心の持ち方を変える

以前、ある方から心の持ち方としてコップのお水のお話をお聴きしたことがあります。コップに水が半分入っているとして、ある人は「コップには半分しか水が残っていない」とし、ある人は「コップにはまだ半分も水が残っている」とし、またある人は「コップに水があるだけで有難い」という人がいるという話です。

これは物の観方のことで、見方を変えれば見え方が変わるだけではなく心の観え方が変わるということを示唆します。つまりは、心の持ち方次第で観えている世界が変わるということです。

これを社会学者であるP.Fドラッガー氏が語ると「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」というように「イノベーション」(意識の転換)ということになります。

そもそも立っている場所が変わらないのに、観ている世界が一瞬で変わる。意識の転換とも言いますが、これが価値観の変化であり、すべての在り方を変革させてしまうということです。

私の思う変化というものは、単に成長した先にあるというものではなくある時突然に意識が変わってしまうという具合にそれまでと物事の捉え方がまるで変わってしまうときに変化したというように定義しています。

人は観え方が変わらない限り、次第に窮屈になりマンネリ化し、狭く囲まれた常識や枠の中で閉じこもってしまいます。その枠を外すには、無理にその枠から出ようともがくよりも先ほどのコップのように物事の観方の方をさらりと変えていく柔軟性を持った方が変化がしやすいように思います。

楽観的で気楽な人は、それだけ物事の観方を転じやすく心の持ち方を変えるチカラが高い人のように思います。マジメにあまり無理をしてやっていてもより追い込まれてしまうだけで、そこから革新的な発想は生まれにくいものです。

そういう時は、先ほどのコップのようにないものを見るのではなくあるものを観ること、そして足るを知り感謝で生きていこうとすることで心の持ち方を変えていくことができるように思います。

どうにもならない現実(常識)を変えるのは、悲壮感ではなく前向きな楽観性です。まだあると、ある方を観ることができるのなら発想もアイデアも無限に湧いてきます。頭で考えすぎたり、恵まれすぎていたりすると、人は謙虚さを失いないものばかりを追い求めるようになるのかもしれません。失っているものばかりを見るのではなく残っているものを観る方が豊かだし、遺してくださったと感謝する方が仕合せです。

人間は時代がどんなに変わって環境が変化したとしても心の持ち方次第であり、どんな時もあるものを観て心で有難さを感じいただいているご縁に感謝しながら生きていくことで道が拓けていくように思います。

難しいことに挑戦していくからこそ人生は遣り甲斐も生き甲斐もあります。楽しく豊かに心の持ち方を転換しながら自助錬磨を味わいたいと思います。

つながりの意味~ご縁に生きる~

「つながり」という言葉があります。この「つな」は、「綱」ですが綱を作るので植物の蔓の蔦(ツタ)を使ってきたものとあります。綱は、縄や紐よりも太く強いものです。「繋がり」の意味もこの綱を絡み合わせていくというところから出ている言葉です。そして切っても切れないほどのつながりのことを「絆」とも言います。

この「つながり」は、遠い先祖から今に至るまで出会い様々な物語を体験してできた魂や心のつながり、そして様々なものが不思議に絡み合って形成し続けているつながりがあります。

例えば、今身の回りにあるものもそれを発生したものは過去の何かとつながり存在しているという事実。またこれから新しいものとつながりこの後に存在を創造していくという事実。あらゆるものの実相は、このつながりに由って存在しているとも言えます。

しかし私たちは、目に見えるものしか信じなくなってくると目には観えないつながりの方を感じようとはしなくなっていきます。歴史や過去を遡り、自分の身の回りにあるものとのつながりを感じようとも思わなくなります。そうしているうちに、つながりが分からず、なぜ今、それが其処にあり、一体何の意味があるのかということにも思いを馳せらず、ただ起きた事象に一喜一憂しているだけになってしまいその意味を深めていくことを怠ってしまうものです。

人は出来事や事象、その存在を深めるとき意味に出会います。

その意味は、何をつながっているのかと感じるとき全体的に何を体験したがっているのか、またその体験をする理由を悟るようにも思います。人生は何度も何度も似たような体験をしながらも、もっとこうやりたいや、もっとこうしたかったというやり直しがきくのです。

だからこそ、人生は面白くその意味を深めながら何度も思い出とつながり、味わえ楽しめるヒントやチャンスを得ることができるように思います。つながりを感じて生きていく人は、心安らかであり、平和を感じます。

このようなつながりのことを日本人は「ご縁」と名付けました。

ご縁を得ることで仕合せを味わい、ご縁を結ぶことで心の平安が訪れる。ご縁を大切にして生きている人は、どのような時代であったとしてもその人生において福を得ているのかもしれません。

引き続き、ご縁を大切にしながら自分の天から与えられた使命を全うしていきたいと思います。

見守り続ける意志

むかしから「守る」という言葉は、私たちの暮らしにとって欠かせないものでした。何かを守ろうとする人は、守る意志を持っている人です。この「守る」は大切なものだからこそ、いつまでもそれを大切なままにし続けていくという意志があるということです。

その意志とは何か、それは「子ども心」のことです。

私たちは子ども心に憧れを持っています。生まれる前の記憶のようなイメージでもいいかもしれませんが、最初から「これをやりたい」という意志があるように思います。それが時間と共に色褪せていき、何をしたかったのかなど思い出せなくなっていきます。

しかし何かを切っ掛けに思い出したり、ご縁が結ばれて導き出されたりしてその「子ども心」に出会います。その時、守るものの存在に気づきます。その存在は「子ども心」であり、その子ども心を守ることでその人は意志に守られていきます。

人は何かを守ろうとするとき、強く優しくなっていきます。それは、子ども心の意志が目的に向かって助けてくれるからです。守るものが守られ、守られるものが守ろうとします。これが人間の奥深さではないかと私は思います。

一体、天や神様や御先祖様、またお地蔵様は何を守っているか。

その守っているものに気づくことが、道の入り口かもしれません。守られてきたからこそ守りたいと思う心は、恩のことです。恩はめぐり合うことで積み重なり強くなります。その恩を大切に生きていけば、自ずから守られる存在になり守る力を持てる存在になるように思います。

私自身は、子どもの頃から守ってくださっていた存在を守りたいと願っています。

引き続き、子どもたちが安心して自分の天命を全うできるように見守り続けていきたいと思います。

むかしから今を想う

昨日は雨樋の歴史を書きましたが、大きな目で観るとむかしはなんでも自然からの恩恵を勿体無く使い活用していたのに対し、それが近代になればなるほど便利か不便かという考え方に切り替わってきたようにも思います。

それはいわば人間が自然に対して共生するか征服するかという自然との付き合い方の歴史だとも言えます。むかしはどうだったか、改めて「むかし」を学ぶことで私たちの先祖は何をどう選択してきたかという生きた教材から大切な智慧を学び直すのです。

むかしという意味は、向かうから来ている言葉で今はむかしとなると今に向かってきた方ということになります。つまりは、古から今に対してどのように向かってきたかというプロセスことを言います。むかしという言葉を人が使うとき、それは単に過去にあった出来事を語るのではなくご縁を語っているのです。どのような縁起があって由緒があり今に至るのか、その全体の意味を直観しているのです。

全体の意味の直観とは、智慧のことでこうしたらこうなるという歴史から得た教訓を学んでいるのです。そのうえで私たちの先祖たちが何を選択してきたか、そしていつも何に憧れて挑戦してきたかを学び直すのです。

私たちの先祖はいつも徳治による自然との共生を大切にしてきました。簡単に言えば、自分を含めたいのちへの思いやりや全体への優しさを大事に和して生きていく背中を子孫へ譲っていくことです。

その自然やいのちへの思いやりが、人間として尊いとし、自分勝手な利己的な生き方よりもみんなが仕合せになる利他的な生き方をしてきました。そのことにより全体調和し全体快適な暮らしをみんなで支え合ってくることができたのです。

平和というものは、そういう暮らしが長く続くことでいつも思いやりや優しさこそ最善であるとしみんなそれぞれに自分を磨き自分に打ち克って魂を高めてきたのです。

世界には多様な民族があってそこには多様な歴史があります。しかし日本が世界から尊敬されるのは、一体どこのことを言うのかと自分たちは歴史から見つめ直さなければなりません。

神話の国譲りより今に至るまで、私たちの先祖はその生き方を何度も試されその都度貫いてきた人たちが守ってきました。その守ってきた文化を、どのように次世代へと譲り渡していくかは今の世代の大きな使命です。

むかしから今を思うことは、わたしたちの使命を振り返ることです。

引き続き子どもたちに譲り遺したい生き方を磨いていきたいと思います。

聴福人の境地

人は自分が大前提として認めようとしない時、他人や自分を何とかして変えようとするものです。そうすると、苦しみが発生し、相手がなぜ変わらないのか、なぜ自分は変われないのかと煩悶するのです。

多様性というものは、本来は「あれもあり、これもあり、みんなあり」だと全てのことを認めてしまうところに存在するものです。それをこうでなければならない、これはやってはいけないなど、何かを悪とし、それは罪だとし、罰を与えなければと裁くときに人は認めることを否定してしまうのです。

この「裁く」ことこそが、認めることの反対であり裁く心の中には罪の意識や善悪理非を自分が勝手に決めるところにあるように思います。本来は何を根拠に正しいとか間違っているとかいい出したのかは分かりませんが、どこかで得た知識によって理想を自他に押し付けるとき人は裁くことをしてしまうように思います。

相手のことや本当のことや真実を確かめる前に裁く心は、先入観や偏見で裁く心であり差別し差別される感情が発生するから受け入れ難く自他を無理にでも変えなければならないと反応するのかもしれません。

イエスキリストは、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」という言葉を遺していますが、この裁く裁かれるという行為そのものがお互いを苦しめてしまうからだと思います。

お互いの苦しみを開放するには、一つは「聴くこと」、もう一つは、「認める」ことが要ります。言い換えれば、「きっと何か理由があるのだろう」と決めつける前に相手に心を寄り添い傾聴すること、そして「それも一理ある」と自分にも相手にも理があるということを認めることです。

この「裁かない」という実践が、お互いの人間関係の感情を緩和して多様性豊かな場を醸成していくのです。私の提案する、「聴福人」の境地はこの聴くと認めるを実践して誰も変えようとはしない、自分も変えようとしない、そのままでいいと丸ごと認めるということを言います。

それを一円融合、一円観ともいい、すべては丸ごと観てみると欠かすことのない丸味を帯びた完全体であるという発想です。しかし実際は、裁く人を前にすると罪悪感や差別感で感情が呑まれそうになります。先ほどのイエスのように、裁くのを止めよう、差別はやめよう、自他を責めずあるがままでなんでもありにしよう、何度も何度も行動を訓練することで次第に感情は落ち着いてくるように思います。

私もまだまだ修行中ですが、余計な知識や先入観、刷り込みを取り払いあるがままの自然体をお互いに気楽に喜べるような仕合せな関係を広げていきたいと思います。

初心を立てる

人間は自分の初心をしっかり自分で立てずに周りに合わせてしまえばブレてしまうものです。家で例えれば自分の家の大黒柱がどうなっているかということでもしもそれが傾いてしまうと家全体はどうなるかということです。

組織も同様に、中心になっている人物の大黒柱(初心)がしっかりと立っていてその周りに中黒柱、小黒柱がしっかりと支えているから家が傾かず基礎がズシリとブレずに建つことができるのです。

時代という早く大きな川の流れやうねりの中で、今の時代に初心を立てるということは濁流の中で流されずにしっかりとその場に留まる支柱を埋めて立てるようなものです。

少しのせせらぎの中であれば倒れたり流されることもないかもしれませんが、これだけスピードが速くなり怒涛の変化が渦巻くなかでは簡単に濁流に呑まれてしまい消えてしまうものです。その変化は情報化という外側の変化だけではなく、欲望といった自我の変化もあります。

しかしどんな状態であろうが、どんな条件下であろうが、支柱は守り続けるというその人の信念が貫かれれば初心を守ることはできます。

最初は、大黒柱の陰に寄り添って何とか流されないように誰かに守ってもらっていることからはじまるかもしれません。しかしそのうち大黒柱を支えられるように自分が支柱になるように努力していく必要があります。みんなで立てば、それだけ流れに対して強く逞しくなり、確かな支柱が増えれば増えるほど頼もしくなっていくのです。

人間は自分の柱を誰かのものでいつまでも支えてもらおうとし続けてもそれは土台無理なことです。だからこそ自分の足で立つというように、自分の柱は自分自身で立てなければなりません。それを「初心を立てる」といいます。その初心を立てたなら、それを忘れないようにすることと、その初心を振り返り流されたり傾いたりしないように修繕や修理をし続けることが日々の実践ということになります。傾いても誰も起こしてくれませんから、そこは自分で起きるしかありません。ただ周りに真っ直ぐの基準があるのなら姿勢を立て直しやすいものです。

そうやって自分の初心がしっかりしていけばいくほどに、他人に依存せず、世間に流されず、自己の確立に向かって素直に成長していくことができます。人類がみんなそんな生き方ができるのなら、世界は確かな平和を築いていくこともできます。

子どもたちには、しっかりと頼もしい自分を確立して時代が変わっても大切な自分を立てられるように初心を見守れる環境を創造し続けていきたいと思います。

感謝の心~貢献とは何か~

感謝というものは、無理に感謝しようとしているか、自然に感謝しかないとなっているかでその意味が異なります。大前提として、感謝の中に周りの御蔭様で今の自分が存在できると思っている人は感謝しかないと思っていますがそう思っていない人は感謝の捉え方が違ってくるように思います。

人は恵まれすぎる環境にあると次第に感謝の心を忘れていくものです、今のように何でも便利に自分の都合よく手に入る環境があれば次第に感謝の心が薄まっていき傲慢な自我が強くなっていくものです。思い通りになっていけばいくほどに、それに比例して感謝も感謝しかなかったものが感謝しなければならないというように変化してくるように思います。

人は感謝に敏感で、感謝の気持ちを忘れれば人間関係に綻びが生まれてきます。お互いに相手に不平不満を言っては、相手が変わらないことでお互いに軋轢が生まれストレスがかかります。それを感謝の心を忘れ無理に解決しようとすればするほどに、相手や周囲への思いやりが欠如してかえって関係が悪化していくことがあるのです。感謝がないから我が出てくるとも言えます。

本来、相手の存在や周囲の存在があって今の自分がこの世で自立していくことができるとも言えます。自分は相手であり、周囲は自分でもあるのです。つまりは自分を存在させてくださっているものは何かということを忘れてはならないのです。

自然界は、周りの自然と一緒に生きていることに感謝しています。その証拠に分を超えて取り過ぎることはありませんし、常に自分が周りによって活かされる状況を保ち続けています。人間はお金を払えば、分を超え必要以上に摂取し、そして自分たちの都合で好きに自分にとって都合の良い環境を創り上げていくこともできます。そのうち謙虚であることがなくなれば、感謝の気持ちがなくなっていくのでしょう。

当たり前だと思っている目の前の存在や所属している組織や仲間、そしていただいている身体や御先祖様、そして日本のこと世界のこと地球のこと、そういうものを常に忘れないようにしている人は、いつも誰かへの感謝の心を言葉に顕しています。

先日もあるお客様のところで口癖のように社員たちが、「いつもみんなの御蔭様で」とか「仲間の存在に助けられ有難いです」とか、「みんなに迷惑をかけてしまって感謝しかない」と話している様子をみてその人たちが、感謝を忘れないことで「仕合せ」で楽しく、豊かに仲よく働いていることを実感する機会がありました。

組織が上手くいく方法などいろいろとありますが、やはり普遍の真理として「感謝を忘れない」人たちがいる組織は必ずと言っていいほど平和と調和があってみんなの幸福を創造しています。「全体快適」とは、みんなのことを思いやり「感謝を忘れない実践」を続けるという意味です。そしてこれが人間力を高めるということに他ならないのです。

引き続き、自分の感謝の心は果たして感謝しようとするものか、それとも感謝しかないと思っているものか、自分のことは自分が一番よく知っていますから自己を確認して世の中の幸福のために貢献していきたいと思います。

全体快適

人間には我があり、我の強い人であればあるほど自己を中心にして物事を進めようとしてしまうものです。今の時代は競争社会の刷り込みもあり、能力を磨くことばかりに躍起になったり、他人よりも抜きんでることばかりに必死になったりして仲が悪くなっている人たちもたくさん見かけます。

能力があれば価値があり貢献でき、能力がなければ無価値であり意味がないという人もいます。しかしだからといって、能力ばかりで貢献しようと自分の能力を磨くことだけをやっていると、今度は能力がないことが役に立たないことだと思い込んでしまいます。そうすると、自分の能力が活かせるような環境に無理やり周りを変えようとしたり、自分の能力が証明されるような仕事ばかりを増やしてしまったりもします。そうやって能力だけを基準に自他を変えようとすればするほどに息苦しくなって関係が冷えていくものです。

本来は、能力がどうかではなく「みんなが喜ぶか」という基準にしてみるといいのです。それは有能ではなく、有用であることを優先するということです。みんなの役に立ちたいと願っている人は、能力があるないに関わらず役に立つことなら何でもやろうとします。それは言い換えるのなら、みんながどうしたら喜ぶかとみんなを活かそうとします。

この人はこうすればもっと活かされる、この人のいいところはどこかと、周りの長所を観るようになります。そしてどうすればこの人が喜ぶか、どうすればみんなが喜ぶかと全体快適を優先するのです。

私はこの全体快適こそが、本来の有用の価値のように思います。全体最適は能力のことで、全体快適が喜ぶかということです。

「みんなが喜ぶか」といつもみんなで取り組んでいる組織は、明るくなっていきます。人間は能力ばかりを磨いてもそれを使う人がいなければ意味がありません。確かに能力があれば発展しますがそれが仕合せにつながるとは限りません。しかしみんなが喜んでいるのであれば、みんなも仕合せ、そしてその中にある私もまた仕合せなのです。

我が強いというのは、どこかで競争刷り込みや能力刷り込みが深く根付いている可能性があります。もっと我が緩和されみんなとの仕合せが優先されるように、みんなが喜ぶかと生き方を転換してみてはどうでしょうか。

生き方の転換は、自分のことよりもみんなの仕合せ。みんなの仕合せは私の仕合せと、全体快適に生きていくことです。快適な環境や空間、場はそれだけで仕合せの循環を発生させていきます。自分が笑顔になるのもまたみんなが喜ぶからであり、皆が喜べばまた私も笑顔になるのです。

全体快適によって、大人たちの刷り込みを取り払えるように理念を定めて取り組んでいきたいと思います。

行動を変える、自分を変える、場を醸成する

昨日のニュースの記事で、本田圭佑さんが「一日の質に革命が起こる10の行動規範」というバチューカという組織のグループ理念を紹介されていました。何を意識して一日を過ごすのか、自分自身をどのように活かすのか、人間は協働する生き物ですからこのように理念があるからこそ、一人ひとり方向性やベクトルを合わせて協力できるように思います。

ここの理念には参考になるものが多いのでご紹介すると、

1 他の誰からも支配を受けないこと
2 オープンで素直であること
3 自分の言葉と行動に責任を持つこと
4 悪いルールは壊し、より良いルールを創ること
5 自分に厳しく、人に必要とされる長所を磨き続けること
6 与え続けるためには勝ち続けること
7 人が本当に困っているときは、損得を考えずに助けること
8 何事においても理想を追求することを諦めないこと
9 常に謙虚に常に挑戦者であること
10 人を喜ばせるでは足りない。感動させること

とあります。自分の持ち味や個性を発揮するための項目が並んでいることがすぐに読み取れます。この逆をすれば、持ち味や個性が活かせずにチームやグループに貢献できないということを言及しているとも言えます。

例えば、いつも誰かの評価を気にしては心を閉じて話を聴かず、他人に合わせるばかりで無責任で悪いルールのままで変わらず、自分に甘く短所ばかりを直そうとして自分も仕事にも負け続ける。そして誰かが大変でも保身に走り、理想を諦めて挑戦をしない。人を喜ばせるために何も与えず無関心であるという具合でしょうか。

ここのグループ理念で大変興味深いのは、「利他」であること、「謙虚」であることが並べられているということです。もっとも発展繁栄する法則は世界共通であり、そこには法理や真理があります。これを妨げるのは自利であり傲慢であることです。人間は自分のことだけを考えると保身から我が強くなり、利他になるとき全体の仕合せの一部になります。

このようにどのような人が自滅破滅し、どのような人が貢献共生するかは古今東西の違いを超えて確かに存在しているのです。一日の質を考えるとき、どのようなチェックリストをもって自分を省みるか、それによって一日が変わり人生が変わり、自分が変わるのです。

自分を変えるというのは、自分の行動を変えるということです。

どんな一日の行動をしたかの連続で人生は創造されていきますから、利他であること謙虚であることは自分を活かすために欠かせない努力になります。

引き続き、理念の大切さ行動規範の重要性を伝道しながら子どもたちが安心して暮らしていける場を醸成していきたいと思います。

子ども心を見守る

人間には性格と個性というものがあります。性格はそれまで育ってきた育ち方が影響を与えますが個性は生まれつきのものです。個性を発揮していくためには、性格が歪んでしまって邪魔しないようにしなければなりません。

ではどのようにして性格が歪むのか、それは幼少期のトラウマや無理に感情を押し殺して本心と乖離して自分を誤魔化してきた期間の長さなどに影響を受けているようにも思います。

例えば、自分を家だと仮定すると建物でいえば本来は天に向かって柱など真っ直ぐに立っているものが何らかの力で歪んでくれば建物は次第に歪な形になっていきます。しっかりと土台を立てていれば揺るぎませんが、傾いてしまうと倒壊する可能性があります。このように自分の性格が歪んでいないかを確認して、歪んでいるところは直していくことで快適な家で暮らしていくことができます。

性格というのは直らないと信じ込んでいる人がいますが、歪んだ性格は修正していくことができるのです。本来の性格は、人格と同じく天性の個性のようなものです。しかし何らかのトラウマによってその天性の個性のまま(子ども心のまま)でいられなかった人がそのトラウマを解消することができるのなら歪んだ性格は素直に改善できるからです。

私はいつも「そのままでいい、変わらなくてもいい」とその人の個性や人格はあるがままであることを認めますが、しかし修正しないといけないものがあるという言い方をしてその人に改善を勧めます。

それは何を修正するか、それは歪んだところは直す必要があるという意味で伝えます。生き方の癖というのは、長い時間の歪んだ性格によって確立されてしまいます。それを修正するには、同様に新たな習慣の力を借りて改善するしかありません。

例えば、トラウマ体験の影響ですぐに自分はダメだと否定し、なんでも無理をして頑張って自分を責めるという癖がある人には、そのトラウマを意味づけしないものではなくあるものを観て自分で善かったと認め頑張らずに流れに任せてみるという具合です。

このように何度も繰り返し繰り返し、状況判断をするときに今までと逆のことをする。逆のことに舵を切ってみるという繰り返しによって、いままで歪んできた性格を修正していくのです。

性格の歪みが取れたならその人の人格や性格は素直になります。素直になれば、認められ、尊重し合え、信じられ、与えられ、喜ばれ、仕合せになります。素直さというのは、他人の話を聴けるようになりますし、自分が何をすればみんなが喜んでくれるかという励ましと豊かで美しい生き方に転換できます。

歪んでいるのを直せずにいるとますます性格は悪くなり、誰かのせいにしたり、言い訳ばかりしたり、文句ばっかりいったり、不平不満ばかりの楽しくないし自分らしくない人生になってしまいます。

一度きりの人生ですから、憧れる人や憧れる人生があるのなら自分の性格を運命だと諦めず素直になろうと覚悟を決めて歪みに気づいて歪みを正していこうと努力していけば必ず立ち直ることができると思います。

もともと人間は赤ちゃんの時は素直で子どものままで生まれてきています。大人なる過程で傷つくのは純粋無垢で優しい心を持っているからです。トラウマの体験は他の他人ではなく自分で善かったのだと一度丸ごと肯定し、それを修正し世の中で同じような体験をした人たちの応援をしようと決めれば修正に意味がついて立ち直るのも緩やかで和やかになると思います。

本来の天性の個性が発揮され一人ひとりがみんな輝けるように、子ども心を見守り続けたいと思います。