非常食の知恵

災害や震災など非常時には非常食が必要になります。しかしその非常食は、今の便利な世の中の常食に対しての非常食ですから本来の非常食ではありません。むかしは、天候の変化や飢饉などで食べ物自体がないことがありました。その時は何を食べてうえをしのいだか、またどのような対策を立ててきたか。つまり非常食といっても、その定義が異なるように思います。

むかしの非常食とは保存食です。味噌をはじめ、干して乾燥したもの、漬物など常温で保存できるものをたくさん備蓄していました。緊急時の保存食は乾燥したもの、水を使わないもの、塩などです。昭和のころは、かんぱんなどが非常食になっていました。

実際に自然災害に被災すると、水もない火もないということがあります。そうなると先ほどのような乾燥したもの味噌、漬物など持ち運びできるもので栄養があるものとなります。しかし水と火があるのなら、温かいものを食べたいと思うのです。調理ができれば、それだけ心身が癒されます。食べるというのは、単に栄養素がありいのちが生き延びるものではありません。コンビニにあるようなゼリー状のものだったりレンジでチンする便利なものは心身が元氣になるようなものではないあくまでサプリとしての役割になるように思います。

私は日頃から、炭火を使い調理をすることが多くあります。またお水も井戸水や湧水を利用します。なので、素材を活かした調理ばかりをつくるので元氣が出るものばかりを食べているように思います。この元氣さというものは、いのちがあるものを食べるときに湧いてきます。

水がなければすべての生き物は生きていけませんが、同じく温かくなければすべての活動が止まってしまいます。この水や温度は私たちの心身の循環に大いに役立つものでそれを保っているままでいることで元氣も循環していきます。

未曽有の災害はこれからもますます増えていくように思います。人類が自然から離れるほどに未曽有の災害が増えるからです。危機に備えるというのは、むかしの知恵を活かすということです。

引き続き、子孫のためにも暮らしの中で先祖からの知恵を守り続けて伝承していきたいと思います。

恵まれている人生

思い返せば、私はずっと人に恵まれてきた人生を送ってこれたように思います。出会いやご縁を大切に生きてきた御蔭で、素晴らしい人たちの尊敬する部分、美点、魅力をたくさん体験して共感し学ぶことができました。人に興味を持ち、人の奥底にある役割や目的を丸ごと愛するように心がけてきました。

癖が強い人、こだわりがある人、あるいは繊細な人、器の大きい人、たくさんの人たちに出会っていく中で人間の魅力を感じて自分の糧にしてきました。似たところもあれば、まったく似ていないところもあったり不思議ですが関心はなくなりません。

人生の前半はずっと話すことに力を入れていましたが、後半からは聴くことに注力してきました。その御蔭で話を聴くうちに、周囲の人たちの存在がとても有難く感じるようになりました。人間はそれぞれに守るものがあり、それぞれの目的があります。時にはちぐはぐな人がいたり、またある時には思い込みで自分を見失っている人がいたりします。みんな何かに困っていたり、あるいは苦しんでいたりと、それぞれの悩みもあります。そういうことを丁寧に聴いて思いやりで接していく中で、その人のことが少し観えてきます。すると他人事ではなく自分のことのように感じて、取り組んでいくうちに気が付くと自分もあらゆることで助けられてきたように思います。

人間の不思議な関係は、「助け合い」をすることができるということです。助け合うことで、人生はとても恵み深いものになります。どうしても自分に余裕がなかったり自分が大変なときほど、自分でいっぱいになってしまうものです。

しかし恵まれてきたこと、今も恵まれていることに気づくことで周囲の有難さに気づいていくこともできるように思います。

この恵みというものの正体は、与えあう素晴らしさを実感できているということでしょう。むかしから奪い合えば足りず、与えあえば足りるという言葉もあります。与えるのが好きな人はそれだけ恵まれていることに感謝している人なのかもしれません。

豊かさもまた、その恵みを実感できる暮らしの中にあるものです。生き続き、感謝や徳を磨きながら日々の暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

生まれ変わる

意識というのは何回も生まれ変わるように思います。私たちが身体は、新陳代謝を通して細胞もその都度生まれ変わっています。死というものは、この細胞の生まれ変わりが次第に失われて消えていくことは科学的には証明されています。

不思議なことですが、細胞の合体によって私たちはいのちを繋ぎます。そして繋いで新たな生命が誕生しますが、同時に増え続けるものを今度は消滅させていく必要があります。バランスというものですが、それを保つために合体しては消えるという循環を自然は持っています。これはいつからそうなったのか、宇宙の一つの真理や原則なのでしょうがその御蔭で全体を結ばれ環境に適応していくことができます。

私たちのいる宇宙は、有為転変であり諸行無常です。合体するからこそ変化するのです。変化の正体は合体なのです。合体していくことを続けなければ存在することができない仕組みになっているのです。創造と破壊こそ、生きるということです。そのために、変化するのです。

ただこの変化や合体には、意識というものがついてきます。どういう意識でプロセスを経たかというのが、次の合体に結ばれていくからです。毎回、創造と破壊を繰り返してもゼロにリセットされているわけではありません。同じことは二度となく、形成する段階で毎回何かが変わります。それは傷のようなもので、時を刻むようなものです。そしてそれを癒し、それを忘れるという作業があります。

その行為を繰り返すことで、私たちは生きている実感というものを得られます。生きている感覚、いわばこの感覚を味わうことで役目を理解して役割に仕合せを感じるのです。

細胞もまた同様に、日々に生まれ変わることによって仕合せを感じます。健康というものの本質もまた然りでしょう。そして同様に意識も変わります。意識は特に時間や歴史によって変化していきます。変化の中にいることを忘れなければ細胞は調っていきます。意識が調っていれば、人類はバランスを崩すことはありません。健康であるためには、自然や宇宙の変化にあわせて自分たちも意識を変え続けていくことだろうと私は思います。

自分の中にある宇宙、つまり意識を調えることが大きな目で観ると人類にも地球にもすべてにも大切なことはわかります。丁寧に自分自身を調えて暮らしを実践し、新陳代謝と生まれ変わりを味わっていきたいと思います。

やり遂げる知恵

私たちが限られた寿命の中で、今を味わい今を生きています。その中で何をやり遂げたのかを顧みると、続けてきたこと、続いてきたことがその結果になっていることがわかります。

例えば、呼吸などわかりやすく私たちは呼吸を継続することで生きています。呼吸が止まれば活動はそこで終わります。生きているというのは、呼吸をすることです。呼吸をし続けることで活動もまたし続けています。こうやって続くものの中に、私たちのやり遂げたいことがあるということです。

人生の中では、やり遂げるものの格言がたくさんあります。やり遂げたものの一つとして成功というものがあります。そして成功と失敗の境界線は諦めたか諦めなかったかに尽きるということもよくわかります。

せっかくなので、その格言をいくつか調べてみます。

「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。」  福沢諭吉

「他の発明家の弱点は、ほんの一つか二つの実験でやめてしまうことだ。わたしは自分が求めるものを手に入れるまで決してあきらめない。」 トーマスエジソン

「成功の可能性は0%だと言われて、諦めることができるような、そんな軽い気持ちで夢を追いかけたわけじゃないのです。」 ジネディーヌ・ジダン

他にもたくさんの方々が諦めずにやり遂げることの大切さを語ります。諦めないというのは、何を諦めていないのか。それは自分の信じることを諦めないということです。自分の信じるとは、自分が已むに已まれずにそうしたいと思うことを続けることです。

何度も心が折れそうになっても、不撓不屈でまた挑戦する。そこにやり遂げるための本質があるように思います。変化というものは、やり遂げるために必要なものです。

諦めないからこそ、ありとあらゆる変化を利用して挑戦する。昨年が苦労や苦難が多かったからこそ、今年は様々なことに挑戦して引き続きやり遂げていきたいと思います。

立春と素直な心

春のはじまりを告げる、そして冬のおわりを告げる節目です。立春の「立」には季節の始まりという意味があり、「春の気立つをもって也」ともいわれます。春の気配がはじまったということでしょう。

そうやって周囲を見渡すと、池のほとりの様子や植物や木々の蕾や新芽、また動物たちの行動や鳴き声などが変化が著しくはじまっています。

この時期は大寒といって一年で最も寒い季節ですが、この時期の空気や水が澄み渡っていることからこの時期に発酵食品などをむかしから仕込んできたともいいます。太陽を観察しながら日々を過ごしていると、この季節の太陽の光の清々しさは言葉にはならないほどです。

特に雲一つない薄碧い空の光や、夕陽の河に反射して眩い光、また夜空に照らす月の透明さ、どれもがこの寒い季節だからこその澄み渡った気配があります。寒さは厳しいですが、その分、いのちは研ぎ澄まされて感覚も鋭敏になっていきます。

感覚が鋭敏だからこそ、この時に仕込みたいものがたくさんあります。これからの夢や希望、そして昨年からの改善、あるいは覚悟を確認して決心することなどとても心地よいスタートがきれます。

昨日は鏡開きもして、道が開いていくことの目出度さ、豊かさや感謝などを味わいました。五穀豊穣というものがある御蔭で私たちは暮らしを味わうことができます。恵みに感謝することや、いつも助けてくださっている御蔭様を祈ることは仕合せを確認することにとても意味があります。

立春といえば、西行にこういう歌が残っています。

「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢」

私も残りの寿命を思いながら昨日は眠りました。朝起きてみると、すでに夢が叶っていることを思い感謝が沁みました。春とはまさに今ここに味わう素直な心。いつまでも素直な心のままに原点回帰して日々を大切に過ごしていきたいと思います。

強く優しく寄り添うこと

正月の能登半島地震の知らせから被災地のことを思っています。同じように同じ国で正月を過ごしても、場所によっては大変な出来事に遭遇しそれまでのあたり前が完全に破壊されることがあることに改めて他人事には思えませんでした。

特に私たちの暮らす日本列島は、地震や火山、そして台風や洪水など自然災害が最も世界でも多い国です自然への畏敬を忘れて謙虚さを失った頃に、自然から畏敬を忘れるなと警告されるかのように災害が次々に発生します。

私は東日本大震災の時に、津波や原発事故の犠牲者を追悼するときに心にとても大きな衝撃を受けてこのままではいけないとそこから様々な生き方と暮らし方をずっと改善してきました。その後に新型コロナウイルスの感染症が流行り、ブレずに着々と地道に子孫のために必要なことを譲り遺していくために「徳」を大黒柱にして取り組んできました。

具体的には古いものを磨き直して甦生して知恵を伝承する仕組みや場を醸成したり、新しいテクノロジーを使って古くから連綿と大切に守られてきた自然循環を可視化したり、かつて当たり前であった自然の恩恵に対して徳を積むことを主軸に、金銭面などの周囲の心配などをよそに邁進してきました。

現在、日本人は世界でも自分のことしか考えない人が増えているといわれているといいます。心の冷たい人が増えたというのは、それだけ心の余裕が消えるような現代や教育の環境の影響を受けたともいえます。みんな時間に追われて、当たり前であったことを見失ってしまっているようにも思います。

しかし、地震などの自然災害で大変な思いをなさっている方々を観るとき離れている私たちには何ができるのかを真摯に向き合うと無力さを感じながらもこの当たり前だったことをもう一度見直し、感謝して暮らしを調えていくことではないかと私はいつも思います。

元々、私の取り組んでいる「暮らしフルネス」もまた東日本大震災の犠牲者の方々の死を決して忘れないと取り組んできたものです。人間中心の飼育された社会のなかで、感性を鈍らせない、野生を忘れない、本能で生きることを大事にすること。そして、先人たちの思いやりや遺徳、知恵を真摯に伝承すること。未来の子孫のためにも、自分たちが暮らしを通して道をきちんと結んでいくこと。これらのことを実践するために起こした事業が暮らしフルネスの本懐です。

私の言う事業の定義とは金もうけのことをいうのではなく、徳を積むことをいいます。利益というものは、本来は子どもたちのものでいいのです。尊敬する先人たちの事業で今でも遺っている素晴らしいものはすべて子孫のために実践されてきたものです。

自然は、平等に人々に災害を与えてくれます。だからこそ、自分の代わりに被災してくださった人たちのためにも自分が何を変えるのかを真摯に考えて生き方を見直していくことがその恩に報いることになると私は思います。

もちろん緊急性のある支援はできることをよく吟味してすぐに行動できるものはやることだと思います。しかし長い目で観て、数年、数十年、数百年先に何がもっとも被災地の子どもたちのためになるのかなどを思うとやはり自分の生き方を変えることだと感じます。

引き続き、私は悲しみに寄り添いながら初心を忘れずに暮らしフルネスの実践と伝道を強く優しく寄り添いながら続けていきたいと思います。

親友の仕合せ

幼馴染がはじめて家族と一緒に聴福庵に来てくれました。小学校5年生の時からの友人で色々なことを星を観ながら毎晩のように語り合った仲です。転校してきたのですが最初からとても気が合い、お互いにタイプも異なることもありとても尊敬していました。

音楽が好きでアコースティックギターを弾き、また工作が好きで半田鏝を使い近くのパチンコ屋さんの廃材で色々なものをつくっていました。他にもパソコンが得意でプログラムなどもかいていました。私はどちらかというと野生児のように自然派でしたからとても理知的で新鮮でした。

中学では同じ部活に入り、レギュラーを競いバンドを組んでは一緒にライブなどを行っていました。塾も一緒で成績でも競い、その御蔭で勉強もできるようになりました。思い返せば、尊敬しあい好敵手という関係だったように思います。

高校卒業後は、私は中国に留学し彼は岡山の大学に行きました。そして社会人になって一緒に起業をして今の会社を立ち上げる頃にまた合流しました。毎日、寝る時間を惜しみ休みもなく働き努力して会社を軌道に乗せました。私の右腕であり、苦楽を共にするパートナーでした。しかし、その後、お互いに頑張りすぎたり結婚をはじめ色々な新しいご縁が出てきてメンタルの不調や社員間の人間関係の問題、過去のトラウマや祖父母の死別など様々な理由が見事に重なり別れることになりました。

そこからは孤独に新たな道をそれぞれに歩むことになりました。もっとも辛い時に、お互いにそれぞれで乗り越えなければならないという苦しみは忘れることはありません。あれから20年ぶりにお互いの親友の通夜で再会してまた語り合うことができています。

離れてみて再会してわかることは、その空白の20年のことを何も知らないということです。当たり前のことを言っているように思いますが、その間にお互いに何があったのか、伝えようにも関係者や周囲がお互いの知らない人ばかりになっていてどこか他所の他人の話になります。私たちの知り合いは20年前に止まったままでその頃の人たちももうほとんど今ではあまり連絡を取っていません。

人のご縁というのは、一緒にいることで折り重なり記憶を共にするものです。同じ空間を持つ関係というのは、同じ記憶を綴り続けている関係ということです。喜怒哀楽、苦楽を共にするときお互いのことが理解しあい存在が深まるからです。

今では、親友は新しい家族を築き子どもたちも健やかで素敵な奥さんとも結ばれて仕合せそうでした。20年たって、一番嬉しかったのは彼が今、仕合せであることでした。

そう思うと、最も自分が望んでいるものが何かということに気づかされました。私が一番望むのは、私に出会った人たちがその後に仕合せになっていくことです。だからこそ、真心を籠めて一期一会に自分を尽力していきたいと思うのです。

いつまでも一緒にいる関係とは、仕合せを与えあう関係でありたいと思うことかもしれません。親友との再会は、心が安心し嬉しさで満たされました。苦労の末に掴んだ彼の仕合せに感謝と誇りに思いました。

善い一年のはじまりになりました、ご縁に心から感謝しています。

循環の宇宙で

今年を振り返ってみると幼馴染の親友との死別が一番の出来事でした。今でも時間差で思い出しては心にふと空白が宿りますが彼の存在の有難さに感謝することが増えました。私たちは本来、「存在」によって心を支えているものです。大事なものは、何か自分にとっての用が足せたり能力が便利だからというもので感じているのではありません。自分が何かをするときに助けてもらえる、或いはわかってくれているという心の繋がりや関係によって深いところの自分を支えられているものです。

その本体は一体何なのか、これは愛ともいい慈悲ともいいます。私たちはご縁によって出会い喜びがあり、別れによって悲しみが来ます。他にも出会いによって感動があり、別れによって激動もあります。どちらにせよ、私たちはその苦楽の苦という感情と結ばれそのことによって悲喜こもごもな執着や感情が入り混じります。

しかしこの入り混じる感情が人生の旅路のなかではとても大切な記憶になり、私たちに人間らしさや生きている実感を与えます。過ぎ去っていく日々の中で、記憶だけは蓄積していきその記憶と共に自分という存在がまた新しくなります。それが生きているということで循環しているということです。

私たちはこの記憶というものの真実を知り、記憶こそが自分を生きていることに気づくものです。その記憶は永遠にもなり、また同時に新しくもなります。だからこそ、私たちは変化に対して止まっていることはできず前に進むしかありません。

変化とはある人は、捨てていくことといい、またある人は、執着しないこと、またある人は受けたもうとすること、それぞれに言い方があります。しかしそのどれもはすべて、「歩みを止めるな」というメッセージを帯びているのはわかります。だからこそその感情を敢えて手放すというのは、常に変化を已めるなということを意味するからでしょう。

止まることのない循環の宇宙のなかでいつまでも私たちは巡り会いまた結ばれます。

それが生命の神秘であり、記憶の真実です。

この一年は、私にとっては「忍耐」の年でした。忍耐とは、これでいいと信じぬくための努力であり、それでいいと思えるように取り組み続ける己磨きの精進でした。年末は骨折をして思うように生活ができなくなり、体の不調が次々と湧き出てきました。ここ数年の頑張りすぎたことが疲れとして出てきたのかもしれません。蓄積した疲労が回復するまで安静にせよとの天の声も入っているように思います。

直観を信じてここまで来ましたが、天命はいつも自分の都合とは別のタイミングで降りてきます。龍の水を得るかの如くになるには、まだまだ時間がかかりそうです。臥龍のままに澄んだ水に光を浴びて呑気に気楽に極楽のような場を醸成して、忘れた頃にやってくるような安心立命を歩みたいものです。

孔子、五十にして天命を知るとありますが先達を見倣い、人間らしく愉快痛快に歩んでいきたいと思います。本年も、本当にお世話になりました。来年が皆様にとって一期一会の青春多き美しい一年になることを祈念しています。

ありがとうございました。

本来の事業

昨日は、故郷の庄内中学校の生徒たちの有志が集まり鳥羽池のお手入れを行いました。具体的にはゴミ拾いや廃棄物の回収ですが一年でまたここまで溜まるのかというほどのゴミが溢れていました。生徒たちは明るくなんでこんなものを捨てるのだろうかと口々に話しながら清々しく片付けてくれて本当に有難い気持ちになりました。

ゴミの中には、かなりの大きさのものも多くよくこんなものをと思うほどの粗大ゴミもありました。私はもともと古民家甦生をはじめ、お山の周辺のお手入れもやっていますからゴミは慣れています。それにゴミをよく見つめることも多く、それが綺麗に片付いている景色も見慣れていますからそこまでの抵抗はありません。しかし子どもたちが誰かが捨てたゴミを真摯に片づけているのを見るとありがたい気持ちが先に出ますが同時にいたたまれない恥ずかしい気持ちも出てきます。

大人たちがやってきたことがゴミとして発生します。池をはじめ自然は黙ってすべてを受け容れてくれていますがそこには魚や鳥たちをはじめ様々な生態系が存在しています。なぜこんなものを生み出してしまうのか、そしてなぜゴミになってしまうのか、そこに今の人類が追い求めている価値を感じます。

2時間ほどみんなでお手入れしたあと、集まって少しお話をしました。

一つは、捨てた人がただ悪いではなくこのゴミを観てこれをつくったものづくりに関わる人たちは何を思うだろうかという話をしました。二つ目は、ゴミ拾いのメリットとして自分を磨くことの大切さ、観える世界が変わることで自分が変わることを話しました。三つ目は、故郷と繋がり結ばれる感覚、池が喜んでいることや故郷が善くなっていくことなども話しました。また桜の時期になると美しい景色があること、改めてみんなで取り組めたことに感謝しました。

今回のお手入れを一人でやったら3か月近くかかります。それを大勢いで取り組むから一日で終わります。自分たちの故郷の大切な場所を、みんなで守っていこうとする心に故郷の徳がますます醸成されていくのです。

子どもたちが取り組むことは小さな一歩ではありますが、大きな未来がある一歩です。

本来の事業というものはどういうものか、それは単に利益や売り上げが上がることや経済活動が拡大することや雇用が促進され税金が集まることなどではありません。むかしの日本の先人たちが行った事業とは、「子孫のために何を遺せるか」というものが本来の事業であったのです。今では名事業家と呼ばれる人たちは、効率的にお金儲けが上手い賢い人たちの代名詞になっています。しかし実際の事業家とは、徳を積む人たちの代名詞であったはずです。

時代が変われば価値観も変わり、言葉の表した意味も変わります。しかし時代が変わっても徳は変わらずいつまでも燦然と輝き、道をまた探り歩けば光が当たるものです。

引き続き、故郷の徳に見守られながら丹誠を籠めて事業に取り組んでいきたいと思います。

当たり前を拝む暮らし

昨日は、朝から会社の仲間たちと一年を振り返り昼からは結の方々と共に暮らしの中で冬至の時間を過ごしました。また夕方からは祐徳石風呂サウナに入り音楽を味わい直来で備長炭で煮込んだおでんを食べ団欒しました。みんなで持ち寄った「ん」のつく食べ物を発表したり、昨年のことを思い出してみんなで語り合い、来年の予祝をしておめでとうをし運気を上昇させました。

私は、何かのイベントのように物事を行うのが苦手であまり好きではありません。刹那的なものは何か人間の作為的なものを感じてしまいます。もちろん、好き嫌いというだけで悪いことではないので時折それもありますが苦手ということです。

例えば、昨日は冬至で日の入りをみんなで眺めて拝みました。奇跡的に日の入りの瞬間に冬の厚い雲の間から差し込んできた神々しい光に包まれました。お祈りをして法螺貝を奉納したあとさらに光が増し振り返ると一緒に拝んでいる友人たちの顔が光で真っ白になっていました。その神々しさにまた拝みたくなり感謝しました。

私たちは何かを拝もうとするとき、何かの建物越しに拝んだり、あるいは石像やあるいはお経などを通して祈ろうとします。しかし、本来の神々しいものはもっと自然的なものやいつもある当たり前の存在にたいして拝んだ方が深い感動や多幸感が得られるものです。

これは自然であり、人為的ではなく作為もないからです。

古来より私たちの先祖は、自然に太陽や月や水や空気、星空をはじめあらゆる存在の偉大さに気づく感受性を持っていました。だからこそ、当たり前の中に足るを知り真の豊かさや喜びを味わっていたのです。

何かと比較することもなく、何かに勝ち負けもなく、効率や効果なども一切とらわれない、ただそこにあるものに感動していたのではないかと私は思います。

その証拠に、私たちの感受性の中には自然を美しいと感じる調和の心が具わり、同時に五感や六感というような感覚が反応するからです。人間の脳みそで構成された世界ではなく、本来の自然として刷り込みも囚われもない赤子のような心があるのです。

そしてその感性や調和を優先して生きることが、本物の暮らしであり私たちがこの世で許されたいのちの尊厳でもあります。

自然を尊重する生き方は、余計なことをなるべくしないという生き方でもあります。それはあるものを観ては、足るを知り、真の豊かさを謳歌するという一期一会の日々を生きるということでしょう。

子孫のためにどのような暮らしを遺していけるか、そして今にその暮らしをどう甦生して伝承を続けていくか、遠大な理想にむけて日々は小さな暮らしの連続です。この日を大切にして、次回の立春に向けて暮らしを調えていきたいと思います。