覚悟力

現在、報道では厳しい生活の状況を伝えるものが増えてきています。業種によっては、善い時と悪い時がある仕事があり大変なときに善い時にどのように危機に準備していたかが問われてきます。

私たちは今の安定した生活が当たり前に続く、いや続いてほしいと心で願っているものですが実際には努力の上ではじめて安定はあるのであって何もしないで安定を維持することはできません。

どうしてもマンネリ化してくると、今の環境や状況が当たり前のようになり感謝を忘れたり、謙虚さを見失ってしまうものです。しかし有事の時、改めてそれが当たり前ではなかったことを知り反省して人間は成長していきます。

過去の失敗や過去の怠慢な自分をいつまでも忘れないで自戒している人は、困難に強くまた現状を打破していく底力を持っているものです。そしてその底力の源泉とは何か、それは「覚悟力」なのかもしれません。

松下幸之助氏は、著書「道をひらく」の中でこういいます。

『すべてのことにおいて、いろいろの姿で刻々に「覚悟はよいか」と問われているのである。そのことをみずから察知して、自問自答するかしないかは、その人の心がけ一つであろう。ましてや昨今のわが国の社会情勢、経済情勢は、世界の動きとともに寸刻の油断もならない様相を呈しつつある。つねに「覚悟はよいか」と問われることを、おたがいに覚悟したいものである。』

覚悟力の源泉は、「覚悟はいいか」と自分に尋ね続ける力であろうと私は思います。それは言い換えれば、当たり前になるなよ、マンネリ化するなよと、殷の湯王が「日々新たに、また日々に新たなり」と毎日に自分に問いた実践と同じことです。これはあの土光敏夫さんの座右の銘であったとも言います。

人間の最も怠惰になり堕落なところはこの覚悟をしなくなるということかもしれません。覚悟を忘れれば人生はそこで自分のものではなくなります。また主人公でもなくなります。そうなると、たった一度の自分の人生が誰かのものにすげ変わってしまうのです。

そうならないように歴史の先輩たちは「覚悟力」を日々に磨いたように私は思うのです。私もまた道を志すものとして覚悟力を身に着けたいと思っています。こういう時だからこそ原点に立ち返り、覚悟を磨いていきたいと思います。

夢の実現

人は道具があるからそれをどう使おうかを考えてばかりいると目的を見失ってしまうものです。本来は、目的が先にありその目的に合わせて具体的な手段が出てくるものです。しかし実際は、手段ばかりを考えるあまり目的まで手段に合わせるようになれば本末転倒するものです。

例えば、まちづくりにしても国造りにしても然りであり本来どうありたいかという目的を先に定めます。そしてその手段として様々なものを活用する中でちょうどいいものがあればそれを用いれたいいのです。

目的よりも人が手段に意識を奪われるのは、時間がかかるものが不安だったり、それが便利で早いからだというものがあります。これは経営の在り方でも、理念から定めて理念を優先して手段を決めていく会社もあれば、手段から考えてあとから理念の方まで変えてしまうところがあるようなものと同じです。

本来は、目的が明確であればあるほどに手段は無限に存在しますからやっぱり大変でも目的にこだわった方が最終的には多くのものを活かすことができるように私は思うのです。

この「何のために」というものがどれくらい明確になっているかどうか、そしてそのために具体的に何を実践するか、その順番で物事を行えば不思議ですが道が拓けていくように思います。

目的に合わせてなんでもちょうどいいと、今を活かしきるという生き方が最終的には周囲を巻き込み夢を実現させるように思います。目的を観続ける力は、初心を忘れない力の事です。

初心を忘れずに、道を拓いていきたいと思います。

サイコロジカルキャピタル

現在、先進国では知識労働者の生産性を如何に高めるかということが注目されています。20世紀は肉体労働者ばかりの生産性に注目されましたが、これだけ時代がIT化され仮想経済が拡大すればするほど働く場の現場は知的現場に移行していくはずです。

その上で、働き方改革として生き甲斐や幸福感などの調和、持続可能で有意義に豊かに働くための仕組みや取り組みが注目されてきています。

人間は、ただの働く機械ではありませんから何のために働くのかという目的があります。その上で、働く中に如何に喜びや意味や仕合せを感じるかでその人の人生が充実しているかどうかが決まるとも言えます。

組織においては、故人のパフォーマンスをどれだけ発揮できるかというのはとても重要なことです。組織の中でパフォーマンスを発揮しモチベーション高く楽しく学習し続けられるためには、お互いに安心できる環境が必要になります。その安心をどうそれぞれが個々で確保できるか、そこに私は働き方改革の要諦があると思っているのです。

私がBAを創造したのもまた、今までの見守る保育の経験から如何に子ども同士が自律し自立し、協力し合い主体性を発揮していけるかということを研究し続けてきたからです。

最近、私が考えていることに似ている仕組みでポジティブ心理学から派生したサイコロジカルキャピタル(心的資本)というものを知りました。これは人間資本の中で分類した4つの資本、経済資本(エコノミックキャピタル)人的資本(ヒューマンキャピタル)、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)、そして「心理的資本(サイコロジカルキャピタル)」といわれるものの一つです。

その最も基礎で基本、その人間の土台にあるのがこのサイコロジカルキャピタルです。そしてこの心理的資本は、Hope(希望/将来への自信)、Efficacy(効力感)、Resilience(レジリエンス・立ち直る力)、Optimism(楽観主義・やりきる意欲)から形成されます。

私たちの保育の仕事の領域はまさにこのサイコロジカルキャピタルであるのは自明の理です。そしてそれを獲得するためにも安心できる「場」が大きな役割を果たします。安心できる場を創造するというのは、その心の資本を充実させていくためには必要です。

改めて世界はこの保育の価値を再認識する時代に入ったと私は直観しています。これからの新しい時代、私たちの場が世の中を変えていくことを信じて取り組みを磨いてたいと思います。

 

場の道場

場の道場は、場を使いますから様々な場づくりを通して場を磨いていきます。この場が磨かれていけば、世間ではパワースポットだと呼ばれたりしています。そのまま場がただすごいと感覚でわかっても、それを説明できれなければスピリチュアル的とか、宗教だとか言われます。

現代は、ちょうど量子力学という学問が出てきます。これは原子よりもさらに小さいものを捉えていく研究です。素粒子やニュートリノといった宇宙の本来の姿、宇宙がどのように存在するかということを突き止めていく学問でもあります。

ここに「場の量子論」というものがあります。

ウィキペディアにはこう解説されています。「場の量子論(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 量子論の中でも、位置や運動量などの古典力学由来の物理量と、スピンなどの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を量子力学と呼ぶ。一方、基本変数として「場とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系(電子など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている」

そもそも素粒子をはじめ量子は空間の中に存在して絶えず活動する波長、波動のようなものです。その波のある空間を一つの「場」と見立てて、場の中にそれらが活動する舞台が存在すると定義しています。そしてこの「場」という空間を如何に高め磨くかということが私の「場の道場」の実践内容となります。場の中にある振動数を如何に磨くか、これは目には観えない波長をどれだけ研ぎ澄ませて自然と調和させられるかということに尽きます。これらの科学は、環境の科学ですが私はそれを風土ともいい、徳とも呼びます。

これらの粒子の波は、波動というものの振動数によって表現されます。無限に振動するその波長がどのような波長を放つか、その振動の波長こそ場の価値が出てきます。低周波というような、穏やかで和やかな振動数であれば場は落ち着き心は癒されます。またその逆の波長であれば心はざわつき、傲慢になっていきます。

私たちは一人一人その肉体や精神というものの中にそれぞれの「波動」と「波長」を持ち、それを積み重ねて人生を遂げていきます。しかしその人生の舞台の上には確実な「場」というものが存在し、その場を整わせていく中でまた記憶されていく宇宙の媒体に影響を及ぼし合っていくことになるのです。

もっとも深い私たちの存在には、この量子力学が関係しており科学はいよいよこの目に見えない波長や波動というものを捉える「場」という存在にまで近づいてきました。

私は直観型の感覚を澄ますのが好きですから、よりこの波動や波長を感じやすいタイプですしそれを「場」に定着させていくのが得意なタイプなようにも思います。

これからの時代、不確定さが増えてきたのは目に見えないものが主役になっていく転換期に入ってきたからです。だからこそ、私の取り組む「場」はこれから主役であり世の中を転換するための主人公となっていきます。

最後に、「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄博士の言葉です。

「環境が人を創り人が環境をつくる」

場を醸成し、新しい時代の幕開けをここから拓いていきたいと思います。

子ども心の安心基地

人は自分との対話の時間や、心を整い落ち着くために安心できる環境や場を求めていくものです。自分の安心できる場があるというのは、心の拠り所でもあります。心が安らぎ落ち着く中ではじめて人間は心の動きに合わせてゆったりと自分自身を取り戻すことができるようにも思います。

つまり心の安心の場を持つことで人はまた前に進む活力を得ていくように思うのです。

現代のような競争社会で歪んだ個人主義が蔓延すると、どうしても不安や恐怖にさられていきます。そういう不安や恐怖を乗り越えて恢復したり心の活力を取り戻し、エネルギーを補給したり癒したりするところが安心の場になります。

子どもたちにとっては安心基地は両親であったり、私の場合もお地蔵様やお守り、また犬だったりもしました。大人になっても形を変えて私たちはどこかに拠り所をもって安心する場を創造していきます。

資本主義経済で経済戦争が日々に行われているストレスの多い今だからこそ、そういう安心の場を提供するということが必要になってきているように思います。その安心の場が新しい時代の心の教育に重要な役割を果たすようにも思います。

心の教育があるからこそ、人々は心を見失わずに人間らしい本質的な知性や人格、徳を磨いていくことができます。新しく開く場のカフェは、子どもたちだけではなく子ども心を持つ人たちの安心基地にしていきたいと思います。

さらに深めてみたいと思います。

正直を磨く

人間は生きていく上でもっとも大切なことは自分に正直でいることです。しかし自分に正直というのは、自分というものが本当の意味で分かることができて正直になることができるということでもあります。

なぜなら己自身が分からないままでは、正直だと思ってもそれは正直ではなく正直風になっているだけだからです。その正直風では、本来の自己一体ではありませんから偽りの正直さで嘘が増えていくからです。

正直さというのは、真実であり本当のことです。その人が生まれてきた意味や、何を使命にしているか、そしてどのようなことを魂が望んでいるかそれが分かる状態が正直ということです。

正直は他には真心や至誠など同じ意味を持つように思います。

つまり、本当の自分で生ききったということでしょう。自分らしさというものは、他と比較していく中で出てくるものではありません。自分自身をやり切ったとき、自分自身のままであるとき、自然体のとき、私の言葉ではかんながらの道を歩んでいるときにこそ顕現するものです。

自分らしくあることは、愉快痛快の面白い物語と人生の醍醐味に出会い続ける人生のことです。そこには成功者とか失敗者とか、またどのジャンルだとか分類とかは関係ありません。自分らしくあることのメリットを一つ上げるとするのなら、それは魅力的な人になるということかもしれません。

魅力的な人、チャーミングな人の周りには面白い人、豊かな人、明るい人、優しい人、数々の人たちが集まってきます。そして魅力的な人は「場」を創造します。その場には、目には観えない徳が集積してきます。まさに自分らしくあることこそが徳を積むことになるのです。

自分に正直に生きることは、子どもたちの憧れる大人に近づくことでもあります。子どもたちの仕事をするからこそ、突き詰めてみたらこうなったのだからさらにここから尖がって正直を磨いていきたいと思います。

理に遊ぶ

昨日は、無事にブロックチェーン神社の建立式典を終えることができました。4年前から古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスという智慧の仕組みに取り組む中で神社建立は一つの大きな目標でした。

これは暮らしの中には常に八百万の神々がいて、暮らしの実践の中で常に神様の方を向いて本心に恥じるところがないか、また動機は善であるか、自然の道を歩んでいるかと、正対するためにも必要なことでした。

思い返せば、家の中には暮らしの神様ばかりで現在は社員の数よりも神様の方が増えていき不思議な感覚になります。そして主客一体の境地においてはお客様も神様ですから日々に私たちは多くの神様と一緒に暮らしを味わっているのです。

このブログを書いている目の前でも、朝の薄明かりの陰翳の中で小さな羽釜に炭を入れ自ら育てた新米を炊いてその香りを嗅ぎながら出来頃を五感を使って待っています。水は井戸の水を汲み、火は炭火でゆっくりとじっくりと、湯気がしんしんとたち、中からぐつぐつとお米が回転し混ざり合っている心地より音色が聴こえてきます。それを大きな火鉢が囲み、その台の上にパソコンを載せて一緒一体で心も体も精神も穏やかです。

ハイテクとハイタッチ、この両輪を如何に正しく活用していくか。最先端技術と暮らしの智慧を如何に組み合わせるか、これができてはじめて人類はこの時代を新たに刷新していくことができると私は確信しています。

様々な矛盾を受け容れるのは柔軟性ですが、その柔軟性の根源になるのは神人合一の生き方です。

これからいよいよ革新と核心に入ってきますが、これが理解できる視座の高い人たちを集め、この世の理を遊んでみたいと思います。

新時代のはじまり

本日は、神社建立式ののち直会(なおらい)をBAで行う予定です。この直会とは、神事ののちに神饌としてお供えしたものを参拝者と共にいただく行事(共飲共食儀礼)の事を指します。そして供物そのものもまた直会と呼びます。

これは正月の歳神様の依り代である鏡餅をみんなでいただくことでその神様との結びつきを強くしその力の恩恵を受けることと似ています。穀物にはむかしから神霊が宿っていると信じられていましたからその力をみんなで分け合うことで私たちは元氣をいただいていたのでしょう。この元氣は、いのちの力であり、生命の活力のことです。

また直会の語源は、「直り合い」(なおりあひ)からきているといいます。この直という字は、素直の直のことを指します。この直るという字は、邪気や穢れが祓われた清浄で明るく澄んだ姿のことを指します。

人間はこの世に出れば誰しも執着を持ち、個人的な観念や想念によって価値観が形成され本来の自然のままであることやあるがままであることを忘れてしまうものです。その穢れを神威によって祓われることでみんなが素直になった自分と出会うことができる。そういう出会いの場こそ私は直会の本質であろうと思います。

心が澄んでいく感覚というのは、あるがままのものがあるべきように存在そのものの「徳」が顕現する状態です。本来の人間は誰しも、魂の中にはその徳の境地を持っています。徳の境地の存在は私たちの転生意識にこそあります。地上に生まれて生きていく中で私たちは様々な穢れを受けますが、その中で何度でも生まれ変わり魂を磨いていく生き方をしたいと願い何度も転生しているのはその徳の境地があるからです。これを仏教では「縁起」といい、神道では「むすび」といい、西洋では「愛」とも呼びます。そして私は、新しい時代に入りこれらを「徳積」という言葉で語ることを定義しました。

本日は春分の日、古来からの伝統的な暦では今日この日をもってはじめて「庚子」(かのえね)年となります。つまり今日こそが旧正月と春分が重なり「本当の新年がはじまる日」なのです。

暮らしの中にこそ徳は生き、暮らしを通して私たちは文化を継承していきます。私の取り組む暮らしの甦生はたとえ微小だったとしても新しい時代を変えて化けるように祈り、大河の中に一滴の永遠の雫を垂らしていきたいと思います。

智慧の神様

今回、神社建立において思い返すと様々なご縁があってこの機会をいただいていることを感じます。私は、幼いころから神社や境内、御守りが大好きで両親によくせがんでいたのを覚えています。家にはそうやって出かけた場所で買ってもらったたくさんのお守りがあり、それは決して神道だけに限らず数珠やお札などがありました。

それが小学校の頃に入ると、次第に薄れ始め神社の境内や近くの地蔵堂などではよく遊んでいましたがあまり御守りなどには興味がなくなりました。今度は、中学生の頃になると、密教や空海の生き方に興味が湧き、サンスクリットの勉強をはじめ今度は竜神や水神、白蛇などに興味が湧き色々な池や沼などをバイクで探索していました。

そこから高校生くらいになると、中村天風、安岡正篤、吉田松陰など実践哲学や陽明学に目覚め、他にも孔子や老子、中国の様々な偉人たちの本を読み漁りました。大学生の頃は、西洋の文化に興味を持ち海外へ留学しては現地でドラッガーをはじめ、ナポレオンヒルや七つの習慣などの価値観に触れ、成功哲学や自己実現についての考えに触れつつ、美しい教会の大聖堂に魅せられ、ヨーロッパに行けば教会めぐりをしていました。

社会人になってはじめの頃は、山や川、海、人気のないところと子どもたちの感性から学ぶことに夢中になり、暇があれば温泉を深めていました。そして30代に入り、また神社や仏閣の建造物や歴史、伝統文化に興味が湧き、全国各地を訪問しました。同時に自然農といった自然の知恵を活かす生き方や、民族伝承の智慧といったものに惹かれ、実践を積み重ねつつその深さを味わいました。

そして40代になってから古民家甦生に取り組みはじめて、暮らしの知恵や先祖の叡智、伝統の意志や生き方、働き方の転換、最後に「徳」というものに昇華されました。思えば、二宮尊徳に惹かれたのは社会人になってしばらくしてでしたがそこから15年くらいこの「徳」ということが何度も頭によぎりました。

これは私が子どもの仕事をしていることと、ある故人より古い魂の人物ですねと言われたこともあるかもしれません。私は長老の役目というのは、民族を自然に照らして丸ごと善いことへと導くために生き方を示すことのように思います。

私は見た目がまだ若く、長老とはとてもいえるものではありません。しかし、なぜか私の中に流れるものの中に、伝統の知恵や暮らしの知恵、そして自然の知恵や歴史の知恵、様々な知恵が存在することに気づきます。

今回の神社建立は、この「智慧」そのものをお祀りすることによります。八意思思兼神というのは、いわば「長老」の道を司る神です。観念そのものが智慧ですから、その「智慧を神とせよ」という意味になろうと思います。

まさに今の時代、このタイミングだからこそ智慧を祀るということが必要なのです。私が今回の神社建立のご縁の結び目には、智慧が存在することは自明の理です。子どもたちのためにも、智慧を譲り遺し、人類が末永く仕合せになるように私にできることを努めていきたいと思います。

日本人文化甦生

私たちは日本人としての文化を持っています。それは何千年も前から生きた人々が、暮らしの中で培ってきた心の文化だとも言えます。自然に信仰し、自然に食べ、自然に生き、自然に家族を持ちました。そうやって、長い年月をかけて身に着けてきた知恵や仕組みこそが文化になったのです。

現代では、神様を拝もうとするとすぐに宗教だといわれます。神様=宗教としてそれぞれに宗教の違いを信仰よりも先に語られます。しかし本当にそうでしょうか。

確かに宗教は個人の自由であり、税金もかからないから特別な組織とみなされます。しかし本来、宗教が始まる前はみんな自然に信仰を持っていたはずです。それはアマゾンの奥地やインディアン、各地の少数民族に至るまで何かしらの信仰心をもって自然や先祖を崇拝していますがそれを現地では宗教とは言いません。

つまり本来、すべてのものは文化からはじまっているのでありそれを分類したものが宗教などになっていったともいえるように思います。異なる文化を認めるというのは、それぞれの育ってきた歴史を肯定し認め合うということです。

そしてその文化をつなぐものこそが「暮らし」であり、その暮らしを丁寧に紡いできたからこそ日本人としての本来の役割や個性も世界で発揮できるようになるのです。

人類がそれぞれで移動して分かれてどのように地球に適応してきたかというのは、偉大な叡智であり智慧そのものです。気候変動の中で、また人類の社会を創っていく中で、どのようにその場所で調和させようとしたか。

実際に実験を人生を懸けて行ってくれてきた先祖たちの生き方が、私たちの水面下の意識で文化として醸成され、今に引き継がれ、この先を見守るのです。

今度、私は神社を建立しますがこれは決して宗教として取り組もうとしているのではありません。私はあくまで「文化」としての道を、日本人の古来からの生き方を暮らしを通して甦生させていこうとしているのです。

まさにそれが子どもたちに日本人の心を育て日本人の誇りを思い出すことにもつながると信じるからです。私自身も、日々に手を合わせ、内省し、自然の循環と共に人も一緒に八百万の神々と共に暮らしていくことに仕合せを感じています。日本人の生き方を学ぶためには、古民家も必要ですし、暮らしも必要ですし、暮らしには行事もあるし、神社も必要です。

心を甦生していくのは、日本人の暮らしの甦生からです。

2月4日、立春の日に出現する神社と共に日本人文化甦生に歩んでいきたいと思います。