家主の文化

昨日、京都の祇園祭を見学するご縁をいただきました。日本三大祭りの一つといわれるこの祇園祭は京都市東山区の八坂神社のお祭です。京都の夏の風物詩でもあり、7月1日から1か月にわたって行われ中でも「宵山」や32基による「山鉾巡行」「神輿渡御」などが有名です。

今回は、私が古民家甦生や町家主人としての心構えを学んでいる秦家の宵宮にお伺いするために京都に来ました。秦家の前には、とても美しい太子町の山鉾がご鎮座し神々しい雰囲気が醸し出されていました。

秦家のHPにはこう紹介されます。

『7月、鉾の辻を静かに流れる祇園囃子の音色を鉾町に住まう私たちは親しみを込めて「二階囃子」と呼んで山鉾の巨体が通りに現れるのを心待ちにします。太子山町は鉾町では一番西の端に位置している「太子山」という「山」の出るお町内です。ここに住んでいる家々は皆八坂神社の氏子。祭りの期間中は仕事を休んでも祭りに関わることを優先する心意気は今も健在です。』

伝統的な町家でもある秦家の玄関先には、時代感のある朱の提灯と和傘、そして格子戸の隙間からはかつての店先に荘厳な祭壇がしつらえてあり、そのお飾りを多くの観光客の方が行列をつくって見学に来られていました。

この日の秦家の自然体で凛とした品のある風情にいつも以上に私は魂が揺さぶられました。夏のしつらえとしての御庭と御簾、葦戸もまた町家の美点を最大限に引き出されている感じがして日本家屋の魅力に再び気づき直した思いです。

いつもここに来るとその佇まいの凛とする様子に、歴が精神に溶け込んでいく思いがします。時間と空間というもの、これも「間」といいますがこの間には一体何が入っているかということです。

現代はすぐに物事を分解して理解したり、便利な知識で分かった気になりますがこの「間」というものを感じる感性は、丸ごとで味わったり、直観したり、根本や一つであるところで実感するものです。

秦家の持つ凛とした佇まいは、単なる家ではなく代々の主人の生き方が顕れている気がして私がここに来るといつも勇気と元気をもらえます。

世界中のどの民族もその歴史の中で、先祖が経験した体験を智慧として子孫へと伝承され見守りの中で私たちは暮らしを営んできました。先祖が命懸けで実体験した実験から得た教訓や学びを教えずして智慧として子孫はその恩恵を受けて見守られ今も生をつないできたともいえます。

その智慧は代々文化として、暮らしを通して伝承されてきました。しかし今では、その先祖との根のつながりが失われ智慧が継承されにくくなってきています。日本は特にこの暮らしの智慧が豊富で、その文化を通して何をやってはならないか、何をしなければならないかを常に教えずにして教えるという仕組みがあったのです。

それを忘れてはならぬと先祖の厳しい回訓がありそれを守ってきたのが代々の一家の主人であったのです。家訓とはそういうものであると私は思います。私がここ秦家で学び直しているのはその家主の魂、家主の智慧、家主の文化そのものなのです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしを学び直して次世代へと先祖の智慧を譲り渡していきたいと思います。

 

 

時の旅人

古いもの、いにしえのものに触れていると心が懐かしく感じるものです。フランス語でノスタルジーといういい方もしますが、これは「故郷や過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち」という意味です。 日本語では「望郷(ぼうきょう)」や「郷愁(きょうしゅう)」といいます。

この時代を懐かしむというのは、歴史を感じる心です。

私たちははじまりの親祖から今にいたるまで、長い年月の歴史を生き継いで受け継いでここまで来ました。長い年月、どのように暮らしてきたか、また古代からの仕合せ、自然と親しみ平和な日々を歩んだことをいつまでも心に覚えているものです。

幼少期の記憶は、人類の初心のころの記憶であり純粋無垢に生きてきたころのことを懐かしく感じるように私は思います。

今の時代は、IT化も落ち着いてきてそろそろAI化といって人工知能との共存が急速に発展していく時代です。もう10年もすれば、世の中はほとんどAIによって塗り替えられてしまっているでしょう。どんどん古いものが失われ、新しいものばかりが出てくる世の中ですが私たちの心や魂が時代に追いついていくにはもう少し時間が必要のように思います。

私たちが懐かしいと感じるとき、私たちは時を旅します。

古民家甦生を通して、様々な時代のものに触れていますがその道具を一つ一つ手入れをして磨いていると時が甦ってきます。そのものの持つ時代が懐かしく感じられるとき、わたしたちは時の旅人になっているのです。

歴史は知識で学ぶものではありません、歴史は時を旅して学ぶものです。その旅を共にすることにより、懐かしさを感じるとき人は魂が揺さぶられます。そして魂が故郷に帰るのです。

時代の過渡期、この潮目がまた変化する節目だからこそ改めて子どもたちのために何を譲り遺していけばいいのかを思います。引き続き、初心を守り初志を貫徹していきたいと思います。

 

一休み

先日、久しぶりにアニメの漫画の一休さんを見る機会がありました。私の幼いころのアニメとしては馴染み深く、頓智を使って次々に難問を解決していく一休さんに憧れたこともありました。

その一休さんの代表的なコピーに、「慌てない慌てない、一休み一休み」というものがあります。これも今でも心に残っていて、今思えばとても深い教えを幼いころの意識に触れていたように思います。

この「慌」てるという字は、心が荒れると書きます。意味は、落ち着きを失う、驚きうろたえる、平常心でいられないという意味です。心は日ごろは穏やかですが、何かに囚われて執着すると心が穏やかでいられなくなり落ち着かなくなります。こういう時は、判断能力を見失い感情に呑まれたりして、平素の本来の自分でいることができなくなるものです。

一休さんが、慌てない慌てない、一休み一休みという文言は、焦らずに穏やかにいつもの通りに冷静に一呼吸置いて取り組むという姿勢を自分自身で言い聞かせていたように思います。

心がざわつくのは、何か自分の中で妄想が膨らんだり、将来の不安を感じたり、過去の嫌な体験を思い出したり、トラウマや劣等感など、様々な感情が沸き立ってくるからです。ネガティブな感情が沸けば慌ててしまい、焦ったり、急いだり、結果ばかりが気になるものです。

そういうときこそ、この「一休み」の価値があるように思います。

私たちが取り組んでいる活動の一つに致知出版社が広めている木鶏会というものがあります。この木鶏というのは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさします。つまりは不動の境地を持った状態ということです。

何かあればすぐに心を動かされるというのは日々の鍛錬が足りないように思います。そういう時にはいつもこの慌てない慌てない一休み一休みと、心を無にして何事にも執着せずにお気楽にポジティブに過ごしていくことです。

禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬と、物事の善い方へと転じていこうとする実践が一休み一休みということかもしれません。物事は自分にとって大変なことのように思えても、自分の思ってもいないところで偉大な運命が働いていたりするものです。

天を丸ごと信じて歩んでいく心が、この不動心を育むように思います。

引き続き、木鶏を目指して日々に一休みしながら実践していきたいと思います。

先祖に生きること

子ども第一義の理念で、子どもの仕事をしているのになぜ自然農や古民家甦生などをやるのかと聞かれることがあります。子どもという言葉の定義も、大人と子どもという時の子どもという意味で使っているのではなく、子どもを童心といった赤心のままや初心という意味で私は用いています。

その時、子どもをことを深めていけばいくほどに祖先や祖霊、先祖とつながるのは自明の理であるのです。今の私たちがこうやって暮らしているのは、先祖があったからに他なりません。その先祖が一人でも欠ければ自分はなく、その時代時代に先祖の生き方が私たちの長所や短所になって今の私を形成しています。

つまり自分は自分であって自分ではなく、先祖の一部でありその一部は子孫の一部になるということです。だからこそ自分のことだけを考えるのではなく、子どもたちに譲られていくものが自分のいのちだからこそ修養や修身をもって子孫のために今この時を精進していかなければならないと思います。

「星の王子様」を記したサン・テグジュペリに「地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ。」という言葉があります。またネイティブ・アメリカンの格言に「土地は先祖からの授かりものではなく、子どもたちからの預かりもの。」という言葉もあります。

私たちが先祖のことを思うとき、この今のことを振り返ります。するとこの今は、まさに子どもたちの未来になるのだから子どもたちからこの世代を預かっているだけなのです。この預かったもの、借りたものを利子を増やして返却するのならまだしも借金を続けたうえに全てを消費し浪費してしまったら返せるものもありません。

今の私たちが裕福に豊かに暮らせるのは、すべてご先祖の皆様の丹精によるものです。その利子を少しずつ貯めたものを私たちは切り崩して暮らしているのです。それを自分のことしか考えず目先の欲のみに囚われ使い切るばかりで、それを貯めようと遺そうとしなければ必ず未来の子どもたちがそのツケを払わなくてはならなくなります。

幸田露伴に、「分福」「惜福」「植福」とありますが、この幸福の三福を先祖が代々続けてくださったからこそ今の自分がここで生きているということです。

つまりは子どもの仕事をするということは先祖の偉業を偲び、その祖先や祖霊を省み先祖から学び、先祖として子どものために生きるということなのです。子どもたちの仕事の本質は畢竟、先祖の生き方を伝承し、改善すべきは改善し、少しでも子どもたちのために福を増やしていこうとする一生に生きることです。そして子ども第一義の理念は、「古を愛する心」と共にあります。

引き続き、子どもたちのためにも先祖への恩恵を忘れず今あることに感謝し、初心伝承を積み重ねていきたいと思います。

磨き合い~徳を積む~

人は磨き合うことで、お互いを活かしあうことができます。現代は競争社会といわれますが、それを他人との比較の中で優劣を決めて平均を割り出し誰かを裁くような競争ではなくそれぞれが自分自身を見つめ心を高め、徳を磨くような競争であれば世の中はより安心した豊かなものになっていくように思います。

「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」というのは切磋琢磨の意味ですが、常に心の磨き合いより徳を高めるような日々の錬磨はその人の人格を研ぎ澄ませていきます。

常岡一郎さんにこういう言葉が遺っています。

「いつまでも消えない希望、それはひとりひとりの人間が自分を正しく知ることである。自分をみがくことである。鍛えることである。向上させることである。徳高く、人格清く、心豊かな人になりたい。この願いは一切の苦難をたのしく超えさせる力となる。苦しみも磨きの恩師と思える。自分はつねに自分と共にいる。夜中でもよい。自分ひとりで本が読める。早朝に起きる。これもたのしめる。お互いに自らのみがき合いを競争する。勉学に、修養に、健康の道に、こんな希望の集団をつくる。それが美しい社会の基本となる。」

すべてのことを磨く機会にするという考え方はまさに切磋琢磨であろうと思います。苦難があればそれを磨く機会にし、歓びもまた、仕合せもまた、すべてを磨くためにあるとする。

体験そのものが自分を形成していきますから、どんなことをもって自分を磨こうかと常に機会を砥石にして内省していればすべてのご縁によって磨きがかかってきます。そしてそれを行う人たちが増えていけば、自ずから磨き合いができるようになってきます。

人によりここで磨き方も異なりますし、磨かれ方も異なります。その人たちと触れ合うことで自分の磨き方を修正し、さらに磨き方が見事な人の真似をし高めていくことができます。尊敬し合う関係の中で、人はより一層磨きがかかります。

どんな磨き方にせよ、磨くことが尊いという境地。

磨き合いというのは、その境地の中に存在しているように私は思います。この世に生まれてきた以上、磨き合うことは生きる意味でもあります。その生きる意味を学び、日々に心魂を磨いていけば一期一会の日々を暮らしていくことができます。

常岡さんが言う、「自分を正しく知る=自分を磨くことである」はまさに箴言です。もっとも一番身近にいる自分のことがわからないのが人間ですから、自分の心と向き合って自分を知りながら己に克っていければ自己を調和し、周囲とも調和していけるように思います。

引き続き、磨き合い徳を積めるように精進していきたいと思います。

 

 

馬鹿になる生き方~正直者~

正直者が馬鹿を見るという諺があります。これは辞書では「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直な者はかえってひどい目にあう。世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らないことをいう。正直者が損をする。 」(大辞林)と書いています。

しかしこの正直とは、損得でみてもどれくらい長いスパンで物事を観るかでその質も変わってくるように思います。例えば、短期的にみれば正直でいたことがいつも損のように思えるものでも長期的に見れば正直でいることの方が得をしていたりします。また損得だけをみれば人生で正直者は損をしているように見えていても、正直な人は周りから慕われ晩年には多くの人たちから親切にされて大事にされることもあります。結局、損か得かを基準にしたときの正直だといえば、損をする人を正直者といいたいのでしょう。つまり世の中が乱れ不徳の時代に出てくる諺ということです。

本来の正直さというのは、昔はお天道様に恥じない生き方のことをいいました。これを誠とも書き、日本人の生き方の美徳として大事にされてきました。「お天道様が見ている」と幼少期には祖父母から素直であれと叱られ、自分に嘘をつかないように、他人に嘘をつかないようにと自分を大切にすることを教わりました。ここでは嘘をつくかつかないかというよりは、一生を通して天に恥じないように自分を修め、磨き続けることに価値があると言ったのです。

例えば正直を磨くというのは、掃除に似ています。日々に汚れたり、日々にけがれたり、怠け心が出てきては日々に塵や埃が溜まってきます。それをそのままにせず、毎日丁寧に掃除をして祓い清めて洗い流して磨いて綺麗にしていく。そういうことを続けていくことが、正直にやっていくということです。これを怠り、その場しのぎで誤魔化しても塵も埃もたまっていきますからそれをいつかは片付けなければなりません。そうなって全部、散らかしっぱなしてどうしようもないと放り投げて他所にいく生き方をすれば周囲に大きな迷惑をかけてしまいます。自分で蒔いた種は自分に戻ってきますから、日々にどんな種を蒔いているのかを自覚するのもまた正直さの実践のようにも思います。

正直という嘘をつかないという実践は、単に誰かに対して嘘がなければいいのではなく日々に自分の心を手入れして誠に恥じないか、真心を尽くしたかと、内省し綺麗に掃除を続けていくことに似ているのです。そういう正直な暮らしを行う人が馬鹿をみることはなく、丹誠を籠めた真心の暮らしによって人生が磨かれ豊かになります。自分を高めて人格を磨いていくことは馬鹿なことではなく尊いことだと感じます。

まるで太陽のように清々しくそのお天道様のような心で生きていこうとするのは、自分を活かし、周囲のいのちを育み見守ってくださっている御蔭様の存在を忘れず常に感謝で生きる存在になるということです。これは人間として傲慢になるのではなく、自然のいのちと同様に謙虚に太陽の元、周りを活かし共生しながら真摯に自分の生を生き切るということでもあります。

時代が個人の損得ばかりを優先し正直さの意味もその言葉の定義も変わってしまった現代社會においては、正直さというのはあまり良いことではないと思われてしまっているものもありますが古来からある正直さは私たちの先祖が大切にしてきた真心の生き方です。自分を中心に損か得ばかりを計算して保身ばかりに走るのではなく、自分の日々の怠け心に喝を入れて自分の我に打ち克ち損得度外視で真心を尽くす実践で自分を修め磨き続けていく正直者になっていくことは敢えて馬鹿になる生き方を選ぶということかもしれません。

引き続き、日々に馬鹿になって愚直に心の手入れを怠らずに歩んでいきたいと思います。

お祭りの本質

祭り部ができてからお祭りのことを深めていますが、お祭りが続く理由について考えることばかりです。京都の祇園祭りや博多山笠、秩父夜祭などもそうですが長く続くものには理由があるように思います。これらの大きなお祭りとは別に、地域で行われているお祭りもまた続いているものもあれば衰退していくものもあります。

若い人が田舎からいなくなり、都会に出てしまい少子高齢化で伝承が引き継がれないこともあります。また都市部でも、引っ越してきた新しい若い人たちが地域のコミュニティに参加しないということもあります。

本来、何のためにお祭りをしているのかを忘れてしまえばお祭りを継承することもできなくなります。今の時代は、先祖が積み重ねてきた徳を守り、恩返しに報いようとするよりも自分さえよければいいという風潮が多いように思います。お祭りもまたその中で変化して単なる観光の一つのようになっているところも増えています。

以前、お祭りを深めて書いたことがありましたが本来は自分を見守ってくださっている存在、つまりは神様に対して感謝を顕すためにあったものです。先日も、古民家甦生の中で地鎮祭をしていただきましたがこれもまたお祭りの一つです。

一つ一つの儀式を通して、節目に神様に対して感謝の念を奉げるということだろうと私は思います。このお祭りなどの儀式こそ、自分自身が常に観えない存在に助けられているという感覚との結びであり、それを体験することで先祖と繋がり、また子孫繁栄を願い祈る心と結ばれるように思います。

太古から流れているもの、当たり前に生きてはいない自分たちが何ものによって活かされているのか、それを感じる仕組みがお祭りにはあるように思います。

祭壇をつくり供物を奉げ祈りを祀る。

感謝を忘れたいのりは続かず、感謝を忘れたお祭りもまた続かないと私は感じます。

引き続き、お祭りの本質を見極めながらお祭りの意味や真価を高め子どもたちのために大切な伝統をつなぎ結び合わせていきたいと思います。

語り継がれるもの~好奇心~

伝承というのは、語り継がれていくものです。日本にも古事記をはじめ様々な神話があります。また竹取物語のように日本最古の小説が今でも子どもたちに語り継がれているものもあります。

1000年を超えて語り継がれるというのは、そこに確かな真実や信仰があるからに他なりません。教えないで教えるという伝承という仕組みを少し深めてみようと思います。

伝承の仕組みというと難しくなりますがシンプルにいうと、教えてもらわなくても理解する仕組みであるとも言えます。私自身の体験では分からないものを教えてもらわなくてもわからないものがわかることがあります。これを直観ともいいますが、「そうか」と感じてつかむ感覚のことです。

好奇心から様々なものに触れている中で、ある時、こう使えばいいと実感するのです。それは水や火、土や石に触れるときになんとなく直観するのと似ていますし、最近、古民家甦生を通して日本古来の道具に触れていても用い方やなぜそうしたのかが好奇心で触れているうちに察知します。

この好奇心というのは、生まれたての子どもはみんな持っているもので大人になると次第に薄れていくともいわれます。私は好奇心が旺盛なので、なんでも不思議に感じてはそのものをそのままに理解しようと努めます。それを直観するという言い方をします。

単に知識で得ようとするのではなく、そのものに触れて得ようと思う感覚です。私は伝承はこういうものではないかと感じるのです。

例えば、炭を知ろうとすれば好奇心があまりない人は知識として簡単に木を燃やして灰を被せて火を消し炭化したものとするのでしょう。しかし私の場合は炭のことが知りたくて知りたくて好奇心が発動するため、何度も炭に触れようとします。そのうち炭には同じ炭がないこと、多様な炭の特性があること、炭の美しさがそれぞれで異なること、そして日々に火鉢で炭を燃やしていく中でその時の状況や気温、空気で全く異なる燃え方をすること。さらには温度の差や、そのものが持つ香り、灰、出すエネルギーの量など不思議で好奇心はさらに活動します。

私はこの伝承の仕組みとは、「真実を知ろうとする好奇心」のことでありこれがあるから生き物たちは教えずにして学ぶように思うのです。言い換えるのなら、好奇心が失われているから単に知識だけで分かった気になり、物事を学び深めようとしなくなるとも言えます。

人間として学問が永遠に輝き続ける理由は、この好奇心があるからです。

人が好奇心を持ち、学問をし、物事をなんでも好奇心で楽しんで深めていけば自ずから1000年前の物語にもアクセスし、その面白さを直観します。古事記や竹取物語がいつまでも語り継がれるのは、本質としてその面白さを私たちは好奇心が察知しているからでしょう。そしてそこに真実があり、信仰もまた生きています。

引き続き、教えない教育や場の教育を深め、風土を醸成する仕組みを開発していきたいと思います。

今の世代の責任

私たちは日々の暮らしを通して本来は先祖とつながっていたとも言えます。それが暮らしが変化してきてから、先祖の存在を感じにくくなってきて今では別の国のような生活スタイルになりいよいよ繋がりが薄れてきているように思います。

私たちの暮らしには、先祖が連綿と続けて積み重ねてきた歴史があります。その歴史は生活習慣であり、どのような生き方をしていけば後世も子孫が幸福でいられるかを自分の実体験から学びそれを改善し今の時代まで受け継いできたとも言えます。

例えば、神棚をお祀りし手を合わせて祈る、また季節ごとに季節の移ろいを感じつつ行事を協力して行う、そのほか、生活の道具からどのような食べ物を食べていればいいか、どのような生き物を身近においておけばいいか、それを風土の中で得られた智慧を用いて子孫に継承していきました。まさに民家も同様に、古民家は1000年先を見据えて建てられたものであり、風水を絶妙に活かした建物を通して子孫たちが快適に安心して暮らしていけるように見守った先祖の智慧の結晶でもあります。

それが西洋から入ってきた文明、言い換えるのなら経済効率だけを優先する中で暮らしが消失してきました。本来は暮らしの中に、多文化が入ってくるのはかえって進化の過程としては美しいものですが、現在は暮らしか経済かという2極化した中で人は暮らしを手放しているように思うのです。

私は暮らしの甦生を通して感じるのは、自分も先祖の一員だという自覚です。子どもたちのためにどのようなものを譲り遺していけばいいか、長く続くものこそ本物の経済であり、永続するからこそ本質的に経営ができますから、その両輪を常に温故知新していくことこそ今の世代の責任であろうと思います。

その今の世代の責任を果たすには、暮らしがまず大前提に存在しているからこそ実現できるものであり暮らしが消失してしまえば責任を果たせることはありません。

今はまだ消失しかけたものもたくさん残っています。一つ一つを甦生しながら先祖と対話し、先祖とつながることはもったいないことを学び直すことです。その一つ一つはとても仕合せなことで、その暮らしの中に一緒に先祖が息づいているのを感じます。

そして私たちの世代もまた、先祖になっていつまでも子どもたちと一緒に暮らしを持続していけるのです。持続可能な経済などという言い方をしますが、私にしてみれば暮らしを実践すれば必ず経済は持続するということです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしの甦生に取り組み一つ一つの智慧を復活させていきたいと思います。

すべてに優先~思いやりの道~

人は目的を忘れてしまうと自分に固執しがちになるものです。優先順位をしっかりと持ち、それに向かって自分を変え続けていれば柔軟性は発揮されていきますが自分を強く握ってしまえば利己に入ってしまうものです。

如何に自分を超えた理念や目的に自分を合わせて変化させていくかは、日々の優先する実践に懸かっているともいえます。

何のためにそれをやるのかということを強く意識している人は、自分のやっていることの意味を常に感じられているものです。常に目的に合わせて照準を合わせている人は変化を恐れず楽しみます。

しかしその中で時折、優先順位を切り替えるときもあるように思います。あまりにも優先順位に固執して完璧にやろうとすると、大事なものまで守れなくなってきます。大事なものを守るためには、妥協することもあります。この妥協とは何か、辞書には「対立した事柄について、双方が 譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること。」(goo国語辞書)とあります。

大切な目的のための妥協というのは、敢えて対立を生むようなぶつかりを発生させるわけではなく双方が譲り合い穏やかにするための方法論でもあります。妥協を悪い意味で使う人がおいのですが、それは目的のためというものがない妥協のことです。目的もなくただ妥協するのは、双方が思いやり納得し譲り合ったのではないからです。

優先順位を変えるというのは、目的のためには妥協しないけれど思いやりをもって妥協するということだと私は感じます。つまりは優先順位のもっとも高いものは思いやりだということです。

お互いに思いやりを持って協力していく中にこそ、本質的な妥協があるように思います。天道地理義理人情のすべての法理は、思いやりが最優先ということです。

引き続き、子どもたちの憧れる会社を目指していくためにも思いやりを優先できる強さと優しさを磨き直していきたいと思います。