なぜ学ぶのか?

以前、大河ドラマの「花燃ゆ」の中で吉田松陰の言葉として紹介した一文があります。それは何のために学ぶのかの一説です。

「人はなぜ学ぶのか 知識を得るためでも 職を得るためでも 出世のためでもない。 人にものを教えるためでも 人から尊敬されるためでもない。 己を磨くために学ぶのだ。」と。

それに対して、小田村伊之助が「人はなぜ学ぶのか お役につくためでも 与えられた役割をはたすためでもない。 かりそめの安泰に満足し 身の程にわきまえ この無知で世間知らずで 何の役にも立たぬ己のままで生きることなど御免です。」と語っていました。

現代の学校では「なぜ学ぶのか」という学問するための大前提について語り合うことがありません。一般的には受験をするためやいい就職をするためなど、その本質を突き詰めるまで「学ぶ」ということについて深めることが少ないように思います。そのまま大人になると、勉強する理由は出世のためや仕事のためなど多様化していきます。しかしその本質は本来は一つであるのは明白です。

松下村塾では、吉田松陰が塾生たちと共にまず何のために学ぶのかという問答がなされたといいます。

それぞれの塾生たちに問い、その答えを聴き、それぞれの学ぶ理由を語ります。それもあるとそれぞれの理由を褒めたたえます。しかし吉田松陰は「学べない人たちのために学ぶのだ」と諭します。そしてこうも続きます。

「学は人たる所以を学ぶなり」

今の言葉にすれば、「学ぶとは、人の生き方を学ぶことである」というのでしょう。

学べない人たちのためにも学ぶといのは、私にすれば生き方を変える機会がない人たちのためにも私たちがまず生き方を変えていこうとし、学問の本懐は「生き方」を磨き、生き方を貫くことにあるといったと私は思うのです。

私も、暮らしフルネスといって生き方を世の中に示しますがこれは学問の本懐でもあります。先人たちは、生き方を遺し、それを働き方にまで昇華してきました。それを正しく受け継ぎ、新しい生き方として磨き続けるのは今を生ききるものたちの学問への姿勢と覚悟です。

学ぶということがズレてきた現代において、何のために学ぶのかというはじまりの問は何よりも大切な示唆を与えてくれるように思います。150年経とうが少しも色あせない吉田松陰の生き方は私のお手本であり、励みです。

子どもたちのために本物の学問のための「場道」を実践していきたいと思います。

徳を磨く場

昨日は御蔭様でBAを無事に開校することができました。多くの方々が遠方からお越しいただき、たくさんの裏方で支援してくださった方々の見守りを感じながら新たな時代の節目を迎えられることに喜びと感謝の気持ちで満たされました。

準備に際し、みんなで家を磨いていきました。清掃はもとより、蜜蝋などを使い建具や家具、そして火鉢や竈、さらには床板から柱にいたるまで体がへとへとになるほどに磨き上げました。

私たちが取り扱っているものは「徳」であり、徳は磨けば出てきます。磨かない時代は徳があまり出てきません。しかしこの徳があってはじめ道があり、道は徳によって顕現しますから徳が観えない時代は道に迷う人が増えてきます。

人間の完成とは何か。

それは徳を磨き、人格を高めることです。

なぜならそれが魂を昇華させ、一期一会のご縁を生ききりいのちを精いっぱい咲かせることになり、まさに天神合一、神人合一の澄み切った純粋なものに近づくからです。

私たちは自然の一部でありながら、自然を科学し、自然を深く理解しようとしてきました。縄文時代をはじめ、私たちの先祖は永い時間、悠久の時間、暮らしを通してこの世の中でやさしさと思いやりを磨き、素晴らしい人格を高めるために支え合い、信じあい、助け合い社會を形成してきました。

現代は、まさに過渡期であり価値観をもう一度見直す重大な局面を迎えています。それぞれの個人が家になり、家が組織になり、組織が大きくなり国家となっていく。その国家が醜い争いをするのは、言い換えれば国家から個人までの生き方や暮らし方が歪んだからだとも言えます。

論語の大学に、「修身斉家治国平天下」とあります。

孔子がもしも今生きていたら、きっと一人一人の中に、徳を磨くことを諭し自らも実践していくことが天下国家の道であると示すように思います。環境問題も社会問題もすべては人間の問題です。人間を深く愛するからこそ、私は人類の保育に携わり、人生をその道に捧げています。

新たな夜明けを味わいながら、太陽と共に歩み、世界に一石を投じていきたいと思います。

時代の分水嶺

私たちの地球は太陽のめぐりと共に生きています。太陽の周りを周回しながら、自転を繰り返し、適切な距離感を維持しながら果てしない時間を共にして銀河の中を歩んでいます。

太陽がなければ私たちは生きていくことはできません。太陽のいのちの熱によってすべての生命は育まれ、また日の光によってあらゆる自然は活かされます。

太陽の徳は偉大であり、その恩は広大無辺です。

むかしの人々は、その太陽の徳を感じながら生きてきました。世界中の文化には太陽を拝む信仰が溢れています。私たちの神道もまた太陽神をお祀りしています。日々に朝に太陽を浴びることは、いのちを目覚めさせることです。

太陽の光は、私たちの感覚の最も奥の深いところに届きいのちを目覚めさせます。「夜明け」というものの価値は、太陽が出てくることを観ればわかります。

日本の神話にも、日本がかつて暗闇に包まれたとき天の岩戸から天照大神が出現して世の中に和来と明るさが訪れました。

神話は単にあった出来事を遺しているのではありません。生き方としてどうあるべきかということを子孫へ智慧を伝承するために口伝するのです。太陽の徳を忘れずに、いのちの深い目覚めを生きなさいというメッセージでしょう。

声なき声を聴く力は、いのちの目覚めが必要です。目先の現象ばかりをみて宇宙を感じないような生き方を已め、宇宙全体のハタラキと地球や自然のいのちの呼応、そして自分自身の五感の甦生がいのちの目覚めを促します。

それは宗教でもなく、精神世界でもなく、まさに「場」の中にこそ宿るのです。

いよいよBAの開校ですが、世界を易える分水嶺の役割を果たしたいと思います。

場道

いよいよ明日BAの開校で、最終準備に入っています。色々な方々が関わってくれて、一つのことが実現していくという事実を省みると本当に有難いことだと感じます。

むかしもきっと、思いや目的に合わせて力を貸してくれる専門家たちが集まりみんなで和気あいあいと力を合わせていたように思います。

以前、最後の宮大工の西岡棟梁が著書の中で法隆寺を建立した工員たちの関わった木や瓦や釘から観察するととても丁寧に心を籠めて美しい仕事の跡が遺っていたとありました。

これは建立の目的が明確にあり、その目的に対してみんなが理解し力を合わせてくれた証拠だと思います。後世のためにという仕事や、子孫のためにという仕事、崇高な理念のための仕事には「徳」があります。

その徳を磨き、高める生き方は後世の人たちの模範になります。

なぜ法隆寺が、憧れられるのか。それは飛鳥の頃の人たちの精神性の高さ、人々の心の美しさ、好奇心旺盛で無邪気な子どものような純粋な魂に惹かれるからでしょう。

子どもは正直で、大人たちが楽しそうに遊ぶように人生を充実しながらいのちを働かせている姿を観て自分もそうなりたいと思うようになるように思います。それを「憧れ」として大人になっていくのです。

大人になるというのは、単に年齢や経験を積み重ねていくことではありません。大人になるとは、憧れる大人になるために人格を磨き、自分を高めて徳を積んでいくことです。

大人の定義が、崩れてしまっている現代において真の教育とは何か、そして本来、人類は何をすることが仕合せだったったのかをもう一度、見つめ直す必要性も感じます。

そしてそれには「場」と伝承する「道」が必要であるというのは私が出した結論なのです。それを「場道」として新たに復古起新していこうと思います。

まずは始まりの合図を上げるために、一陽来復の明日の吉日に目覚めの太陽のお力をお借りしてご縁を弘めてみたいと思います。

大切なご縁

すべての生き物がつながりがあるように、私たちは無生物のものとも関係によってつながっています。そして時代を超えて、場所を超えて、あらゆるものを超えて私たちは繋がりの中の一つとして存在しています。

これを「ご縁」といいます。

ご縁というものは、目には見えないものですがそれが複雑につながっていて今の私たちと常に関係を持っています。そのご縁を一つ一つ結んで大切につながりを持つように私たちは生き、その結び方が美しいほどにつながりも味わい深いものになっていきます。

まるで人生は、ご縁を結び続けていきそして同時にご縁をほどき続けていくようなもののように感じます。終わりがあるわけでもなく始まりがあるわけでもなく、結ばれ続けるご縁を解き開き、そしてまた結ぶという繰り返しを永遠に行うかのようです。

時には立場が逆転することもあり、またある時は同じ立場であることもあり、それぞれのつながり方が人生の中で何度も交錯していきます。気がついたらだいぶ懐かしいものになっていたり、すぐそばに来ていたりとご縁はまるでいつもそこに最初からいたように振る舞うものです。

いのちは一億年前の記憶とでもご縁によって甦りますし、同時に一億年後を予測してご縁は遡ることもできます。これを仏教では因果応報ともいうのでしょうが、本来の因果は永遠のことを意味するように私は思います。

だからこそご縁は何よりも大切なのです。この「大切」という言葉の語源は、「大いに迫る」と書き「物事が切迫する」といった意味から「捨ててはおけないこと」になり、今は守りたいものとか重要なものになりました。

美しい思い出をもったご縁は次の新しいご縁に向かって花開きます。だからこそ本当に大切にするものはこの「ご縁」であるということでしょう。ご縁を大切にするために、すべての出会いを「美しい」と感じ磨いていくことがご縁をひらくことになると私は信じています。

色々なご縁を味わいながら、美しい思い出を紡いでいきたいと思います。

徳の創生

先日、ある人との話で「公平」について考える機会がありました。行政や学校などはなんでも公平にしなければならないということで、実際には不公平なことが発生していて問題になっていることも多いように思います。

以前、ブログで平等の話をかきましたがこの公平もまた似たようなものです。平等の時は、与え手側の平等は受け手側にとっては不平等であることを書きましたが結局はこの公平も同じく与えて側の公平は受け手にとっては不公平になるのです。

現在の米中の貿易戦争などもそうですが、米国ファーストで考えれば貿易の公平という言葉は米国にとっての公平であってそれ以外の国にとっては不公平です。権力を持っている側が、公平にというものを実現するには私利私欲のない公明正大な意識が必要です。

しかしそれが制度や仕組みに頼っていたらそのうち、ルールを守ることが公平であると勘違いされていきます。ルールはいくらでも悪用されますから、使い手次第によってはまったく不公平に用いられていくのです。

本来、この公平や平等という言葉は前提に「思いやり」があってそれを客観的に表現するときに使われるものです。相手を自分だと思ったときに、みんなが安心して仕合せに暮らしていけるようにと配慮していくときに出てくる言葉です。

誰かが一方的に押し付けてくる公平さや平等さは、思いやりではなくルールや仕組みを優先して自分で考えることをやめてしまうときに用いられているのです。

中国の書、「礼記」にこういう言葉があります。

「天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし。」

これは天は万物を覆って、特定の個人のみを覆うようなことはせず、地は万物を載せ、一人のみを載せることはしない、日月は公平に万物を照らし偏ることがない。天地日月はすべてに公平無私であるという言葉です。

これは君子の徳のところで出てくる話です。

孔子の弟子の子夏が「夏の禹王、殷の湯王、周の武王の三王の徳は、天地が万物を生成していく仕事に参加できるほど高いものであったといいますがその徳がどのようであれば天地の事業に参加することができるのでしょうか、お教えください」尋ねました、それに応じて孔子は「その徳は”三無私”を旨として天下のために働くことである」といいました。具体的には、「天に私覆がなく、地に私載がなく、日月に私照がない」この三つの無私を模範とすることだと。

果たして、「公平」であることを語る側が本当にこの三無私の実践をしているのか。それとも行政という立場だからや、法律だからとその仕組みだけそれ無私風にしているだけか、この小さな積み重ねが徳を積むのかどうかにかかってくるように私は思います。

徳を積む人たちは、無私の境地に近い方ばかりです。そういう人たちを、立場や権力る人たちの公平や平等を押し付けられることでその徳が働きにくくなってくるように私は思います。

徳が働きにくいというのは、「機会」や「挑戦」ができずらい環境になっているということです。せっかく新しいことを創生しようとするのなら、平等に公平に与えるべきは挑戦する機会であることは自明の理でしょう。ご縁があるからこそ、私たちはそのつながりによって発展し成長していきます。

それを徳とするのなら、国造りとは徳の創生であることは間違いありません。引き続き、私自身の挑戦から徳積の国造りに挑戦していきたいと思います。

BAのはじまり

今年の冬至は12月22日になります。この日にBAを開校することになりますが、なぜこの日にしたのかというのには理由があります。

冬至の日は、北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり日照時間が最も短くなる日でもあります。つまりこの日がもっとも暗い日であり、その日を境に1年で日が長くなり明るくなっていくということです。

この日は古来より「太陽が生まれ変わる日」とされ世界各地で冬至の祝祭が盛大に行われていたという重要な日とされてきました。

私たちは本来、太陽と共に目覚め、太陽と共に生きます。目覚めるというのは、暗闇から目覚めるという意味でもあります。太陽が自然を照らし、その自然の実相から私たちは真実に気づき生まれ変わるのです。

それに対して、旧正月、節分というものがあります。これは二十四節季の「節」でもわかるように季節の始まりの日です。この日から立春となり、四季が廻るとされてきました。

しかし私は本来は、そうではなく「冬」こそがいのちの四季のスタートであると思っています。それは種になるからです。いのちは種で終わり、種ではじまります。その種を育むのは冬です。冬至というのは、種であることであり、種から目覚めるという意味でもあります。

今回のBAの「A」は、Awakening(目覚め)の文字です。

私たちはもっとも深く暗い世の中から目覚め、気づき、そしてまた平和で健やかな明るい世の中に易えていくということ。その祈りを籠めて、この日としています。

「場道」は、私たちの生き方を見つめる大切な機会になると信じています。

子どもたちに先人からの叡智が伝承していけるように、逆行小舟を楽しんでいきたいと思います。

場を磨く

人間は、どうしても他と比較したり他人の評価を気にするものです。そもそも何のためにということをいくら決めていたとしても、そういう他人の目に晒されているうちに自分の初心を忘れてしまうものです。

何のためということがあれば、その人の本当にやろうとしていることにつながるためそこに迷いが消えていきます。逆を言えば、人は目的を忘れることを迷うといっているのであり目的を大事に初心を忘れなければ迷うことはないということです。

吉田松陰にこのような言葉が遺っています。

「小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である。人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。心懐爽快ならば人間やつれることはない。」

この爽快であるというのは、迷いがないこと。悔いのない生き方、成長する生き方を優先している人だからこそやつれるようなことがないということです。

どんなことも初心を忘れなければそれは成長の糧になり、学びの意味につながるのです。まさに一度きりの人生、どんな時も明るく朗らかにいのちを燃やしていくのが人生の意味につながります。

思えば私は17歳のころからずっと吉田松陰の書に薫陶を受けてきました。松陰神社に行けば、一つ必ずインスピレーションをいただきそれを学びの目標にしてきました。何か事を成そうとするとき、心の支えの中にはこの吉田松陰の言葉があります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」

BAの開校に向けて、私は覚悟を磨く決心をしています。そしてそれは遺志を継ぐ思いからです。最後にこの言葉で締めくくります。

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

ハタラキを守り、ハタラキを弘め、子どもたちの未来のために世界の方向性を易えていくために場を磨いていきたいと思います。

循環の幸福

私たちは死んだら必ず土に還ります。いのちは地球から出てきて、私たちは地球のものを食べ、いのちを分けてもらいながらこの地上で役割を果たしていきます。そのいのちを充実させていくことを暮らしといい、死ぬと墓とかくようにいのちは地球の内部をまた循環していきます。

それなのに、この人類はこの地上を農薬などの科学物質で汚し穢し舗装をしては呼吸をできなくしていきます。温暖化というのは目くらましで、本来は地球の循環を止めていくことで人類が好き勝手にできる領域を増やしていくのがグローバリゼーションの本質なのでしょう。

人類の仮想空間とは、自然から乖離した人類だけが中心になり存在する世界を築くことです。今のAIの台頭もまた、進化により過渡期に入ったということでしょう。仮想の生命は電気がなくならない限り死ぬこともなく永遠ですから、これでついに人類の夢がひとつ叶ったと言えるでしょう。

しかしです、そこにいのちはありませんし循環することもありません。私たちは、仮想世界の密度が上がっていくことと同時に「いのち」の存在をはっきりと自覚するようになっていきます。それは人間には死があるからです。

地球の中で循環することは、私たちに本当の永遠をもたらしてくれます。それはその時々の深い人生の味わいを感じることができるからです。これらの感じる力は、いのちの充実によって行われます。

そしていのちが充実するのなら、そこには必ず循環の幸福があります。

いくら化学が進んでも、いくら文明が究極的なレベルに高まっても決していのちが充たされることはありません。そして必ず最期はその循環の幸福を求めるはずです。

自分たちが一体、どのような存在であったのか、知識量が膨大に増え頭がこれだけよくなった時代なのだから少し考えればわかるはずです。

子どもたちに循環の幸福が伝承できるように、暮らしフルネスを場で弘めていきたいと思います。

徳を積む人たち

最近、「徳」のことを聴かれ徳の話をすることが増えてきました。しかしこの「徳」という言葉、本来もっとも日本人に親しまれ日本で当たり前にあったものであるのは歴史を鑑みればわかります。

それが現代になり、「徳」という言葉をあまり耳にすることなく、字も書けない人が増えているといいます。それはなぜかということです。

これは私の洞察ですが、一つには自然から離れたからということ。その自然とは、単に人工都市か自然かということではなく、人間の思い通りにして自然を尊重することから離れたということです。

そしてもう一つには、先祖や先人の恩恵や真心に感謝する機会が失われたということ。これは単に、仏壇があるとか顕彰しなくなったということではなく、その先人からのつながりに感謝することをやめて目に見えるものばかりを信じるようになったことです。

またもう一つは、伝統文化という先人の智慧がプツリと切れたということ。これは単に伝統文化に興味がなくなったということではなく、新しく便利なものが価値があると信じて古いものは価値がないと捨てていくようになったことです。古いものは、何世代もかけて一生をつぎ込み実験実証をして子孫たちによりよいものを渡していこうと努力したいのちのリレーで出来上がっています。そのバトンを受け取らず、個人主義の名のもとに個人の人生を優先し、連綿とつながり人生を切ったことです。

実際には他にも大小はありますが、「徳」が観えなくなった背景にはこれらのような文化消滅の仕掛けが働いているようにも思います。文化がない国が、文化のある国を毀す、不易と流行は時代の常ですがまさかここまでかとその破壊力に驚くばかりです。

しかしどの時代も、それを小さくとも守り次世代へつなげてきた人たちがいます。徳を積む人たちです。そういう徳を積む人たちによって、私たちの暮らしは約束されてきたのもまた真実です。

子どもの仕事とは何か、幅広いように見えてしまいますが実際の子どもの仕事とはシンプルに言えば人類の子孫のために自分たちのいのちを使っていくことです。どういう世の中にしてほしかという思想は文化と共に存在します。

徳を後世に引き継いでいきたいと思います。