聴福人の実践目録

人間というものは様々な感情を抱きかかえながら生きていくものです。また真面目に生きていけば、理不尽だと感じることがあったり、なぜ自分だけこんなことになど被害者意識に苛まれることもあるかもしれません。人間は弱いからこそ人と繋がりますから甘えもまた人間の大切な感情の一つです。

私たちの目指している「聴福人」は、傾聴や共感、受容というプロセスを大切にしていますがこれはできるようで大変難しいことだと実感しています。人には、みんな異なる苦しみがありそれを乗り越えようと努力する中で葛藤があり成長していきます。その成長に寄り添うということで人は安心して成長を選ぶことができます。

成長を選べない理由は、成功や失敗を恐れたり、不安や不信があれば成長よりも無難であることを望むようになります。成長は失敗をすることで学び、不安を乗り越えてしていきますから誰かが見守ってくれていると実感しながら取り組むことは成長を助けるうえでとても大きな要素になると私は思います。

人間の感情を詩にして励ましてくださる方に詩人の「相田みつを」さんがいます。この詩にはすべて傾聴、共感、受容、感謝があります。一人で抱え込んだりして辛く苦しいときは心情を見守り理解してくれる存在として聴いてくださっているのを感じます。

ぐち」

ぐちをこぼしたって
いいがな
弱音を吐いたって
いいがな
人間だもの
たまには涙を
みせたって
いいがな
生きているんだもの」

(にんげんだものより)

生きていればいろいろなことがある、それを丸ごと共感してくれます。さらにこういう詩もあります。

うん

つらかったろうなあ
くるしかったろうなあ
うん うん
だれにもわかって
もらえずになあ
どんなにか
つらかったろう
うん うん
泣くにも泣けず
つらかったろう
くるしかったろう
うん うん

いのちいっぱいより)

このうん、うんと聴いているのはただ聞くのではなく丸ごと受容してくれているのがわかります。誰かにわかってほしい、逃げ出さずに頑張っている自分をわかってほしい、そうやって自立に向かって甘えを乗り越えて巣立っていく。人間は弱い自分を受け容れてはじめて自分自身と素直に向き合うことができるのかもしれません。そうして御蔭様や見守られたことを実感し人格が高まり感謝を知るように思います。

またこういう詩があります。

肥料

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな 肥料に
なったんだなあ
じぶんが自分になるための

(いちずに一本道 いちずに一ツ事より)

振り返ってみると、苦しみがあったから成長したともいえます。困難から逃げず、苦労に飛び込んではじめて今の成長があります。成長の過程で人間は、己に克ち己と調和するために、挑戦の最中ずっと自分を誉めたり、慰めたり、労わったり、安らいだり、癒したり鼓舞したり、激励したりと自分自身との対話を通して本物のじぶんが磨かれ自分になっていきます

だからこそその時の心情がそのまま詩になります。

心情を吐露することができるのは、苦労の真っ最中であり幸福の真っ最中、まさに生きている真っ最中ということです。生きている実感や生きている歓びや充実は、困難や苦労の中、つまり成長にこそあります。

成長する仕合せを福に転じ続けていくためにも聴福人的な生き方が大切であることを改めて感じます。引き続き子どもたちのためにも、聴福人の実践を積み重ねていきたいと思います。

 

立志

人間は一生の中でもっとも大切なものを持つのに「志」というものがあります。これは生き方のことで、生まれてきた以上どのような生き方をするかと決心するようなことです。

よく夢と志を混同されていますが、夢は願望のようなものであり志は信念であるとも言えます。同じ夢を観るにしても、志があるのとないのではその夢は野心や野望にもなります。しかしひとたび志が立つのならその夢は、自分の欲を超越した公のものになっていきます。

ちょうど昨日、テレビのドラマで「陸王」という番組が放映されていました。その中で足袋会社の社長が、1億円の借金をしてでも新しいシューズを開発するかどうかの岐路に立たされます。その中で、周りの人たちからどうするのかを尋ねられます。その際、社長の「できるならば、、」という言葉に、その程度なのかと周囲は幻滅して一人二人とその人から離れていきます。

人は誰かと何かをやろうとする時、どこまで本気かどうか、そこまでしてでもやるかどうかを確認するものです。それは自分のいのちを懸けるだけのものがあるか、自分の人生を懸けるだけのものがあるのかを確認するからです。

結局は、生き方や人生を迫られるとき人は悔いのない選択をしたときにこそ志が試され、その覚悟を決めた時に志が立つのです。

以前、大河ドラマの中で「あなたの志は何ですか?」と吉田松陰が弟子たちに問いかけるシーンがあります。これは、あなたの覚悟は何ですかとも言い換えることができます。

そこで先ほどのように「できることならば、、」というくらいでは、それはまだ立っていないといえます。私はこれを何がなんでも実現する、そしてそれが世界人類、またはすべての存在に対して貢献することを信じるというものがでた時、その人の志が立つと思います。

その志は、事あるごとに試されます。つまりどこまで本気なのかと、果たして全身全霊だったかと、自分自身に迫ってくるものです。できればいいかなくらいの気持ちは、本気の勝負の時にその人自身が自滅する原因になります。だからこそ周囲は、その人がそうならないように本気を試し確認してくるのです。

孟子に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、その体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ。 心を動かし、性を忍び、その能はざる所を曾益せしむる所以なり」があります。

これは志を立てるために天が敢えて試練を与えるということでもあります。

天理は不思議で、何を拠所にして何を中心に自分を立てるかが決まらない限り手助けが借りられない仕組みがあるように思います。いつまでも自分ばかりを握って自分の個人のことに執着し固執していたら志は倒れるばかりです。

子どもたちのためにも、立志を磨き続け悔いのない人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

聴き上手

諺に「話し上手聞き上手」というものがあります。これは話の上手な人は人の話を聴くのも上手だという意味です。この反対に「話し上手の聞き下手」もありますが、これは自分の話にばかり夢中になり相手の話を聞かないで一方的に話をするという意味です。

さらに「話し上手よりは聴き上手」というものもあり 、これは話し上手を目指すよりも聴き上手になった方がいいという意味です。

この聴き上手とは何か、少し掘り下げてみようと思います。

そもそも人の話を聴くというのは、単に言っていることを頭で理解すればいいわけではありません。それはどんな意味で言っているのか、そこにはどんな深さがあるのか、そして自分の中でそれはこう受け取っていいものかと、相手の話を聴きながら本当に聴いているのは自己との対話です。

この自己との対話は、相手を中心にして自分はこれを聴いて何を感じたか、何に気づいたかと常に自問自答しながら深めていきます。そのうえで、相手が言わんとしてくださっていることを天の声ように謙虚に受け止め、これはこのような意味ですか?それはこれで間違っていないかと素直に確認していくこと。それが聴くという行為であります。

この聴くという行為とは逆にもったいないことをしているのは、自分の思い込みで単に聞いているだけということになります。これは読んでいるものもそうです。本当にその意味なのかが深まっていないものをその時の「自分の思い込みのみで解釈」して話をちゃんと聞こうとはしない。そういう素直ではない姿勢では、周囲はその人に話をすることも次第にやめてしまいます。話し上手よりも聴き上手というものは、ちゃんと人の話を素直に聴く方が話ばかり上手くても人は離れてしまうという意味もあると私は思います。何のために話すのか、何のために聴くのか、それが人間にとって必要なことだからです。

さらに素直に聴く力というものは、ただ黙って相手の言う通りのことに従順に従えばいいというものではありません。素直に聴く力は、相手を深く尊敬し相手が言っている言葉の真意を自分自身の真実や本質から深く掘り下げて、相手の言っている言葉以上の価値を相手に敬意をもって確認することです。その際、ひょっとすると自分の方がその意味が深まっているのなら相手のいう事が如何に素晴らしいかも気づく自分がありますからそれを称賛し共に深めていくくらいの人こそが聴き上手といわれるのです。

よく学んでいる人や、物事の本質を深めている人、体験を内省し自分を磨いている人は聴き上手です。なぜなら、その人が聴けば自然に相手のいいところが引き出され、その人の智慧も活かされ、まるでどんなにくすんだ物体もその人の前に立てば澄み切った鏡のようにすべてを明瞭に写し出すことができるからです。

素直な人は、思い込みで人の話を聴くことはありません。さらには自分勝手な解釈で他人の親切を棒にふるようなこともありません。話を聴くという心の態度は、相手の真意を確かめて自分自身の至らなさを恥じる謙虚さがあってはじめて醸成されていくように思います。それが相手の立場を思いやる徳になり、聴いたことで福にする力になっていくと私は思います。

善い聴福人を目指して、本質を確かめ意味を深め学問を究め、徳を磨いていきたいと思います。

 

変化の最中

先日、終わりがはじまりということについて書きました。これは「今」というものを中心軸に物事を捉えるとき、始まりと終わりは常に表裏一体ということの意味です。同様に明暗も陰陽も、上下も左右もその中心は変化その最中に存在します。

そう考えるとき、変化とはその両方が移り変わる瞬間に発生していることに気づきます。それが終わりが始まりであり、始まりが終わりである証明です。

しかし人はそれまでの過去の習慣を変えられず、今までと同じように終わりをそのままに終わり、始まりもそのまま終わらせてしまうものです。つまりは何も始まらずに何も終わらないという状況になって停滞してしまうものです。

せっかく頑張って始めたものもそのまま終わってしまえばそれは始まっていなかったことになります。そしてそのまま終わらせてしまえば始まりもなかったことにしてしまいます。

何かをちゃんと始めるというのはその分、同時に何かをちゃんと終わらせるということを意味するのです。つまりは今までの何かを終わらせてはじめて、始めることができるということになります。今までのものを持ちながらその手に新しいものを持つことはできません。もしも両方に持つのであれば、その両手に持てないものはどこかに置くか誰かに渡さなければなりません。自分が持つしかないと思い込んでいつまでも手放すことができなければ、いっぱいいっぱいになったその手には新しいものを持つことができなくなります。器と同様に、その器に何を載せるか、私たちはそれを転換しながらその時代を生きているからです。

さらに人間には決して終わることがないこと、終わってはならないものというものがあります。それが変えてはならないものであり、変わらないもののことです。これは理念や初心、目的や信念、道などもそうですがこれは始まりも終わりもない永遠のものです。

しかし時代は変わっていき環境も変化していくのだから、何かが始まり何かが終わるのは世の常です。その時にいつまでも過去にこだわり、それを手放さずに変化しなければそのまま時代と共に淘汰されてしまいます。それが自然の理だからです。だからこそ、過去にそれがいくら良かったとしてもあるときに次への挑戦がはじまるときその功績や成功を手放さなくてはなりません。いや、むしろその成功事例や功績こそを手放さなければ終わりがはじまりにならないからです。

変化と永遠は、温故知新する中で常に向き合う大きなテーマです。諺に、「創業は易く守成は難し」とありますがはじめることよりも終わりを始まりにしていくことの方がよほど難しいことなのかもしれません。

引き続き、次世代の子どもたちの環境のためにも変えていくことの重要さを実践により伝承していきたいと思います。

人生の創作活動

人は自分という存在を自覚するのは、周りの人たちのことを深く知ることで理解できるものがあります。どのような家族や友人や仲間に囲まれているか、その環境の中で自分自身が形成されてきたことに気づきます。自分が今、自分を自覚できるのは与えられてきた環境やご縁によって自分自身になったともいえるからです。

そう考えてみると、自分はこれまでどう生きてきたか、そしてこれからどう生きていくかという事も考えていくことができます。生まれながらに恵まれた環境を与えられて、善い人、善い友、善い教えに触れてきた人は仕合せに気づきその恩恵に感謝しながら肯定的に生きていけます。しかし時として恵まれない厳しい環境を与えられてしまい、善いものに出会えない場合はなんでも否定的にしてしまうことがあります。

人生は巡りあわせではありますが、どのような道を生きてどのような人生を送るかは生れ落ちたところで決まります。与えられた場所に感謝して、その場所をもっと善くしていこうとする努力こそが人生の醍醐味であり、そこに不平不満を言って腐っていても何も変わることはありません。

自分自身を変えるということは、今の自分を創り続けるという努力が必要になります。それは日々に感動や感謝、そして感激をする心、感性を磨き、心を瑞々しくし続ける努力とも言えます。心が閉ざされて感情も冷めてしまえば、与えられた環境を活かすことができなくなります。また同時に環境を感じる力がなくなり、環境に流されてしまうようになります。

人間は環境を創造していくことができる生き物ですから、与えられた環境下の中で如何に五感を研ぎ澄まして自分自身を毀していくかは人生の命題であり、それぞれの大きないのちのテーマです。

人生は死ぬまで自分自身を創造していく創作活動です。

子どもたちにもその後ろ姿から何かを感じ取ってもらえるように精進していきたいと思います。

四時ノ循環

吉田松陰に「留魂録」というものがあります。これは処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた弟子たちや同志へ向けての遺書とも言えます。

その中の第八節に四時ノ循環というものがあります。原文を紹介すると、

「 一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ」

「今日死を決するの安心は四時の順環にい於いて得る所あり。
蓋し彼の禾稼(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、 冬蔵す。
秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り、 醴を為り、村野歓謦あり。
未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。
吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず實らざるに 似たれば惜しむべきに似たり。
然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時 なり、何ぞ必ずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。
禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。
十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。
三十は自ら三十の四時あり。
五十、百は自ら五十、百の四時あり。
十歳を以て短しとするは蟪古をして霊椿たらしめん と欲するなり。
百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲する なり。
斉しく命に達せずとす。
義卿三十、四時巳に備はる、亦秀 で亦実る、その秕(しいな)たるとその粟たると吾が知る所に非ず。
もし同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、 乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。
同志其れ是れを考思せよ。」

自然界と等しく、いのちは永遠に循環しているものです。いつがはじまりでいつが終わりか、そんなものは本当はないに等しいものかもしれません。そう考えてみると、すべてのいのちが循環を已まないようにあらゆるいのちはその使命を全うしているともいえます。

そしてそれは傍から見れば、早死にした人であっても、結果がうまくいっていないように思われたとしても、その人にはその人の大切な役割があり、それを果たしているとも言えます。

同志や仲間たちに死を恐れさせず、自分の天命を全うせよと自分のいのちの最期に語り掛けて至誠であり続けよと教えます。塾生たちと一緒に、そして同志たちと一緒に、自分のすべての生命を受け容れ全うしようとする純粋な魂には感動するものがあります。

思想や志は、たとえ体躯が朽ちても永遠に遺るものであるのは循環が証明しています。如何に好循環を産み出すかは、その人の生き方と生き様次第です。

循環を忘れないようにいのちのままに魂を磨いていきたいと思います。

豊かな苦労と時間

昨日、吉野杉樽に漬けこんでおいた高菜の手入れを行いました。今年は収穫量が少なかったため、いつもの4分の1しかなく貴重な存在になっています。郷里の伝統の堀池高菜の甦生のために固定種の種を蒔き、樽にそれまでの菌を住まわせ環境を用意して6年以上になりますが今では暮らしの一部になっています。

手塩にかけて育てるという言葉もありますが、漬物は塩を入れて何回も何回も漬け直すことでいつまでも美味しく食べられます。そして樽もまた、塩分濃度によって発酵もすれば腐敗もしますから常に塩を入れ続けなければなりません。

特にこの青菜のものは、日ごろから食べようとするとあまりにも塩分が強いと塩辛くなりすぎて食べれませんから適度な塩分が必要になります。適度な塩分というものは、手間暇をかけて見極めていく必要があります。

当たり前に食卓に出てくる漬物一つでさえ、種を蒔き育苗をし、生育を見守り収穫をする。その後、道具や高菜を洗い天日干しをし、漬けこんだら何度も何度も漬け換えをする。その年月は最低でも一年以上、もう6年物の高菜は6年間それをずっと続けていることになります。

苦労と時間をかけてつくられていると感じるからこそ「もったいなく」感じ、そこにぬくもりと豊かさを感じます。

今ではお金さえあればなんでも買えて余剰にありすぐに捨てられるような環境がありますが、この手間暇の苦労と時間はそこには感じられないものです。自分で作物を育て、自分で食べるものを用意し、そしてそれを美味しく食べるという原始的な活動は、目には見えない苦労や時間を味わう貴重な存在として暮らしを豊かにしていきます。

本当の豊かさに気づいて、如何にそれを今の時代とのバランスを保っていくかはこれからを生きていく子どもたちの課題でもあり、今を生きる私たちの命題です。

引き続き、豊かな苦労と時間という実践を積み重ねながら本来の豊かさの意味を暮らしの大切さを子どもたちに伝道していきたいと思います。

理念=経営

企業をはじめすべての組織には、その組織を創るための目的というものがあります。何のためにそれを創り、そして何処を目指していくのかといったものですが目的と方針、方向性こそがその組織の運命を決めていきます。

またその組織で働く人たちは何かの判断をみんなで決めて協力していくとき、拠り所にしていくものがあります。それは原点でもあり、物事のはじまりに決めた初心だともいえます。

こういうものを理念と呼びますが、その理念を持ったままにみんなで力を合わせて協力して働くことを経営と呼びます。

つまりは本質として「理念=経営」であり、「経営=理念」です。これを勘違いして理念と経営を分けている人がいます。それは分けたのは経営者であり、経営者は「自分=理念」だと思い込んでいるからです。

経営者も組織の中の一人であって目的に向かって一緒に働く全体の一部です。組織の目的と方向性をその組織のだれよりも鮮明に明確に観えており、みんなが判断に迷ったときにそれを示唆したり、導いたり、思い出させたりするのが経営者の役割です。

理念があって働ける仕合せは、日々の経営の生き甲斐とも言えます。生き方と働き方とは、言い換えるのなら理念と経営のことです。それを一致させていくというのは、言っていることと遣っていることが一致しているということです。まさに理念経営とは言行一致のことであり、偉大な目的に向かってみんなで協力してその目指したところまでを言語化し明文化して、一人ひとりがはっきりと自分自身で観えるようになるまで浸透していることで実現します。

これを誰か任せにしたり、自分は知らなくてもいいとしていたらいつまでもその目的が達成されることもなく、またバラバラになって組織は次第に崩壊していきます。さらには言行不一致になれば不平や不満、正直者が馬鹿をみる組織になり次第にみんな諦めてその組織は腐っていきます。

生き方と働き方が分かれているということは、生き甲斐と遣り甲斐が分かれているということです。そんなものは本来なく、生き甲斐と遣り甲斐が一致するからこそその両方は成立するものです。

だからこそ大事なのは、理念経営を実践することだと思います。

それを邪魔するものは、マンネリ化であったり、歪んだ個人主義であったり、経営者の独善であったり、伝えられなかったり、振り返りがなかったり、そんな時間すらも設けていなかったりと色々と理由がありますが、本来、その組織の本質に立ち返ることが理念経営にしていくということです。

経営という字の本来の意味は、続いていく営みです。つまり永遠の営みとも言えます。理念経営とは、理念が永続していく仕組みのことです。組織はその時々で変化してひょっとすると滅んでいくことがあるかもしれません、それは国家においても然りです。

しかし滅んでも滅ばないで続いていくものこそが理念であり、それを実践することが理念経営の本質です。大義や信念、そして道を子孫へとつなげていくのが今を生きる私たちの使命ですから自分の代の私腹を肥やすための理念経営などはありません。

引き続き、子どもたちのためにも目的に向かって生き方と働き方、生き甲斐と遣り甲斐の組織を世の中の広め社會をさらに豊かにしていく手助けに邁進していきたいと思います。

 

湿式工法の瓦葺き3

昨日は再び屋根にのぼりみんなで土葺きでの瓦葺きを体験しました。職人さんが軽々とやっているのを見るのと自分たちでやるのでは勝手が異なり、瓦一枚を葺くのに大変な時間がかかりました。

しかしみんなで協力して葺いた瓦には愛着が湧き、そこに綺麗に波打ついぶし瓦の様子にぬくもりを感じます。日本の伝統的なものを伝統的なやり方で実践する、まさに心と技術が調和することで和の家が実現することを再確認する有難い機会になりました。

この後は数週間の間、土を乾かし仕上げにのし瓦や鬼瓦をのせて完成です。時間をかけて土を乾かす間もまた、味わい深い大切な時間です。のし瓦は屋根の棟に来る雨水を表側と裏側に流すために積まれる瓦の事を言います。そして鬼瓦は屋根の棟の端に置く大きな瓦のことでこれは厄除けと装飾を目的として設置されています。

少し鬼瓦を深めますが、この鬼瓦のルーツはパルミラにて入口の上にメデューサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及したとウィキペディアにはあります。

この鬼瓦を眺めていると、家を守る存在が屋根であることをより実感します。中国での鬼は、厄災をもたらすものとして忌み嫌われますが日本のオニは厄災を転じて福にするオニです。

例えば、大みそかに山から降りてくる神さまを祀るのに神が鬼の姿に転じた行事が日本各地に残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。また仏教では敵対していた悪が仏法に帰依し仏法を守護するものとして鬼があります。日本では牛若丸と弁慶のように、純粋な魂や義を守る守護神としてオニのような強さを持つ存在を守り神として大切に接してきました。

この屋根のオニは、日本の精神を顕すものでありオニの存在が屋根を守り、私たちはいつも守られながら暮らしているということを忘れないということに気づかせてくれます。

家を思うとき、私は守られている存在である自分に気づきます。家が喜ぶかということは、守られているということに感謝してその家に住まうことをゆるされている自分たちがあると実感して楽しく豊かに暮らしていくことだと思います。

今回の瓦葺きから、日本建築が如何に「守る」精神に包まれているかを学び直しました。引き続き、聴福庵の離れの完成までのプロセスを味わい子どもたちに初心を伝承していきたいと思います。

歴史を継ぐということ

昨日は、郷里の炭鉱遺構でもある大門炭坑(原口炭坑)に見学にいくご縁がありました。長年、住んでいながらちゃんと見たのははじめてで,、ここの土地のオーナーの方に隅々まで案内していただきました。

ここは市が運営しているのではなく、完全に個人で整備し無料で開放して見学者に炭坑の歴史を遺してくださっています。かなりの広さに合わせて、竹林の伐採や除草など大変な費用や労力がかかっていると思いますが、これだけの炭坑跡はなかなか遺っておらず有難いことだと感じます。

ここは明治27年に開坑し、昭和38年ころに閉坑したそうで巻揚機台座などがまだまだしっかりと遺り、ボタ山も立派に存在しています。足元には、1億年前の木の化石でもある石炭が大量に転がっており、かつては黒ダイヤとして非常に価値が高く、燃料として人々の暮らしを支えたものですが今はひっそりとした佇まいにかつての歴史を感じます。

本来、自分たちの先祖が何をしてきたか、そこにはどのような文化があったか、そのルーツを知ることで私たちは自分たちのアイデンティティの源泉に触れていきます。特に子どもの頃に、どのような風土や環境の中で育成されたかが自分たちの将来の誇りになっていくこともあります。

よく私はどこどこ出身とか、幼いころからこのような行事をしてきたとか、何が有名だとか、自分たちを語るとき、自分たちの郷里や風土を語るとき誇りや自信を感じます。かつて留学した時、世界各国の人々が集まりそれぞれに自己紹介するとき最初に話をするのは自分が何処からきたものであるか、そしてこれから何処にいこうとしているか話していました。

それだけ私たちは自分を語るとき、自分が何者であるかご先祖様はどのような人であったかと伝え合うのです。今も残る世界各地の少数民族もまた神話を通して自分たちの歴史を語りルーツから今までを伝えます。

それが誇りであり、どのような生き方をした人がどのような生き様であったかと伝え自分はその文化を伝承しているということを語ることで自分を知るのです。

今ではこの炭坑跡も、お金にならないからと産業廃棄物を捨てる場所になったり整地されてソーラーパネルが置かれたりしています。この文化や遺構の価値に気づく人も次第にいなくなり、跡形もなくなくなり誰も語られなくなることは本当に残念なことです。

歴史を継ぐというのは、私たちがこの伝統の民族であり続けるということでもあります。子どもたちに、誇らしく感じてもらえ、自信をもって世界に出ていけるような存在にしていけるように真摯に時代を見つめ直して福に転じていきたいと思います。