そうやって自虐を続けているうちに自分の中にも居場所がなくなり一人になってしまいます。

内面の自分との関係を良好に保つことができなくなれば受容することはできません。受容するためには、常に自分との対話を通して「ゆるす」ことで認めそこからお互いにカバーし合って助け合っていこうねという風土を醸成していく必要があります。

仲間と助け合う風土は、ダメ出しするのではなく認めて肯定しゆるすことで生まれます。自他を責めず、そういう時こそ「課題が見つかってよかった」と認めたり、「長所が分かってよかった」とほめたり、「学び直していこう」と改善したりすることで居場所はできます。

比較競争社会の中で、居場所がなくしている真面目ないい人たちが苦しまなくていいように家族のようなぬくもりのある社會に近づけていきたいと思います。