純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

人口の問題

世界は人口が80億人を超え、このままいけば2100年頃には160億人にまでなると予想されています。世界は先進国と発展途上国という言い方をしますが、先進国になっているということはそれだけ経済的にも裕福になっているということでそれは人口が増えているということになります。

例えば、現在はアフリカなども急速に発展を遂げ、最短で先進国入りをする勢いで経済を伸ばしています。インフラも、医療も、あらゆるものが先進国に追いつく追い越せのスピードで導入されて発展しています。

この背景には、資本主義経済によって未開拓のところを開発することで得られる利益があるゆえに競争しては未開の地を発展させていきます。結局、植民地支配を広げるのと似ていてそれが経済という仕組みで今も行われています。

ただ本来は、そういう経済とは無縁な自然と調和しているような小さな場所やそのままにしておけば特に問題もないような場所まで色々な理由をつけては先進国と同じ道を歩むように干渉していきます。

すると問題は、今の人口爆発につながっていきます。医療も食事も栄養もあっという間に便利に短期間で改善されるので人口も増えるのです。しかしこれはあくまで短期手的なもので長期的には人口は減っていきます。地球には限られた資源しかありませんから、人数が増えたら食べ物がなくなります。お金でどこかのものを買っても、それを作る人たちがいなくなれば食べ物は増えません。

小さな畑や田んぼしかないのに急激に大家族になった人数を養おうと思えば、どこか外から持ってくるしかありません。あるいは、工業化して大量生産する仕組みを考えるしかありません。

結局は、今の大量生産大量消費の仕組みはこの植民地化経済を世界の果てまで追い続けるのをやめないから発生しているともいえます。そして人口爆発は、その副産物でもあります。

だからどちらも両輪になっていきます。アフリカからすれば、飢饉もなくなり病気もなくなるのは有難いことです。子どもは家族を守る大切な労働者の一人として多子多産を続けていきますから、経済が発展するまで産み続けます。そうやって増えたら、今度は子どもを養うために経済をさらに追いかけるようになります。

そもそも何千年も同じように暮らしてきた場所に、別の価値観を入れたらもとに戻ることはできません。自然や野生の生き物を飼育するのと同じで、一度飼育してしまえば元の野生や山には戻せません。適応してきた力をなくしてしまうからです。

私たちはそういう意味では自然と共生し調和してきた力を捨ててきました。今さら元に戻れといわれても、身体も精神もそして社会も簡単に適応できません。

これは果たして本来の発展と呼べるものなのか、みんなで気づかなくなっていますがそれは子孫が証明することになります。発展と呼んでいるものこそ、実際には減退であり、科学を進化していると思っていることこそ、不自然を積み重ねているのかもしれません。

子孫のためにも、バランスを保ち続けられるよう本来の経済のあり方から換えていきたいと思います。

長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。

橋渡しという天命

昨日、京都で素晴らしい僧侶にお会いしました。この方は、橋渡しという意味の新しい造語で僧侶を「アンセストリスト」と名乗っておられました。確かに、人は誰しもが橋渡しです。

改めて橋渡しとは何かということを深めてみようと思います。

現代では、橋渡しというと核のことをよく国内では耳にします。唯一の核被爆国として、核兵器の廃絶、そして核原発をどうするかなど、私たちは常に核というものがどういうものかを直接的に体験してきました。

世界では核のもつ因果と実態をまだ経験しておらず、未来や子孫のためにはこの危険で不確実な核にどう向き合い、そして人類はどう対応していけばいいかの答えを出し、伝承する大切なお役目があるともいえます。もし世界を巻き込む核戦争が起こったら、もうどうにもできません。だからこそ、そうならないようにと今こそ安心と安全な橋を架けてそうならない道に導くことができる存在でもあります。

その他では、文化の橋渡しというものがあります。言葉も生い立ちも違う国の人たちがお互いの文化を交流する中で互いを理解しあい学び合うこともできます。仲立ちともいい、間を取り持つ人ともいえます。それだけ文化を尊重できる素地がある、共通のものや普遍的なものを共に学んでいるということでもあります。

そういえば、僧侶のお役目の一つはむかしは喧嘩をすれば間にたって仲裁していたという文献を読んだこともありました。村に人徳のある人格者がお寺に住んでいただくことで、村の治安を安心安全に守っていたのでしょう。まさに、思いやりの実践を通しての修身斉家治国平天下です。

つまりは橋渡しというものの本質は、この思いやりによって「結び、つなぐ」仕事ともいえます。

私は自分のことを私心なく少し考えてみると、子どもたちや子孫のためにと未来世代のために今を存分に使っているともいえます。「子ども第一義」という使命で、会社を起業し、今では徳を積むための活動に専念しています。これは親祖から今までという先人たちの遺徳をいただいた今の私が、同じように子孫たちへとより善いものにして橋渡しをしようとする歴史を思いやる事業をしているということになります。

私たちは縦の糸という、太古から流れてくる大河と、そしてその大河がさらに大海へと流れ続けるものがあります。途切れることのないそのお水といのちを安心してそして永遠に続いていけるようにと祈りすべてに橋渡しをするのです。

そういう意味では、他のいのちと同様にすべての人間はこの橋渡しをすることが人生においてのもっとも大切な命題ということになるはずです。子どもをつくり、そして未来のために今を善くする橋渡しをしない人はいないからです。

だからこそ、何が本当に今を善くすることなのか、そしてどういう橋渡しこそがもっとも未来を生きる子孫たちのためになるのか。その答えを誰もが平等に生きていく必要があるように思います。

私はこの時代に徳が循環する新しい結を甦生させようとしていますが、これは途切れかけた歴史や生き方、そして文化を再構築して伝承させていこうとする試みであり先人たちへの配慮と子孫への思いやりを実践していこうと決心したものなのです。遠大な理想へむけての試行錯誤ですが、普遍的な場に仲間はいつも見守っておられます。

一期一会にご縁を辿りながら自分の役割を今ここ、そして天命と実践において徳を磨いていきたいと思います。今日からまた、ご恩が響き合う新たな一日を過ごしていきます。

ご縁に感謝しています。

場の原点

昨日から久しぶりに鞍馬寺に来ています。コロナもありまた色々とあったのでじっくりとお山に来てお話をする機会もありませんでした。改めて、感じるのはお山の持つ場の素晴らしさです。

私は、今、英彦山をはじめ場づくりをしていますがその原点はこの鞍馬山です。鞍馬山で修養してきた十数年が今の私の血肉になりこの感覚を忘れずに実践しています。私たちはお山を大切にすることで、お山からたくさんの気づきをいただきます。その気づきをもってまたいつもの日常生活に活かしていくのです。

太古のむかしから、私たちは言葉ではなくても場によって多くのものを気づいてきました。不思議なことですが、ある場所にいくとそこには何かがあるという気づきがあります。その何かというものが、私たちが気づいていく本体であり正体です。

そしてその場を大切に磨きととのえていく人たちは、たとえ寿命が尽きていらっしゃらなくなったとしてもその場所の他のいのちと共に存在し続けていきます。

私たちは自分や個人といった、自他を分けてものごとを理解するようになってきました。この言葉や文字などもそうですが、分けることで理解する仕組みから世の中は分かれているものとして認識するようになっています。しかし、実際の現実のこの世は分かれているものなど一つもなく渾然一体になっているものです。

この渾然として一体になっているものに気づいているかというのが、先ほどのお山でいただく気づきと同化しているのです。

あらゆるいのちや物質も、分かれているものは一つとしてこの宇宙に存在しないという真実。わかれていないからこそ、場がそれを伝えていくことができるのです。そしてその場を伝える人々は、その場に渾然一体となって暮らしています。

何かを教えるのではなく、何かに気づいていくこと。

人は気づいたことでしか、変わりませんし、気づくだけで救われる境地もあるのです。むかしの先人たちは、なぜ山に入り山で修養してきたのか。そしてその山をお山として心や魂の故郷を実現させていったのか。

この感覚を忘れずに、丁寧に自分の今いる場を磨き上げていきたいと思います。

子どもから学ぶ

子どものことを思うと、主体性というものが如何に大切なことであるかがわかります。私の恩師も、先日のセミナーの中で見守る保育には、選択すること、参画すること、自由に遊ぶことの意義を伝えておられました。

そもそも、自分で自分の生き方を決めるというのは私たちがこの世に生まれてきて体験していく醍醐味でありそれを見守る社会というのはこの世の楽園にするための大切な要素だと私は思います。

一度きりの人生を、自分らしく生ききることができるときいのちは光り輝いていきます。それぞれの人には、それぞれの天命や役割がありそれを全うしていきます。そう生きられない、それはしてはいけないと、刷り込まれていくことは人間社会においての不自然さを感じます。子どもは、自然に未来を創造していきます。本来は、余計なことをしなければ自然に調和をし、世界をととのえていくものです。

そこに大人のあらゆる編重した教育や、歪んだ自由を与えられることで、思考停止して元氣が失われていくものです。

現代病の大きな一つは、その元氣さというものによります。こういう言い方をすると誤解されるかもしれませんが、目が輝き、元氣溌剌として魂を全快に愉快痛快に楽しんでいるのが子どもの姿でもありました。生まれてきて好奇心旺盛で、思考は自由自在にのびのびと働きます。

海外の保育を視察した時には、カンボジアをはじめ何か所かの国ではそういうところもありました。日本のむかしも、子どもたちは安心して育つ環境があったように思います。

本来、私たちは自然から自然を学ぶように子どもから本来の子どもを学ぶ必要を感じます。誰かが言ったからや、海外で評価されているからや、科学的だからというものもあるでしょう。しかし、子どもの本来のあるがままの姿をよく観察して学べば、子どもがどうありたいのか、子どもが何を求めているのかを見守ることで本来のいのちの姿を実感することができるように思います。

自然であれば、土や種、そしてどのような環境だと元氣になるのかを学び直します。同様に子どもも学び直せるものです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。子どもの姿は変わらないものがあるのです。そういうものをよくみんなで学び、保育をさらに磨いていく。私たちは保育の道を提案する会社でもありますから、引き続き真摯に学び続けていきたいと思います。

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

本当の自分に近づく

人間は自分の力を過信するときに、同時に慢心が生まれます。この過信と慢心は別の意味のように語られます。つまり過信は自分の力を信じすぎる、慢心は自分を信じすぎておごり高ぶるという具合でしょうか。しかし、実際にこの過信も慢心も同じ意味です。

そうではない姿とは何か、それは謙虚です。

この謙虚さというのは、ある意味自分というものの理解を正しくしているものです。例えば、自分ではないと思えるということです。今の自分があるのは、ご縁、ご先祖様、お導き、仲間や家族、あるいは私であればお山やお家、風土や先人の遺徳、自然、太陽、お水、あらゆるものが自分ではないものになっていきます。

その時、私たちは御蔭様に気づき、有難いと自然に感謝ができます。そういう自分ではないものの存在に気づくとき、その中にあり「活かされている自分」というものに出会います。

自分で勝手に生きているのではないし、自分の力だけで生きてきたのではないという事実を知るのです。

その事実を知るとき、人は過信や慢心というものから遠ざかり現実を受け入れ真実を見つめることができます。

どうしても自分に意識が行き過ぎれば、人は過信となり、そして自分の力でのみ乗り越えられると思えば慢心となります。結局は、事実として人は誰かの助けによって共生の原理によって存在しますから現実に苦しめられるだけになります。

だからこそ現実を直視して、活かされている自分のままでいることに徹することで事は成就していくのでしょう。それが謙虚さであり、本当の自分を知るということになると思います。

色々と勘違いして、私もまだまだ迷い悩む日々ですが常に初心や原点を磨きながら、周囲の御蔭さまと有難さに感謝をして本当の自分に近づいていきたいと思います。

大家族主義の徳

互譲互助という言葉を知りました。これは出光創業者の出光佐三さんの遺した言葉です。日本人は、本来、お互いを尊重しあい譲り合う和の精神がありました。それが個人主義で失われていくのは違うのではないかと、さらに和の精神を磨こうと発信されました。

出光興産のホームページには「互譲互助」がこう紹介されています。

『個人主義は利己主義になって、自分さえ良ければいい、自分が金を儲ければ人はどうでもいい、人を搾取しても自分が儲ければいいということになっている。ところが本当の個人主義というのは、そうではなくてお互いに良くなるという個人主義でなければならない。それから自由主義はわがまま勝手をするということになってしまった。それに権利思想は、利己、わがままを主張するための手段として人権を主張する。この立派な個人主義、自由主義、権利思想というものが悪用されているのが今の時代で、行き詰っている。

それで私はよく会議で言うんだが、「お互いという傘をかぶせてみたまえ。個人主義も結構じゃないか。個人が立派に力強くなっておって、そしてお互いのために尽くすというのが、日本の無我無私の道徳の根源である。自由に働いて能率を上げて、お互いのために尽くすというならこれまた結構である。それから自分が人間としてしっかり権利をもって、お互いのために尽くすというなら結構だ。」と言うんです。互譲互助、無我無私、義理人情、犠牲とかはみんな「お互い」からでてきている。

大家族主義なんていうのも「お互い」からでてきている。
その「お互い」ということを世界が探しているということなんだ。』

本当の個人主義とは何か、それはお互いが善くなると定義されています。そもそも自今主義は利己主義でもなければわがままするものでもない。権利思想が悪用されているというのです。

私はこの権利思想というものは、人権を含め、お互いを尊重しあうという意味で人としてとても大切なことだと感じています。しかし今の使われている権利は、戦うため、争うための材料になってしまっています。

そこで本来の意味に回帰しようと「お互い様」という日本の精神を説きます。みんなで自立するのはいいことだと、そうやって自立してお互いのために支え合うのが日本人の生き方ではないかと。そのうえで、自分の権利を保っていこうではないかと。その道の先にこそ、みんながお互い様で生きていこうとする大家族としての地球があるのではないかと、私はそう仰っているように思います。

自分の国や自分のことだけ、そのために奪い合い争い合うというのは平和的ではありませんし自然の掟に反するものです。自然は、よく観察するとお互い様で成り立っており、みんなそれぞれが尊重しあうなかでお互いに譲り合って助け合って存在しています。

例えば、野菜でもそれを育て見守り喜んで一生を歩んでいく過程でその作物や食料として私たちは食べていくことができます。そして種をいただき、その種を育てていくことで共に生のパートナーとしてお互いを見守り合う関係で家族になります。

思いやりをもって歩んでいくことで、このお互い様がはじまりそこに譲り合いという知恵が生まれます。権利と勝ち負けではなく、尊重と譲り合いが世界をつくるのです。

時代が変わっていろいろと世の中も毒がたまってきています。毒を取り除くには、日頃から毒を出すかのように浄化し続けることが必要です。この出光佐三さんの大家族主義というのはまさに今の時代に求められている気がしています。

子どもたちの健やかな未来のためにもお互いというところをさらに突き詰め、徳積循環経済の仕組みに挑戦を続けていきたいと思います。

未来の可能性

未来の可能性というものは、今の自分の能力で推し量ることはできません。それは未来が予測できないことと似ています。今の自分が、今こうなっていることを40年前やもっと前に予測できたかといえばほとんど予測できていません。そこには数多くの奇跡やお導きがあり、今に結んでいます。

ビジョンというものは、方向性を決めるものですがこうなると未来が予測できるものではないように思います。しかし、そうなると未来を信じるのだからその信じるものを実現するために自分の能力を磨いていくのです。

そうやって人は成長し、進化していくものであろうと思います。

しかし、あまりにも高い理想や現実の世界の価値観とかけ離れたようなことに取り組もうとなると未来の可能性がどんどん小さく感じるものです。本当に実現するのか、実際には不可能ではないかと不安にもなるものです。

実際には、小さく感じても小さなことからコツコツと挑戦をし積み重ねて可能性を広げていきます。特に自然を相手にしてみるとわかりますが、思いどおりなどにはいかず、自分を謙虚に素直に改善していくしかありません。

そうやってコツコツと取り組んでいると暮らしが次第に変わってきます。日々の日常の中で、変化が出てきます。その変化こそ、未来の可能性ともいえるものです。

実践するというのは、日常の暮らしから変わっていくものです。

時間がかかっても、未来の可能性を信じて知恵を活かす新たな能力を磨いていきたいと思います。