省くこと

組織において優先順位を決める際、全体にとって何が最も善いかを考えます。これを全体最適とも言います。その視野が広く深いほど何をやることが最もみんなにとっていいかということが観えてきます。

いくら自分にとって良かれと思っても、自分勝手な行動が全体に大きな影響を与えるのが組織でもあります。形が決められている機械のような組織であれば、自分の持ち場をマニュアル通りに守ればいいのでしょうが、もしも組織が一つの生命体のようなものであればマニュアル通りにしていては反って全体に多大な迷惑をかけることもあります。

だからこそ自ら考えて自ら優先順位を常に確認しながら行動していく必要があるのです。そしてその優先順位は、何を足すかではなく何を引くかということです。今、何をなすべきかを思うこともありますが、何をやらないかということを判断しなくてはなりません。

敢えて、今、何をしないかを決めるということです。言い換えれば、今、何を省くのかということです。これはとても難しいことですがこの判断がその後の未来を決定づけるとも言えます。

経営者は常にその判断をし続けています。やりたいことやしなければならないことは、いくらでも増え続けますし、いくつでもやろうとすればできるものです。そして自分の都合だけではなくいろいろな多方面から有事もやってきますから暇になることはほとんどありません。

その中で、何を優先するかは、如何に理念や初心を忘れていないかといった目的に対する強烈な意識が必要になります。人は反省しないとすぐに流されて自分自身もわからなくなりますから、常に日々に内省を怠らずに何がよくなかったか、何が課題だったか、そしてできたものが何だったかを振り返り続け日々の些事に振り落とされないように自分自身を見つめ直す必要があります。

そういう日々の繰り返しによってそぎ落とされ、刈り込まれ、竟にはシンプルに純粋に、「省く」ことができるようになるように思います。多くの選択肢は反ってその人の判断を迷わせます。

省くことを意識し、最も人生で実現したい目的に向かって日々に磨いていきたいと思います。

省事=政治

中国の名宰相に耶律楚材(1190~1244)という人物がいます。この人物はモンゴル帝国初期に大変活躍した宰相で、字 (あざな) は晋卿 (しんけい) 、諡 (おくりな) は文正といい契丹族に属し、遼 (りょう) の王族の子孫です。最初は金に仕えましたがチンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンに信任されて中書令となり、行政制度・税制などの基礎を確立した人物と言われます。元々、耶律楚材の父は金の宰相でしたが金という国がやがて北方から攻めて来るモンゴル人に攻め滅ぼされてしまうことを父が予測し、いつか息子が他国で必要とされる人物となるようにと息子を「楚材」と名づけたという話も遺っています。

その耶律楚材は歴史にも遺っているあの残虐非道で凶暴な政治を繰り返すモンゴル人やチンギス=ハンを少しでも自分の力で和らげることができたらと自らモンゴルに降り、天文の知識を持ってチンギス=ハンの信任を得、無謀な殺戮と略奪をやめさせるための懐柔策を次々に打ち出していきます。そして政治的な組織を持たなかったモンゴル人に政治の仕組みを教え、文化を持たず文化を軽蔑していたモンゴル人に文化の大事さを三十余年間、根気強く真摯に教え導いたとも言います。あの時代、遊牧民のモンゴル人たちに国家や政治を説く人物があったという事実、このような人物があの国の宰相をしたという事実は歴史上観ても大変偉大なことです。

その耶律楚材に有名な言葉があります。

「興一利不若除一害  一利を興すは一害を除くにしかず。
生一事不若減一事  一事を生(ふ)やすは一事をへらすにしかず。」

これを安岡正篤氏はこう解釈します。

「上掲の言葉はこの偉人の語にしては消極的に感ぜられるかも知れない。然し実際、政治に苦労したほどの人ならば、流石は軍國非常の際に経験を積んだ名相の言だけあることを深く味識するであらう。元來世間の事は雑草のやうに、油断をすれば際限なく生(ふ)えてゆくものである。事件が次から次へと増加してゆくと、その繁雑に紛れて、段々餘裕も反省も無くなつてしまふ。そして結局破滅に陥るものである。絶 えず問題を省みると共に省いて、手にも心にも餘裕を存することが必要である。政治とは省治である。役所を「省」と称することは誠に深意がある。」

政治とは「省く」ことである。この省くということが如何に大切なことか、これは増やすよりも拡大するよりも発展するよりもとても大切なことです。本来のことを守ろうとすれば、本質を守るために省き続けなければなりません。省かないから大変になり本来のやりたいことができなくなります。つい増やすことや増えていくことが価値があるように感じるのが人間ですが、本質を守るのなら省くことが何よりも重要なのです。

「然るに役人政治家ともなれば、功名心に駆られ、人氣を博さうとするから、どう しても何か目新しいことを行つてみたい。整理とか償却とか節約とかいふやうなことは、とんと行(や)り榮(ば)えが無い。そこで「一利を興す」方を好んで、「一害を除く」 ことはなかなか行らない。その中に積弊が手の着けやうもないほどになつてしまふ。 これが革命を誘発するのである。人は、「無事」を祈りながら、何と我から「多事」にして居ることであらう。」

この無事を祈りながら多事をにしているということ、仕合せを求めながらも足るを知ろうとはしないということ、人間の本性を見抜いているようにも思います。

私もわかっていながらもどうしてもこの「省」がまだまだ習得することができません。謙虚に自らの日々の行動や思想を手入れし、常に「省事=政治」を慎んで取り組んでいきたいと思います。我を省き、初心を忘れない実践を積み重ねていきたいと思います。

 

 

覚悟の問

志を立てて歩んでいても機が熟さなければ何をやっても上手くいかないものです。この機とは、時機のことで作物の実が熟すのを待つように収穫できる時機かどうかを見極めなければなりません。同様に作物もよく観察していなければ旬を逃してしまうことがあります。もしくはお腹が空いたからと熟すのを待たずに早くに収穫してしまえば食べれるものも食べれなくなります。自然には時機があり、その時機を待つために自ら努力し続けなければなりません。

渋沢栄一にこんな言葉があります。

「どんなに勉強し、勤勉であっても、上手くいかないこともある。これは機がまだ熟していないからであるから、ますます自らを鼓舞して耐えなければならない。」

志を立てて日々に一歩ずつ努力を続けていますが、報われない日々を過ごしているうちにそろそろいいだろうとか、ここまでしているのにとか、なぜ変化がないのだろうとか、あまりにも結果につながらないと気持ちが弱っていくものです。しかし、そんな時こそ信じて遣り切るしかありません。その信じたことが、後に自信になり時機が来た時に迷いなく熟したということを自覚することができるからです。

信じる力というものは、自分が先に諦めなければそれを伸ばしていくことができます。それは相手を見て信じるかどうかではなく、まさに自分自身の心と向き合って信じるかどうかを決断する日々の覚悟の醸成なのです。

覚悟を決めているのなら物事の結果は外側次第相手次第ではなく、自分次第になるからです。信じるかどうかも自分次第、継続するかどうかも自分次第なのです。自分が信じたように人生がなるといわれているのは、この信じる努力をし続けたかどうかということが人生の中心になっているからでもあります。

信じきれない時こそ、自分を信じる切る努力をすることが継続の本質です。

そしてどんな時でも、信じて諦めずに努力する仲間がいるからこそその仲間に恥ずかしくないように自分を鼓舞して挑戦し続けるのです。道の同志や、仲間がいればもしも自分が志半ばにして斃れても仲間がそれを受け継いでいつか夢を果たしてくれます。もしも仲間が先に斃れたら、自分がその志を受け継いでその志を貫遂するように使命を果たします。

一歩一歩ずつしか歴史は創れず、一日一生だと人生を生き切るしか道は拓けていかないように思います。たとえ一人になったとしても、自分はこの道を歩むか、それは覚悟の問です。継続する中で、今日も何とかやることができたという必死な努力と何とかやらせていただけたという感謝の努力、他にも謙虚な努力、思いやりの努力、信念の努力など色々な努力がありますが努力を継続していきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて徳を遺し福を蒔きたいと思います。

 

国譲りの本質

日本の神話には、国譲りの神話というものがあります。これは出雲の国津神だった大国主が高天原の天津神である天照大神に国土を譲るという話です。ここから日本という国の本源が形成されて今に至ります。

もちろん神話は史実が神話として伝承されてきたものもあると思いますが、これは大局的なものの観方になりますが単に国家が別の国家に主権を譲ったという話ではないのが洞察できます。それは今までの日本人の暮らしを観ればわかります。

例えば、今更自分が国津神だとか天津神だとか言い争う人はほとんどいません。これだけ混血し歴史が混濁すれば、元をただせばみんな同じ民族だとも言えます。それだけ多数の人たちが混ざり合って今があります。どちらの民族の国というよりも、日本はそれだけ民族が混ざり合った国です。しかし今でも大切にしているのは、神社に参拝しみんなでお祭りをし自然に沿った暮らしをすることです。

ここから感じるのは国譲りの本質は、「自然に譲った」ということになります。つまりは、人間優先の世の中ではなく自然を尊重する世の中にしていこうという国家永続の理念を初心にされたということです。

田畑であっても、戦であっても、常に自然を守り、自然を尊重し、その中で慎んで謙虚に行うということ。必ず其処に神社があるのは、杜を守り、澄んだ心を失わないことを維持するためです。

人類が滅びるとすれば、現代のように人間が優先され傲慢になり自然を破壊し自然を尊ばないような生き方になるときだと神話は物語ります。神話はかつて、戦乱の世の中で如何に自然から離れることが危ないか、自然を尊ばないことが破滅を呼ぶかを知っていたのかもしれません。

国譲りに観られるように、私たちは自然に国を譲り、自然の中で自然に見守られ同時に見守りながら歩んでいこうとしました。様々な罪や穢れも大祓いによって清浄化され澄まされていくようにと人間の欲と付き合うための仕組みを工夫していました。

自然から離れないためにも身近には必ず神社という自然の杜を置き、そこにお参りすることで先人の教えや遺訓を言葉ではないその場の教えによって引き継いでいたのでしょう。

人間が自然に譲ることこそが、国譲りの本質なのです。

引き続き、生き方を見つめ直して常に自然を尊重しながら文化を高めていこうとして先人に習い、日々を精進していきたいと思います。

 

永続する思想と技術~自然の叡智~

経営論を勉強した人の話と実際に経営をした人の話は、その体験からの学びが異なります。実際に経営をしてみてはじめてわかるものが多い中、先に勉強をしてしまうと本来素直に学べるものが学べなくなるものです。

結果や問題を気にするあまり、先手先手と先を読んでやっていくようですがそのノウハウによってなぜそれをする必要があるのかということが分からなくなるものです。何でも思想と技術のバランスが大事で、どちらかに偏ることはできません。

例えば、思想に偏れば技術がついてきていませんから空論ばかりが空回りします。思想を語れて教えることができても具体的な技術がなければ相手は救われません。また逆に技術だけを指導してできるようになっても、その背景にある思想を理解しなければその技術を相手は正しく実行できません。

思想があって正しい技術を持てるようになるためには、体験を通して一つ一つの意味を積み重ねていく必要があるように思います。その積み重ねの中で本当の楽しさや豊かさを知り、思いやりが出てきます。技術に優しさが着いてきていたり、思想が丸く柔らかくなっていたりと、その人物の人格が磨かれていることに気づきます。

何のために思想や技術を習得するのか、それは誰もが「仕合せ」のためであるのでしょう。人が仕合せになる、地球が仕合せになる、そういう思想から生まれた技術は自然の叡智に従った素晴らしいものばかりです。しかし自分さえよければいいと思ってつくられた技術はやはりどこか自然から乖離した危険なものになるように思います。

先人たちがどのような文化を創ってきて伝承してきたかを思う時、戦争に使われるような技術や思想、そしてみんなを仕合せにするような技術や思想ではその生産しているものが全く異なることに気づきます。

人間がコントロールすることができなくなっているほどの技術や思想が欲と合わさり取り返しがつかないところまで来ているようにも思います。本来の在り方、先人たちが守ってきた古きよき伝統を改めて学び直しながら永続していく思想と技術を伝承していきたいと思います。

徳の系譜

自分の先祖のルーツを辿っていると不思議ですがその間にいる別の先祖たちの生き方が似通っていることに気づきます。これは子孫の私に限らず、目指している生き方や求めている生き方が似ているのです。

例えば、天皇を守護し続けた先祖がいた場合、その後もずっと誰かを守護するような働きをしています。そして神官や僧がいる場合、その後も篤い信仰心で神仏に仕えます。科学的には証明できなくても、先祖や先人が生きた生き様や求めた道をそのまま子孫が継いでいるのではないかと思うのです。

私たちが先祖を知ることの価値は、大変偉大なものです。なぜなら、今の自分に流れている血脈や道筋や志の中に一生を懸けて繋いでくださっている人がいると実感することで今の自分の判断基準が確かなものになっていくからです。

そしてなぜか惹かれる場所や、歴史、物語、人物、仕事や神仏などもそれらはすべて過去の歴史で深い御縁が結ばれているところが多いからです。それに今、自分と出会っている人々もむかし深い御縁があった人たちが多く、かつてはお互いに協力したり敵対したり、家族になったりと様々な関係を持った人たちがいます。

それだけの深い御縁がある人たちだからこそ、自分の個人だけの狭い視野で個人の物差しだけで判断しないよう、全体から鑑みて本来の深い御縁を噛み締めていく必要があるように思います。

そして過去の栄枯盛衰を観る中で、何を最も大切に生きていけばいいか、何を継いでいけばいいかという本質に出会うのです。

先祖があって今の自分があるというのは、その徳に恵まれているということです。その徳を自分が高め、如何に子孫へと譲り渡していくか。いくら財産や財宝があっても、そんなものは長続きしないことはすぐにわかります。だからこそこの徳というものをよく観て、子孫にその大切さを伝承していく必要があるのです。

先祖の系譜を辿ることは、徳の系譜を辿ることです。

引き続き、徳を遺し譲れるように残りの人生を大切に使っていきたいと思います。

自立と自律とは

先日、あるお客様の創始理念のお話をお聴きする中で自律と自立について深める機会がありました。

この自律と自立の話というものは、個々人の成長の話などでもよく出てきます。自律の対義語は他律で、自立の対義語が依存です。しかしこの自律と自立の話はどこかその前提が崩れているような気がします。

そもそも自然界において自律や自立などというものがいちいち頭で理解してやっているものか。自然は絶妙なバランスの中で存在しています。そこには自然に自律も自立も存在します。これは地球が自らいのちを維持しているからです。そしてこれは人間の体でも同じです。人間の体は、いちいち意識していなくても自ら呼吸をし心臓を動かし体温を調節していのちを維持します。何もしていなければ、自然に体はバランスを保とうとします。

しかしこのバランスが崩れるのは、自分の体が不自然なものに囲まれ不自然なことを取り込んでいくからです。本来、体の声を聴いて無理をせずに自然に健康を維持していけるのなら自律できている状態がいつまでも維持できます。しかし最初から不自然だからこそ自律することができないのです。

農業であれば、自然にしていれば自然治癒自然浄化があるものが農薬や肥料を足して無理に増産したり変化させようとするから自律できなくなります。よくマネージメントで自律のことを語りますが、本来不自然なことをする環境があるのに自律がと個人に強要するのは勝手な利害の押し付けであることは明白です。

本来の自律とは、調和のことで如何に自然から離れないで生きていくか、足るを知り分度を守り、分限を超えるものは人に譲り、みんなと一緒に安心した社會を維持していくことです。

そして全体調和の中で自分も周囲と一緒に生きていくことを自立といいます。自然では、花と蝶の関係や、土中の微生物のようにお互いを活かし合う関係、お互いによっていのちを助け合う関係、思いやり生きていく関係、つまりは共生していくことが自立です。

生き物はそれ個体だけでは生きていくことはできません、私たちは全体の一部として働き、その尊いいのちを分けてもらっている存在です。その中で精いっぱい自分を生きていくことは、自分のいのちを社會や全体のために使っていくことです。それは感謝でもあります。自分が生きられる御蔭を感じながら生きることができるのならそれが自立でしょう。

自立と自律の本質を間違えてはならないと思います。人間至上主義のように人間が傲慢になればなるほどに、その意味もはき違えられていきます。謙虚にいのちとは何か、人間とは何かを深く見つめれば自ずから自立と自律の本当の意味も観えてくるように思います。

引き続き、見守る大切さをカタチにしながら子どもたちが安心して生きていける社會を醸成していくためにそのお手本になるような生き方を実践していきたいと思います。

 

 

光を磨く

私たちは光を見て、物を確認することができています。これは光を見て脳が認識しているとも言えます。光が一切入ってこない真っ暗闇の中では何も物は見えません、それは光がそのものに反射しないからです。私たちは光の強弱などによってその物体を立体的に脳が認識して捉えることができるのです。

不思議ですが、その光が差し込んできて出てきた物体を見ると時にはそれが美しく感じ、時にはそれが儚く感じます。光というものを通して、その物を透かし見ているのかもしれません。光はいのちを透過させるようにも思います。

この光を見るためには、感性を磨く必要があります。言い換えれば、磨くことで光を観る感性が豊かになります。例えば、どんなものでもしっかりと磨けばそれは光ります。それが砂浜の砂であっても、貝であっても、または骨董品のようなものであっても、綺麗に磨けばそのものは光ります。

この時、光るのは私たちが光を観る感性が磨かれているからです。何も磨かなければただ眩しいだけですが、しっかりと磨いている人にはその感性によって光が本質を映すのが観えるように思います。

私たちは、四季の暮らしの中で様々な光を観ています。その光を観ることで、同じ空間であっても気配が全く異なり、同じ場所であってもまったく違った景色を観ることができます。つまりは、光を通して日常の一期一会を味わっているのです。

その光は、磨かれる場所や磨いている場所でこそ光そのものの美しさが出てきます。この光が集まる場のことを人はパワースポットと呼びます。つまりこのパワースポットとは磨き切られた場所のことを言うのです。

自分を磨く人は、その場によって磨かれた自分の感性を静かに見つめます。そして未熟さを知り、また磨き直していきます。このように神社や場を巡ることは、光に出会う旅路でもあります。そして光は私たちの生き様を通して灯りになります。

いつの時代も光を求めて人々は、集まりそして感性や魂を高めていきます。いのちのテーマは、永久不滅の理です。それぞれのいのちを活かし、子どもたちの持ち味を見守り続けられるように私自身の光を磨き灯りを守り続けていきたいと思います。

橋を架ける

現在、復古起新をしつつ暮らしを甦生させ子どもたちの未来に大切な日本人の心をつなごうと試行錯誤を繰り返しています。歴史を学び、先人たちの真心を読み、空間の中に佇んでいる言霊など、目には観えないものを手繰り寄せながら一つ一つを科学的にまた理論的に言葉にして整理することを続けています。

ユダヤの格言に、「自分の言葉を自分が渡る橋だと思いなさい。 しっかりした橋でないとあなたは渡らないでしょうから。」というものがあります。この言葉や文字もまた橋であり、その橋をしっかりと架けなければ人々はその橋を安心して渡ることができません。

よほどの勇気のある人でなければ濁流の滝つぼの上にある曖昧で不確か、そして今にも崩れそうで危うい橋を渡る人はいません。人々が渡る橋は、あちらとこちらが完全に繋がっていて安心して歩んでいける橋でしょう。その橋をつくるには、まず最初に自分が向こう側に渡る必要があります。そして渡ったら次にそこに橋を架ける必要があります。その橋が架かったのなら、最初は背中を押して一緒に渡っていける人を増やしそのうえで渡れた皆に協力してもらい向こう側とこちら側が安心して交流し行き来できるような立派な橋にしなければなりません。その後はその橋がまた崩れることがないように手入れを怠らずさらにその橋を見守り続ける環境を育てていく必要があります。

この橋を架ける仕事というものは、「つなぐ」ことです。何と何をつなぐかといえば、私でいえば歴史と今をつなぎ、子どもと大人をつなぎ、経済と道徳をつなぎ、自然と人間をつなぎ、人の心と心をつなぎ、世界と自分をつなぎ、文化と文明をつなぎ、目には観えないものと目に見えるものをつなぎます。

そしてこの「つなぐ」というのは、橋を架けるということです。

橋を架けるために、私はこのブログをはじめ、橋を架けるために自分に与えられたすべてを使って自分にできることを遣り切っています。その橋掛けは果たして何年、何十年、況や何百年、何千年かかるものなのか・・・考えると遠大で目が眩みます。

しかしその過程もまた橋になる途上ですから、その橋を架けることを豊かに歓びに換え渡る人たちのことを考えて丹誠を籠めて取り組みたいと思うのです。

日本人の仕事が世界で評価されるのは、後世の人に恥じないような仕事をすることです。私も目先の流行や、様々な我欲や、人間関係に惑わないように空を高く眺め、天の星の見守りを背中に感じながら橋を架けていきたいと思います。

この先も子どもたちが通る未来を楽しみに、橋を架ける人としての人生を歩んでいこうと思います。

質の本質

最近はよく「質」(しつ)に関することが話題に上がります。この「質」とは、本質のことで質が高いというのは限りなく本質に近いということでもあります。この「質」という言葉の成り立ちは価値の釣り合う+金銭が合わさる会意文字であり信に通じ「まこと」の意味を持つともいいます。

具体的に辞書を調べれば、 そのものの良否・粗密・傾向などを決めることになる性質。実際の内容。「量より質」「質が落ちる」 生まれながらに持っている性格や才能。素質。資質。「天賦の質に恵まれる」「蒲柳 (ほりゅう) の質」 論理学で、判断が肯定判断か否定判断かということ。 物の本体。根本。本質。「結合せるを―とし、流動するを気とす」〈暦象新書・中〉 飾りけのないこと。素朴なこと。「古今集の歌よりは―なり」〈歌源〉(goo辞書)とあります。

「質」とはそのものの本体でもあり、変わらぬ真実とも言えます。その本質が分かること、真実が観えていること、その真実に沿って取り組むことが質を高めることになります。

ではなぜ質が下がるのか、質が低くなるのかといえば真実から遠ざかっていったり、本質とは関係ないことをやりはじめるからです。その理由は、人間の個々の我欲や保身によることが多いように思います。

例えば、人間は「足るを知る」ことができれば豊かで質の高い人生を歩むことができます。それぞれが自らの分度を定め、十分に満ち足りているという暮らしを優先することができれば暮らしは人類の本質に近づいていきます。そこには助け合い思いやり、分け合い、尊重され、お互いが自由に幸福を味わっていくことができます。

しかしひとたび、「足るを知らず」、まだまだと欲望を際限なく肥大化していけば自ずから暮らしは消失し、貧しさが増え、人類の本質から遠ざかり比較、競争、画一化、奪い合いと不自由から不幸が増大していきます。

「質」から考えれば、本質的で質の高い暮らしは足るを知ることです。つまりは「質」を高めようというのはより原理原則に沿って真実に近づいていこうという生き方をしようということになります。

質が求められるというのは、それだけ本質的ではないことをやっているからです。今の時代は、本質であることよりも市場経済や金銭の獲得を優先するばかり本質ではないことの中で質を語られます。何をもって質なのかということすら、議論されることも少なくなっています。

そもそもそれは本当に必要なのかとそれぞれが足るを知る議論ができてはじめて、質とは何かということを考える入り口に立つことができるのです。物が増え、欲望もキリがなく、資本主義に呑まれ人類の手に負えなくなっているほどの今日、「質」について真剣に取り組む必要があると私は思います。

子どもたちの本質は何か、そして質の高い保育や暮らしとは何か、それを信念と実行で取り組んでいく本物の人物たちが次の時代を切り拓いていきます。私たちもその時代を創る一人になれるように、本質を見極めながら実践していきたいと思います。