昨日から福岡県の柳川市に来ています。以前、流鏑馬で訪れたことがある三柱神社で戦国時代の名将で名高い立花宗茂に興味を持ち今回はその所縁を深めています。
この立花宗茂という武将は、文武両道の名将で、連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作など多彩の技芸にも長けていた文化人とされています。戦上手だけではなく、温厚で誠実、そして義理堅く正直であった武士の中の武士であると評されます。
かの豊臣秀吉も秀吉は19歳の宗茂を「その忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」といい、徳川家康も宗茂を畏敬し賞賛していたといい、二条城に上洛した際、本多正信が武田信玄、上杉謙信、織田信長等の名だたる武将と比較して殿がそのように褒めるお方は誰かと問うと「天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」といったそうです。
この立花宗茂は厳しい時代を生き残る智慧は、戦略としても参考になりその生き方や経営はとても共感するところばかりです。戦国時代では上杉謙信と共にとても尊敬している武将で、その逸話や格言、軍略からも学ぶことばかりです。
「例えば、かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2千程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」
これは私は何よりも共感するもので、人は数ではなくその戦略に応じてもっとも自分に合ったものを見極めるということが大切であるということです。己の型を見極め、それに見合った分であることがいいといいます。野戦を得意とする上杉謙信や立花宗茂もまた兵の数ではなく、そのもっとも武が活かせるかどうかということを言ったのではないかと感じます。
野戦というものは、野生のように戦いますから如何に磨かれて意思疎通がとれた仲間と共に戦うかというのが重要です。立花宗茂は人をとても大切にしたといいます。そこにはこういう言葉があります。
「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」
「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」
「戦いは兵数の多少によるものではない。一和にまとまった兵ではなくては、
どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。」
この立花宗茂の強さは、守る強さ、大義の強さ、その生き方の強さでもあると私は思います。いざ戦になったときはこの強さが一和して家族的な和の団結力で協力できるのです。
関ケ原で何度も家康からいかなる恩賞で誘われても、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」といい西軍が負けて柳川に戻ったときは領民から命を共にし殿と一緒に戦うといった領民をなだめ、その後、柳川に戻ったときはその領民の子どもたちから大変歓迎された逸話もあります。また家臣がみんな浪人になった立花宗茂に着いていこうとしあまりの多さにくじで決めたともいいます。
浪人になった後は、家臣たちがみんなで何かしら働き仕送りをし続けたといいます。あるものは虚無僧になり托鉢して宗茂のために食事を集めたといいます。そのエピソードの一つに加藤清正に仕えた家臣の小野和泉があります。
小野和泉は清正家臣団からたびたび嫌がらせを受けていたようですが、清正家臣団から「わが主(清正)は勇猛でたびたび敵将の首をとった」と自慢すると小野和泉はおもむろに上半身裸となり、全身60余ヵ所ある傷のうち上半身40数ヵ所の傷を見せその傷を1つ1つ説明したといいます。 清正家臣団がたまりかねて「もういい。夜が明けてしまう」と言ったところ、「我が主(宗茂)を奮戦させないように我は務めたが、お主らは主が奮戦している間どこにいた!」と一喝したといいます。自分の主の自慢ではなく、主に奮戦させないように務めたというところに立花の家臣としての実直さ誠実さを感じます。
さらに立花宗茂の教育者としての逸話もあります。
寛永11年(1634)、宗茂は安東助四郎(あんどうすけしろう)という家中の少年がおり、その彼が13歳のときに藩の文教面における指導者に育てようと思い立ちます。翌年、宗茂は助四郎を江戸に呼び出し、嗣子・忠茂の近侍に登用し学問に励むよう命じました。
宗茂に急に登用され学問に打ち込む助四郎の姿に他の藩士たちから嫉妬をかい助四郎は病を理由に職を辞し、柳川に帰ってしまいます。しかし宗茂は、忠茂と連名で助四郎にこのような手紙を送りました。
「病はいかがか。容態はどうかと心配している。だが帰国した理由はそればかりではあるまい。お主の勉学は我らが認めたもので、我らはお主のことを少しも疑ってはいない。お主に何かと申した者たちはこちらで吟味する。どうか、気を取り戻してほしい。お主が確かな人物であることは、わかっている」と。
この心のこもった手紙に心打たれた助四郎は、発奮して一層学問に励み後に安東省庵と名乗り「関西の巨儒」と謳われる大儒学者となり柳川学問の祖となります。
この立花宗茂という人物は、戦国時代のただの戦上手で強いだけの人物ではないことはすぐにわかります。その生き方としてのお手本となるものが多く生涯、自分の信条、そして「第一義」に生きた人物でもあります。
時代がいくら変わってもその生き方は燦然と輝き続け、厳しい時代をどう生きていけばいいか、どのように経営すればいいかという模範になります。人を大切にするということがどういうことか、そして何をすることが義を優先しみんなを守ることか、引き続き学び直していきたいと思います。