歴史を深めれば深めるほど、それは人間と自然との関わり方の変化を学び直すことを感じます。自然と共に生きるか、自然から離れて自然を反故にして生きるか、自然と人間との関係こそが歴史の本質かもしれません。
私たちは現代においても、人間としての生き方としてどうあるべきかを歴史から考え直す必要があります。今の時代は特に自然を蔑ろにして人間がもっとも価値があるような考え方で自然を征服しています。
例えば、農産物においても工業製品のように製造され、その製品を大量に生産するためならその製品以外のものは過激な殺虫剤や農薬で排除していいというような考え方です。
司馬遼太郎さんの言葉にこういうものがあります。
「人間は--くり返すようだが--自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。」
歴史の中で人類が失敗し滅亡の危機に陥るのはこの自然との関係を間違えたときです。その時こそ、人災や災害が訪れ人類滅亡の危機が訪れるのです。それを忘れ自然を蔑ろにしてはいけないと歴史は語り掛けてきます。
また日本の哲学者の柳田謙十郎にこのような言葉もあります。
「人間の歴史は自然と深い結びつきにおける対立と、たたかいの歴史であるということができる」
自然と対立するのか、共生するのか、人間だけが自然から離れたことでいつまでも争いがなくなりません。本当の平和とはなにか、歴史は静かにいつも人類を見守り続けている存在なのです。
そして司馬遼太郎さんは子どもたちにこう語り掛けます。
「--人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。この自然へのすなおな態度こそ、二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。」
本来の自分がどのようにして出来上がってきたかを知るというのは、自分が自然の一部であって自然に由って生かされていることに覚めるということです。
例えば、稲作など自分の先祖から今まで自分が食べてきたものを作ってみるという行為や、自分の生まれ育った風土の中で風土の一部になってみることでそれに気づけるものです。
自然と人間が調和し本物の平和が訪れるよう、それぞれで歴史を学び直し、先祖との対話を続け、一人ひとりの目覚めを待つしかないのかもしれません。ただそこに歴史があることに感謝し、子孫の繁栄や地球との共生に感謝してこの場を見守っていきたいと思います。