場道の心得

日本の精神文化として醸成し発展してきたものに、場・間・和があります。これは三位一体であり、三つ巴にそれぞれが混ざり合って調和しているものですからどれも単語が分かれたものではなく一つです。

この三位一体というのは、真理を表現するのに非常に使いやすい言葉です。私たちは単語によって分化させていきますから、実際には分かれていないものも分けて理解していきます。言葉はそうやって分けたものを表現するために使われている道具ですから、こうやってブログを書いていても全体のことや真理のことなどは文章にすればするほど表現が難しく、読み手のことを考えていたら何も書けなくなっていきます。

なので、共感することや、自分で実感したこと、日記のように内面のことをそのままに書いていくことで全体の雰囲気を伝えているだけなのかもしれません。

話を戻せば、先ほどの三位一体ですが例えば心技体というものがあります。これは合わせて一つということで武道や茶道、あらゆる道という修業が伴うものには使われるものです。これらの分かれて存在しているようなものが一つに融合するときに、道は達するということなのでしょう。言い換えれば、このどれも一つでも欠けたら達しないということを意味しています。

そして私に取り組む、場道もまた道ですからこの心技体は欠かせません。では何がこの場によっての心技体であるかということです。これを和でわかりやすく伝えると、私は「もてなし、しつらい、ふるまい」という言い方で三位一体に整える実践をしています。そもそもこれが和の実践の基本であり、そして同様に場と間の実践にもなります。

まず「もてなし」は、心です。「しつらい」は技です、そして「ふるまい」が体です。

これは場道を理解してもらうために、私が自然に準備して感覚で理解してもらいその道を伝道していく方法でもあります。もてなしは、真心を籠めることです。相手のことを思いやり、心の耳を傾けて聴くこと。そしてしつらいは、それを自然の尊敬のままに謙虚におかりし、場を整えていくことです。美しい花の力を借りたり、磨き上げた道具たちに徳に包まれることで万物全体のいのちに礼を盡します。最後のふるまいは、一期一会に接するということです。この人との出会いはここで最初で最後かもしれない、そして深い意味があってこの一瞬を分け合っているという態度で行動することです。もちろん世の中のふるまいのような立ち振る舞いもあります。しかし本来は、見かけだけのものではなくまさに永遠の時をこの今に集中するという態度のことで覚悟のことでもあります。

人生を省みて、その時にどのようにふるまったのか。

つまりその人は、どのような夢や志をもちこの時代の出会いの中での「ふるまい」という上位概念でのふるまいを私はここでの三位一体のふるまいと定義しているのです。これは実は、先ほどの「もてなし、しつらい、ふるまい」の共通する理念を指しているものでもあります。

つまり「生き方」のことです。

場道の真髄と極意は、生き方を日本の文化を通して学び直すことです。先人たちに倣い、本来の日本人の大和魂とは何か、生き方とは何かを、思い出し、それを現在に甦生させていくことで魂を磨き結んでいくのです。

子どもたちが、この先もずっと日本人の先祖たちの徳を譲り受けて輝き続けられるように見守っていきたいと思います。

 

 

風土とデザイン

私たちの先祖は生活文化を通して、様々な芸術作品を仕上げてきました。例えば、木を暮らしの道具として発展させた大工や木工、そして土を磨きあげた左官、草や植物を組み合わせて創造した織物や染め物、そのほかのあらゆる工芸は日本の風土で産まれた智慧の結晶です。

これらは、伝統芸術といって私たちは一人一人それぞれの中にそのセンスを抱いています。決して芸術家だから芸術をやるのではなく、私たちは暮らしの中でその芸術と常に寄り添い発展をし続けてきました。まさにそれが民藝でもあり、私たちが風土と一体になっている理由です。

そもそも私たちの民族の芸術の原点は、自然との調和です。自然のものを上手く活かし、自然のままにそれを加工する。その自然や風土の徳性を活かして、もっとも暮らしと相性のいいものを選別して取り入れてきました。

その観点は非常に研ぎ澄まされており、縄文のむかしに先祖が自然を観察して見極めた神業のような所業です。その性質が果たしてどうなっているのか、水に強いのか、火に強いのか、はたまた何に弱いのか、そして活用するときの耐久性から姿カタチにいたるまで透徹したものの見極め方をしています。

現代の人は、人間の都合でデザインしますがむかしの人たちは自然と風土を観察することではじめてデザインするということに取り組んだように思うのです。

結局は、私たちは地球に住んで暮らす人間なのだから地球が循環し喜ぶ仕組みの中で、地球の自然が生み出したものを美しいと感じる感性を持っています。それは自然と共にあり、自然の中から出てきた発見と発明と共にあります。

時代が変わっても、私たちの美意識や芸術は常に日本の風土と共にあるのです。

子どもたちに風土が生んだ芸術が一つでも確かに残し譲れるようにそういう暮らしを充実させて伝承していきたいと思います。

いのちの伝統食

日本人の風土が生んだ歴史的な食のことを伝統食といいます。この伝統食というのは、色々な定義があると思いますが私は日本古来の風土食であると定義しています。

例えば、現在は海外からあらゆる食材が入ってきますからふるさとの味とかいいながらそれは海外の風土でできたものだったりします。またおふくろの味とかいいながらも、実際には海外のレシピでできたものだったりします。もちろん、その人にとっての味がふるさとであり、おふくろであればそれはそれで懐かしい味でいいのですが伝統食とは言わないということです。

そもそも伝統とは何かということになるのですが、「世代を超えて受け継がれた精神性」「人間の行動様式や思考、慣習などの歴史的存在意義」と辞書にもあります。

これをその日本の古来の風土、つまり自然のなかで時間と人々の暮らしと共に醸成されたものが伝統なのです。その中で何を食べ続けてきたか、何をもっとも中心に据えて食を支えてきたか。まさにそれが伝統食になるのです。縄文時代のもっと先から私たちの先祖は、この日本の風土で収穫できるもの、育てられるものを工夫して食べ続けてきました。食べるというのは、健康で生き続けることですから何を食べて健康を維持してきたか、そして何を食べて医薬としてきたか、それが食の歴史には詰まっています。

その伝統食とあわせて地域の郷土料理というものに人々が移動移住と共に発展していきます。私たちが食べている郷土料理は、伝統食が分化してその地域の郷土料理として発展していくのです。

そこにはその地域特有の生活習慣があり、価値観があり、風習やしきたり、ならわしなどもありそれぞれの個性を発揮していきました。それが精神性を含めて受け継がれて、食を通して懐かしい日本人の生き方までを実感できるのです。

私は伝統食に取り組んでいますが、その材料は神棚にお祀りする神饌そのもののように丹誠を籠めて慎んで提供するようにしています。古来から何を神様にお祀りしてきたか、その一つにいのちのままの自然の素材、いのちを壊さないための配慮、いのちを組み合わせた調和する品格、いのちを支えるいのちの器、これらを働かせるいのちの料理をしています。

いのちの料理をすることで、それを食べた人たちはいのちの存在を身近に感じて自分のいのちを味わい美味しい、しあわせと口々に語ります。

こうやって伝統が伝承されていけば、子どもたちにも日本の大和魂を甦生させていけるように私は考えるのです。引き続き、子どもたちのためにもいのちの伝統食を提供していきたいと思います。

暮らしフルネスの意味

「暮らし」という言葉は、上位概念と下位概念があるように思います。巷で経済活動の一環として使われている暮らしは、どちらかというと下位概念の生活全般を示すことであって上位概念の人の生き方や生きる道のことを示すわけではありません。

私が提唱する暮らしフルネスは、上位概念の方でありそこには生き方や働き方といった日本人としての暮らし方のことを定義するものです。

そもそも新しい暮らしとは何かということです。

便利な道具、最先端の環境、見栄えのいい雑貨、オシャレな住環境、そんなものが果たして新しいのでしょうか。それは新しいではなく、目新しいだけであって本当の意味で温故知新したものではありません。

もっとも古いものがもっとも新しいものであるわけで、目新らしいものはすぐに古くなるのです。殷の湯王が、「日々新た」と使う、「新しい」の意味は、自分自身を洗い清め磨き直し常に新しいといいました。

これは別に目新しいことを日々にやろうとしたわけではありません。新しいままでいられるように自分自身を磨き続けようとしたのです。これこそまさに、私のいう「暮らし」を実践することです。

そのためには、今に集中して今を味わう実践が必要です。今を味わうための砥石は何か、それは太古の時代からその環境の中で文化として昇華されてきたものを砥石にすればいいのです。

日本人であれば、日本文化であり、大和魂を高めることです。

現在の日本語は、大変残念なことに本物であろうが偽物であろうが同じ言葉を使います。暮らしであっても、暮らし風でも暮らしと語ります。他にも道具に関しても、畳もイ草を使ってもいないものまで畳といい、プラスチックで加工した紙にまで和紙などといいます。

こうやって日本語が、下位概念ばかりが横行して上位概念で使われたものが失われればそのうち日本人そのものの意識の程度も下がってしまいます。

幸福とは、単にお金がたくさんあって物があってなんでも所有できることではありません。現在の資本主義経済では、それが幸福なることかのように思いこんでいる人が多いですが本来は生き方によって幸福になるのです。

生き方が変わるというのは、暮らしが変わるということです。

それが暮らし方を改革するという、私の暮らしフルネスなのです。私も、日々、日本文化に囲まれ、自然と共生し、時を味わい新しい日々を楽しんでいます。その生き方を分かち合いたいと願い、子どもたちに譲り遺したいと祈り、取り組んでいます。

新しい生き方をする人こそ、新しい働き方をし、新しい働き方は新しい暮らし方になり、新しさは「本物」になります。洗練される新しさは、本物だけが持つ輝きを発揮し、日本文化の象徴ともなります。

引き続き、私の実践する暮らしフルネスで日本の未来に貢献していきたいと思います。

気候変動への畏怖

現在、地球全体は温暖化に向かっています。日本に住んでいて感じるのは、雨の多さや風の強さです。この雨や風が大きくなるというのは、それだけ温冷の差や変化が激しくなっているということです。

自然界は正直ですから、やったことが必ず結果として帰ってきます。ただ人間は、自分たちの人生の時間が短いですから見届けるのは数世代後になるかもしれませんが必ず自然は因果応報がありその通りにバランスを取ります。

バランスを取る際にの変化を観察すれば、現在は何が起きてこれから何が起きるのかを察知することができるようになります。

例えば、温かくなれば今度は冷えてくる。冷えれば今度は暖かくなる。それを自然界が行うためには、様々な手段があります。一つは、火山を噴火させること、台風を走らせること、大雨を降らすこと、地震を起こすこと、これらは自然調和のために自然界が自律的に本能的に行うものです。

自然界の生き物たちは、本能がありそこで地球とつながっていますから地球の生命の動きを察知しやすくできています。人間は脳を発達させ理屈を発展させてきているため本能をあえて減退させていたりします。すると、地球の生命の動きを察知しにくくなり、何が起きているのかを科学で分析しなければわからなくなりました。

しかしこの分析というものは察知ではありませんから、機械的に一部分だけを切り取っていくら分析してもそれは生命ではありませんから察知することはできません。察知というものは、現在の自然全体の動き、つまり太陽の光や雨、風、湿度、空の様子、月、星空、海、ありとあらゆる自然全体とアクセスしながら現在がどうなっていてこれからどうなっていくのかを予知する必要があるのです。

現在、私が察知しているのは温暖化の後に寒冷化が来るという事実。またその過程でどのように冷えていくのかを、自然全体の動きから発見していくことです。その動きを如何に緩やかにさせるかが、人類がこれから智慧を結集させて挑まなければならない過程です。

急激な変化は、大きな犠牲を伴います。緩やかな変化は、それだけ人類も体制を整えていく時間をいただくことができます。温暖化を防ぐことは寒冷化を急激に迎えるための対策です。

今、やらなければ大変な目にあうことは火を見るよりも明らかです。コロナの御蔭で自粛すると、あれだけ二酸化炭素を排出しないで地球の温暖化に影響を与えることができました。コロナよりももっと大変なことが起きていること、気候変動の畏怖を忘れないようにして子どもたちを守っていきたいと思います。

 

いのちの学び

私たちの存在は、古来の親祖から子孫まで長い時間をかけていのちのリレーをしてきて今があります。この今は、どれだけの人が繋いできたのか、それを考えることも少なくなってきているように思います。

自分のことばかりを考えては、自分の代のことしか観えませんが今、私たちが存在しているというのはその前の代、そしてずっと前の代から連綿とつなげてくださったから存在しています。

先祖を感じるということは、本来、今まで私たちが歩んできたプロセスを味わうことです。どのような変遷で今があるのか、そしてこの国がどんな歴史をたどってきたのか、それは教科書で文字だけを読むことで理解するのではなく自分の身体と共に感じる中でその実感を得ることが大切なことのように私は思います。

例えば、今の自分のいる場所から遡りはじめるとします。

自分の両親、そしてその両親の両親、さらにその両親と辿っていけば一代で2倍ずつ増えていきます。5代では約60人、10代では、約2000人、20代で約200万人、30代で20億人、40代遡れば約2兆人、この40代遡ったころが約800年代くらい、平城京があったころぐらいだともいいます。つまり今から1200年前になれば、2兆人の先祖が関わって今の私がいるということです。

その2兆人いる先祖が、一つでも関わらなければ今の私は存在してもいないという事実。この偉大さこそ、私は「徳」の姿の正体であるとも感じています。目には見えないけれど、偉大な恩恵の中に自分が存在している。そしてその偉大な恩恵を、次世代へと譲り渡していくということ。

これは単に自分の子どもをつくればいいという話ではありません。みんなで子どもを育ててきたから今の自分があるということにも気づく必要があるのです。先祖の皆様が愛情をかけてその世代を大切に守り次へとバトンを繋いできた。そのバトンを渡してきた数は、今の地球の人口では敵わないほどの人たちがこの地球と私たちを支えてきたという事実。そういうものを理解するところにこそ、いのちの本体や、今の私たちが本当になすべきことを実感する理由になると私は思います。

日本人も元を辿れば神話に出てくる伊弉諾と伊弉冉からはじまりここまで家族や親せきが増えていき今があります。もとは一組の夫婦からはじまりこれだけの歴史の変遷を経て今にいたります。

そして最近の遺伝子の研究で分かってきたのは、20万年前の1組の夫婦から世界の人類が誕生した可能性があるということです。20万年遡り、もしも今までのいのちのバトンの歴史を目に観えるようになれば私たち人類はみんな兄弟や親せきであることに気づくのです。

それが今では、争い、差別し、貧富の差がわかれ、権力や奴隷などもうまれ、最初の先祖が子孫たちの現状を見たらどう感じるだろうかとも思います。

学校の知識を教えることも大切で文字から学ぶことも、ITで情報を得ることもそれも大事なことでしょう。しかし人類として根源的なものや根幹的なものを無視して、それだけを知識で学んでも本当のいのちの学びにはつながっていないのではないかとも私は感じます。

私が、伝統や家を甦生することも、大和魂や大和心を伝承していくことも、これはすべてこのいのちのバトンの存在やその「徳」に報いたい、報いようと思うからです。

子どもたちがこの先、生きていく中で絶対に忘れてはならない学問があります。それが歴史であり縁であり、いのちなのです。引き続き、私の限られた人生の中で、この永遠のいのちの存在を徳積で可視化し、世の中に伝道していきたいと思います。

 

大和と共に

「三つ子の魂百まで」という言葉がります。この三つ子の魂とは一体何のことを言っているのかということを考えたことがあります。辞書では、三つ子の魂百までとは、幼い頃の性格は、年をとっても変わらないということだと書かれます。

つまり幼少期、生まれてから3歳になるころの子どもの性格であるといいます。

私は子どもの憧れる未来のために起業しましたが、これは単に幼少期の子どもの魂を守ることだけが目的ではありません。もちろん、余計なことを刷り込むことで幼少期の魂は澱んでいき本来の自己を発揮されていきませんから引き続き刷り込まない教育、その子らしくいられるような保育はこれからも弘めていきます。

しかし子どもの魂とは、決してある一時的な年齢だけのことを言うのではないのです。私の定義する「三つ子の魂」とは、日本古来の魂のことであり大和魂のことを指します。私が守りたいと強く願い行動しているのは、この「大和魂」を守りたいと祈り取り組んでいるのです。

私が浄化場にこだわるのも、古来の伝統を大切に温故知新して甦生させるのも、自然農や伝統行事からご縁やつながりを守りつづけるのもすべてこの大和魂のためです。

この大和魂というのは、日本人の親祖から連綿と今まで紡いできた大切な日本人の真心のことです。この日本人の真心が大和心であり、それが大和魂となります。

私が好きな先祖の言葉に、古事記にあるヤマトタケルの詩があります。

「やまとは くにのまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるわし」

またその古事記を研究した本居宣長のこの詩も好きです。

「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」

これは日本古来の大和魂を詠ったものです。

この大和魂や大和心を持った子どもたちを守りたい、私の祈りや願いはこのことに懸けているのであり私の一生の夢はこの大和と共にあります。もしも私が志半ばで斃れても、この志を継いでくれる人が必ず出てくると信じています。

だからこそ、何よりも真摯にこの大和魂や大和心を実践していく必要があるのです。この自然に麗しく瑞々しい感性と透明で清浄な場所、日本。そしてその日本で純粋で初心で無垢な愛嬌のある美しい人々の日本。素直で誠実、正直で謙虚、徳という言葉がもっとも似あうクニの日本。

人生を賭してこの一途な祈りを生きていきたいと思います。

傍流

以前、逆手塾の和田芳治さんから「傍流」であることの誇りについて教わったことがあります。まだ私がまちづくりをはじめて、右も左もわからず地域との馴染めず、どうあるべきかを悩んでいた時に聴福庵に来ていただきました。

傍流という言葉自体に馴染みがなく、どういう意味だろうとその時は思いましたが今思えばとても含蓄のある言葉だと感じています。

この傍流という意味は、いくつか解釈の仕方があります。本流から分かれた支流という意味、他には世の中には主流にはならずに本流で生きるという意味、誰もがうらやむような花形から逸れた場所で働く意味だったり、この「傍流」という言葉は生きる上では深い示唆があるように思います。

民俗学の宮本常一さんの著書の中で、傍流の言葉を用いた文書があります。私はこの傍流の解釈が、和田さんの語る傍流の解釈と同一であったのだろうと今なら思います。

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくこ とだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしま う。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになるこ とだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまるばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」(宮本常一)

これはまさに私の人生にも同じ境遇を感じます。私も主流には興味がないようで、このまま傍流を究める方へと進んでいく気がしています。和田芳治さんは、逆手塾の中でこのように述べていました。

『「私は傍流」と悟り、「しかし、いつまでも傍流ではおもしろくない。いつか主流になろう」と密かに野心を燃やし続けてきた。ただし「主流のものさしに合わせていたらいつまで経っても輝けない」と気づき、勝手に「傍流のものさし」をつくり、それに合うアイデアを出し、その具現のために汗を流し続けた。「傍流のものさし」の一番手は「金よりも大切なものがある」。武器は「レクリエーション」であり、「遊び半分」(馬鹿にされているものが輝くと、人からおもしろがってもらえる)ことだ。「逆境」を嘆いたり、親や人のせい、社会や政治のせいにするのではなく、「おもしろがればなんだっておもしろい」と、その解決のために営むことを、支援してくれる人が増えたのです。』

経済合理性の追求や、花形でスポットライトを浴びることだけが輝くことではありません。輝くというのは、傍流にいてはじめて輝くものがあります。英語にもアンサンヒーローという言葉もあります。縁の下の力持ちという意味です。

傍流は、決して主流や本流から離れたものではありません。縁の下から支えて周囲を輝かせるという存在です。

カグヤという会社は、月の会社であり、陰徳を目指すものです。

このまま傍流にいて、子どもたちのいのちを輝かせていきたいと思います。

懐かしい美しさ ~大和魂の甦生~

日本には、懐かしい風景があちこちに遺っています。この懐かしい風景とは何か、そして何を懐かしいと思うのか、ここにきてようやく一つの答えが出てきました。

それは古代より連綿と続くいのちのリレーの中で、私たちの先祖が深く愛し続けたものであるということです。

昨日は、林業を甦生し自然資本という考えを実践している方にお会いしました。共感しながら、周囲の山林や原風景を眺めていると懐かしい風景に心が惹かれます。私は懐かしい人に会ったりするときはご縁を感じ、懐かしい道具たちに触れたときは手入れしてまた使いたいと思い、そして懐かしいいのちに出会うと甦生させて一緒に寿命を味わいたいと感じます。

この懐かしさとは、私の実践するかんながらの道と深く結ばれている感覚です。

日本には、美しいものがたくさんあります。それは動植物、昆虫たち、山林や海、里の景観の中であらゆる暮らしの中に見てとれます。この暮らしを守り愛した人たちの面影が美しさの中に輝きます。

懐かしい美しさというものは、何処からくるのか。

それは日本を深く愛した人たちの心から訪れます。それは決してモノだけではありません、心や魂、生き方もまた存在します。日本人が道徳として人々の行動が美しく、またその姿に感銘を受けて共感するのはかつての日本の先祖たちが大切に愛してきた姿だったことに他なりません。

私が古民家甦生や伝統行事の甦生、そしてむかしの田んぼの甦生、街道の甦生、暮らしの甦生などあらゆる甦生に関わるのは、この懐かしい面影を守り次世代へとつないでいきたいからです。

懐かしさと美しさは、人々の心を深く温めます。

現代、世界は米中の確執をはじめ、あちこちの国で経済破綻が恐慌の足音が聞こえはじめたこともありなんとなく陰鬱とした雰囲気が漂いはじめています。戦争は、先に戦争が起きるのではなく心の荒廃によって戦争が引き起こされていきます。

心の荒廃はぬくもりの消えたつめたさから来るものですから、心をあたためてぬくもりをみんなで感じる豊かさ、大和魂に回帰していく必要があります。そのためにも先祖の生き方の集積、その遺徳でもある懐かしい美しさに触れ自らを磨き甦生させていく必要があるのです。その上で、子どもたちがその大和魂を発揮させる「場」(舞台)を用意しなければなりません。

私の取り組む「場道」は、この大和魂を甦生する場であり、大和人を育成し醸成する場でもあるのです。場をつくり場を譲ることは次世代のための本命であり志事であるのは当代を生きる人たちは必ず最期はみなその道にたどり着くはずです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中にするために、目の前の一歩を大切に過ごしていきたいと思います。

家と主人

昨日、千葉県白子町の江戸末期からある名主さんの古民家を拝見するご縁をいただきました。人に品格があるように、家にも品格があります。そしてその人物の品格には徳が備わっており、その徳はもちろん家にも同様に備わっています。その徳は、先祖から連綿とつなげて積み重ねてきた善行の循環によって子孫へと伝承されていくものです。

家は、代々主人が代わっていきますがその主人を守るのは家の意志でもあります。家は主人を養育し薫風しながらその家格にあった主人を見守り育てます。

私にとっての古民家は先祖であり両親であり徳祖でもあります。この家の修繕というものは、代々の主人が行うものです。自然界には「相利共生」というものがあります。これは生物間の共生者の双方が互いに生活上の利益を受ける関係をいいます。

たとえば、ヤドカリの入っている貝殻に付着するイソギンチャクはヤドカリの移動によって摂食の機会が増加し、ヤドカリはイソギンチャクの刺細胞の毒によって外敵から保護される関係だったり、他にも弱さをうまく補い合い、強さを利用し合うしたたかな関係を築いています。

一緒に生き残るためには、なんでも活かそうとする。お互いに利害が一致して助け合う関係のことです。これは厳しい自然を生きるために互いにとってきた戦略です。同時にお互いのどちらかがいなくなれば生きていくことができない種を超えた強い絆を持っているのです。

私にとって古民家は単なる共生の支え合い助け合う関係を超えて、相利関係に近いものがあるように感じています。私が磨くことで、家も磨かれる。家が磨かれることで私も磨かれる。その結果として徳が磨かれお互いに生活上の利益を享受しあうことができるのです。

私が家をパートナーと呼ぶのは、この相利関係を持っているからかもしれません。したたかな力は生きる力です。そのままにしていたら朽ちてしまう徳も、しっかりと引き出し合いその先祖の善行や子孫への推譲をしっかりと結んでいこうとするのは私たち人類の親祖の代からの生存戦略なのです。

明治以降、歪んだ個人主義を押し付けられ時間の奴隷のような生活をしても目標達成のためにここまでこの国を発展させてきました。

しかし果たしてこのままでいいのでしょうか、もう充分でしょう。

もう充分と思ったのなら、私たちは生き方や暮らし方を換えなければならないのです。それが生存戦略であり、未来の子どもたちを守ることになるのです。家が主人を見守るように、私たちは子どもを見守る必要があるのです。

まだ間に合いますから、気づいた人、醒めた人は行動を起こすべきです。

私も今、できることを真摯に取り組み、周囲がいかに可笑しなことをしていると変人ように思われようと信念をもって子どもたちのためにできることから変革していこうと取り組んでいます。

共生のかたちは、自然界の常識です。コロナ後のニューノーマルというのなら、もういちど自然から学び直すことからはじめていくことだと私は思います。子どものために大切なご縁を感じ取って結んでいきたいと思います。どのような物語になるのか、まだわかりませんが未来が楽しみです。