真の自立

私たちは暮らしを通して、何をもって自立しているのかということを考えることができます。例えば、お金に依存しているのか、あるいは権力に依存しているのか、権威に依存しているのか、それはその人の生き方からもわかります。知らず知らずのうちに、私たちは依存していることを勘違いしてそれを自立と思っていたりするものです。

産業革命以降は資本主義経済がグローバリゼーションの名のもとに、世界の隅々までいきわたりました。経済に依存する仕組みは、地域のあちこちにまで蔓延しそれまで自然と共生して生きていた人たちまでも経済に取り込まれていきました。その結果として、人類のほとんどがお金を中心にした経済に依存していきました。

今では、お金がないと生活していくことすらほとんどできません。ほんの少し前まであったような身の回りの自然がつくってくれた利子をみんなで分け合いながら生きるといった自立は消えてしまいました。

日本では、働かないこと税金を納めないことは軽犯罪のように扱われ必ず経済に依存しなければ存在すらも認められないほどです。気が付くと、経済に依存しなかった文化や伝統はほとんど消えてしまいました。何らかの経済に依存することが、その文化や伝統を認めるための条件になっています。そうしているうちに純粋なものや純度の高いもの、お金や経済とは無関係であったものが濁り澱み、本来の真理そのものではなくなってきました。

例えば、利益が出ないものは自立していませんから本物風でもいい、多少それっぽく説明して嘘のようにならなければいい、あるいは見た目だけでも同じであればいいとまで変化しています。こんなものは先人の遺してくださった伝統文化を真に伝承しようと志した人たちならすぐにわかりるはずです。食品であっても、時間と手間暇がかかるものはほとんどなくなりました。気が付けば、名前は同じでも工程を省き、添加物で胡麻化します。他にも挙げればきりがないほどで、もはやこの世の中で接するものは本物がどれかもわからない始末です。

現代の人間の進化というものは、果たして本当に進化と呼べるものなのか。核兵器をつくり、AIや金融をさらに経済の依存に活用して誤魔化すことばかりを繰り返していく。むしろ人類は大幅に退化しているのではないかと気づくはずです。

しかし地球や自然の中に住んでいるのですから私たちは何をもって真の自立をするということなのかということに、向き合うときが必ずやってきます。この経済の依存の仕組みを考案してから約300年くらい自然から離れ、お金に依存し、時間をかけて人間を分断していきました。今では材料になるネタが尽きて静かだった戦争が音を立てて激しい戦争へと様変わりをはじめています。

むかしは経済のことは経世済民といわれ、徳と財は一致して暮らしの中で恩が循環していた世の中はほとんど崩壊して久しくなり徳はもう見えません。経済によって物質化した社会の中では目に見えないものは排除されていきました。本来の人の間の自立は相互扶助であり互譲互助です。それが単なる経済の道具になってしまい、助け合いや道徳も経済がなくてはできなくなりました。経済が最も奪ったものの一つがこの人徳というものかもしれません。

私たちが真の自立を目指すためにはまず自分が何に依存しているのかに気づくことからのように思います。そしてその依存のバロメーターこそが、「暮らし」であると私は思います。この暮らしは単なる日常生活のことをいうのではなく、何と共生しているか、自然や徳とどう結び合っているのかという実践のことです。

経済にどっぷり依存した暮らしのスタイルのなかでの暮らしは、アラスカでも大都会のような高級なセレブな生活を持ち込めることになっていたり、ホテルに宿泊しても自分の好き勝手にライフスタイルを保てますよというものが今でいう暮らしになっていたりします。これなどは完全に経済に依存している偽の自立そのものとはいえないでしょうか。

自然と共生してきた自立は、軸足は常に自然と共にありますから経済がさらに潤沢に増していくだけで自然の破壊はさらに進んでいくだけです。田舎を再生しようと、地域創生などといっては経済を持ち込んできますがそんなことを繰り返していたら人間は経済によって全滅してしまうかもしれません。

私たちはそろそろ軌道修正して大きな災難が訪れる前に、子どもたちや未来世代のためにも少しずつでも変えていこうと努力や忍耐、苦労を厭わずに挑戦するときが来ているように思います。それは暮らしを変えていくという挑戦です。一人一人が、みんな小さな暮らしでも変えていけばそれが長い年月を経て、偉大な変化になっていきます。

愚かなことのように思えても、むかしからそうやって先祖や先人たちは徳に報い、恩を譲ってきてくださったように思います。まずは自分から真の自立を目指して暮らしフルネスの挑戦を続けていきたいと思います。

歩こうとすること

先日の遊行を通して歩くということを改めて考え直しています。現代は交通機関が発達し田舎でも車社会になってほとんど歩くことはありません。この歩くというのは、単に二本足で移動するということのほかに、自然に帰るということがあるように思います。呼吸をするように、本来は人間は歩く動物です。犬も猫も、あらゆる生き物はそれぞれに歩くことを已めません。歩くというのは、生きるということであり道を歩むということもあります。

例えば、私たちの身体は重力によって支えられています。無重力で歩けとなると今のように歩くことはできません。そう考えてみれば、私たちは歩くことで筋肉や骨、血液からあらゆる肉体の機能が活動し調うようにできています。

じっと動かずに寝ていたら人間は筋肉が固まってきます。寝返りも打たなければそのままでは問題がでてきます。つまりいつも体はこの地球の重力と連動して今の状態を保っているということになります。

よく変な姿勢を続けたり、座り続けたりするとのちに神経痛や骨格の病気になったりします。これも歩くことで調えていれば予防できるようにも思います。

つまりは私たちは静止しているよりも、歩くことの方が本来の中庸を保ち、自然の一部になりやすいということになるのではないかと思うのです。

また歩くことで呼吸も整い、歩くことで全身の筋肉をほぐしていきます。その調和の状態は当然、脳にも心にも大きな影響を与えるように思います。そしてその時、私たちは脳で考えるのではなく身体で考えるようになるのです。

身体で感じたことを頭で気づくときに、人は全身全霊で妙智にたどりつくものです。歩くというのは、歩こうとしないと歩けません。この歩こうというのは、考えようと思うことです。この考えようとするのは、真理や本質に辿り着こうとするものです。

歩くというのは、それだけ考えることと一体でありその中で感じ合うものかもしれません。引き続き、遊行を通してさらに一歩ずつ丹精を籠めて歩いていきたいと思います。

暮らしの中の遊行 2

昨日は、英彦山の豊前坊から山国の豊前坊屈まで約25キロを遊行しました。急遽、イタリアの舞台芸術家も飛び入りで参加することになり道中の豊かさが増しました。特に、大雨や強風、そして倒木など悪路のなかの遊行でしたが時折、応援にかけつけてくれた友人やお手伝いしていただける方の御蔭さまで心地よく暮らしを味わっています。

そもそも日本人は元来、暮らしを通してあらゆる芸術を生活文化の域において達していたものです。特定の芸術家がいなくても、人々は暮らしの中でその芸術のすべてを豊かに享受されてきました。例えば、民藝、手仕事などはほとんど芸術品です。あるいは、古民家一つとっても生活の中で如何に豊かに遊んでいたかがわかります。

私たちの美意識というものは、すでに暮らしの中で醸成されており、たとえ厳しい自然や政治的な貧困や戦争があった時であっても、茶道であったり、踊念仏であったり様々な創意工夫を通して暮らしの中の知恵を発揮してきました。

私が取り組んでいるものもまさにこの暮らしの中のものです。暮らしフルネスというものは、そのすべてを暮らしの中で実現させていくということに他なりません。宗教でもなく、哲学でもなく、特別な資格も必要ではなく日々の暮らしの中で自由自在に遊ぶのです。そういう人物のことをむかしは仙人と呼んだのかもしれません。現代の仙人はどこにいるのか、私は暮らしを楽しむ中にこそ存在しているように思います。

遊行というのは、今を味わいつくすものです。これを禅では三昧ともいいます。今を味わいつくすという境地はどこにあるのか、それは日々の暮らしの中にこそ存在します。私が「暮らしの中の」というのは、この今を連続する日々の生死の呼吸の瞬間瞬間にあるということをいいます。そしてその瞬間瞬間のことを遊ぶといいます。子どもたちが、好奇心で遊んでいる姿の中にこそすべてを捨てて天命を生きる歓喜を感じます。

遊行の喜びは、一期一会の喜びということでしょう。

しかし、道を歩んでいくのは一つ一つの執着との正対でもあります。あれやこれやと妄念や妄執もでてきますが歩みを進めていくなかで様々なものがそぎ落とされていくものです。そして、一緒に歩く人たちの清々しさを分かち合うものです。

旅に持っていけるものはほんの少ししかありません。秋の静寂と山粧う景色と枯れた音と侘びた風に心も吹かれます。

徳が循環するのを肌身で三昧しながら、暮らしの中の一生を先人たちと共に伝承していきたいと思います。

教え導く

昨日は、英彦山守静坊の前当主である故長野覚先生の高校教師時代の教え子たちが50年ぶりに宿坊にきて同窓会をされました。恩師のお墓参りとご供養とあわせてみんなで集まり宿坊で会食されました。

高校時代のアルバムを見せていただきましたが、皆さん今もむかしも素敵なお顔でお互いを思いやりながら宿坊までの遠い道をはるばると訪ねてくれました。

こうやって同窓会で集まれるのは長野先生が素晴らしい先生だったからと仰っていたこと、そして長野先生を悪く言う人は一人もおられなかったと仰っていたこと。実直でどんな生徒にも保護者にも誠実に見守り、とても面倒見がよかったと仰っていたこと。温かい思いやりのある人柄を感じました。

私は生前の長野先生のことをあまり存じ上げておらず、お亡くなりになってから人づてに人柄や功績、生涯をかけて取り組んでこられたことやそのお仲間の存在などにご縁によって気づかせていただきました。

みなさんからの言葉で生前とても徳の高い立派な方であったことが伝わり、その御蔭でそれぞれの人生が善くなったというお話をお聴きすることばかりです。

もともと代々、この守静坊は宿坊の坊主として何百年も前から人々を教化してきました。この教化というのは、「教導化益」の略称で、徳をもって人々を正しく善に導くことを意味します。 この教化は自らの体験、実践する姿をもって相手を導くものであり強制は行わないといいます。仏陀が、自然に人々を仏道に導いたように生き方を学び、その生き方から善を薫風されたのです。

道元禅師が、故人いわく 「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る〟. よき人に近づけば、覚えざるによき人になるなり 」といいます。

環境が人を導き育てるのですが、その環境をつくるのもまた人であるということでしょう。善き指導者、先生と生徒が共に徳を磨き合い、一期一会の場をつくる。

そこには宗教者だからではなく、有資格者だからではなく、名声や肩書や権威があるからでなく、人々を教化するために自らの徳を磨き上げていこうとする生き方と志、そして覚悟があるようにも思います。

何をもって元来そなわっている人のもっている善徳を伝承するといえるのか。私は道元禅師の「水鳥の 往くも帰るも 跡絶えて されども道は 忘れざりけり」を思い出します。

私は守静坊や長野先生のご遺徳を偲びながら、この守静坊のもつ道や環境の意味を深く見つめ直しています。

ありがとうございました。

遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。

暮らしフルネスの秋

暮らしフルネスで暮らしを調えることは、病気にならない生き方に似ています。そもそも病気は、病気になってからでは間に合わず病気にならないような日々の暮らしを調えることに軸足を置くことからはじまります。

例えば、当たり前のことですが季節を感じながら五感を調える。生活リズムを自然に合わせる。旬なもの、またいのちが豊富にあるものを丁寧に食べて調える。呼吸を整え、今ここに集中して心身を調える。またよく歩き、重力や自らの身体の動きによって身体を調えるなど色々と暮らしを調えることができます。

医者にも、色々な医者がいます。今は緊急事態で応急処置ができる人がよい医者といわれますが、本来は病気にならないように見守って日頃から病気の根源や原因を防ぐような人がよい医者ともいわれました。今のような保険診療や補助金のようなシステムになってからは、診察や薬を出さなければ生計が成り立ちませんから名医はみんな治療する医者になってしまいました。本来は、病気にならないようにする生き方の模範が名医だったように思います。僧侶やむかしの医師はきっと、健康で長生き、そして精神も心身も調えることを日頃から実践されていた方だったように思います。そしてそういう生き方を目指して取り組まれていたのでしょう。

私も暮らしフルネスを実践していますが、自分が完璧にそれができるから提唱者というわけではありません。自分もそうありたいと挑戦をし、一進一退しながら七転び八起きをしながら日々に取り組んでいます。心も精神も体も調えるというのは、暮らし方を磨き続けていかなればできません。

今日は、昨日よりも少しできた、またはできなかったと反省しながら感覚を磨き、徳を積んでいくのです。しかしそうやって実践していくなかで本当の自分、本来の自分というものを忘れなかった一日はとても豊かで幸せです。

できた人がすごいのではなく、できない人がダメなのではない。大事なのは、先人の生き方を尊敬して自らも暮らし方を見倣って子孫のために精進していこうとする思いや行動にこそあるように私は思います。

引き続き、秋のこの静かで澄み切った月夜や空気に包まれながら晩秋の暮らしを味わっていきたいと思います。

信仰と感謝の暮らし

この時期の英彦山の宿坊は、空氣が澄み渡っていてとても心地よい季節です。あちこちの木々の葉も紅葉づいて秋の静けさに合わせて綺麗な光が差し込んできます。夜の月も清浄で美しく、明けの明星も一際煌めいています。守静坊では、囲炉裏の火がゆらめき、煙の懐かしい香りの余韻が充満していて穏やかです。

季節季節に喜びはありますが、この秋の豊かさは何よりの贅沢です。

そして今の英彦山は、水が少なく井戸の水量が激減しています。いつもは宿坊の周囲の小川もさらさらとたくさんの水が流れていますが今はほんの少しちょろちょろと流れる程度です。

水がなくなってくると、生活に利用するための水をもったいなく丁寧に使うようになってきます。

以前、鞍馬寺ですべての水道の蛇口に「お水さんありがとう」と書かれたものが括りつけてありました。それに感動し、すぐに自宅の蛇口にも同じように括りつけて忘れないようにと実践していました。しかし、水道水は蛇口をひねれば自由に出てくるためそんなにもったいないと感じにくいように思いました。今でも、ついシャワーなどは高温が出るまで出しっぱなしで水のことなどあまり気にしていません。

しかし英彦山の宿坊に来ると、水がなくなるとまた水量が元に戻るのにかなりの時間がかかってしまいます。そこで少しでも水が使い過ぎにならないように気を付けながら使います。すると、自然にお水さんありがというという気持ちになり、お水の使い方も変わってきます。あまりお水を使わなくていい方法を模索したり考えたりするのです。

洗い物や洗濯、水洗トイレ、シャワーなど今では当たり前に水があることが前提の生活用品や生活家電であふれています。水が足りないところでは使えないようなものばかりです。

不便によって本来の当たり前が変わっていくことで、意識も暮らし方も変わってきます。しかしその暮らし方の中に、もったいないと感じる豊かさと有難さがあり、感謝や信仰の仕合せもまた味わえるものです。

暮らしフルネスの一つに、このもったいないというものを味わうことがありますが英彦山の宿坊はお水のことをいつも深く感じられることが多くあります。一年中、水で溢れる梅雨や冬から春までの大雪にいたるまでお水の影響をかなり受けます。お水のありがたさを感じるほどに、また火の有難さも感じる場所です。

都会や都市にはない、真の豊かさはかつての信仰と感謝の暮らしのなかにこそあります。いつまでも大切な恵みを忘れないように、場をととのえていきたいと思います。

徳の戦略 

江戸中期の徳の実践家で思想家の三浦梅園に、「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」があります。これは、西洋ではグレシャムの法則といって、「悪貨は良貨を駆逐する」が同じように有名です。私は、徳積循環経済に取り組み、ブロックチェーンの技術を徳で活用していますからこの辺の話は参考にしています。

そもそもこの三浦梅園が自著「価原」でなぜこういうことを言ったのか、それはこの明和9年(1772年)から発行された、南鐐二朱判は一両当りの含有銀量が21.6匁であり、同時期に流通していた元文丁銀の一両当り27.6匁と比較して不足している悪貨であったといいます。このことが南鐐二朱判を広く流通させ、このような計数銀貨が次第に秤量銀貨である丁銀を駆逐していったということもあったといいます。これよりも前の元禄8年(1695年)に行われた品位低下を伴う元禄の改鋳後にもまた良質の慶長金銀は退蔵され、品位の劣る元禄金銀のみが流通したともあります。

そしてグレシャムの法則の方は、16世紀のイギリス国王財政顧問トーマス・グレシャムが、1560年にエリザベス1世に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来しています。これを19世紀イギリスの経済学者・ヘンリー・マクロードが自著『政治経済学の諸要素』(1858年)で紹介し「グレシャムの法則」と命名してできた言葉です。

他にも調べると、似たようなことは古代ギリシアでも行われていました。劇作家アリストパネスは、その自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時のアテナイで行われていた陶片追放(オストラシズム)を批判していたといいます。

今の時代もまた似たようなものです。これは貨幣に限らないことは半世紀ほど試しに人生を生きてみるとよくわかります。市井のなかで、「本物」と呼ばれる自然な人たちはみんな私心がありません。世間で騒がれている有名な本物風の人ばかりが情報消費に奔走し、あるいは流通し、同様に消費されていきます。実際の本物は粛々と自分の持ち場を実践し磨き上げ場をととのえています。そこには消費はありません。

そういう人たちは、世の中では流通せずにそれぞれに徳を積み、そうではないものばかりが資本主義経済を拡大させていきます。そもそも人間の欲望と、この金本位制というのは表裏一体の関係です。そして金本位制を廃止してもなお、人間は欲望のストッパーを外してはお金を大量に発行して無理やり国家を繁栄させ続けようとします。すでに、この仕組みで動く世界経済は破綻をしているのは火を見るよりも明らかです。国家間の戦争も歴史を省みればなぜ発生するのかもわかります。

かつて国富論というものをアダムスミスが定義提唱し、富は消費財ということになりました。この辺くらいから資本主義の行く末は語られはじめました。如何に現代が新しい資本主義など世間で騒いでみても、そもそものはじまりをよく観ればその顛末は理解できるものです。ジャッジするわけではありませんが、歪みを見つめる必要性を感じます。

実際の経済とは、経世済民のことです。その経世済民を支えるものは、相互扶助であり互譲互助です。つまりは、人は助け合いによって道と徳を為すとき真に富むということです。この時の富むは消費財ではなく、絶対的な生産であり、徳の醸成です。そういうものがないのに経済だけをブラッシュアップしても片手落ちです。

本来、テクノロジーとは何のために産まれるのか。それはお金を増やすためではありません、世の中を調和するためです。だからこそ、どのように調和するかを考えるのが技術まで昇華できる哲学者たちであり、思想を形にする実践者たちです。

私はその調和を志しているからこそ、ブロックチェーンで三浦梅園の生き方を発信していきたいと思っているのです。そこには先人への深い配慮や思いやりが生きています。

先人たちのこれらの叡智、そして知恵は何世代先の子孫のために書き綴られそれは魂と共に今も私たちの中に生きています。少しでも子孫たちの未来が今よりも善くなるように私の人生の使命を果たしていきたいと思います。

剣聖の生き方

生涯無敗の剣聖として有名な、「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)がいます。有名な言葉に「戦わずして勝つ」という教えがあります。もともとは、日本の戦国時代の剣士、兵法家で父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた人物とされています。

下剋上、裏切り、謀反、暗殺、と生き残るためには手段を選ばない戦国時代に人を殺す剣ではなく、人を活かす剣を貫いた生き方をした剣豪でした。

この無手勝流の奥義、戦わずして勝つというものがどういうことか。それが色々な説話からも残っています。例えば、家督を3人の養子の誰か1人にその家督を譲る際にも「無手勝流」でやりました。ふすまを開けると木枕が落ちる仕掛けで3人を試し、次男と三男は剣を構えて木枕を斬ったが、長男は仕掛けを見抜いて先に木枕を取り除いたので、長男に家督を譲ったとあります。戦いとは戦略ともいい、戦略は戦いを省く知恵ともいいます。戦わないで済む方法を持つ者こそが、真の剣豪であるとしたのかもしれません。

また他にもこういう説話が残っています。これは塚原卜伝に弟子入りを志願した人との対話です。

弟子入りの志願者は「剣術を習いたいので入門を許して下さいませんか。私は一所懸命に修行します。どれくらいで免許皆伝していただけますか」と。それには卜伝は「一所懸命にやれば、5年で免許皆伝になるじゃろうよ」そしてまた「では、寝食を忘れて修行に打ち込めば、何年で免許皆伝になりますか」と尋ねると、卜伝は「寝食を忘れてやれば、10年で免許皆伝になるじゃろうよ」と。さらに「それじゃあ、死に物ぐるいで修行すれば、何年で免許皆伝になりますか」と最後に尋ねると卜伝は「死に物ぐるいでやれば、一生、免許皆伝にならんじゃろうよ」という話です。

通常であれば、必死に頑張れば頑張るほどに早く免許皆伝できるだろうと考えます。特に弟子入りする人は、早く免許皆伝するのはどうすればと考えるものです。そういう気持ちもあって色々と尋ねたのかもしれません。しかし卜伝は、本質で応えます。

「一所懸命で5年、寝食を忘れて修行すれば10年、死にもの狂いは一生無理」という話。これは今でも通じている知恵の一つです。中庸というものは、執着と離れたものです。そして私心が出れば出るほどに悟りは遠ざかるようにも思います。

如何に、私心を離れていくのか、

生涯無敗という意味の奥深さをその生きざまから感じます。塚原卜伝の教えは国に平和をもたらす剣であったといいます。真の剣豪、そして剣聖とはどういうものか。

今の時代も学ぶところばかりです。生き方を学び直し、徳や聖というものの生きざまも磨いていきたいと思います。

徳あるものは永遠に生きる

山本玄峰先生という方がいます。百万遍念仏のことを調べていて知ったのですが、素晴らしい生き方をされ示唆をいただいております。終戦にも深く関わっておられ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉に影響を与えた人物としても知られている方です。

多くの政治家をはじめ、リーダーたちを指導して国を導きました。まさにあの頃の国師のような存在です。

この山本玄峰先生は、若い時に失明を宣告され絶望をして死地を求めてあらゆるところを探し回りました。そしてどこでも死にきれず、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけ「自分は死にきれずここまで来ました。私が少しでも世の中の役に立つものならば、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路に最後の希望を懸けました。

そして7回目の巡礼の三十三番目の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前でついに行き倒れました。その後、無銭宿泊所の「通夜堂」で、3、4日過ごしついに出家を決意して同寺の太玄和尚に相談します。

「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」と。

すると太玄和尚は答えます。

「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」と。

その後は、すべてを手放し出家して修行にあけくれました。その師匠の言葉どおりの人物になり、葬式や法事をするためではなく、真理を開眼するような大導師になったのです。

その山本玄峰先生は、こういう言葉を遺しています。

『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』

何を拠り所にすることが、もっとも生きるのか。死を求め続けて、生きることの真の意味を悟られた先生の法の言葉は深く心に沁みます。

暮らしの中で禅で生きるというのは、暮らしのすべてで徳を積むということだと感じます。実際にはとても難しく、先達の偉業に深く尊敬の念がこみあげます。

今に集中して、暮らしフルネスで徳を実践していきたいと思います。