自分を知る

人間はその人らしい時、もっとも自分が何のお役に立てるのかを自覚することができます。自分にしかできないことに出会ったとき、人は幸福感を感じるものです。それは全体の中に自分が活かされ、自分が活きたことが周囲を活かすことを実感することができるからです。

しかしこの自分というものを知るためには、素直でなければなりません。あまりにも周りを塗り固めて本当の自分を隠し続けてきた生き方をしてきた人は、裸になることができない分、自分らしさにも気づきにくいようにも思います。

さらけ出す勇気というものは、自分自身でありたいという心の声でもあります。そういうものを隠し続けて偽物の自分を演じ続けていたら、自分らしさが分からないだけではなくお役に立つところが見えずに幸福感を感じることができなくなってきます。

周りを見てはこれでいいのだろうと言い聞かせることは、自分を生きることではなく周りの空気や評価を気にして生きていく方を選んだことにもなります。自分という物がどのようなものか、そして自分のままでいいと自分が認められるということがどういうことか、それが自分を知るということでしょう。

自分を知るためには、先ほどの裸になってさらけ出してみてありのままの自分を見つめてみる必要があります。みんな馬鹿になるのを嫌がり、普通でいたいと思うばかりに他の人と違うことを避けようとします。馬鹿になるのは馬鹿にならないくらい重要なことで、一度自分という物を素直に見つめてみてはじめてその両方が分かるようになるのではないかとも思います。理屈ばかりで学んでいると、馬鹿になることや恥をかくことを嫌がりますが人生において失敗や辛酸をなめることは自分らしく生きるためにとても重要な経験ではないかとも思います。

馬鹿になるという言葉でいろいろと格言を探してみると

「修行中は馬鹿になっていなければ上達しない。馬鹿という言葉を言い換えれば、ものに拘(こだわ)らない素直なことである。理屈っぽいのが一番修行の妨げになる。」(宮崎道雄)

「馬鹿になれ とことん馬鹿になれ 恥をかけ とことん恥をかけ かいてかいて恥かいて 裸になったら見えてくる 本当の自分が見えてくる 本当の自分も笑ってた それくらい 馬鹿になれ」(アントニオ猪木)

「利口なんだったら、バカにもなりなさい。バカは利口にはなれないんだから。」(永六輔)

これもまた馬鹿であることの価値を語った言葉です。馬鹿になることは決して悪いことではなく、自分を知るためのもっとも最善でもっとも価値のある方法なのです。そして恥だからという言葉は、恥を知っている人が使っていいということがここからもわかります。恥を知りなさいと言われるのは、自分をさらけ出しなさいということで、もっと自分自身を認める勇気を持ちなさいといわれたのです。

最後にとても心に響く永六輔さんの応援メッセージです。

「コラ!あんまり勉強すると、バカになっちゃうぞォ!」

いつまでも本当の自分を知らないで死んでしまうようなバカにならないように、恥を知りさらけ出す勇気を大切に生きていきたいと思います。

子どもが憧れる生き方

先日、地上でもっとも偉大なショーマンと呼ばれた実在の興行師を演じたミュージカル映画「グレーテストヒューマン」を観る機会がありました。この映画は、差別や偏見のトラウマに打ち克ち、人間の本当の仕合せとは何かを見出していく映画だったように思います。

私が特に映画の中で感動したのは、それぞれが仲間を得て誇りを持ち自分らしくいることを大切に生きるようになった人たちの姿でした。その証拠に映画の後半に一緒に働いてきたパートナーが「あなたのせいで全てを失ったが、愛と友情と誇りを持てる仕事を手に入れた」という言葉が出てきます。

この全て失ったというのは、権力や地位や名誉や富のことです。それらを手放して新たに手に入ったものが愛と友情と誇りをもてる仕事であったのです。それは決して金銭で買えるものではなく、生き方を換えることによって得られることです。

世の中には、大多数の人たちが持っている価値観があります。これを常識とも言えます。皆と同じようなものを手に入れて自分もそれを持つことを保守ともいい、少数派になることを革新だとも言えます。

私はかつてこの映画のように、みんなと同じようなものを手に入れたいと世間の評価に従い自分をその場所へと運んでいきました。しかしある時、自分の人生に素直になりたいと決意し、世間の評価からは程遠く、オリジナルで絶対的少数の方へと生き方の舵をきりました。

その御蔭で私も、愛と友情と誇りをもてる仕事に巡り会うことができ今があります。

人生は一度しかなく、自分というものは一人しかありません。自分らしく生きることは、自分自身の今を最善であると肯定し、自分のあるがままであることに誇りをもって生きていくことです。

周りから何と言われようが、他人からどう評価されようが、本人が仕合せを噛み締めながら自分らしく生きられればそれで世界も幸福になっていくのです。それが自然であり、自然界のようにすべての生命は有機的に繋がっているからこそ自分がもっとも自分の天命に従いその天命を遣り切っていけば周囲のお役に立てるのです。

そして金子みすゞさんの蜂と神様の詩にあるように、どんなに小さな存在であっても神様の内にあるのだから、幸福を見せびらかす必要もなく、むしろ自分らしくいることの仕合せを味わって生きていけばいいだけなのです。

私は子ども第一義の仕事に誇りを持っていますが、これは自分の中にある子ども心に正直に誠実に生きていくことで子どもが憧れる存在になりたいと思っています。それはひょっとすると世間ではおかしな人と笑われたり、変人や狂人だと罵られたり、気持ち悪がられたり差別されたりするかもしれません。

しかしせっかく生まれてきたこのたった一つのいのちの花を、自分なりに咲かせたいと願うのは子どもの夢ではないかとも思うのです。子どもたちに寄り添う見守る仕事をするからこそ、私自身は自分の子どもに嘘がない生き方をしていきたいと思います。

引き続き、愛と友情と誇りをもって初心伝承に邁進していきたいと思います。

むかしの保育

昨日、かつて廻船問屋だった家を修繕し保育園にしている施設を見学させていただくご縁がありました。江戸末期に建てられた家が、今も息づき子どもたちを見守り育てている様子にただただ感動をしました。

昔、大きな蔵があったところは今ではたくさんの乳児たちがお昼寝中でしたが、上品な階段箪笥で二階にあがれば嫁入り道具が入っていた長持がいくつもそのままにありました。確かに家が今でも生きて、子どもたちを見守っている存在を感じ懐かしく有難い気持ちになりました。

こういう古民家を遺そうというのは今の時代では大変難しいことで、新築を建て直した方が安くできるし簡単で維持をしていくことや修繕していく方が何倍も何十倍も苦労をします。それでも大切に敢えて修繕を続ける理由を前園長先生にお聴きすると、「ご先祖様が遺してくださったものだからそれを大切にしたいだけです。」と仰っている姿に日本人の文化と精神、生き方を改めて感じることができました。

このように昔からあるものをいのち永く使われた中で保育されることが、子どもたちの未来にどのような影響があるだろうと思うとこの保育園の存在自体が大変貴重であることが分かります。「もったいない」ということを口先で教えるのではなく、まさに今の大人たちの生き方や家の体現する姿で教えずにして教えていると実感するからです。

見守る保育を提案する新宿せいが保育園の藤森平司園長が主催する臥竜塾ブログに、「家こそがルーツ」という記事があります。この記事にある通りまさに日本のルーツを持っている物語に溢れた保育園に直に出会った気がして、魂が揺さぶられ心和やかで豊かな気持ちになりました。

その保育理念も「遊べる子ども」を目指し、世界一楽しい保育園にしたいと語っておられ、見守る保育の実践に取り組んでおられました。

私たちが定義している保育は道であり、道は生き方のことです。

日々にどのような生き方をするかは、かつてからどのような生き方をしてきたかを伝承していくことでもあります。道は永遠に繋がってこの今を創造し続けるむかしから貫かれた生き方がこの今に伝道し人々がその道に感化され歩いていく人が一人またひとりと増えていくことでその大道が踏み固められていきます。日本人とはそうやって出来上がってきたのです。

古街道沿いにあるこの保育園が風土の中で子どもと道を見守り続けているのを感じ、家の持つた日本の佇まいを観ました。私はこの出会いに大いに背中を押され、偉大な勇気をたくさんいただいた気がします。

私が取り組んでいる古民家甦生もまた、日本人の道の甦生を志すものです。子どもたちのいのちの根を日本文化という地下水脈から吸い上げていけるように、「むかし」からある大切なものをいつまでも守り続けそれを譲り渡していくことに使命を感じます。

今では新しいものばかりが価値があり便利なものや流行の情報ばかりに目を向けている環境に溢れています。しかしこうかって「むかし」のものに思いを向けて観ると如何に自分たちの今がどの方向からやってきてこれからどの方向に向かっていけばいいかを省みる機会になります。

過去はまさに未来から訪れるものであり、この今はそのつながりの中で次に譲り渡していく今であるのは明白です。それを伝統の日本の家が見守っている中で行える保育はまさに私の理想のするところです。

子ども第一義の理念を通して古民家甦生の本質を学び直しつつ、子どもたちが安心して暮らしていける社會にしていけるよう社業や使命に専念していきたいと思います。

 

自然の導き

昨日は私の誕生日でしたが、家族をはじめ親戚も集まり花見をしながら一緒にお祝いをしてくれました。家の前にある鳥羽公園は、その池の周りに数十本の桜が植えられ満開で風が吹くとひらひらと花びらが舞っています。満月の下、水面に映りこむ夜桜の美しさは幻想的で時を忘れるほどでした。

振り返ってみると、私の人生は何かに導かれるように次はこれ、次はこれと一つ一つのご縁を真っ直ぐに深めたらまた新たなテーマをいただき結ばれ今になっているように思います。

先のことをそんなに思い煩わなくても、過去のことにいつまでもしがみ付かなくても今だけを観て、今だけに生きることで自然に道が開けていきました。時折、今から離れては後悔したり臆病になったりして導かれている安心感よりも思い通りにいかない不安に負けてしまうこともありました。しかしそんな時、いつも私の背中を押してくれたのは「導き」であったと確信することができます。

この導きは一体どこから来るのか、それはご縁から訪れます。誰といつ出会い、どんなことを感じるのか、その豊かさの中に自分の種から芽が出てその芽が育ち実をつけます。そして円熟したら次の種になるという具合です。

こうやって一つ一つのご縁を育てていたら次の導きが入ってくるのです。

そう考えてみると、私たちは自然の存在として周りの生き物たちと同様に自然と一体になってめぐりの中で生き死にを繰り返しながら自然の導きによって暮らしをしながら生を謳歌していきます。

この世に生きている以上、道理として自然に逆らうことはできず私たちは自然と共に生きて活かされています。導きに生きることは自然なことであり、利己的に生きることは不自然であるのはわかります。自然の生命はみんな自然の導きという絶対安心の境地の中で楽しく仕合せに豊かに生きることがゆるされているのです。

誕生してから今まで私はどのような「導き」があったか、そしてこれからどのような「導き」があるのか、選ばない人生を選択しただけで心はいつも平安無事です。自然の流れや導きに身を任せることが、自分の身を浮かばせて悠久のめぐりに入る方法です。私が研ぎ澄まされた清浄な「直観」を信じるのもまた、その導きを私の利己心で穢したくないからに他なりません。日々に己に克つ理由は、天から与えられた使命、その本物の人生を送りたいからです。

引き続き、この先どのような導きをいただき、また四季のめぐりを残りあと何回体験させていただけるのかわかりませんが常に謙虚に素直に学びを深く味わいながら一期一会の暮らしを感謝と共に歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

重要な力(重力という智慧)

昨日は妙見高菜を漬物にするために、収穫したものを朝から天日干しにして水洗いをしヘタを取り除き、自然塩を用いて仮漬けするところまで行いました。今朝がた確認したら無事に水が上がり、一夜漬けの状態になっていました。このまま数日寝かしていよいよ木樽に本漬けに入ります。

漬物の神秘は、この「漬ける」という行為に由ります。もう7年目に入りますが、年々その神秘的な力に驚くばかりです。この漬物は地球でしか創ることがができず、宇宙空間では決して創ることができません。もっとも理由は地球の重力が必要だからです。この重力は目には観えませんが、ほとんどのことを私の替わりに行っています。その力は太陽や水や空気に匹敵するほど私たちの生命に深くかかわっています。

この重力は、「地球上の物体を地球に引きつけようとする力。厳密には、地球との間に働く万有引力と、地球の自転による遠心力との合力。」であるとコトバンクで定義されています。つまり「重力=引力+遠心力」のことであり、地球が持つ「重さ」そのものであるとも言えます。この重さによって私たちは筋肉をつけたりバランスを保ったりします。もしも重力がなければ動くことさえ次第にできなくなり、さらにはバランスを保てず立つことすらできません。

それだけ重要な力だからこそ「重力」というと私は定義しています。この重力の存在を人々が日ごろからどれだけ真剣に考えているかは、まるで空気と同じように当たり前すぎて見向きもされることがないのですが実際は大切な地球に生きる智慧の一つです。

先祖たちはこの智慧に感動しその力を活かし、その力を借りて様々なものづくりに活かしていきました。この世にあるすべての力を発見し、発明して如何に活かすか、その観点で暮らしを創造してきたからこそ今の子孫である私たちはこの世に存在できているとも言えます。

先人の智慧を学ぶことは、地球の智慧を学ぶことであり、その活かし方を通して生き方を学ぶことです。私は単に高菜漬けをつくっているのではなく、高菜から妙見の智慧を学んでいるのです。

人が何かをするとき、その目的が何かを知らなければ本当の意味でそれが何をしているのかは誰にもわかりません。智慧を学ぶ人は、知識で知りえるような教科書の文字を学ぶのではなく実地実行によって本物の自然の叡智を学ぶことが大切です。

引き続き、智慧を学び直し子どもたちに智慧の伝承と伝道を続けていきたいと思います。

無ではない

昨日は、福岡にある自然農の畑で無事に今年の分の妙見高菜が収穫することができました。大きく葉をつけて成長して、イキイキとした高菜の姿を観ていたら感謝の心で満たされました。

種を蒔いてからいつものように新芽が食べられもうダメかと思うほどに枯らされそうでしたがそこから追加で種を蒔き、さらには枯草を丁寧にかけ、何度も足を運び応援の声をかけ、青虫を手で一つ一つ取り除いてきたことを思い出します。また生き残った高菜を別の場所に移植するのは仲間たちにも支援してもらいました。みんなで育つといいねと最善を盡して祈ったことに応えてくれたようにも思います。

こうやって妙見高菜とのめぐりをじっくりと振り返っていると様々な苦労が報われる瞬間が訪れます。苦労こそ仕合せの種であり、苦労こそが感謝の源泉であることを感じます。手で触り無事に成長している姿を観ては育ってくれたこと、よくぞ自然の中でしっかりと逞しく成長したことを誇りに思うのです。この気持ち、ミマモルということは信じることを優先するということです。信じるというのは、自然を丸ごと信じ、どんな結果になっても最善を盡しては受け容れてそこから学び仕合せに転じ続けていくということです。

活きた学問は常に人の仕合せの道なのです。

また年々歳月繰り替えして実践してきた畑が、しっかりとその育つ環境を醸成してくれているのを感じます。他の野菜や生き物たちもみんな活き活きと育ち、無肥料無農薬で数十年経った今も、他の野菜に見劣りなくとても元気に大きく成長してくれます。見た目の大きさだけではなく、内容もびっしりと詰まったものは一朝一夕にはできません。このように人間もまた、会社もまた同様に、自然を信じ続けていくことでその人も育ち、環境も醸成されていきます。

私が会社経営をはじめて17年目に入りますが、それぞれが自分の居場所を見つけて育ってくれているのを観ると安心します。そして会社という畑を耕し続けて環境が整ってきているのを実感し、その畑で豊かに楽しく農や暮らしを実践できる歓びを味わっています。

「何のためにこれをやるのか」というのがはっきりしている人は、ブレることがありません。世間の常識や、世間の風潮、流行などはあまり影響もなく、初心を貫くことだけに真摯に誠実に生き切っていきます。その中で、様々なご縁があり一期一会の今があり、来たものを選ばずにすべて天の声であると受け取って無為自然に感応する好奇心を頼りに生きていきます。

しかしその自分は無ではない。

今までの長い歴史の中で活かされている自分、自然の中にあって活かされる自分、様々なご縁によって導かれている自分と同居しているのです。

禅語で私が好きな言葉に「無一物中無尽蔵」という言葉があります。私の解釈ですが同様の意味に「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉もありますが、自分に執着をせず初心に生きていくことが自分の魂の声に従うということでしょう。

初心に生きることができにくいこの時代、しかし生き方は自分で決めることができる。子どもたちにもそのお手本を一つでも譲っていけるように引き続き、信念に従い実地実行にニコニコ顔で命懸けで取り組んでいきたいと思います。

 

物語を磨く

人生には物語があります。どのような物語を創って生きるのかはその人その人の「思い」が決めるとも言えます。私たちは物語に生き、物語を共にすることでその「大切な思いが出て」きます。これを「思い出」といいます。

過去に誰かと一緒に生きた記憶は、それぞれの「思い」が折り重なり一つの「思い出」になってお互いの心に宿ります。一つの思いが多くの人たちの思いと繋がってますます「思い」は温められ育っていきます。

物語とはその思いの集大成です。

この物語は終わりはなく、いつまでも生き続けていきます。自分の生きている間は、その物語を創り続けることができますがもし死んでしまったとしてもその物語は終わりません。それはその物語と共に生きた人たちがその物語の続きを創り続けてくれるからです。

今の私もかつての人たちの物語の縁線上にいてその物語の続きを結び続けている存在でもあります。たとえ人は死んで肉体が失われても魂は生き続けるといいます。この魂という字を「物語」に書き換えるとわかるように、今を生きる私たちは死んでいった人たちの物語の続きを記し続ける使命があるということです。

宇宙も同様に、目には観えませんがその物語を記し続けている存在です。

二度とない人生の中で、どのような物語を描くのかはそのあなたの「思い」です。

「思い」が具現化されてカタチになっていくとき、人々はその物語を目にすることができます。同時に、その物語の背景にある人々の遺志を受け取ることができます。伝統を継承することも、伝承を守り続けることもまた、故人のいのちと一緒に生き続けるということかもしれません。

終わることがない永遠の物語と、永久の今。

子どもたちのためにも、常識に囚われず世界共通の人類のテーマに向き合いこの今の一期一会の物語を磨き続けていきたいと思います。

めぐり

昨年から盆栽に取り組みはじめましたが一年間を通しで見守っていると、四季におけるその樹木の生態が少しずつ深まってきます。庭の剪定も同じく、年間を通して実践しているとその翌年にはまた少し生態が深まりこちらがどのような手を入れればいいかが身に着いてくるものです。

この「通しでやる」という智慧は、学びを丁寧に取り組んでいく方法でありこれはどの仕事であっても暮らしであってもこれを繰り返すことで改善し学びを深めていくものです。特に自然をお手本に自然を先生にして学んでいたら、先生の教えに従って自分自身の方を改善していくしかありません。

自然農などもそうですが、年々少しずつ自然の方が変わっていきますからよく観察してみてはじめて「めぐり」を実感することができるからです。

この「めぐり」とは、循環のことでよく使われる言葉は「めぐり会い」や「堂々めぐり」などでも用いられます。廻り巡って私に会いに来たというように、循環していくかでそのご縁が私のところにやってきたという使い方をします。

この「めぐり」は、自然の法理であり宇宙の道理でもあります。何かをすれば何かが発生し、その原因によって結果が出てくる。そのご縁のつながりがどのように結ばれて今に至るか、それはありとあらゆるものが有機的、また無機的に循環していることを意味します。

私たちが「通しで学ぶ」のは、あれは一体何だったのかと自覚することであり、これがこの先どうなっていくのかを察知していくためでもあります。偉大な視点で物事を観れば、ご縁の尊さに感謝が湧いてくるものです。

「めぐり」を体験できる仕合せは、自分が蒔いた種を温め育つ歓びでもあります。

めぐりを通して学び続けられ、学び直せる場があることが私たちを真に成長させてくれるように思います。人生の四季のめぐりも、時代のめぐりも、いのちのめぐりも、かけがえのないものとしてこの今を噛み締めながら歩んでいきたいと思います。

近未来の準備

暮らしの甦生に取り組むことで、次第に先人の智慧に触れる機会が増えています。先人たちの生み出した道具やその仕組みはどれもまさに「智慧」と呼べるものばかりで、教えなくても学べ、語られなくても語るかのように触れているだけで自動的に習得していくものばかりです。

言い換えるのなら、暮らしの古道具たちはすべて私たち子どもの「先生」であるといっても過言ではありません。古道具には知恵があり、暮らしには仕組みがある。これが日本民族の永続する鍵であることは伝統を学べば誰でも知りえるところではないかと私は思います。

私たちは言葉を用いて様々なことを学びますが、まだ言葉をあまり知らない幼児期は感覚によってそれを習得していくものです。感覚とは、五感のことで触る、聴く、見る、嗅ぐ、味わうなどの人間の持っている感性によって得て学ぶものです。

この時の学びは理屈で学ぶのではなく、そのもののあるがままの全体を直観的に掴んでいきます。厚い、重い、渋い、温いなど、その感覚によってそのものの「いのち」や、そのものの本来の姿の雰囲気、自然のカタチなどを受観していきます。

子どもたちは今の私たちが自然から学ぶように、「暮らしの知恵」から生き方や考え方、大切なメッセージを受け取っていくのです。先祖たちはそういう直観的に学ぶ智慧の重要性を自覚していたからこそ先人からの暮らしを途絶えさせずに維持していたのではないかと私は思います。

もしも子どもの頃にその智慧や仕組みに触れたなら、先人の初心が伝承されるはずです。そうやって連綿と続いてきた精神や文化を繋ぎつづけることが今を生きる大人たちの大切な使命です。

引き続き、風土を深めつつカグヤがこれから取り組むであろう近未来の新しい道徳経済一致のビジネスに向けての準備を着々と進めていきたいと思います。

ゆるし

今年は「ゆるし」をテーマに、様々なことを深めていますがとても奥深く発見することばかりです。よく考えてみればみるほど、私たちはゆるされている存在として今があることに気づきます。周囲に助けてもらわなければ生きてはいけない存在だからこそ自分がゆるされていることを感じるからです。

例えば、私たちは重力という恩恵を受けています。重力がなければ立ったり座ったり、運動することができません。そして空気という恩恵もあります。空気がなければ呼吸できませんから生きていくこともできません。そして太陽に水の恩恵、あらゆる恩恵を受けて私たちはゆるされてこの世に存在することができているのです。

このゆるされて存在するというのは、一人では生きていけないということでもあります。ここでのゆるすは、相対的に許す許さないで使われるときのゆるすではありません。本来のゆるすは、「恕す」ですから思いやりによって活かされているという意味です。

思いやりの中で存在しているのだから、少し損をして生きるのは当たり前のことだとも言えます。それを実践していくことを古語には陰徳とも言います。陰徳は、活かされていることを実感し活かされていることへの感謝に生きることを言うのかもしれません。

私たちはどうしても自分勝手にするあまり、自分がゆるされてもいいと周囲に押し付けようとするものです。しかし謙虚に自分がゆるされていることを感じていれば、自ずから与えてもらっている偉大な恩恵を実感し感謝の気持ちでゆるされていることに気づけるようにも思います。

当たり前に与えていただいている恩恵こそが「ゆるし」そのものの存在であり、謙虚にその恩恵に感謝するとき自分がいつも見守られ非常に多くのものに活かされ助けられていることを思うとき「ゆるされている」と感じるのです。

私の好きな言葉に「信じて聴く、ゆるされて聴く」という言葉があります。これは親鸞上人がノートのメモに書き残したものを偶然見つけたところの文章です。私はこの文章がとても好きで、聴福人の根底の理念にはいつもこの言葉が座右として存在しています。

引き続きゆるしを深めながら、子どもたちの今と向き合っていきたいと思います。