人間の心は、自然にしていればもともと備わっている善良なものがあるといわれます。孟子はそれを「人皆人に忍びざるの心あり」と呼びました。これは人間には忍びないという思いやりの心があるという意味になります。
この忍びないというのはあまり最近では使われなくなりましたが、私の解釈では相手の気持ちになってかわいそうと思いやるときに出てくる言葉です。もしも自分だったらと共感してしまう気持ち、他人事なのに他人事ではなくまるで自分にあったかのように感じる心の中には思いやりが息づいています。
その思いやりの心につながるものとして孟子は四端という言い方をしました。これは「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は知の端なり。人に是の四端有り、四體の有るがごとし。」つまり思いやりこそが仁とつながり、不善を恥じることが義とつながり、他人に譲る心が礼とつながり、善悪の見分けがつく心が智とつながっている。つまりは頭・胴・手・足というものが身体にもともと備わっているように人間にはその仁義礼智は備わっているのであるという意味になります。
これが孟子の言う性善説の根本です。
このかわいそうと感じる思いやりはどこからやってくるのか、それは生まれながらにして懐かしい心の中から湧き出てくるものです。生きていればこの世の中にはどうにもならない不幸なことがあります。自然の災害に巻き込まれたり、理不尽な死や病に見舞われることもあります。
そんな時どうにもならないやるせない気持ちとなぜそんな目に遭わなければならないのかと複雑で気の毒に思う気持ちが出てきます。人間にはかわいそうと思う真心が最初から備わっているというのです。
このかわいそうは決して上下や格差の同情のかわいそうという意味ではありません。ここでのかわいそうは、慈愛の心、この世にいのちを創造するものの心とも言えます。
そういう心があるから協力や助け合いがうまれ、より善い循環を行っていこうとする善良な心が働くのです。これらは、現代では科学的にも証明されてきており遺伝子や細胞、その他、生き物たちにはそういう共存共栄して思いやり活き合うという真理が備わっていることが分かってきています。
だからこそ、改めてその四端や仁義礼智の徳を磨き高め世の中にその心が発揮されるような環境を創造していく必要があるように思います。その心が出て来にくい環境とは何か、それは幸不幸ばかりに囚われその中にある福を感じられないことにあるように私は思います。
世界にその思いやりの心を弘げる鍵は「福の世」にこそあります。その真の福世かな社會を創造するためにも一円観、一円対話の実践とその環境の醸成に命を懸けていきたいと思います。