足元の価値

人は物事に躓くほど自分を見つめ直す機会ができるといいます。それは様々な事柄から目を逸らしてきたから余計に足元を見つめ直す必要が出てくるのかもしれません。

今できることを、今改善できること、今しかできないことをやろうとはせずにできないことや、何か簡単に解決する方法ばかりを追いかけてしまうと大切なことから目を逸らしてしまうものです。

人間は自己中心的ですから、主観的に物事を観ては願望のバイアスがかかっていくものです。こうであればいい、こうあってほしいなどの理想が高ければ高いほどに現実から目を逸らしてしまうものです。現実から目を逸らせば、必要な努力や改善とも向き合いませんから反って理想から遠ざかる一方です。そういう時こそ、足元を見つめ直す必要があるように思います。

この足元を見つめ直すには、客観的に現状を把握し何をどう改善すればいいかという手を一つ一つ丁寧に取り組んでいく必要があります。一発逆転や、一気に問題解決などの安易な方法論に引っかからずに、何をどこから改善し、その改善をどのように今後に活かしていけばいいかといった地味な手を打っていくしかありません。

主観が入れば入るほど、現実から乖離した手を打とうとしますから現実の直視は何度も何度も自己と正対し謙虚に受け止めていく必要があります。理想から遠ざかることを恐れて抵抗し、こんなはずではなかったといくら責めても解決することはありません。現実から逃げても、現実は必ず目の前に現れるのです。

如何に現実の厳しさを謙虚に受け止めて、自分の本当の問題に向き合うか。いろいろな感情が邪魔すると思いますが、その現実を受け止める力こそが真剣さを本物にし、本気を発揮させる力の源泉になります。

もしも自分でできない場合は、信頼できる人に現実を一緒に見つめてもらって課題や問題を整理する時間があってもいいかもしれません。人間は一気に力技でいこうとするときこそ現実を直視しなくなる予兆ですから注意する必要があります。足元を見つめることは一人で向き合いながらも、一緒に向き合ってくださる人があることに感謝することかもしれません。

足元の価値を大切にし、子どもたちのために信念と実行を優先していきたいと思います。

見世蔵造り

旧長崎街道にある聴福庵の近くには、土蔵造りの古民家がまだいくつか遺っています。この土蔵造りのある街道の街並みは圧巻ですが、今ではその街道も廃れ街並みも大きく崩れてきています。現在では、便利になり住みにくいといわれる古民家も少し前までは暮らしやすい家として重宝されていました。

その一つに、この土蔵造りがあります。

この土蔵造りを辞書で調べると「建物の外観が土蔵のように大壁(おおかべ)で塗り籠(こ)めて、柱などの木の部分を露出しない造り方をいう。耐火性があるため、近世以降は土蔵だけではなしに町家の店舗にも用いられた。壁は柱の外側に間渡(まわたし)を打ち付けて塗られる大壁となるため、大壁造ともいう。また、近世の町家にあっては、一階部分は柱を露出するが、二階は土蔵造とし、窓の格子や軒裏の垂木(たるき)も塗り籠めたものを塗屋造(ぬりやづくり)という。江戸時代末期には、とくに耐火性を考慮して壁を厚くして、窓にも土扉をつけ、一見土蔵風にみえる店舗がつくられる。これを店蔵(みせぐら)とよび、土蔵造の典型的なものである。」(日本大百科全書の解説より)

先日、ご縁があった近隣の古民家はこの見世蔵様式で建てられています。この見世蔵とは、江戸期からの商店建築様式のひとつで土蔵つくりですが用途は蔵ではなく店舗として利用されてきました。外見も妻入りではなく桁方向を前面開口し、たたきと畳座敷で構成され、その2階には座敷があります。

この見世蔵の魅力は、漆喰の清涼感と見た目の重厚感です。1階部分は格子戸が設けられ外から中が覗くことがことができるようになっています。土間がある1階部分で商売をしたり、人が往来したのがわかります。本来の土蔵に比べたら火災の際の耐火性能は劣っても土壁でできているので夏の湿度が低くて涼しく感じられ木造住宅よりは耐火性能が高く火事に備えたのがわかります。

この聴福庵のある地域は、150年前に火災がありこの街道沿いの建物はほぼ全焼したということを聞いたことがあります。その時の教訓から土壁造りにしたのかもしれません。

改めて古民家を深めれば、なぜこの建築様式になったのかなどを調べていると歴史的な情緒を感じます。当たり前に疑問を持たない日常の些細な歴史的な建造物も、その意味や理由を考えてみればそこには浪漫があります。

引き続き、ご縁を辿りながら日本の文化を深めてみたいと思います。

 

犬矢来と駒居~風情の仕合せ~

昨日は、聴福庵にある犬矢来(いぬやらい)に柿渋を塗り込み掃除や手入れを行いました。この犬矢来は、駒寄せとも呼ばれ本来は馬が家の塀を蹴ったり犬のオシッコなどで汚れるのを防ぐというという目的があったようです。木で格子を組んだ型・丸竹を数本並べた型・割竹を並べた型などの様式もあるといいます。竹が曲げてある形は滑って壁を登れないことから泥棒の侵入を防ぐ効果もあったようです。

京都にいけば町屋が並ぶ通りにはこの犬矢来や駒居がならび独特な日本の和の風情を醸し出します。先日は、離れの犬走りを玉砂利で敷き詰めましたが同じ「犬」の字がつくこの犬矢来は、犬を追い払うやらう(やらい)という意味で、駒居は馬を寄せるという意味からできた言葉です。現在では雨垂れが飛び散り家の壁を汚したり腐食したりすることを防ぐ効果からも用いられます。

この犬矢来を聴福庵に取り入れるキッカケになったのは、聴福庵は町家づくりのためその原点になっている京都の町家建築を学び直すでその美しさに惹かれたからです。京町屋にある壁伝いに巡らされた駒寄せや犬矢来のある美しい町並みをみていたらその街並みの調和に感動したからです。そこに竹の清々しさや柔らかさ、そして町全体の暮らしを感じることができたからです。

現在では竹製品は少なくなってきましたが、むかしは物が不足していた時代の無限の資源として短期的な成長力があり生産性がもっとも高かった「竹」を暮らしの中で十分に活かすことを考えて竹を用いました。このことからむかしは日本の家の中外のほとんどに竹製品が彩られていたのです。

聴福庵も箱庭には竹垣や観音竹を、側道には黒竹や黄金竹を、玄関には京都の竹を用いた犬矢来、厨房の天井には年代物の煤竹、花籠、竹団扇、竹箸、それに火吹き竹や竹炭装飾に至るまで家の中はあらゆる竹に関係しているものが活動しています。

よく考えてみれば日本人の風情の中に「竹」は欠かせない存在です。それは日本の気候風土が湿度が高く水気が多く腐りやすいからです。その点、竹は水に強く丈夫でいつまでもしなやかに経年変化の中で長持ちする特徴があります。

現在グローバリゼーションや資本主義経済優先の中で、大量生産大量消費して世界中どこでも同じものを安く使い捨てする世の中です。本来の気候風土に合ったものを捨て、プラスチック製品や安易に製造できる化学製品を買い求めます。しかしそのことから、無駄を生み出すだけでなく風土の中で豊かに生きる智慧や風情をも捨てていきます。

生きていく仕合せの中心は、暮らしがあることです。暮らしがない人生は味気もなく、無機質なロボットのようになってしまいます。本来の人間として与えられた感性や地球や自然と一体になる喜び以上に豊かなものはありません。

引き続き子どもたちに、譲り遺していきたいものを丁寧に治し、そして活かし、温故知新していきたいと思います。

真心の日々

人は初心を忘れずに実践をし続けることで道を歩んでいくことができます。道には終わりがないように実践にもまた終わりはありません。実践も日々である理由は、道を歩くのと同じで少しずつでも歩き続けていたら前進していくからです。もしも歩くのをやめたり、休憩ばかりして歩まなければそれが十年、三十年、五十年という歳月が経ったときには遠大な差になっているからです。その差は人生の本質に影響を与えます。

人間は何度も生まれ変わります。その生まれ変わりは、先祖から今に至るまで数百年数千年、数万年、それ以上の歳月をかけて歩み続けてきた道です。人類の成熟に向けてどこまで自分がその道をつなぎ歩んでいけるかは、それぞれの人生に課せられた偉大なテーマであろうと思います。

よく仕事と人生と分けないことを、実践を通して語りますがこれは分けることで本質が失われてしまうからです。これは仕事、これはプライベートを分けるのは自分の知識であり、本来はどれも人生なのだからどれだけ本気で人生を生き切るかということになります。

もしも初心があり日々を歩んでいくのなら、分けずに何でも来たものを選ばずに今に集中して今を生き切ることが必要です。言い換えればそのどれにも必死になって努力し楽しむ人生を歩んでいくということです。

人生の時間は誰にも平等で、その人生にはいつの日か終わりが来ます。そして今一緒にいる仲間やパートナーや縁者たちとのお別れの日が必ず訪れます。今しかできないこと、人生としてやり遂げておきたいこと、そのどれにも妥協せず、言い訳せずに、これも人生であると言い切れるように日々を実践で彩っていきたいものです。

いつ死んでも悔いのない生き方の中に、真心の日々があります。

子どもたちのためにも真心の日々を磨いていきたいと思います。

変わらぬ思い

昨日、聴福庵にタマリュウ(玉竜)を植えました。このタマリュウ(玉竜)は「ジャノヒゲ属」に分類され「ジャノヒゲ(蛇の髭)」は別名「リュウノヒゲ(竜の髭)」と呼ばれます。よく間違えられますがタマリュウはリュウノヒゲの中の1品種です。

このタマリュウ(玉竜)は、葉も綺麗ですが花を咲かせ美しい青い実をつけることで知られます。そして古くから縁起のよい植物として重宝されてきたといいます。薬としても知られており、鬚のような根のところどころにある小さなイモのような部分は、麦門冬という生薬となり、強壮、咳止めに効果があるとされています。

また本州以南に自生するユリ科の常緑多年草であり、以前近くの山の中で採取したことがあります。本来は、葉が長いものが多いのですがこのタマリュウは園芸用に葉が短くなるように改良されてきたものです。

松と同様に冬にも枯れずに青々と光る葉が美しいと感じたのかもしれません。また夏の日照りにも強く、繁殖も強いこともあるのでしょう。むかしから日本の先祖たちは、身近に縁起が良いものを置き、その福に肖ることで様々な福を取り入れてきました。

福はもともとはすべて自然の中にあるものでその自然の福が豊かであるようにと願い祈り続けて子孫を繁栄させてきたのかもしれません。禍転じて福にするという諺にあるように、私たちは常に福を意識して心の持ち方や生き方を学び続けていくのかもしれません。

このタマリュウの花言葉は「変わらぬ思い」「深い心」「不変の心」。いつまでも初心を忘れずに子どもたちのために復古起新するぞという決意と共に聴福庵を見守っていきたいと思います。

居場所

人は自分の居場所を感じることで心が安らかになるものです。しかし自分の居場所がなくて辛い思いをしている人もたくさんいます。過剰に周りを反応を気にしたり、どうせ自分のことは嫌われると決まっていると思い込んだり、もしくは本当の自分をつも我慢して無理をしていたりすると余計に居場所がなくなるものです。

そもそも居場所というものは、自分が居てもいいとゆるせる場所のことでもあります。ここに居てもいいとゆるされているというのは、自分のあるがままでいいと自分が感じられるということです。

自分のダメなところばかりを自分で指摘し、自分がダメだから居場所がないと思い込んでしまうループは余計に居場所をその人から奪うものです。こんな自分でも仲間は許してもらえる、こんな自分でも愛してもらえるといった自分への受容は、そのまま周囲の人たちへも居場所を提供することになります。

実際に自分の居場所がないと思い込んでいる人は、同時に周りの人の居場所もなくしてしまうような対応をしてしまうことがあります。例えば、自分から本音を隠して我慢すれば同時に相手の本音も遮断し相手に無理をさせていくという具合です。

だからこそ、自分のような存在を認めてくださっているという周囲の思いやりや温もりを感じたり、同時に自分からどんな欠点や弱点、短所がある人のことを愛する訓練が必要です。それは言い換えれば、丸ごとの自分を愛することやあるがままの自分も許してあげるという受容がいるのです。

一円対話の中で、傾聴、共感のあと受容があります。この受容とは、すべてを丸ごと認めてあげることでそのままでいいとゆるしてあげることです。言い換えれば、その人の長所も短所も転じてあげて認め褒めたたえるということです。

理想が高い人はすぐに自分を責めていきます。自分の身の丈を超えて努力してきた人ほど、理想との自分と現実の乖離がゆるせないものです。そのために自分を責めては、「これではダメだ」と自分自身に鞭を打っていきます。そうやって自虐を続けているうちに自分の中にも居場所がなくなり一人になってしまいます。

内面の自分との関係を良好に保つことができなくなれば受容することはできません。受容するためには、常に自分との対話を通して「ゆるす」ことで認めそこからお互いにカバーし合って助け合っていこうねという風土を醸成していく必要があります。

仲間と助け合う風土は、ダメ出しするのではなく認めて肯定しゆるすことで生まれます。自他を責めず、そういう時こそ「課題が見つかってよかった」と認めたり、「長所が分かってよかった」とほめたり、「学び直していこう」と改善したりすることで居場所はできます。

比較競争社会の中で、居場所がなくしている真面目ないい人たちが苦しまなくていいように家族のようなぬくもりのある社會に近づけていきたいと思います。

何をするかよりも何のためにやるのか

人間には大きく二通りのタイプがあるように思います。それは何かをするときに、何をするのかを考えるタイプ、そして何のためにやるのかを考えるタイプです。前者は、やることが目的であり結果を出すことが大事です。後者は、なぜやるのかが目的であり何のためにやっているのかというプロセスが大事です。もちろん本来は両方とも大切ですが、この順番がどうなっているのかで物事の本質が変わってきます。

この「何のために」ということは、自分自身の初心を確認するものです。例えば、同じ質問であっても何をして働くのかと何のために働くのではその問いの意味が異なります。

何のためにというのは、働くことへの原点でありその気持ちがあればどんな職種であっても仕事であってもあまり影響はないとも言えます。しかしこれを自分と向き合っていなかったら何をするのかが重要であり、業務や職種に依存してしまうことにもなります。もちろん、何のためにと追求していくのなら次第にその人の仕事が本質的になりますから業務も職種も近づいていき気が付けば相応しいものになっています。

つまりは人間を観るのに大切なのは、その人の肩書や立場、結果ではなくその人がなぜそれをするのか、そしてその人が何のためにそれをするのかを確認することです。

それを観ずにしてやっていることだけを見ていたらその人間が本当はどのような人物で何をしたいのかが分からなくなります。そしてこれは当然相手だけではなく、自分自身にも確かめ続ける必要があります。それもまた初心なのです。

初心の確認というのは、お互いに本質的であり続けようとする確認でもあり、人生の方向性を見誤ることがないようにお互いにそれぞれ何のために生きるのか、何のために働くのかを忘れないようにし、その人の本質を観続けて助け合っていこうとする相互理解・相互扶助の道徳の仕組みなのです。

私たちが行う一円対話は、聴福人が本質を問い続け何のために働くのかを忘れないために初心の振り返りを行うのです。人間は、忙しくなりすぐに流されて心を亡くしてしまうと初心を見失います。何のために働くのかを忘れるから、心が疲れてくるのであり、何のために生きるのかを忘れるから好奇心が減退し面白くなくなってくるのです。

常に本質を見失わない工夫こそが、人格を高め人格を磨きます。真実の人たちを守っていくことが子どもたちの未来への偉大な布石になります。

引き続き、何をやるのかではなく何のためにやるのかを発信し続けてこの世の中に本物の価値を伝承していきたいと思います。

まちづくりの原則~復興の本質~

かつて二宮尊徳は荒廃した村を復活するのに、優先するのは「心田開発」であるといいました。その理由は、先に心が荒廃するからその結果として村々の荒廃があるというのです。よく考えてみるとこれは現代のまちづくりでもまったく同じことが言えます。

なぜ過疎が進み荒廃していくのか、そして都心でもまちが乱れていくのか、それはそこに住む人たちの心が大きな影響を与えています。例えば、まちづくりであればそれぞれが主体的に暮らしを整え、美しい生き方や、心豊かに生きようとするのなら、その場所は次第に暮らしに向いていく場所になります。しかし、そこに住む人たちの心が荒んでいけばゴミを捨てたり、周辺住民と紛争ばかりを繰り返したり、不平不満や不安や恐怖を感じていたらそのまちは荒んでいくのはわかります。これはすべてにおいて人々の「徳」の影響が出ているのです。

別に今と昔は大差なく二宮尊徳のいた時代も同様に、村が荒廃するのはその村の人たちが心が先に荒廃していくからその結果として村が荒廃したのです。今の時代も同様に、まちの人たちの荒廃がまちの荒廃になっているのは自明の理です。まちを治したいのであれば何を治すのか、まちづくりのするのならその大前提になっている価値観そのものを丸ごと転換しなければならず、前提が変わらずにちょっとやったくらいでは焼け石に水なのです。だからこそ二宮尊徳の時代も為政者に覚悟があるかどうか、本気で腹を決めたかどうかを大切にしたのです。

どんなまちにするのか、どんな村にするのか、それは村や町をどのように経営していくかという視点が必要です。それは会社経営と同様に、どのような会社にしていくか、その覚悟を決めたら、その理想に向けて社長を中心に社員と協力してコツコツと取り組んでいくしかありません。そういう地道な努力があって最終的には物事は開花しますから何を目指しているのかどんな未来にしたいのかと定めたら、あとは時間と努力の掛け算があるだけです。

例えば、株式会社でいえば数字だけを追っかけて社員の大切にせず利益だけのために過酷なノルマを課していればブラック企業のようになります。これはまちづくりも同じで、財政赤字の解消のために町民を大切にせず利益だけのために税金ばかりを課しているのならブラック行政になります。会社ならそこに働く人たちは心身が病んだり、退職や転職をし、その会社も衰退し倒産します。これはまちづくりも同様のことが置きます。原理原則や法理というものは、別に会社やまちに関わらずすべて自然の摂理ですからそのままのことが起きるだけです。

会社経営ならば、よく一人ひとりの社員の声を真摯に聴き、どのような会社にしたいかを定め、みんなで協力して協働しながら安心して働けるような環境に変えていく。そしてその会社で暮らす仲間たちやお客様が仕合せになるような働き方をみんなで一緒に実践して心豊かに日々の努力のプロセスを楽しんでいく。そういうことを同様にまちづくりでも行えば必ずその「まち」は会社経営と同様に時間の経過とともに善くなっていきます。

そういう意味では、誰の会社なのか、誰が経営しているのか、なぜそうしたいのかということが観えない「まち」が多いように思います。そもそもの理念がはっきりしない、そして誰にも浸透していない、何のためにそれをやるのかをみんな知らない、個々がバラバラで好き勝手やっているのではまちづくりなどできるわけはありません。何を優先するかも定まらないのでは、その取り組む順番など無茶苦茶で未来のグランドデザインなど組めるはずもありません。

二宮尊徳が村々を復興させていた時代も、村の荒廃によって住民たちが苦しみました。住民が苦しんで貧困の極みにおいて、報徳仕法という仕組みが実践され村々は復興しました。その時、二宮尊徳が一体何から取り組んだか、まちづくりに取り組む人たちは目先の効率や流行りばかりを追っかけるのではなくもう一度、復興の本質を深く見つめてほしいと思います。

私も子ども第一義の理念で取り組んでいく以上、子どもたちが自立して安心して暮らせる世の中を譲り遺していきたいと思います。引き続き、むかしからの日本的経営と暮らしの甦生を復古起新しながらできることをコツコツと取り組んでいきたいと思います。

 

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。