美しい生き方

「お手入れ」という言葉があります。これは「手入れ」に「お」がついて、より丁寧にしたものですが辞書をひくと「よい状態を保つために、整備・補修などをすること。」(goo辞書)と書かれます。具体的には「手入れが行き届く」「よく手入れされた庭木」など、自らの心配りや心がけで修繕しているときに用いられる言葉です。

このお手入れは、何かを整えたり美しく保つために修理や修繕を続けて長持ちさせていくための智慧の一つとも言えます。掃除や片付け、修理やメンテナンスはそのものへの愛情を注ぎ込むことができ愛着の関係性が醸成されていきます。

大事にされているものは、大事にされている雰囲気が出てきます。これも一つの愛着というか、愛され愛し合う関係の調和が周りにそういう雰囲気を醸し出すのでしょう。お手入れはお互いに大切にし、大切にされた関係の歴史であり記憶です。

今の時代は、お手入れ不要の便利なものが増えてきています。例えば、お花では枯れない花や研ぐ必要のない包丁や、そのほか掃除やメンテナンスをしなくていい機械や便利な道具が溢れています。これらは使い捨てすることが前提ですから、使い切るまで一切のお手入れは不要です。

そもそも本来の言葉の使い切るというのは、「もったなく使う」ことで捨てないことから用いられたことばです。つまり捨てないでどこまで使い切ることができるかという意味でお手入れは絶対に必要です。

しかしこの意識の前提が「捨てることになっているか・捨てないことになっているか」でお手入れをするかどうかを分かつのです。捨てないことになっているからこそ勿体無く感じてお手入れが実践されるのです。

現代はグローバリゼーションのもと消費を優先して大量に生産し、そして捨てていく世の中ですがそのことで失われたのは美しい生き方ではないかと私は思います。この美しさとは心の美しさであり、修繕し勿体無くものを大切にし大切にされて生きていく愛情深い優しい所作、思いやりのある生き様のことです。

引き続き、修繕を楽しみ味わいながら子どもたちに大切な智慧を伝承していきたいと思います。

暮らしの醍醐味

昨日は聴福庵の甦生で大変お世話になっている大工棟梁とそのご家族に来ていただき、聴福庵での暮らしとおもてなしを体験していただきました。もう一年半以上も一緒に古民家の修理や修繕を行ってきましたが、いつも作業やお仕事ばかりではじめて一緒にゆったりとこれまでのプロセスを振り返る時間を取ることができました。

和ろうそくの灯りの中、二人で盃を交わしながら深夜までお酒を吞みましたが棟梁からは改めて「このような家を手懸けることができ大工冥利に尽きる」と仕合せな言葉もいただきました。まだまだ完成したわけではなく、修理や修繕は暮らしと共に継続しますからこのように家を中心に素晴らしい出会いやご縁があったことに感謝しきれないほどです。

人生はいつ誰と出会うか、それによって運命が変わっていきます。年齢も人生も離れていた人が何かの機縁によって出会い助け合う。そしてそのご縁によって豊かで仕合せな記憶を紡ぐことができる。志を共にする仲間が出会えるということが奇跡そのものであり、その数奇な組み合わせにより新しい物語が生まれます。

聴福庵の道具たちはすべて時代的に古いものを甦生して新しく活かしているものばかりですがその道具たちには職人さんたちの魂が宿っています。みんな人は何かを創りカタチを遺すとき、そこに自分の魂を削りそして籠めます。それは時代を超えていつまでも生き続けているものであり、その物語は終わったわけではありません。

その物語の続きを創るものがいる、魂を受け継ぐものがいる。そうやって今でもこの世に存在し続けて私たちと一緒に記憶の一遍を豊かに広げていくのです。またその魂は、同様に同じ志や思いをもっているものたちと引き合い弾き合わせてご縁を奏で波長を響かせていきます。その空間にはいつまでも楽しく豊かな記憶が、志を通じて甦るのです。それが暮らしの醍醐味なのです。

子どもたちに譲り遺していきたい暮らしとは、このように昔から続いている魂を大切に受け継いでいく勿体無い存在に対する尊敬の念です。ご先祖様たちの重ねてきた人生の延長線上に今の私たちがあるということ。それを決して忘れないでほしいと願うのです。

そのためには、それを実感できる場や存在、生き方や生き様などを与えてくれる大人たちの背中が必要なのです。今、私がここで感じている仕合せをどのように今の時代の子どもたちに伝承していくか、まだまだ未熟で途上ですがここで満足せずさらに一歩前に踏み出していきたいと思います。

 

思い込みからの脱却~聴く勇気~

人間は誰にも「思い込み」というものがあります。この思い込みは、過去に何かを体験した際にきっとまたこうだろうとその体験を思い出しては結果を先に決めつけてしまうことです。

先日、足を痛めすぐにまた元通りに歩けるようになろうとリハビリをしたところ歩くたびに激痛が走りそれを何度も繰り返しているうちに右足を出すことが怖くてビビッて尻込みしているうちにまったく足が出なくなりました。

一度そうやってまたきっと痛いだろうと怖がる心やビビる感情に苛まれると、どうせまた結果は同じだろうと先に答えを出してしまって思い込んでしまいます。それから月日が経ちもうすでに治っていたとしても、無意識的に心は感情と共に痛みを防御しようとしますから痛くなくても痛い感覚が思い出すのです。まるで古傷がいつまでも痛むように、治っていてもそれが痛いという感覚がずっと残ります。

そしてこれは単に体のことを言うのではなく、心のトラウマや古傷もまた「思い込み」によって痛みを感じているのです。

このように過去に何らかのことで心が傷ついたり辛いことがあったり、感情にインプットされた様々な痛みはいつまでも記憶の中に「思い込み」として残ります。それが邪魔をして怖くなり足が前に出ない、前に進めないという人は本当に多くいます。好奇心が旺盛な人はその体験を乗り越えてそれでもやってみたいという熱情が湧いてくるのでしょうが、いざ本番になると急に足がすくんでしまいます。

人が「背中を押してもらいたいや背中を押されたい」という願望は、この「思い込み」を乗り越えるための勇気をくださいという切望でもあります。

先ほどの足でいえば私の場合は出なかった右足を痛いかどうかではなく「勇気」の方に意識を集めて挑戦すると足が前に出て階段を無事にあがることができました。思い込みに意識を持っていかれる前に、勇気に重心を置いてみるという話ですがこれもまた単に体の話ではありません。

人間は過去の痛みを乗り越えるときもっとも大事なことは「勇気を出す」ことです。スポーツ選手が怪我を乗り越えて優勝したり、友情や愛情が困難を乗り越えて結ばれてるように、人間はそれみて感動し魂が揺さぶられます。それはすべて勇気によって得られるものです。今までの体験を乗り越えて新しい体験で過去を刷新し上書きするには勇気を出すしかありません。同様に先ほどの思い込みを抜けるにも勇気しかないのです。

ひょっとしたらまた傷つくかもしれない、もしかしたらまたあの時のような状態になるかもしれない、「それでも勇気を出して前に進もう」という気持ちこそが未来を変えていくのです。

私たちはそういう勇気を出したいと思っている人たちに寄り添って一緒に帆走したい、背中を押してもらえれば歩めるという人たちを心から見守りたいと、聴福人の実践を続けています。

人はみんな勇気を誰かに分けてもらって元気を出します。誰かの勇気が誰かを助けるのだから自分から勇気を出して殻を破ればそれだけで周囲の力になります。大変だけど一緒に思い込みに立ち向かおうとする仲間に出会えることはとても仕合せなことです。

その思い込みを捨てる練習は、「聴く」実践によって行われます。思い込みの強い人は誰の話も聞きません。痛いから怖いからどうせ無理だと最初から諦めているのでしょうが、そこを勇気を出して深く聴いてみる、きっと何か深い理由があったのだろうと聴く勇気を出してみること。話は最期まで聴いてみないとわかりませんから、相手を疑いから入る前に信から入る勇気を振り絞って自己との対話に挑戦していくしかありません。

聴福人の役目はそういう人たちが安心して皆で認め合って聴き合う場を醸成していきます。人生は自分らしく生きていくためにも、乗り越える力、英語ではリジリエンスといいますがこれによって勇気を磨くのです。

引き続き、勇気を出せる存在になれるよう私自身聴く実践を高めていきたいと思います。

一緒に考える人

一緒に考える人というのは、当事者意識が強くあります。自分が相手ならと考え、相手が自分ならと考えているうちに自分がまるで相手のことになり相手が自分のことになってしまいます。これを当事者意識といいます。

どこか自分事ではなく、相手の問題だとみている人は当事者になることができません。当事者ではないのだから思いやりも発揮されず、まるで他人事のように自分には関係ないものだと処理したりするものです。他人事になれば巻き込まれたくないや、責任を取りたくない、関係したくないと思い余計に関わらなくなっていきます。自分の問題だと物事を常に受け止める人は、それを自分事にして取り組みますから体験も2倍、経験も2倍、いやそれ以上に他人の人生まで介入して悩んで協力して手助けするのだから偉大な成長があります。さらには、自分を守るのではなく誰かを守ろうとするのだから自分に囚われず大きな目線で大胆に行動することもできます。つまりは自分の想像を超えた成長があるのです。

仕事ができる人や、みんなに必要とされる人はこういう人が多くいつも自分を誰かのために活かしています。その逆は、いつも自分のために誰かを使おうとします。前者はいつも周りには協力者が現れ、後者はいつも独りぼっちです。

信頼関係を築くというのは、言い換えればいつも協力しやすい関係になれるように努力しているということです。それは自己防衛ではなく利他防衛、お互いを思いやり一緒に考え続けてお互いにどうしたらいいかとお互いに誰かのために自分を活かし続けていくということです。また自分の心配をしなくていいようにみんなの安心のために働き、できうる協力を惜しまず自分に起きたことは周りにも一緒に考えてもらえるようにいつもオープンな情報共有を怠らないようにすることです。それは周りに申し訳ないという遠慮をするのではなく、みんなもきっと自分と同様に役に立ちたいと思っているという配慮です。

それに自分の心配や保身から身構えて壁をつくって相談にいくのは相談ではありません。「一緒に考えよう」と自ら心を開き、仲間に意見を委ね、取り組みに手伝ってもらえるように信頼し合っていく、こういう日々の積み重ねの連続が自他一体の境地で生きていくことのように思います。

人間は不思議ですが、自分が助けたように見えて自分が助けられているものですし、相手を助けたいと思って真心で行動したことによって自分が助けられていたということばかりです。

お互いに助け合うことで人間社会が成り立っているとするのなら、私たちの本来の仕事は自分のためにすることではなくすべては周りの人たちのためにあるのです。

同じ目的のために力を合わせるということが、人間の元来もっている協働や協力の徳です。それが発揮されないような環境や、邪魔するような刷り込みを如何に取り払い仕組みにしていくかは社會を創造していく上で大事なことです。

引き続き社業の実体験に基づいた経験を深堀し、そこから得られた智慧によって子どもたちが安心できる社會に一燈をささげていきたいと思います。

生き甲斐と働き甲斐

人生は、「生き甲斐」を持つことで希望が現れ楽しくなります。この生き甲斐は、世界では「mottainai」や「kawaii」などと同様に「ikigai」として注目されているともいいます。

この生き甲斐は、生きるに値するもの、生きていくはりあいや喜びと辞書では訳されますが私の意訳では「暮らしの仕合せ」です。一日一生として、毎日を人生の大切な日であるとして初心を忘れずに丁寧に暮らしを営むことで生きる意味を感じる生き方のことです。

人は何のために生きるのかと突き詰めれば、どう生きていきたいかに出会います。どのような生き方をするかと決めれば、毎日はその生き方を挑戦できる尊い一日になります。それを初心ともいいますが、その初心を忘れずに生きれるのなら毎日は生き甲斐のあるはりのある一日を過ごすことができます。その日々の暮らしこそが幸福の源流であり、その中にある最中こそが本当の仕合せなのです。

そしてこの生き甲斐は、そのまま働き方に転換されていきます。働き方改革など世の中でいわれているもののほとんどは、働く手段や方法のことばかりを変えることをいいますが本来は生き方を変えることが働き方を変えることです。そして生き甲斐があれば働き甲斐が出てきます。

この働き甲斐は、日々の仕事の中にあります。

どのような初心を持ち、日々働きそして内省するか、それを繰り返すことで次第に働き甲斐が高まり豊かになっていきます。その豊かさは暮らしの豊かさであり、日々の仕事の中に自分の価値や意味、その大いなる目的を共に体験することで天職に気づいていくことです。

与えられたご縁はすべて意味があるものとして生き方を磨き、与えられた仕事もすべて天職として意味があるものにしていくことで働き方を磨く。そこで得られる生き甲斐と働き甲斐は自分が生きている、活かされている充実感を味わうことです。

「ikigai」「hatarakigai」は、日本人の持つ尊い文化です。

日本人の文化に支えられながら、暮らしを甦生させ日々を充実するよう初心と実践と内省を伝道していきたいと思います。

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

職商人

「職商人」(しょくあきんど)という言葉があります。これは職人と商人が合わさった言葉で、言い換えるのならいい職人こそいい商人であり、職人と商人の一致とも言えます。私はこの言葉に出会い、感動し、自分が目指しているところを知り、また同時に日本人の持つ伝統的経済観念を再確認することができました

かつて江戸時代は、修理や修繕といった繕いの文化がありました。今のように新しいものをつくっては捨てていく時代は、分業制も進みものを作る人と売る人も分かれてしまっています。

以前、ある鋸職人のところにいい鎌や鍬の鍛造を相談しに行った際に、職人さんたちが使い手の相談に乗りながら新しい商品を開発しそれが商売になっているという話をお聴きしたことがありました。アイデアを常に、お客様と一緒一体になって作ってこそ単なる物売りではなく単なりものづくりではなく、職商人であるともいえます。

自分で作ったものを長く手入れできるということは職人にとってもどの部分が改善が必要でどの部分が弱かったのか、また使い手の癖や職業上の理由など物事が深く理解できます。さらには、作ったものを如何に長持ちさせて甦生させるかを極めていくことは捨てない社會、いわば循環型の持続可能な社會を実現するために大きな役割を担っていることになります。

作ったものを修理修繕し、改善する文化があれば大量生産しなくても少量生産であっても長く永続的に使えればゴミになることはありません。今の時代は、作っては捨てて、古くなってはすぐにゴミのように廃棄されますが、それは職商人がいなくなっているからです。

職商人は、自分で体験したものの気づきをまた新たな智慧にして世の中に還元して人々と共に成長して成熟し、ものづくりだけではなく人づくりにまで貢献していくものです。まさに自他自物一体の境地の生き方です。

世の中がもので溢れていたとしても、長く使い古されて貢献してきた物は思い出や思いやりなどがそのものに籠っています。それを如何に活かし、長持ちさせていくかが、その人物の人格に左右されます。物を磨くのは修繕するところからはじまり、精神を磨くのはそれを研ぎ澄ますことで得られます。

引き続き、古来からあるものを大切にしながら子どもたちに勿体ないの初心の本質を伝承できるように日本の伝統文化を担う職商人としての誇りを持ち、一つひとつを丁寧に実践していきたいと思います。

ぬくもりのある暮らし

今年は、年始から会社のみんなと一緒に炭を中心にした暮らしを実践し豊かな時間を過ごすことができました。聴福庵では、炭は欠かせない暮らしの道具であり炭がある御蔭でぬくもりを身近に感じることができています。

例えば、朝起きてすぐに火鉢の炭に火を入れお茶を沸かします。また朝餉もその炭を用いそのまま料理します。炬燵には炭団を入れれば一日中暖かいままです。また就寝前には、その炬燵に残っている炭を豆炭あんかに入れれば布団の中も朝まで暖かいままです。他にも、お風呂の井戸水のお湯も炭で沸かし、その風呂には炭をつくるときに出てくる木酢液を入れると湯上りもずっとぽかぽかします。また花瓶には炭を入れると花が枯れにくくなり、飲み水やお米を炊くときも炭を入れてミネラルが増え浄化されます。部屋の隅々にも炭が置かれ、床や壁にも飾られ癒しの空間が演出されます。灰になったものは、掃除用の洗剤にしたり植物の周辺にまけば土の潜在力を高め菌たちには栄養になります。燻された古民家は、抗菌効果も高くなり虫が家屋に入ってきにくくなります。「ぬくぬくやぽかぽか」などの「ぬくもりのある暮らし」はこの炭の暮らしがあってはじめて成り立つのではないかと私は思います。

冬はとても冷え込みますが、寒くても寒くはないという感じが炭のある暮らしにはあります。みんなが火鉢を囲んでお茶やコーヒーを飲みながら語り合い寛ぐだけで、炭が周りの人たちの心も融かしていくかのようです。

暖炉やストーブや空調は、部屋全体を暖めますが火鉢や囲炉裏は手元や周辺を暖めます。体だけを暖める道具ではなく、心まで温める道具がこの炭であることを私はぬくもりのある暮らしから体験しました。

聴福庵は、炭御殿のようになっていますがまだまだ炭の甦生は途上にあります。いろいろな「ぬくもり」のカタチを炭と一緒に発見していきたいと思っています。

今の時代、暮らしが失われ心が渇いて冷え切り、お金があっても権力や地位があっても、心が寒くて凍えて震えている人たちがいます。特に子どもたちが家が寒くなることで、家庭のぬくもりを感じないままに育っている子どももいます。私も幼少期に両親が共働きで家には誰もいませんでしたからその家の寒さを体験してきました。

家が寒いのが当たり前ではなく、家は暖かいことが当たり前です。そしてそこには心のぬくもりがあります。冷えてしまったものを暖めるのは自然物である炭の力を借りることが一番です。

私はこれからも炭の力を借りて冷えた心の傷を炭火のぬくもりで絆に換えて人々の心を暖めていきたいと祈ります。子どもたちが寒くて震えているのなら、私がその寒さをぬくもりで融かす炭火となりたいと願います。

引き続き、初心を忘れず家が喜び炭が喜ぶぬくもりのある暮らしの実践を高めていきたいと思います。

物から学ぶ智慧

一昨年より、樽や桶を扱うことが増えましたがそこには箍(たが)がかかっています。この箍とは、樽や桶の周りにはめる、竹や金属で作った輪のことでその輪を締めたり緩めたりすることで中のものが出てこないように調整しているものです。

よく箍が外れるという言葉もありますが、あれは緊張がゆるみすぎて羽目を外し過ぎたときにも使われます。この羽目とは、馬を制するために口に噛ませる「馬銜(はみ)」が転じたものとして使われ抑えがきかず調子にのることをいいます。

この適度に締めるという技術は、まさに人の生きていく上での大切な教えでもあり樽や桶を使っているとその器として何を大切にしていけばいいのかを実感するものばかりです。

人間は緊張しすぎてしまうと自他に厳しくなりすぎます、しかし緩みすぎると箍が外れて周囲に多大な迷惑をかけてしまいます。ちょうどいい具合になっているとそのものを長く保つことができます。ここにも智慧があります。

樽や桶については、湿気と乾燥を繰り返し箍が緩んできます。湿気の時は水気によって引き締まっていても木が乾燥すると箍が緩んでしまいます。外れてしまうとバラバラになるので常に湿気を保てる状態にしながら保存します。

以前、桶職人にアドバイスしていただいたのは湿気過ぎず乾燥し過ぎないところで桶を保存することだといわれました。太陽に晒されると壊れ、水気が多すぎると腐敗するからです。また風を適度に通してあげられるところで、あまり風が強すぎるところは乾燥し過ぎるからよくないともいわれました。

現在、聴福庵の離れには縦の風が流れるように土からの水分が屋根を抜けていくようにつくられてます。適度な湿度と風が常に流れ続け桶や樽には最適な環境とも言えます。昔の人は道具を大切にすることで、自分の生き方の何が間違っていたのかを教わらずに気づいていたように思います。便利にならなくてもむしろこのままでいいと、先祖が智慧を子孫へと遺してくださったようにも思います。

締めすぎず緩みすぎないというのは、入れ物や器を大切に修繕し続けていくということでもあります。物の扱いに長けた人は、自他の扱いにも長けていきます。人が物をつくりますから、昔のものが価値があるのはその人格を持った人たちによって物がつくられてきたからです。

物から学び直し、視野の広い全体最適な心の余裕や余白を持て思いやりを優先できる自分を磨いていきたいと思います。

学問の要

吉田松陰は至誠と実行の人物であったことはよく知られています。その生涯において、勇気を出して普通の人がやらないような非常識なことにも果敢に挑み周囲を感化していきました。

その実行に至るプロセスは突然の思いつきで衝動的に行動するのではなく、その裏付けに日々の小さな実行の集積があったことがその言動からわかります。自らを狂人であるとし、常識に囚われずに志を全うする意志の強さには感動します。その遺した言葉には、徹底して実行を重んじた生き方がありました。

「一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。一日努力すれば、一日の効果が得られる。一年努力すれば、一年の効果がある。」

「一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。」

「学問の上で大いに忌むべきは、したり止めたりである。したり止めたりであれば、ついに成就することはない。」

その実行の背景には常に至誠がありました。

「人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである。」

「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

どの言葉も、生きた学問を実践していく上で参考になるものばかりです。自分で決めたことは自分自身と約束したことです。その決めたことに正直であるからこそ、継続を怠らず真心を盡していくことができます。

自分自身に嘘をついて誤魔化していけば、自分自身との付き合いに信頼ができなくなります。自分との信頼を結ぶことが世界への信頼にもなっていきますから如何に自分が信じたことを積み重ねていけるかが人生においてとても重要であることがわかります。自分への信頼関係は、この至誠と実行によってのみ積み上げられるからです。

そして信じたことを信じたままに実践を続けて内省によって自己との対話をしながら改善を続けていくことで本当の自己を確立していくことができます。自己を磨き、魂を磨くことはこの世に生まれてきたものすべての道であり使命です。

引き続き、子どもたちに人生を遺せるように今を大切に歩んでいきたいと思います。