日本の精神文化

日本人には脈々と受け継がれてきた日本の精神文化というものがあります。私たちは当たり前になってしまい思い出しもせずに使っていますが、それは日ごろの様々な暮らしの中で見直していくことができます。

今のような情報化が急速に発達する時代において、如何に情報を取捨選択していくかはこの世代に生きる者たちの責任であり使命であると私は思います。

私が日本文化や日本の精神にこだわるのもまた、今のように情報過多の時代で言葉が氾濫しているからこそ私たちは何を守るのかということからはじめなければならないと思っているからです。

例えば日本語というものには精神文化が色濃く反映されています。「ありがとう」「おかげさま」「おたがいさま」「もったいない」「ごめんなさい」なども日ごろから使っていますがそのどれもが日本の精神文化と深くつながっているものです。

昨年、手掘りで井戸掘りをしたとき6メートルを超えたところで地下水脈に出会いました。そこには膨大な地下水が常に流れています。その水に触れたとき、懐かしさといのちと感じました。また日本に流れ続ける風土の文化を直に感じた瞬間でもあったように思います。

まるで井戸掘りと同様に、伝統や親祖から連綿と続いている歴史の深奥、その地下にはまさに精神文化という水脈がいつまでも流れています。表層は何もないように見えても、掘り下げていけば必ず地下水脈に中ります。それを如何に掘り出していくか、情報の氾濫する川の流れの中でそんな川に翻弄されるのではなくじっくりと悠久を流れる地下水脈に身を委ねられるか、それは今の私たちの生き方にこそ懸かっているともいえるのです。

現代は視野狭窄になり、近々のことだけや自分たちの世代のことしか考えない人たちが増えています。もっと古いものや懐かしいものに触れて、本来の日本人であること、日本の精神を自分たちが受け継いで子どもたちに伝承していくことなど本来の使命に立ち返る必要があると私は思います。

特に子どもの仕事をしていれば、日本の文化伝承は欠かせない一大事であることは少し掘り下げて考えてみれば誰でもわかります。

連綿と流れ続けているものを掘り起こすことは道を拓くことであり、子どもたちに歴史を繋ぐことは未来への希望の懸け橋になります。いのちを懸けられる仕事に出会ったことを仕合せに思います。

引き続き、子ども第一義の理念で生き方を観照していきたいと思います。

待つ文化~自然調和~

私たちの精神文化の根元には「待つ」という考え方があるように思います。なぜなら古いもの懐かしいものに触れていると、自然淘汰というやさしさを感じるからです。この自然淘汰はどこか悪いことのように認識されていますが、本来はそうではなく自然が調和させるという意味で元の姿になるといってもいいかもしれません。

この自然淘汰の意味は辞書では「自然界で、生態的条件や環境などによりよく適合するものは生存を続け、そうでない劣勢のものは自然に滅びていくこと。転じて、長い間には劣悪なものは滅び、優良なものだけが自然に生き残ること」(goo辞書)と記されています。

滅ぶことが自然淘汰という意味になれば印象も悪くなりますが、そうではなく自然調和されるとなると意味も異なります。淘汰の語源は、 「淘」は水洗いして選り分けることを意味し、「汰」は勢いよく水を流してすすぐことを意味する。水で洗って選り分けるという意味です。

自然に循環するものは、水によって浄化されていくものです。私たちの呼吸する空気の中にも大量の水分があり、水分が洗うことで元の水の状態に戻るために不純物を取り払っていきます。長い時間をかけて水が通ることで私たちは自然調和を取り戻します。

水があるからこそ私たちは生きていくことができ、水があるからこそ私たちは滅びていきます。水が万物生命の根源であることは揺るぎない真実です。日本の国土は、美しく瑞々しい水に包まれています。新鮮な生き物たちが多く、そこには水と共に暮らして順応した生き物ばかりです。私たちは水から学び、水を通して文化を形成してきた生き物です。稲作などは水の文化の代表的なものです。

水は循環してきますから、次にどのようになるかを観察して私たちは水を上手に活かしてどれくらい長持ちさせられるかを考えます。水は扱い方次第でいくらでも調和の技術を活かせます。その最も根幹にあるものは「待つ」ことです。言い換えるのなら「調和を待つ」といってもいいかもしれません。

長い時間をかけて待つことができるのは、水の循環を直観しているからです。水が循環するのを学ぶ人は、地球が「待つ」ことで調和するのを知っています。如何にその「待つ」速度に合わせて調和の中にいるか、先祖はそれを見極めて暮らしを充実していたのでしょう。

天から降る雨をただの水とは思っておらず、地下に流れる水もまたただの水ではない、さらには地球を循環する気化水のこともただの水とは思っていない。私たちのいのちの原点としての水を観ることが日本の文化を学び直す近道になるように私は思います。

引き続き、待つ文化を学び直しながら水を深めていきたいと思います。

心の訓戒

以前、「心訓七則」という文章を読んだことがあります。作者不詳ですが、一つの訓戒としてはとても奥深いものです。これは愚直に生きるための自己内省の基準にもなるように思います。

一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと云う事です
一、世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です
一、世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です
一、世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です
一、世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩に着せない事です
一、世の中で一番美しい事はすべての物に愛情を持つ事です
一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です

これはこの逆を考えてみるとわかります。目的も持たず人生を懸けられる仕事をせず、精神修養もしない、人のためによりも自利に走り、他の誰かと比較しては不平不満で妬み羨み、損得勘定で他人を評価し裁き、自分のこと以外無関心で、嘘をつき言い訳ばかりをする、このようには生きてはならないという訓戒です。

世の中というものは、自分の生き方でどうにでも観え方が変わってくるものです。自分が正直に生きていれば世の中は美しくなり、自分が不誠実で生きていけば世の中はただ世知辛く感じるものです。

誰がどうであれ、自分はこう生きようと信念をもって信条を優先して生き方を貫けばこの世はその通りの世の中になるものです。つまり自分次第でいくらでも世の中が変わってみえるということです。

だからこそ重要なのはいつも自分が世の中に対して如何に心の姿勢を正しているか。正直であるか愚直であるかと確認し続けることが大切なように思います。人はそれぞれに心訓というものを持ち、自分の心がどんな時でもちゃんと着いてこれるように日々に心掛けを実践していくしか真に仕合せの道はないということでしょう。

これを別の言い方で「平常心」とも言いますが、如何に常に自分に打ち克って心で決めた信念を優先することができるか。平常心を保ちながら試練を通して人生を磨いていくのが人生です。一生涯ずっと自分との闘いとも言えますが、それが人生をよりよく生きるということの本懐だと私は思います。

子どもたちにもそういう心の在り様を観て訓戒を持てるような生き方の背中が遺せるように日々に愚直に正対し内省していきたいと思います。

 

 

 

道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。

時を待つ実践

人生には良い時もあれば悪い時もあります。この良し悪しは自分で決めていますから、それは心の持ち方や転じ方で工夫していきますがどうにもならない時というものもあります。

そもそも「時」というのは、人それぞれに速度も質も中身も異なりますから同じ時を一緒に過ごしてもその感じ方は十人十色です。生き死にを体験したような人は時の質量も異なりますし、マイペースでゆったりな人の時もまた異なります。人間にはそれぞれ与えられた時間と、また自分が求めている時間がありますから時は人によって平等だとも言えます。

その時というものに対する姿勢において「時を待つ」という心境があります。これはどんな人にも言えることで自分が蒔いた種が育ってくるのですからそれが育つのを静かに待つということです。

今起きている、良し悪しは以前自分が蒔いた種が芽がでて実になったともいえます。人生にも四季がありますから春蒔きと秋蒔きの種を蒔けば旬を逃さなければそれが実になります。実を収穫したいと思うのならば、その種を蒔き続けなければなりません。

人生には因果応報といって、必ずその原因と結果が結び付いているという道理があります。人生には必ず理由が存在し、いくら理不尽だと思ってもその原因は時間が経てば次第に解明していくからです。

その「時」との付き合い方や接し方が生き方であり、どのように時と上手く付き合っていくかが自分との向き合い方にもつながっているように思います。

松下幸之助氏はこうもいいます。「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」

また私がよく振り返りに用いる本田静六氏に「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」があります。

心静かに待つためには、習慣というものを身に着ける必要があります。それを実践ともいいますが、良し悪しの時でも平常心で実践し続けて心を静かにしておくということです。

心がざわつくたびに実践をやったらやらなかったりするのは心を亡くしているからです。どんな状況下であっても心さえ手放さなければ心はいつも付き従ってくれて心を穏やかにしてくれます。この「静か」というのは、時を待つ心境のことを言うのでしょう。

「時を実践しながら静かに待つ」ためには、習慣というものを身に着けなければなりません。習慣とは努力のことであり、継続こそが忍耐力や平常心を育みます。子どもたちにその努力の意味や幼いころからの習慣が人生を好運に近づけることを背中を通して伝承していきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

天謙の道理

人間は、自分自身と向き合い初心を確認してその初心から離れないようにしなければ気が付くと他人の夢をいつまでも追い求めたりするものです。自分自身が本当の求めていたものは置き去りにして、自分が認められたいことや手に入れたいと思っていた願望を追い求めたら成功はしても仕合せではないという矛盾が発生してしまうこともあります。

今度はそのように成功してしまえばそこから離れることができず、いつまでも不仕合せが続いてしまうということもあります。この本当の自分が何を望んでいるかという初心を自分から先に手放してしまわないようにすることこそが初心を忘れないということです。

ではどのような時に初心を忘れるかといえば、自分に負けるときになります。例えば、比較競走社会の中で誰かと比較して自分が認められようとしたり、自分が差別されたり酷い評価をされたりすることへの復讐をしようとしたり、ないほうばかりを見てあるものを観なくなったりするときに自分に負けて初心を忘れるのです。

そもそも与えられた天命を謙虚に受け止めて、それが天命であり使命であると真摯にいただいたものに感謝して歩んでいる人は初心がいつも身近に備わっています。その逆に、与えられた環境には満足せずこんなはずではないや、もっとこうであるはずといったないものねだりばかりをしていたら自分に与えられた天分というものもまたわからなくなります。

身の丈が分からなくなるのもそのときで、自分の存在が本来の自分の姿より大きくなったり小さくなったりとしているうちに自分が歪んでしまうのです。自分が歪んでしまったときに、親切な身近な人の声を聴ける謙虚さがあればいいのですが往々にしてそういう時に自分に負けて人間はそういう親切な人の話に耳を傾けなくなるものです。

謙虚さというものは、天命に対する謙虚さのことです。つまり天=謙であるということです。謙虚さを忘れるとき、人は初心を忘れるのです。常に謙虚でいることは、常に初心を忘れないでいること。人の話に素直に耳を傾けられる状態でいること、つまりはもっとも自分が聴くことができる状態でいるということです。

子どもたちに背中を遺すためにも聴福人の実践をしながら、天謙の道理に外れないように初心を忘れずに歩んでいきたいと思います。

自分に矢印

私たちの会社には「自分に矢印」という言葉があります。これは矢印を相手ではなく自分に向けろという意味ではなく、「誰にも矢印を向けないこと」を「自分に矢印」という言い方で表現しています。

つまりは誰のせいにもしない、誰も責めないときこそが本当の意味で「自分に矢印」になっているということです。

この国にいると、幼いころから責任を常に誰かに押し付けられ、いつもどこか不安で責任から逃れることばかりを考えてしまう空気感があります。一人でできること、自分ですべてできることを最良のように教えこみ、誰の力も借りずにできた人のことを優秀だとさえ評価したりもします。

先日もオリンピックのニュースで日本人はメダルがとれなかったり周りの期待に応えられないとすぐにみんな泣きながら謝罪している人が多いとありましたが、責の重圧の中で押しつぶされてしまっているような人たちも多く見かけます。生前アインシュタインはこうも言っています。「どうして自分を責めるんですか?他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」と、すぐに自分を責めて先に謝りますが別に誰もその人を責めてはいないのになぜ自分から先に責めるのか。自分で先に責めれば他人からのアドバイスや助言もすべて責められていることになってしまいます。本来は、それは助言や成長するための知恵であるのにそれを自分への責めにしてしまうことで責任意識ばかりが強くなっていきます。

日本人はマジメな国民と自評もしていますが実はこのマジメは、自分を責める人が多いという意味で使われている気もします。人間はそんなに強くありませんから自分をこれ以上責められないところまで来ると今度は他人のことを責めようとする。この責めるということの負の連鎖は、さらなる不安で孤独な人を生み出しより一層孤立を深めてしまいます。

だからこそ何よりも重要なのは、不安な人が余裕を持てる環境をつくること。そして自分が誰も責めなくてもいい環境にしていくことです。見守りや安心基地というのは、責めない場所でもあるのです。

まずは自分で責めるのをやめること、そして誰かを責めるのをやめること。誰も責めないというのは、「そこから学んで次に活かそう」という前進し成長するあるがままの素直な姿になるということです。

責めることでいつまでも感情の渦の中に引きこもって停滞してしまったらせっかくの機会も無駄にしてしまいます。責められることで自分を他から罰されて楽になったり、責めることで自分を守り楽になることは自他ともに幸せになることはありません。それは単に一時的に責めたり責められることで自分がバリアを張って自分を守っているだけでバリアが強く厚くなっていくだけです。ピンチはチャンスだと、責める前にその機会に食らいつき活かそうとしたり、誰も責めずにそこからどう福に転じるかと一瞬の間を与えずに取り組んでいくことで解放していく方法もあります。

どちらにしても、「マジメじめじめ」ともいいますがすぐに誰かを責めてしまう癖を捨てていくことがこの閉塞感から抜け出せ、好奇心を呼び覚まし挑戦を味わい楽しんでいくための知恵になります。

誰かを追い込むか、自殺をするかしかないような閉塞感があるこの社會を変えていくのは自分が責めるのをやめることからはじめるしかありません。「自分に矢印」の実践を積み重ねていくことこそが、社會を変えていくということです。この刷り込みが根深いからこそ、今の大人たちがそれに気づき解放していく必要性を感じます。

子どもたちに同じような不安で苦しい思いをさせないように、自他を責める生き方をやめ自他をゆるす生き方のお手本を示していきたいと思います。