先日、あることから閻魔帳のことを調べる機会がありました。これは人は亡くなってから閻魔大王が持つ、死者の生前の行動内容が罪や悪、そして善、すべてが記録されている手帳のことです。これを参考に、死者の天国行き、地獄行きを決めたというものです。
そういえば、幼いときにこの話を何かで聴いて悪いことをしないようにしようと思ったことを憶えていますが普段は思い出すこともなかなかないものです。その中で、浄玻璃の鏡というものがあります。
この閻魔帳に書いていることをみて、問答していきますがここで嘘をつくと舌を抜かれるといいます。舌を抜くというのは、もう嘘がつけなくなるということをいいます。
しかしなぜ閻魔大王はそれが嘘かどうか、なぜ閻魔様に分かってしまうのかというとこの閻魔帳とは別のものでその人の生前の行動をそのまま映し出す水晶でできた大きな鏡でその人をうつします。つまりその人の心を映すものです。これを浄玻璃(じょうはり)の鏡といいます。この鏡を通してその人の行動が周りの人をどれほど喜ばせたか、悲しい目に合わせたか、それまで映し出すので嘘かどうかわかるのです。
この話は、目に見えている世界のことをいくら誤魔化しても心の世界のことは誤魔化せないということを示唆しているように思います。
また仏陀が閻魔大王の話をするとき、善を観ては善に気づかず、悪を観ては悪を気づかず、そのことをなぜ深く反省しないのかと説きます。心の鏡に照らし合わせて、素直な心で反省しなかったのかと。
素直に反省したのなら、それはすべて一切が自分の因果応報であるということを話します。だからこそ、こうなったのだということも。
そう考えてみると、この閻魔帳と浄玻璃の鏡は一対であることがわかります。どちらかだけであっても裁けず、それが一つであるからこそ真に裁くことができるように思うのです。
自分で蒔いた種ですべてのことは発生する。だからこそ、心に聴いて内省し、そして気づいたらすぐに行動すること。自分で蒔いた種をちゃんと責任をもって果たしなさいということを教えているように思います。これは徳の話と同じです。
自分の喜びがみんなの喜びになり。その喜びがまた自分の喜びになっていく。この喜びの徳の循環をどう積んでいくか。それが問われているということです。
今の時代、情報化社会である意味このような閻魔大王や閻魔帳、浄玻璃の鏡のことなどは特にweb3.0と盛り上がっているところでは聞くことも気にすることもありません。しかしむかしの人たちは、根の教えにこの仏陀の教えが文化として根付いていましたから特に丁寧に慎重に嘘がないようにと誠を盡していたかもしれません。
一人一人が内省して気づき合い、そして反省したら改善するという実践を行っていけば浄玻璃の鏡も閻魔帳にもすばらしいことが記録し、記憶されていくと思います。
先人の知恵を現代に活かし、徳の循環する仕組みを伝道していきたいと思います。