子ども第一義実践の意味

人はそれぞれに魅力を持っています。その魅力とは、その人らしさのことでその人が唯一無二の個性をもって生まれてきたことの証でもあります。個性とは魅力そのものであり、その人らしくやりたいことをやっているときそれは最大に輝きます。その輝きがそのままで誰かの役に立つと知ったとき人間は本物の仕合せに出会うのです。

しかしそのためには、その自分の魅力や個性を引き出してくれる環境やそれが役に立つといった環境がなければ自分を活かすことができません。そのためよく自分に合ったところに移動して自分に合うものを探していくことも大切ですが、同時に周りの人の個性や魅力をどうしたらもっと活かせるかとみんなの仕合せも考える必要が出てきます。

最初は私は、できないことを必死にやろうとして自分を見失い個性よりも能力が高い人になろうと努力した時期がありました。能力さえ高ければ誰かに貢献できると信じ込み能力を高めましたが実際は能力が高くなっても使ってくれる周囲がないことを嘆き、自分の能力を使わない周りが悪いと矢印を向けていたこともあります。あの頃は自信がなく、誰かの自信を奪うような能力の使い方をしていたように思います。

人の自信や能力を奪うからこそ誰かから自身も能力も奪われてしまうのです。いい仕事がまわってこないと不平不満を漏らしたり、自分ばかり嫌な仕事がまわってくるなどと愚痴もまたこの奪うときに発生します。

しかし「人は与えられるとき与えられ、奪おうとすれば奪われる」ものです。この逆に人に自信を与えようと励まそう、みんなの個性を生かしはじめた時期になると個性があることが喜びになり、いろいろな持ち味の人たちがいることに感謝する気持ちになりました。

この持ち味とは魅力のことで、周りの魅力に感心しもっと自分も魅力を磨こうと思いはじめたのです。魅力とはその人の個性であり、例えば優しい人や明るい人、天然の人、よく気が付く人、一生懸命な人、などキリがないほど発見することができるようになりました。

そうするとどうすればその人の魅力や持ち味が生きるだろうかと考えるようになるのです。安心できる環境や、なんでもいい合える環境、みんなが異なる価値観や意見があることが有難く感じるようになっていきます。

思い返せば、奪う人生から与える人生への転換こそが魅力や持ち味の世界への入り口だったようにも思います。なぜ奪うのかといえば、ないものねだりをしては自分ができないことを自分が責めたり、自分にないものを無理に求めようとして自他を裁いたり、もしくはできないことは悪だと自分に罪や罰を与えて頑張り過ぎてきたことで奪う人生になっていったように思います。

与える人生はこの逆をやることです。つまりは、ないものは求めないであるものを活かす、できないことは悪ではなく全でありもっとできることが他にあると信じてできることを探すことや、頑張りすぎるのではなく肩の力を抜いて周囲を信頼して一緒に与え合う機会を増やすこと、誰も責めずにゆるすこと、つまりは自他はこれでいい、自分もあなたのこのままでいいと認めることです。

そうすれば人生は与える人生に変わり、その与えた自信の御蔭でまわりもあなたに自信を与えてくれるようになると私は思います。

煩悶とストレスを抱え、我慢して無理をして頑張っている状態こそ「奪う」状態であることに自覚しなければなりません。そんな時にはもっと「ゆるす」こと、つまり無理をせず我慢せず頑張らないことです。

刷り込みを取り払うのは諦めることからです。

いま、頑なに握っているものを手放しもっと楽になることです。私の時も、このまま頑張ってもたかが知れているなと感じて思い切って逆に舵を切ってみたことで新しい世界に出会いました。前例や常識やルールに縛られずもっと自由に自分のやりたいことや自分の魅力を信じてあげるといいと思います。

子どもたちが最初からそうであったように、大人になってしまった自分を手放し子ども心を取り戻してほしいと祈るばかりです。カグヤは子ども第一義の理念を掲げていますから、生き方と働き方を間違えないように実践の意味を深めていきたいと思います。

完全な存在としての自分を認めること~本物の個性~

人は競争社会の中で比較され優劣を持つことで「できる・できない」を過剰に気にしてしまうものです。まるで「できる」ことはもっとも価値があり、「できない」ことは価値がなくダメなことだと思い込んだりしています。

これは優等生と劣等生と分けられ、ダメな人は頑張らせできる人はもっと頑張らせようとしたことでできた来た刷り込みのように思います。私が言いたいのは、できるかできないかを基準に物事を評価するのではなくその人らしいかどうかをもっと大切にするということです。

能力だけで人を裁くようになればなるほどに、個性が擦れて薄れていき能力を自信にしてしまうとできないことが悪のようになり自他を責めていくからです。自分がダメなことがまるで罪のようになれば、無理をして頑張り過ぎて本来のその人らしさが失われていきます。頑張らせようと誰かにされるのではなく、自分からやりたいと思うことに正直に生きていけばいいのですが今まで「できる・できない」刷り込みを持った人はやっているうちにできること(手段)が目的になってしまい本当の自分のやりたいこと(目的)が分からなくなってしまっています。このように「できる・できない」刷り込みによって目的と手段がすげ換る癖がつけば、最初は自発的にやりたかったことなのに気が付いたらどれも受け身になりやらされることになってしまうのもこの刷り込みの影響があるからです。

自分のやりたいことは、できるできないに関わらずそれが「自分の魅力や持ち味だから」だと思えるようになるのは自分の観念や価値観、意識をまずは変えていかなければなりません。

例えばできないことがあったとき無理をしてできるようになろうとせず自分は他にもっとできることがあるんだなと思うようなことや、やりたくないことがあったらもっとやりたいことがあるんだなと自分に素直になっていくことをやりながらもっと自分を認めていくことが必要です。

自信というのは、能力があるかないかではなく自分の求めていることに近づいているという実感があるときに湧いてくるものです。自分らしくいるためには、できるできないかを諦めてもっと自分のやりたいことをやろうと周りに遠慮せずに遣り切っていくことで個性が引き出されていくものです。

一人ひとりの人間はもともと何一つ欠けるところなく完全体で生まれてきます。欠けたところを無理に埋めようと完璧を目指してできるようになろうとすることで余計に本来の姿が歪になりおかしなことになってしまうのです。

「そのままでいい」「あなたのままでいい」と、完全であると自分が認めることで次第に自分らしさは表出されていきます。その逆に能力刷り込みが深い人は、「このままではダメだ」「自分がいけないのだ」と自分を認めようとせずに無理をして頑張り続けていきますがもしもそれで能力がついたとしてもそれは果たして心からやりたかったことなのかということなのです。

人間は社會を創造する生き物ですから、能力をみんなが一律に高め完璧な個々になるよりも個性を活かして助け合い思いやり協働していくことでお互いを認め合いそれぞれのやりたいことを見守り合うことで仕合せな世の中にしていくのです。

人工知能やロボットの技術が進化するなかで、高い能力を発揮していくその存在によって私たちはもう一度、自分とは何か、個性とは何かと見つめ直す時代に入るでしょう。

だからこそもっと自分自身を認め、できないことを諦め、もっと他に自分にしかできないことがあるんだなと持ち味に気づき、自分だけではなく周りに対しても「あなたのままでいい」と丸ごと信じてくれる存在に近づいていくことが子どもたちの未来を活かすことになると私は思います。

その人らしさを励まし勇気を与える存在になれるよう、そして子どもたちのためにも自分の生き方を見つめ自分らしい生き方のロールモデルを遺して譲っていきたいと思います。

安心運転、安心社會

何かの問題がトラブルが発生するとき、人はその問題やトラブルを何かのせいにしようとするものです。それが例えば環境のせいであったり、誰かのせいであったり、会社のせいや家庭のせいなど、何かのせいにしてしまいます。

実際にそのことを深く見つめて、何のメッセージだろうかと受け取ってみるとそれはほとんど自分の内面の問題であることが分かるものです。自分の内面の心やものごとの観方を転じない限り、それはいつも誰かのせいや何かのせいになってしまいます。

確かに環境を変えたり仕組みを変えることは大切ですが、その大前提に自分のものの見方を変えていないと環境のせいや仕組みのせいになってしまうかもしれないのです。

自分の価値観で自分が観ている世界が自分の置かれた世界であり、その世界の問題は自分が問題にしてしまうことで問題となります。人は観方によってそれを問題と観たり、チャンスと観たり、それはその人の心の状態に由って変わってきます。

心は車の運転と同じようにその人の癖が出てきます。ある人はスピードを出し過ぎたり、ある人は周りを見ずに暴走したり、またある人は自分で運転しようとしなかったり、またある人はクラクションばかり鳴らしたり、またある人は自信なさそうにノロノロ走ったり、その運転には癖があります。

この車の運転はまるで心の運転と同じようにその人の生き方の癖があるのだからそれを気を付けて練習を繰り返して心の運転を上手になっていくしかないのです。スピードを気を付けて安全運転をしたり、周りをよく見て確認したり、自分で苦手な縦列駐車を何度も練習してみたり、クラクションを鳴らさず譲ったり見守ったり、自信をつけたり、運転を通して生き方を磨く必要があります。

問題やトラブルは、自分の心の運転から発生することですから自分の心の状態を見つめ、生き方を省みて捉え方や観方を転じて行動していくことで問題やトラブルが意味があることになり本質的に自分を素直に成長していくことができるのです。

いつまでも誰かのせいや何かのせいにしていたら、停滞が続くだけで自分の観方の方だとは気づかなくなります。相手が変わるわけではなく、自分の心が変わったから相手が変わるのであり相手は変わることはありません。

相手を変えたいのなら自分を変える、世界を変えたいのなら自分が変わる、会社を変えたいのなら自分が変わると、変わることを楽しんでいく方が誰かや何かのせいにして煩悶するよりも心が穏やかになっていくものです。

心のコントロールをするためには、自分に矢印を向けてこれは観方を変えるチャンスであり、自分がもう一つ場を移す岐路だと肯定的に感じて、素直に自分の方を変えてみようと取り組むことで安心運転ができるように思います。

誰かのせいや何かのせいは、自分は変わらないから周りに変われと無言で強要していく行為です。世界は自分が主体的に創造していることを自覚し、自分が世界をよりよくしようと自分の観方を変えて世界をより楽しく美しくしていけば社會は調和して一人ひとりみんなが輝く世界になると思います。

理念や初心のせいにするような貧しい心ではなく、理念や初心の御蔭で自分の方を変えることができたという豊かな心をもって子どもたちに見守り合う安心社會を切り拓いていきたいと思います。

伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

価値と仕合せ

今の時代は物質的なもので幸福を手に入れることがすべてのようにテレビや新聞では報道されることがあります。現に人間には欲望も野心もありますから誰にしろ成功を求めて幸福を手に入れたいと願うものです。当人の野心が欲望が強いければ強いほどそれを欲しがり仕合せとはかけ離れた生活をしてしまうものです。自分に能力さえあればと能力を求めすぎるのも、他にも地位も名誉も権力もまた原点は幸福になりたいと思う野心や欲望から発しているものです。

そもそも何かの価値というものはその時代の「価値観」が決めます。その時代の価値観が何をもっとも幸福だと定義するか、その価値基準によって大多数の人はその時代の幸福を手に入れようとします。現代では成功者になることやお金持ちになること、有名になることや権力を持つことが価値があることだと信じ込まされているのです。

しかしきっと価値があると信じてそれを一度掴んでみないとわからないからと、本当の自分の価値観を捨ててでもそれを手に入れろうとすれば、その野心や欲望に呑まれ不平不満ばかりを募らせ世間の定義する価値の幸福を所有しているかどうかが仕合せだと勘違いしてしまうのです。

しかしふと、本当の仕合せとは何かと静かに思うときそれは決して能力や成果や成功などといった結果さえ手には入れればいいというものではないことに気づきます。その経過の中でどのような体験をするか、どのような仲間ができたか、どのような思い出があったかで人間は仕合せを感じます。つまりは経過、その物語をどのように創造したか、物語の中でどのように自分を磨けたかが仕合せの元になっていることに気づくのです。

昨年から暮らしの甦生に取り組む中で、人間の仕合せの意味が深まってきていますが本当の仕合せはどこか遠くにあるものではない身近な足元にあることに気づくのです。

禅語に「明珠掌に在り」という言葉があります。この「明珠」とは宝石のことを言います。「掌に在り」は「自分の手のひらの中にある」という意味です。つまり人間は仕合せを見失いがちだが、一番仕合せなものはもっとも身近なところにあると教えているのです。

例えば、仕事を道楽化することであったり誰かのために真心を盡すことであったり魂を磨いて人徳や人格を高めることだったり、つまりは努力できる仕合せというものがあります。努力が楽しいということほど仕合せなことはなく、自分のやっていることを天職だと受け容れ、その天命に従い使命を全うする仕合せはかけがえないのない価値です。

価値というものは、値する対価とも言いますがいのちを懸けるだけの対価に生きることができる歓びでもあります。人は遠くを見るばかりで本来の足元の幸福を感じなくなるのは、いのちから遠ざかるからかもしれません。もっと自分のいのちに向き合い、自分のいのちを何に使うか、自分のいのちをどう活かすか、いのちと出会う仕合せに目覚める方が本当の自分の価値に目覚めるように私は思います。

今の自分のやっていることはいのちを懸ける価値がある。

そう信じて生きている人は、世間の価値観はなんのそので自分の価値に生き切っていくものです。宝は常に自分の中にこそあると信じて、自分の天命に従い子ども心を見守りながら歩んでいきたいと思います。

 

心を磨く人

先日、久しぶりに那覇にある沖縄教育出版社を訪問するご縁がありました。社内はとても落ち着いていて居心地の善い空気が流れていました。「一人ひとりが輝く経営」を理念に掲げ、それぞれが心を寄せながら個性を発揮して働く姿に平和を感じます。

沖縄に行くと特に「平和」への祈りを感じますが、会社を経営しながら自分たちの生き方を磨き平和に貢献するために様々な実践に取り組む社風には学ばせていただくことばかりです。

特に印象に残ったのは、社内で最も高齢(75歳)で今も最前線でご活躍の方の御話しをお聴きしたことでした。その方は、以前会社で発刊されている新聞で紹介されており知っていたのですがお話を聴いて徳の高さを実感しました。

人は学ぶ意欲があることは素直さの顕れでもあります。素直であるからこそ学びたいと思うのであり、一生涯学びたいという心をもっている人は働く仕合せを感じている人だと感じます。

人間は周りからどう思われるかや評価されるかを基準にして選択肢ばかりを求めていたら今に生きることができません。今に生きることこそ素直な姿であり、今与えられていることに一所懸命に学んでいれば自ずから自分に与えられた使命を感じて仕合せを得られるからです。

心の健康というものは、生き方を直すことであり生き方を正すことです。正直ともいいますが、自他に正直に心を開いて素直に学んでいる人は謙虚であり成長を已めません。それは年齢の問題ではなく、生き方の問題だということの証明なのです。

私たちの沖縄に来た理由とそのお仕事の内容の話をすると、「沖縄を創りに来てくださったのですね、ありがとうございます」と御礼を仰られました。その視点や観点にも徳を感じますが、それよりも真摯に日々の実践に取り組んでおられる姿勢そのものを拝見し私自身まだまだ精進しなければと恥ずかしい思いになりました。

何かをやったからや何かをやるからいいのではなく、誰が見ていようが見ていまいが自分の本分に正直取り組んでいく、心を磨いていくその生き方そのものが美しいと思うからです。

沖縄教育出版社には心を磨く風土文化が育っており、存在自体に有難さを感じました。私たちの会社は魂を磨く風土文化ですが、心と魂を切磋琢磨させていただけるご縁に感謝し、私たちも迷わずに子ども第一義の理念を省みて子どもたちの未来のために仲間と一緒に一期一会の作品を育てていきたいと思います。

ありがとうございました。

縄の智慧

むかしから歴史を紐解けば社會というものはみんなで創るものであるという感覚がありました。自分だけで生きることはできないのだから、自分の居場所はみんなで創っていくという具合に社會をみんなで育てていきました。

現代は、社會だけではなく小さな組織でさえ自分さえよければいいと自分のことを主張してはかえって社會を崩して希薄している風潮もあります。自分が所属するこの社會を善くしていきたい、もっとみんなが居心地が善い環境になるように自分を活かしていきたいと思う、人間として当たり前の仕合せが忙しさと共に消失してきています。

人類は太古のむかしより社會を形成してみんなでお互いを見守り合いながらお互いの一生を充実させていきました。そして人類は助け合い思いやることで自然環境の中で今まで生き延びてきて、一緒に協働することで考えられないような大きな力を発揮してきました。それができたのは、みんなの居場所を用意し居心地が善い場をみんなで育ててそれが永続するように見守る「結び」の智慧を使ってきたからです。

現代はその結びつきが次第に解かれて、それぞれがバラバラになってきているように思います。歪んだ個人主義は人々を孤立させ、孤独にします。その穴を埋めるのをお金で行うことでより断裂は進んでいきます。

例えば「縄」を観てすぐにわかると思いますが、小さな糸も多くの糸と結びつき絡まり合いそして強く大きくしなやかな切れることのない縄になっていきます。出雲大社にあるしめ縄のように私たちは古来からその縄を結び続けて大切にしてきた民族です。

この「縄」は、「社會」のことを示すように私は思います。

縄をどのように結んでいくか、その結びつきや結び方にこそ民族の生き方がありお互いに見守り合い、心を寄せ合い、愛を与え合い、一緒に協働作業をしていくことによってその「縄=社會」を創造していくのです。

お米を育てるように子どもを育てること、しめ縄を結び神様に奉げ奉るように暮らしていくこと、古来から続いていく縄が切れてしまわないようにその時代時代の人々が子どもを見守っていく社會を育ててきたのです。

そういう意味では今の時代はかつてないほどに、人々の結びつきが失われてきている厳しい時代です。だからこそ私たちが取り組む「見守る」ということは、その結び直しをする大切な実践になるのです。

「縄」こそ、人類の智慧であるとし引き続き子どもの社會を見守る大人が増やしていけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

種と土の邂逅~つなぐチカラ~

私たちが今感じたり味わったりする文化や伝統は古来からずっと存在しているものです。その存在しているものを引き出し繋ぐことができれば、現代にもその初心を多くの人々と分かち合いみんなで引き継いでいくことができるように思います。

時と自然淘汰のめぐりによってその本体は次第に風化しその姿カタチは必ず失われてまた甦生を繰り返すのは循環のめぐりであり宇宙普遍の摂理です。目には観えなくなっていても確かに存在したものは人々の心に魂の記憶として伝承されており、その魂を思い出す人たちによって常に失われずに甦生していくのが人類の叡智と伝統文化の本質でもあります。

伝統には「古くて新しい」という言葉があります。

これは文化と文明の間の甦生を意味し、本来あった本質を今の時代につなぎ顕現されるといってもいいかもしれません。古代と現代をつなぐ、人と人の心をつなぐ、目に見えるものと目に観えないものをつなぐ、それはこの「言葉」(言霊)のチカラのように和合したものをはっきりと一つに融和し伝えることもまたつなぐチカラの役割です。

そのつなぐ方法や智慧は、代々その土地の風土や文化によって異なってきます。太古のむかしから私たちの国は「言葉の霊力が幸福をもたらす国」であると語られ、いのりの言葉によって永遠の今に言霊を奉げ祀ってきた民族であるともいえます。

それが発展し音楽や芸能とむすびつき、時には神楽になり、時には歌になり絵になり、それが心を顕し神を奉る工夫が発展してきたのです。

しかし時は無常ですから、その本質も広くなればなるほどに薄まっていき、増えれば増えるほどに擦れていき、その本質がたくさんの言葉によって隠れていくのです。

今の時代は情報化社会ですからより一層、スピードが増し、情報が氾濫する中で、私たちは大切な本質を敢えて選ばなければならなくなっているとも言えます。本来の姿、古代からある方向を見失わずに確かな足取りで前進していく必要があるのです。

そのために「つなぐ」ことは、とても大切な使命を帯びた志事です。

一人でも多くの人が、初心に目覚めそれぞれの方法で温故知新し、伝承をしていくことが未来の子どもたちのために確かな種を蒔いて遺していくことのように思います。自然は種があればまた根を張り成長していきます。一粒万倍とあるように、種さえ遺してそれを蒔いてまた育ててくれる人がいるのならその種は未来を自然に明るくしていくのです。

そのためにも「土」をつなぐことが大切です。土の上であれば種は根を張り太古の養分を受け取り成長していきます。しかし人間が身勝手な道路を舗装し、アスファルトで土の上を塗り固めていくことで土が隠れてしまっていますがそのアスファルトが取り払われれば元の土が出てきて地球は甦生します。種がちゃんと根を張れるようにしていく必要があるのです。自然のチカラを使って自然に回帰する、それが私が教育や保育の志事に私がいのちを懸けるのもその一点に集中しているかであり、子どもたちの未来のためにもその初心をつなぎたいのです。

今回の一期一会の沖縄での出会いに深く感謝しています、このご縁によって魂が揺さぶられ多くのインスピレーションをいただきました。引き続き種と土をつないでいきたいと思います。

恩送りの生き方~いのちを愛おしむ~

先日、福岡に桧山タミさんという92歳になる料理家がいることを知りました。昭和25年、タミさんは26歳で結婚。しかし、そのわずか6年後に夫を病気で亡くし2人の子どもを育てるため、料理教室で生計を立ててきたそうです。桧山さんは食べる人のことを考える「思いやり」の心をとても大切にしていて電子レンジなどは使用したこともなく、お米は炊飯器などは使用せず、最も善いのは「炭による火力」だということを仰っています。

また料理を作る際に何より大切なことは食べる相手のことを思いやることで、季節の野菜などを食材を使うことも推奨しておられます。そして著書にある「いのち愛おしむ 人生キッチン」(文春e-book)にはこうあります。

「竈で煮炊きした大正の生家でも、子育てと仕事に奮闘した昭和の町屋でも、ひとり暮らしの平成のこのマンションでも、台所がいつも生活の中心にあります」

暮らしの中心は時代が変わっても台所であるという信念で昨年行われた私塾の公開講演のテーマでも「がんばらない台所」とし、その目次を観ると(①自然とのつながりについて②学校では教えない旬の野菜③自然に反しない調味料④道具のちから⑤料理の基本、おいしいご飯を炊けること⑥便利が不便をうむ⑦子どもの頃、何を食べたかで決まる⑧みなさんに伝えておきたいこと)となっておられました。

また料理することは「毎日の一食一食が家族と自分の命をつなぐ営みだから」といい、台所をいのちの拠所にしてご自身の生き方を今でも磨いておられるように思いました。生き方から出てくるその言葉は優しく、心に響いてくるものがあります。

「時代が変わっていってる。それには反対できない。自分で(実践して)いけるものを見つけないといけない。手は抜いてもいいけど、心っていうのは思いやり。その人に対する思いやりを抜いたらだめ。いまごろのお母さんは忙しいから、なかなかできないけど。忙しいってことは、“心を亡ぼす”という字。言葉じゃないけど、思いやり。」

「この人は疲れているか、疲れていないか。疲れているなら、お茶でもコーヒーでも、例えば紅茶を甘めにしてあげる。その程度。“疲れとう”と言ったら、“背中さすってあげよう”と言うと、それだけで、ほっとする。だからお金とか、物じゃない。気持ち。」

ここからもわかるのは料理は形式などではなく真心や思いやりを優先、まさに生き方を語られます。

私も日々の暮らしの実践や聴福庵での炭を使った料理を磨いていますが、まさにこの生き方と実践こそ私の目指す竈主としての生き方ではないかと感動したのです。今後の聴福庵の「澄料理」の根本理念の参考にさせていただきたいと思っています。

最後に桧山タミさんの著書の「あとがきにかえて」より、

「女性はもともと強く、男性はもともとやさしいのです。だから、強さを学ぶために男性は生まれたのです。女性は強いからこそ、やさしさを学ぶために生まれてきたのです。やさしくなるというのは、ただ他人任せに甘えることではありません。人にやさしくするためには自分の心身の強さを持って、そばにいる大事な人たちを温かく応援できるということ。目に見えない思いを日々「料理」にこめることは、命を愛おしむこと。あなたのキッチンが、楽しく豊かで、いつもおいしい匂いのする、家中で一番幸せな場所になりますように。」

やさしさと恩はずっと子々孫々まで巡っていきます。真心を籠める生き方を私も貫いていきたいと思います。

夢を磨き志を貫徹する

人間の夢には、自然体で理想を追い求めていく本来の夢と世間から理想だと評価され認められるという迎合する夢があるように思います。自分の夢を追いかけていたはずが気がつけば周りからの評価が気になるばかり諦めて周りに合わせてしまえば本来の夢がすげ換ってしまうことも多いように思います。

人間は誰しも世間の評価を気にするものです。特に自信が持てないでいるといつまでも周りがどうかを基準に自分を創り上げてしまいます。しかし本来の自分らしさとは周りの評価ではなく自分がどう生きたいかという自分の目指す生き方への純粋な動機を実践し続けていくということです。

自分らしく自分のままでいいと思うためには、自信と誇りが必要です。世間や周りがどのようにあなたのことを評価したとしても気にしない、自分の目的は自分がもっともよく知っているのだと自分の真心を盡していけば自分を信頼できるようになり誇りと自信を持つのです。

自分らしく生きるというのは、自分への信頼と自信と誇りを必要とします。何のためにやるのかと自問自答を続けて、自分の我と折り合いをつけながらも己に打ち克ち純粋な理想の方に舵を切る勇気と身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとあるように成長を続けていけば必ずその志は為るのです。

志をもっとも揺さぶるのは成功です。世間の成功を求めるあまり、本来自分が何をやりたかったかを忘れてしまうのです。「初心を忘れるべからず」という世阿弥の格言もありますが、初心こそが夢を間違えさせない大切なお守りなのです。

初心を挿げ替えることなどはできず、挿げ替えるのは自分の願望のために自分が先に諦めてしまうことです。初心さえ失わなければ人は希望を失うことがありません。しかし先に成功を手に入れてしまえば人は希望を失うことがあるのかもしれません。そう考えると成功するかどうかというときこそもっとも志にとっては試練かもしれません。

高杉晋作に「人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。」があります。これは人間は理想や志への挑戦に対し大勢が一緒になって苦労することはできるが富や名誉を求めるために大勢が一緒に行動することはできないと詠まれます。成長は共にできても成功は共にはできないとも言えます。

諺に「艱難汝を玉にす」、「逆境は人を賢くする」という言葉もありますが、困難な状況こそ純粋さは保たれ苦労があるからこそその魂は磨かれ純粋に澄み切っていくのです。

成功こそ幸福だと思い込むことは、自分らしさを手放すことかもしれません。本当の仕合せは自分自身になることであり、独立不羈、独立自尊、唯我独尊のたった一人の自分になることだともしも定義するのなら魂の成長こそが幸福だと気づきます。そして魂の成長は常に艱難や苦労によってのみ行われます。

生まれてきた意味やその目的を知ることは、心魂の歓びです。それを貫くためには、研ぎ澄ませていくほどに磨き続けていく必要があるのです。

引き続き、初心を忘れずに日々の実践を高めていきたいと思います。