豊かな苦労と時間

昨日、吉野杉樽に漬けこんでおいた高菜の手入れを行いました。今年は収穫量が少なかったため、いつもの4分の1しかなく貴重な存在になっています。郷里の伝統の堀池高菜の甦生のために固定種の種を蒔き、樽にそれまでの菌を住まわせ環境を用意して6年以上になりますが今では暮らしの一部になっています。

手塩にかけて育てるという言葉もありますが、漬物は塩を入れて何回も何回も漬け直すことでいつまでも美味しく食べられます。そして樽もまた、塩分濃度によって発酵もすれば腐敗もしますから常に塩を入れ続けなければなりません。

特にこの青菜のものは、日ごろから食べようとするとあまりにも塩分が強いと塩辛くなりすぎて食べれませんから適度な塩分が必要になります。適度な塩分というものは、手間暇をかけて見極めていく必要があります。

当たり前に食卓に出てくる漬物一つでさえ、種を蒔き育苗をし、生育を見守り収穫をする。その後、道具や高菜を洗い天日干しをし、漬けこんだら何度も何度も漬け換えをする。その年月は最低でも一年以上、もう6年物の高菜は6年間それをずっと続けていることになります。

苦労と時間をかけてつくられていると感じるからこそ「もったいなく」感じ、そこにぬくもりと豊かさを感じます。

今ではお金さえあればなんでも買えて余剰にありすぐに捨てられるような環境がありますが、この手間暇の苦労と時間はそこには感じられないものです。自分で作物を育て、自分で食べるものを用意し、そしてそれを美味しく食べるという原始的な活動は、目には見えない苦労や時間を味わう貴重な存在として暮らしを豊かにしていきます。

本当の豊かさに気づいて、如何にそれを今の時代とのバランスを保っていくかはこれからを生きていく子どもたちの課題でもあり、今を生きる私たちの命題です。

引き続き、豊かな苦労と時間という実践を積み重ねながら本来の豊かさの意味を暮らしの大切さを子どもたちに伝道していきたいと思います。

理念=経営

企業をはじめすべての組織には、その組織を創るための目的というものがあります。何のためにそれを創り、そして何処を目指していくのかといったものですが目的と方針、方向性こそがその組織の運命を決めていきます。

またその組織で働く人たちは何かの判断をみんなで決めて協力していくとき、拠り所にしていくものがあります。それは原点でもあり、物事のはじまりに決めた初心だともいえます。

こういうものを理念と呼びますが、その理念を持ったままにみんなで力を合わせて協力して働くことを経営と呼びます。

つまりは本質として「理念=経営」であり、「経営=理念」です。これを勘違いして理念と経営を分けている人がいます。それは分けたのは経営者であり、経営者は「自分=理念」だと思い込んでいるからです。

経営者も組織の中の一人であって目的に向かって一緒に働く全体の一部です。組織の目的と方向性をその組織のだれよりも鮮明に明確に観えており、みんなが判断に迷ったときにそれを示唆したり、導いたり、思い出させたりするのが経営者の役割です。

理念があって働ける仕合せは、日々の経営の生き甲斐とも言えます。生き方と働き方とは、言い換えるのなら理念と経営のことです。それを一致させていくというのは、言っていることと遣っていることが一致しているということです。まさに理念経営とは言行一致のことであり、偉大な目的に向かってみんなで協力してその目指したところまでを言語化し明文化して、一人ひとりがはっきりと自分自身で観えるようになるまで浸透していることで実現します。

これを誰か任せにしたり、自分は知らなくてもいいとしていたらいつまでもその目的が達成されることもなく、またバラバラになって組織は次第に崩壊していきます。さらには言行不一致になれば不平や不満、正直者が馬鹿をみる組織になり次第にみんな諦めてその組織は腐っていきます。

生き方と働き方が分かれているということは、生き甲斐と遣り甲斐が分かれているということです。そんなものは本来なく、生き甲斐と遣り甲斐が一致するからこそその両方は成立するものです。

だからこそ大事なのは、理念経営を実践することだと思います。

それを邪魔するものは、マンネリ化であったり、歪んだ個人主義であったり、経営者の独善であったり、伝えられなかったり、振り返りがなかったり、そんな時間すらも設けていなかったりと色々と理由がありますが、本来、その組織の本質に立ち返ることが理念経営にしていくということです。

経営という字の本来の意味は、続いていく営みです。つまり永遠の営みとも言えます。理念経営とは、理念が永続していく仕組みのことです。組織はその時々で変化してひょっとすると滅んでいくことがあるかもしれません、それは国家においても然りです。

しかし滅んでも滅ばないで続いていくものこそが理念であり、それを実践することが理念経営の本質です。大義や信念、そして道を子孫へとつなげていくのが今を生きる私たちの使命ですから自分の代の私腹を肥やすための理念経営などはありません。

引き続き、子どもたちのためにも目的に向かって生き方と働き方、生き甲斐と遣り甲斐の組織を世の中の広め社會をさらに豊かにしていく手助けに邁進していきたいと思います。

 

湿式工法の瓦葺き3

昨日は再び屋根にのぼりみんなで土葺きでの瓦葺きを体験しました。職人さんが軽々とやっているのを見るのと自分たちでやるのでは勝手が異なり、瓦一枚を葺くのに大変な時間がかかりました。

しかしみんなで協力して葺いた瓦には愛着が湧き、そこに綺麗に波打ついぶし瓦の様子にぬくもりを感じます。日本の伝統的なものを伝統的なやり方で実践する、まさに心と技術が調和することで和の家が実現することを再確認する有難い機会になりました。

この後は数週間の間、土を乾かし仕上げにのし瓦や鬼瓦をのせて完成です。時間をかけて土を乾かす間もまた、味わい深い大切な時間です。のし瓦は屋根の棟に来る雨水を表側と裏側に流すために積まれる瓦の事を言います。そして鬼瓦は屋根の棟の端に置く大きな瓦のことでこれは厄除けと装飾を目的として設置されています。

少し鬼瓦を深めますが、この鬼瓦のルーツはパルミラにて入口の上にメデューサを厄除けとして設置していた文化がシルクロード経由で中国に伝来し、日本では奈良時代に唐文化を積極的に取り入れだした頃、急速に全国に普及したとウィキペディアにはあります。

この鬼瓦を眺めていると、家を守る存在が屋根であることをより実感します。中国での鬼は、厄災をもたらすものとして忌み嫌われますが日本のオニは厄災を転じて福にするオニです。

例えば、大みそかに山から降りてくる神さまを祀るのに神が鬼の姿に転じた行事が日本各地に残っています。人々は鬼を恐れながら囃(はや)し、もてなします。また仏教では敵対していた悪が仏法に帰依し仏法を守護するものとして鬼があります。日本では牛若丸と弁慶のように、純粋な魂や義を守る守護神としてオニのような強さを持つ存在を守り神として大切に接してきました。

この屋根のオニは、日本の精神を顕すものでありオニの存在が屋根を守り、私たちはいつも守られながら暮らしているということを忘れないということに気づかせてくれます。

家を思うとき、私は守られている存在である自分に気づきます。家が喜ぶかということは、守られているということに感謝してその家に住まうことをゆるされている自分たちがあると実感して楽しく豊かに暮らしていくことだと思います。

今回の瓦葺きから、日本建築が如何に「守る」精神に包まれているかを学び直しました。引き続き、聴福庵の離れの完成までのプロセスを味わい子どもたちに初心を伝承していきたいと思います。

歴史を継ぐということ

昨日は、郷里の炭鉱遺構でもある大門炭坑(原口炭坑)に見学にいくご縁がありました。長年、住んでいながらちゃんと見たのははじめてで,、ここの土地のオーナーの方に隅々まで案内していただきました。

ここは市が運営しているのではなく、完全に個人で整備し無料で開放して見学者に炭坑の歴史を遺してくださっています。かなりの広さに合わせて、竹林の伐採や除草など大変な費用や労力がかかっていると思いますが、これだけの炭坑跡はなかなか遺っておらず有難いことだと感じます。

ここは明治27年に開坑し、昭和38年ころに閉坑したそうで巻揚機台座などがまだまだしっかりと遺り、ボタ山も立派に存在しています。足元には、1億年前の木の化石でもある石炭が大量に転がっており、かつては黒ダイヤとして非常に価値が高く、燃料として人々の暮らしを支えたものですが今はひっそりとした佇まいにかつての歴史を感じます。

本来、自分たちの先祖が何をしてきたか、そこにはどのような文化があったか、そのルーツを知ることで私たちは自分たちのアイデンティティの源泉に触れていきます。特に子どもの頃に、どのような風土や環境の中で育成されたかが自分たちの将来の誇りになっていくこともあります。

よく私はどこどこ出身とか、幼いころからこのような行事をしてきたとか、何が有名だとか、自分たちを語るとき、自分たちの郷里や風土を語るとき誇りや自信を感じます。かつて留学した時、世界各国の人々が集まりそれぞれに自己紹介するとき最初に話をするのは自分が何処からきたものであるか、そしてこれから何処にいこうとしているか話していました。

それだけ私たちは自分を語るとき、自分が何者であるかご先祖様はどのような人であったかと伝え合うのです。今も残る世界各地の少数民族もまた神話を通して自分たちの歴史を語りルーツから今までを伝えます。

それが誇りであり、どのような生き方をした人がどのような生き様であったかと伝え自分はその文化を伝承しているということを語ることで自分を知るのです。

今ではこの炭坑跡も、お金にならないからと産業廃棄物を捨てる場所になったり整地されてソーラーパネルが置かれたりしています。この文化や遺構の価値に気づく人も次第にいなくなり、跡形もなくなくなり誰も語られなくなることは本当に残念なことです。

歴史を継ぐというのは、私たちがこの伝統の民族であり続けるということでもあります。子どもたちに、誇らしく感じてもらえ、自信をもって世界に出ていけるような存在にしていけるように真摯に時代を見つめ直して福に転じていきたいと思います。

幸福の道

生きていく中で私たちが学ぶ大切なことに「感謝」というものがあります。この感謝は、自然に生まれてから備わっているものですがそれを磨いていく中で人格が高まり人生がよりよく仕合せに実現していきます。

しかしこの感謝は、性格の歪みによって別のものにすげ換ってしまうことがあります。それは「素直」かどうかがカギを握ります。性格が素直な人は、感謝しかない状態でその心境のままであるから無理をしたり頑張ることがありません。

文字通り素直に自分の心と言葉が一致しており、無理して頑張って感謝したりされなくても自然に感謝の状態を維持することができています。その素直さが謙虚さであり、感謝しかなく有難いと全てのことを感じているからこそその人物は自然体で人を信頼し、また周囲から信頼され、楽しく豊かな日々をみんなと一緒一体になって生きていくことができます。それこそが、真実の幸福であり自由であり自立した成熟した人間の姿です。

ただ幼少期から、自分以外の誰かの評価を気にしてはその評価がよくなるように頑張って評価される経験を積み重ねていくと自分の仕合せが歪んでいきます。無理して誰かのためにやることで自分が仕合せになると信じ込めば、感謝もまた評価の一つにすげ換ります。

本来、感謝は自分が仕合せを感じているのが先です。例えば、こんなに恵まれて有難いや、自分の好きなことをやってみんなが喜んでくれてとか、自分の遣り甲斐が誰かの役に立っていて幸せとか、まずは自分自身が自分自身であることに感謝していることが先であることが本来の感謝ということです。

しかし実際は性格が歪み素直でなくなれば、感謝のために頑張ろうとして感謝を忘れるという本末転倒することをしてしまうのです。

禅語に「足るを知る」がありますが、これは自分がまずその恩恵をいただいていることに感謝することです。不足を思うのは感謝ではなくなっているからであり、知足を感じるのは感謝の状態になっているからです。そこには無理な努力や頑張りは必要なく、いただいている感謝を活かしてもっとみんなの歓びになりたいと自然体になっていきます。

自分自身が仕合せかどうか、それを立ち止まって考えることは感謝を忘れない実践です。感謝を忘れていないのならば素直のままであるということです。素直だから事物は明察され鏡の如く真実がそのままに映りますからどのような判断もあるがままです。

人間は誰かのことをとやかく言う前に、自分自身はどうなっているのか、自分に矢印を向けて謙虚かどうか素直かどうか、また感謝のままでいるかどうか、「人間としての自然体」を常に自己反省して人格を磨き高めていくことが幸福の道につながります。

子どもたちを見習い、素直で謙虚で感謝しかない生き方を目指していきたいと思います。

真の国際人

世界にはそれぞれの風土に適した文化というものがあります。それはその風土で仕上がった環境が個性として生き物に顕現されてきたものとも言えます。その個性が風土そのものであるとき、私たちはそこに多様性を見出し、さらには世界に唯一の個性を実感するように思います。

現在、大量生産大量消費の経済優先の世界において画一化されていき風土の個性もまた消失して文化も失われていきますが本来はこの唯一の個性を発揮するからこそ国際的に必要になるわけでそれがなければ世界の中でユニークな自分を発揮していくことはできません。

白洲正子にこんな言葉があります。

「本当に国際的というのは、自分の国を、あるいは自分自身を知ることであり、外国語が巧くなることでも、外人の真似をすることでもない。」

自分自身を知るということは、言い換えるのならば風土を知るということです。その風土を知り、風土人であるからこそ世界でその風土の進化の過程が発展の原動力になっていきます。あらゆる生き物や道具は、文化を具備していますからそのものの値打ちや価値が分かってこそはじめて世界の同様に進化してきたものと渡り合うことができるのでしょう。

日本の文化というものは、私たちが今までどのような環境の中で育まれてここまで来たかというご縁の変遷のことです。そしてそれは景色や風景というようなものと一体になってどのように自然の姿そのままに暮らしを実現してきたかということです。

今は、渡来した文化に影響を受けかつての日本人としての個性や風土の文化を捨てて別の国の人のようにその国に存在していますが自分たちが何者であるのかを分からなくなった人たちが増えたように思います。自分が何者なのかを知るということは、国際人たる人物の入り口でありさらにはそこを掘り下げていくことが真の国際人になる道です。

最後に白洲正子の言葉です。

「日本の自然ほど多くのものが含まれているものはない。その中には、宗教も、美術も、歴史も、文学も、潜在している。」

もっとも日本の風土に長けた人物こそが、これからの時代で日本を代表して世界で活躍していくでしょう。引き続き、子どもたちに根がつながる暮らしを通して本物の日本人を伝承していくために命を懸けて文化事業に取り組んでいきたいと思います。

今ここ、すぐやる

物事をやるときにすぐやる人と先延ばしにする人がいます。少し前の流行語に「いつやるか、今でしょ!」がありましたが、今やる人は常に主体的であり後でという人は受け身になっていることがほとんどです。

この理由は簡単で、期限が迫ればその期限の圧力や惰性の力で物事をなんとかしようとするのは「しなければならない」という外圧を用います。例えば宿題などもそうですが、期限があるからやらなければならないからやっているのでありそれを何度も何度も繰り返していく中でそうやってやることが癖になってしまっているからです。

本来、宿題などではなく自分から進んで学びたいと思っている人は期限がありません。いろいろなことを深めていきながら、その事物に没頭していきます。この没頭するというのが今のことで、今没頭しているのだから後にするという発想はありません。もしも後にしたとしても、それは先延ばしではなく没頭しながら後にするので「今」から離れたわけではありません。

これはどんな仕事もそうですが如何に意義を持たせて面白くやっていくか、面白くないことでも如何に面白く取り組むかが、「創意と工夫」です。創意と工夫をする理由は、好奇心をもって主体的に自分が取り組めるようにするためでそれを維持することでマンネリ化を防止しているのです。

そもそもどんなこともそれをやる理由は何かと思うとき、それは単にやること自体が目的ではなかったはずです。そう考えてみると、ただ真面目に頑張ればいいのではなくもっと楽しく面白く豊かにやる工夫は自分自身ができるはずです。余裕がないからそうなったのではなく、余裕を創造していないからそうなっていくのです。

忙しさというのは、創意工夫で忙しくなくなるものです。それは自分が初心を忘れずに心を籠めていくことを大事にしたり、せっかくだからと一石二鳥のようにこちらで学んだことをあちらで活かし、自分が起きたことを誰かの役に立てたりと発想を転換していくことで忙しさは感謝に換ります。

一見つながっていないように観えますが、この感謝があるかどうかが「やっているのとさせていただいている」との大きな違いになります。させていただいていると思っている人は無駄なことは一つもないことを知っており、その機会に感謝し、天からの声やお客様からの声、周囲からの声を真摯に聴き、それを楽観的に福に転じていきます。いわば素直で謙虚な人です。聴いて福にする人というのは、常に素直に謙虚に物事の声を聴き自分に矢印を向けて反省を欠かさない実践を積んでいます。

思考の癖もまた刷り込みですからそれに気づいてそれを転換するためにもっと創意工夫や余裕を創造していくといいのかもしれません。またあれこれと考えて先延ばしするのではなく、今来ているものだけを丹精を籠めて取り組んでいくことで今に没頭していけるように思います。今、此処すぐに自分を使っていくことの繰り返しが真の余裕を持たせるように思います。引き続き、今できることに人事を盡していきたいと思います。

精とは何か

よく精進や、精神、精通、精一杯、精を出すとか働くときに用いられるこの「精」という字があります。この精という字は、誠や魂、真心など目には観えませんがそのものの根源、そのものの本体、本性のことを指すように思います。

精神統一という言葉もありますが、これは自分自身のすべてが混じりけのない純粋なものになっている、雑念もなく澄んだ状態でそのものと一体化しているときにも使われます。

精の語源は、青はよごれなく澄んだ色をあらわし、精はよごれなく精白した米。(漢字源)とあります。自然体で無の境地、そのものの根源や根本、根元の力を使っていくことが精を出すということです。

働き甲斐や遣り甲斐、生き甲斐はこの精を出すかどうかに由ります。

そう考えてみると、どんな小さな仕事であってもどんなにわずかな行為であっても、その事物や出来事に初心や目的を忘れないで取り組んでいくことが精進とも言えます。

社会福祉活動家のヘレン・ケラーが遺した言葉に、「I long to accomplish a great and noble task, but it is my chief duty to accomplish small tasks as if they were great and noble.」があります。これは訳されると「私は素晴らしく尊い仕事をしたいと心から思っている。でも私がやらなければならないのは、ちっぽけな仕事をも素晴らしくて尊い仕事と同じように立派にやり遂げることなのだ。」といいます。

自分が取り組んでいる仕事は、どんなことでも目的や理念に通じる尊い仕事であると片時も忘れずに取り組んでいくことが精を出すことであり精進するということです。ただ闇雲に頑張ることを精進というのではなく、どんな物事や出来事に対してもその価値を自分の都合で決めて要領よく雑に取り組むのではなく常に真心でどんなことに対しても細心の注意と丁寧さ、いわば丹精を籠めて取り組むときその生き様は精進と呼びそして遣り甲斐や生き甲斐になっていくように思います。

マザー・テレサは、「いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。」ともいいます。日本語に昔からあるこの「精」という字は、同様に誠や真心を顕しています。

結果に対して云々ではなく、そのプロセスにどれだけ精神を傾けて誠を盡したか、それが日々の自己の創造に問われているのでしょう。評価ばかりを気にしている人はどうしてもこの精進することができません。

今の仕事に打ち込んでいくことで道は開けていきますから、子どもたちの未来のためにも常に今、全身全霊で事に当たり精神を磨いて真心を発揮し歩んでいきたいと思います。

 

 

歓びの種

社会現象の一つとして、遣り甲斐や働き甲斐について語られることが少なくなっているように思います。これは生き甲斐のことであり、生きる歓び、働く歓び、遣る歓びを感じにくくなってきているということです。

まず働き甲斐というものは、決して楽ばかりを求めたり、効率や結果ばかりを望んでいても得られるものではありません。実際に働き甲斐は、苦労や非効率、プロセスの中に存在するものであり不便さや手間暇の中で感じるものです。

仕事をする際に自分自身がどういう考え方や姿勢で臨んでいるか、先ほどのように効率優先、要領よく、結果だけをみて早くスピーディなことばかりをやっていたら働き甲斐は失われていくのです。楽ばかりを求めていく社会の価値観に自分も流されれば、日々の仕事はつらいだけのものになります。苦労するのは、誰かの役に立つ歓びを同時に連れてくると感じるのなら、誰かのためになることと自分のためになることが仕事になるように努めていくことが好きな仕事にしていくコツかもしれません。

好きなことをやるというのは、単に自分の趣味をやるということではありません。自分が何のお役に立てるか、どういう天命を持っているか、自分の才能がどのようにみんなの役に立つか、自分にしかできないことで如何に世の中の力になっていくか、ここに生き甲斐と遣り甲斐があり好きなことに出会います。

大好きなことを仕事にする人はみんな、そういう自分が役に立っている歓びを知っている人たちであり、好きなことをして生計を立てることができる仕合せを享受しているとも言えます。

人間社会には、得るものと与えるものしかありません。自分たちが得ているものは誰かが働いてつくってくださったものをいただいて生活を営むことができています。同時に自分はそれをいただき、誰かに何かを与えることで生計を立てることができています。

与えられたもので生活をしているのだから、同時に与えられた場所と与えられた仕事に打ち込むことで自分も与える側の役割を果たすことができます。もしもそれが自分にしかできないことで、社会が必要としていると実感することができるのならばそれが働き甲斐になり、遣り甲斐、生きがいになるのです。

生き甲斐や遣り甲斐、働き甲斐を持つ人は自分の天命を愛しています。同時に仕事も愛しています。自分が心を籠めて取り組んだ質量が、その仕事の値打ちを高め自分の値打ちも上げていきます。どれだけ本気で自分の与えられた仕事に没頭できるか、ここに私は歓びの種があるように思えます。

どんな種を与えてもらったとしても、それを懸命に育てていく中に生き甲斐があります。子どもたちに全身全霊のすべてを与えて愛を育てるように、自分の仕事にも同じように全身全霊の愛をもってかかわっていきたいと思います。そしてそれこそが生き甲斐であり、遣り甲斐であり、働き甲斐なのです。

子どものためになり自分のためになる仕事は偉大な遣り甲斐を感じています。引き続き、いまここの使命に没頭しながら生きる歓びや仕合せ、仕事ができる有難さに感謝しながら取り組んでいきたいと思います。

文化とは何か

「文化」という言葉は明治時代に翻訳された言葉の一つです。英語、ラテン語ではこれをcultureと書き、意味は耕すや洗練、また私の意訳では素養や教養、たしなみや心得ともいいます。企業文化などで語られる文化は、その組織の価値観のことであり一つの目的や理念に対して洗練されて創造されたその企業らしさを企業文化と語られるのかもしれません。

そう考えてみると、この文化というものはそのものが磨かれ洗練され創造された一つのカタチであるともいえます。これは企業に限らず、個人でさえ文化を持っていることになります。よく美術や芸術、もしくは造形のすべてにいたるまで私たちが鑑賞しているものはそのものの「文化」のことであり、その人物が思想や精神、その全生命を真摯に注入して具現化させたものを文化として認識しているということでしょう。

文化というものを考えるとき、それを創っている担い手は何かということになります。結果が大事なのではなく、その洗練される過程こそが文化育成そのものであり、如何に磨き洗練させていくか、その洗練する過程の中で人々はその文化に共感し、その文化が明確に外に顕れ現実の世界の人々に伝えることができるに至るのです。

例えば、人間には素養というものがあります。その人らしい天真を、如何に掘り下げていくか、如何に耕していくか、人間を磨き上げて人格を高めていくか、そういうものが文化です。

その人物がどのような文化をもっているか、言い換えるのならその人物の理念がどのようなものであるか、その理念をみんなで磨きあげていく中ではじめてその理念は顕現して周囲を感化するに至るのです。

人格を養いそして修めると書いて「修養」とも言いますがまさに文化とはこの「修養」のことであり、その人物たちがどのように修養したかが文化の証明であると私は定義しています。

これから文化事業を始めるにあたり私はこの意味をもう一度、展開していくなかでご縁ある人々と語り合い磨き合いたいと思うのです。

歴史を省みるとどのような時代もその時代に全生命あらゆるものを懸けて生きた人々の修養の洗練があったからこそ文化が今でも光り輝き歴史遺産として遺っています。その文化を観照するとき、私はその時代の人々がそうであったように、今の時代であってもそう生きたいと願い祈るのです。

かつての先祖のようなものが今の時代では同じようできなくても、今の時代にしかできない洗練されたものが創造できるはずです。それを自らの内面に見出し、かつての先祖の生き方に恥じないように文化を耕し、自分自身を掘り下げ、無二の初心を子孫へと伝承していきたいと思います。