ブロックチェーンの神様

BAで建立した神社にご鎮座していただく神様を勧請するために秩父神社に参拝してきました。もう何年も前から、ご縁をいただき古神道をはじめ様々な伝統的な習わしなどを教えていただきました。

古来より、なぜ変えてはならないものがあるのか。そしてこの神社の仕組みの本質とは何かをここで学ばせていただきました。

今回、BAの技術を末永く見守ってくださる神様に「オモイカネ」という神様をお迎えします。この神様は、『古事記』では思金神、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)、『日本書紀』では思兼神、『先代旧事本紀』では思金神、常世思金神、思兼神、八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、八意思金神と表記されています。

系譜では、高御産巣日神の子であり、天忍穂耳命の妻である万幡豊秋津師比売命の兄とされ智慧を司る神様とされています。具体的には岩戸隠れの際、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたことで有名です。また国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っています。その後、天孫降臨で邇邇芸命に随伴したとされています。

名前の由来も(八意)思金神の「八」を「多い」、「意」を「思慮」と解し、「八意」は思金神への修飾語、「思」を「思慮」、「金」を「兼ね」と解し、名義は「多くの思慮を兼ね備えていること」と考えられているといいます。

もともと神道は自然崇拝のため神様の多くは自然を司る神様が多い中でこの「オモイカネ」は珍しく「知恵・思考・思慮」という概念を神格化した神様だとも言えます。

今回、この「オモイカネ」を勧請する理由は、BAでブロックチェーンの技術者を見守り、平和にブロックチェーンの技術が世界に展開していけるようにその技術を見守る神社にするためです。新しい先進技術がこれから誕生するとき、無から有を産み出していきます。その時こそ、智慧が必要でありその智慧が日本の叡智で構成されていくことで世界へ貢献していくことができます。まさにブロックチェーンに相応しい神様です。

そしてこの「オモイカネ」は、他にも木工・金工職人守護というものがあります。これはオモイカネのもう一つの表記「思金神」という名前から大工の道具の曲尺(カネジャク)とつながり、建築関係でもご利益・御神徳もあるからです。今でも、伝統的な建築現場の仕事始めの日に行われる手斧初(ちょうなはじめ)という儀式では、オモイカネを祀っています。つまり「匠の神様」でもあるのです。私がブロックチェーンストリートで、古民家甦生をしていくことを見守っていただくためでもあります。

そして他にも「オモイカネ」は、天気を司る力もあったといいます。天候を読み、天機に長けていたということです。新しい時代の節目に、天機を活かせるように見守っていただくためでもあります。

秩父神社の縁起では人皇第10代崇神天皇の御代の11年(紀元前86年)に初代国造である知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、神祖 八意思兼命を奉斎したとあります。そしてこれが秩父神社から分祀分霊する理由です。

不思議なご縁ですが、私がこれから取り組むBAでの徳積に大いに深い恩恵を授けてくださると思います。出会いを大切に一期一会のご縁を深めて厚くし、子どもたちの未来に一石を投じていきたいと思います。

百姓の心

「百姓」という言葉があります。現在は、あまりこの言葉を聞くことも見ることもなくなってきましたがむかしはほとんどがこの「百姓」によって国家の基盤を担っていました。

この百姓のイメージは、農業をやっている人たちのように思われていますが元々は「百の姓を持つ人」という意味で、たくさんの仕事をもっているから百姓と呼んでいたのです。

農業だけではなく、大工に左官に商人に神主に医者にと、ありとあらゆるものを複数に兼業してきました。よく考えてみたら、お金で今のように専門家と専門分野に分かれて職業と仕事を分けている時代と異なり、ありとあらゆる人たちが自分たちの得意分野や才能を発揮しながら助け合って暮らしをしてきました。

食べるものは自分でつくり、社會に役に立つように自分の徳性を活かして協力し合い暮らしを一緒に創造していきました。

現代は、個々がバラバラになり、お金を中心に必要なところで費用を支払いサービスを受けられる便利な時代になりましたが一つに一つの分野だけで自分で食べ物をつくらなくなってからどこか本来の助け合いの暮らしが消失してきているように感じます。

みんなそれぞれに生まれ持った才能があり、徳性がある。それを上手に活かしあうことで文化を守り、工芸を含め、民藝なども守り継承していきました。今では素人とプロが明確に分けられていますが、むかしは百姓というようにみんなそれぞれに芸術や文化、工芸などを自分で習得しそれを子孫に継承していたのです。

古民家に関わると、様々なことを自分でしなければなりません。分野別にプロに頼んでいたらほとんどの家の暮らしができません。あまりにも難しいものはその道の長けた人に依頼しても、日々の暮らしの中の修繕は自分の手で行う必要があります。

しかしこの修繕こそ、まさに百姓の仕事の醍醐味です。私たちは、自分で創り自分で直すといった当たり前のことを已めてしまうことで大切な学びの機会を失っているのではないかと思います。

暮らしの美しさに触れる機会が減り、何が善で何が真実か、そういったものを自然から学ぶことがなくなってきました。人工物だらけで、修理も修繕もできない物に溢れているうちに私たちはその暮らしの中に息づいている繋がりや絆などを受け継いでいくことを忘れてきています。

みんな祖父母や先人たちが行ってきた、物を大切にする心や、物を活かす心、そして丁寧にいのちに接していくことなども百姓の消失とともに失われてきました。このまま子どもたちに百姓が伝承されなければ、その百姓の心もまた伝承されないでしょう。

子どもたちが暮らしや自然から真善美の別を学び、それを自分の徳性を伸ばし積むための材料になっていくように百姓の心を伝承していきたいと思います。

縁起の意味

昨年末から、歳神様の依り代として鏡餅を床の間に飾ってお祀りしています。一昨年から焼酎を塗ったり、炭を敷いたり、山葵を置いたりと工夫してからカビることがなくなりました。御蔭で美味しくかき揚げにしてみんなで食べては元氣を養うことができています。

この鏡餅ですが、飾り方に意味があることをよく知らない人が増えています。私もむかしから、三法に和紙を敷き、円いお餅を2段にして下から裏白とゆずり葉、そしてお餅を挟んで橙を載せるのは知っていましたがその由来についてあまり関心がありませんでした。

時代の流れと共に、様々なことが縁起がいいと重ねてきたのかもしれませんが簡単にまとめてみようと思います。

一般的に鏡餅の餅は、三種の神器の一つの八咫鏡や、満月、蛇のとぐろや月や太陽、陰陽、心臓などをかたどったものと言われます。白はむかしから神聖な色として好まれてきて、ハレの日には用いられてきました。

そして裏白という葉は、ウラジロ科の常緑性の大形のシダで穂長ともいい葉(羽片)がしだれるので「シダ」と呼ばれます。これを「歯垂る」にあて、さらに「齢垂る」にかけて長寿の意味をもたせ、正月の注連飾りに用いられてきたそうです。また、裏が白いことから、「心の潔白さ」と「白髪になるまで長生きする」ということもあらわしているともいいます。

そしてゆずり葉は、新しい芽が出てくるまで古い葉が落ちないと言われそこから「親から子へ受け継ぐ」という意味になります。また、上に乗せる橙も、冬を越しても実が落ちないことから代々家が栄えていくという意味になるそうです。

このように、私たちの先祖は「縁起」というものを担ぎます。

以前、ブログで予祝のことを書きましたが日本人の先人たちは先にお祝いをしそののちに福が来るのを信じて待つという生き方をしてきました。この縁起もまた似ていて、先に縁起を担いでそうなるように信じるという生き方が縁起には入っているように私は思います。

常に「信」を先にして、それまでは苦労を耐えてでも弥栄えるように振る舞っていくという具合です。私も生き方を日本人の先人に倣い、転換してからは勇気と信じる、実践する、磨く、待つというように純粋に魂を高め徳を積ような生き方に転じていきました。

まだまだ不安な時も少しありますが、おかげ様で清々しい気持ちで日々の暮らしを味わっていくことができています。子どもたちに少しでも先人の生き方が譲り渡していけるように独り慎みながら丹誠を籠めた生き方を積み重ねていきたいと思います。

 

本物の暮らし

人間は時代時代にそれぞれの集合的な価値観があり、その価値観に左右されて生きているものです。例えば、戦争時は戦争にどのように勝利するかという価値観で社会は彩られその価値観が蔓延します。平和になれば、どのように平和を維持するかという価値観が蔓延します。

結局は、対立的な概念で社会は動いていますから時代の歩みにあわせて価値観は右往左往しているだけだとも言えます。現代は経済戦争の時代ですから、お金のために競争し少しでも経済効率を高めて収益をあげるかという価値観が蔓延しています。

アメリカや中国が、経済戦争真っただ中で日本も負けじと追い付こうとしていますが人口の減少と、高齢化によって働き手が少なくなり、外国人などを雇いいれていましたがいよいよロボットやAIまで投入して競争に突入する様相になってきました。

人間の仕合せというものは、本来は時代の価値観が変わっても変わらないものですが現代は盲目に目先の損得を幸福だと思い込む価値観が蔓延する時代ですからそれに右往左往しながら人間の本来の仕合せを見失っている人が増えているのも仕方がないことかもしれません。

しかし、現在、このような経済戦争の中で働くことができない人が日本には1000万人以上を超えているといわれ、心身を病んでいる人で薬漬けになって引きこもっていく人が増えていく一方だと言われます。これはなぜかということをもう一度、私たちは深く見つめる必要を感じます。国家は何をもって本当に豊かだというのか、世界の価値観が変わる時代だからこそ深く見つめる必要があるように思います。

実際には人類が永続して大切にしてきた幸福感は古代から何も変わってはいません。自然の中に入り、自然と共生しながら身近な美しい暮らしを体験すれば人間本来の価値観に目覚め、本当の仕合せとは何か、何を失っていたのかに誰しもが気づくはずです。

時代の変わり目というのは、価値観の変わり目ということです。

価値観が変わることで、時代もまた変わります。私たちは時代を変える存在でもあり、同時に時代に流されていく存在でもあります。だからこそ、その生き方の真ん中にある先人の紡いできた伝統や伝承を静かに見つめる必要があり、私たちは暮らしを立て直すことで生きていく意味や本当の価値を覚醒させて次世代へとつないでいく役割を持っているのです。

子どもたちのためにも、温故知新し洗練された本物の暮らしをつないでいきたいと思います。

徳を磨く場

昨日は御蔭様でBAを無事に開校することができました。多くの方々が遠方からお越しいただき、たくさんの裏方で支援してくださった方々の見守りを感じながら新たな時代の節目を迎えられることに喜びと感謝の気持ちで満たされました。

準備に際し、みんなで家を磨いていきました。清掃はもとより、蜜蝋などを使い建具や家具、そして火鉢や竈、さらには床板から柱にいたるまで体がへとへとになるほどに磨き上げました。

私たちが取り扱っているものは「徳」であり、徳は磨けば出てきます。磨かない時代は徳があまり出てきません。しかしこの徳があってはじめ道があり、道は徳によって顕現しますから徳が観えない時代は道に迷う人が増えてきます。

人間の完成とは何か。

それは徳を磨き、人格を高めることです。

なぜならそれが魂を昇華させ、一期一会のご縁を生ききりいのちを精いっぱい咲かせることになり、まさに天神合一、神人合一の澄み切った純粋なものに近づくからです。

私たちは自然の一部でありながら、自然を科学し、自然を深く理解しようとしてきました。縄文時代をはじめ、私たちの先祖は永い時間、悠久の時間、暮らしを通してこの世の中でやさしさと思いやりを磨き、素晴らしい人格を高めるために支え合い、信じあい、助け合い社會を形成してきました。

現代は、まさに過渡期であり価値観をもう一度見直す重大な局面を迎えています。それぞれの個人が家になり、家が組織になり、組織が大きくなり国家となっていく。その国家が醜い争いをするのは、言い換えれば国家から個人までの生き方や暮らし方が歪んだからだとも言えます。

論語の大学に、「修身斉家治国平天下」とあります。

孔子がもしも今生きていたら、きっと一人一人の中に、徳を磨くことを諭し自らも実践していくことが天下国家の道であると示すように思います。環境問題も社会問題もすべては人間の問題です。人間を深く愛するからこそ、私は人類の保育に携わり、人生をその道に捧げています。

新たな夜明けを味わいながら、太陽と共に歩み、世界に一石を投じていきたいと思います。

時代の分水嶺

私たちの地球は太陽のめぐりと共に生きています。太陽の周りを周回しながら、自転を繰り返し、適切な距離感を維持しながら果てしない時間を共にして銀河の中を歩んでいます。

太陽がなければ私たちは生きていくことはできません。太陽のいのちの熱によってすべての生命は育まれ、また日の光によってあらゆる自然は活かされます。

太陽の徳は偉大であり、その恩は広大無辺です。

むかしの人々は、その太陽の徳を感じながら生きてきました。世界中の文化には太陽を拝む信仰が溢れています。私たちの神道もまた太陽神をお祀りしています。日々に朝に太陽を浴びることは、いのちを目覚めさせることです。

太陽の光は、私たちの感覚の最も奥の深いところに届きいのちを目覚めさせます。「夜明け」というものの価値は、太陽が出てくることを観ればわかります。

日本の神話にも、日本がかつて暗闇に包まれたとき天の岩戸から天照大神が出現して世の中に和来と明るさが訪れました。

神話は単にあった出来事を遺しているのではありません。生き方としてどうあるべきかということを子孫へ智慧を伝承するために口伝するのです。太陽の徳を忘れずに、いのちの深い目覚めを生きなさいというメッセージでしょう。

声なき声を聴く力は、いのちの目覚めが必要です。目先の現象ばかりをみて宇宙を感じないような生き方を已め、宇宙全体のハタラキと地球や自然のいのちの呼応、そして自分自身の五感の甦生がいのちの目覚めを促します。

それは宗教でもなく、精神世界でもなく、まさに「場」の中にこそ宿るのです。

いよいよBAの開校ですが、世界を易える分水嶺の役割を果たしたいと思います。

徳の創生

先日、ある人との話で「公平」について考える機会がありました。行政や学校などはなんでも公平にしなければならないということで、実際には不公平なことが発生していて問題になっていることも多いように思います。

以前、ブログで平等の話をかきましたがこの公平もまた似たようなものです。平等の時は、与え手側の平等は受け手側にとっては不平等であることを書きましたが結局はこの公平も同じく与えて側の公平は受け手にとっては不公平になるのです。

現在の米中の貿易戦争などもそうですが、米国ファーストで考えれば貿易の公平という言葉は米国にとっての公平であってそれ以外の国にとっては不公平です。権力を持っている側が、公平にというものを実現するには私利私欲のない公明正大な意識が必要です。

しかしそれが制度や仕組みに頼っていたらそのうち、ルールを守ることが公平であると勘違いされていきます。ルールはいくらでも悪用されますから、使い手次第によってはまったく不公平に用いられていくのです。

本来、この公平や平等という言葉は前提に「思いやり」があってそれを客観的に表現するときに使われるものです。相手を自分だと思ったときに、みんなが安心して仕合せに暮らしていけるようにと配慮していくときに出てくる言葉です。

誰かが一方的に押し付けてくる公平さや平等さは、思いやりではなくルールや仕組みを優先して自分で考えることをやめてしまうときに用いられているのです。

中国の書、「礼記」にこういう言葉があります。

「天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし。」

これは天は万物を覆って、特定の個人のみを覆うようなことはせず、地は万物を載せ、一人のみを載せることはしない、日月は公平に万物を照らし偏ることがない。天地日月はすべてに公平無私であるという言葉です。

これは君子の徳のところで出てくる話です。

孔子の弟子の子夏が「夏の禹王、殷の湯王、周の武王の三王の徳は、天地が万物を生成していく仕事に参加できるほど高いものであったといいますがその徳がどのようであれば天地の事業に参加することができるのでしょうか、お教えください」尋ねました、それに応じて孔子は「その徳は”三無私”を旨として天下のために働くことである」といいました。具体的には、「天に私覆がなく、地に私載がなく、日月に私照がない」この三つの無私を模範とすることだと。

果たして、「公平」であることを語る側が本当にこの三無私の実践をしているのか。それとも行政という立場だからや、法律だからとその仕組みだけそれ無私風にしているだけか、この小さな積み重ねが徳を積むのかどうかにかかってくるように私は思います。

徳を積む人たちは、無私の境地に近い方ばかりです。そういう人たちを、立場や権力る人たちの公平や平等を押し付けられることでその徳が働きにくくなってくるように私は思います。

徳が働きにくいというのは、「機会」や「挑戦」ができずらい環境になっているということです。せっかく新しいことを創生しようとするのなら、平等に公平に与えるべきは挑戦する機会であることは自明の理でしょう。ご縁があるからこそ、私たちはそのつながりによって発展し成長していきます。

それを徳とするのなら、国造りとは徳の創生であることは間違いありません。引き続き、私自身の挑戦から徳積の国造りに挑戦していきたいと思います。

循環の幸福

私たちは死んだら必ず土に還ります。いのちは地球から出てきて、私たちは地球のものを食べ、いのちを分けてもらいながらこの地上で役割を果たしていきます。そのいのちを充実させていくことを暮らしといい、死ぬと墓とかくようにいのちは地球の内部をまた循環していきます。

それなのに、この人類はこの地上を農薬などの科学物質で汚し穢し舗装をしては呼吸をできなくしていきます。温暖化というのは目くらましで、本来は地球の循環を止めていくことで人類が好き勝手にできる領域を増やしていくのがグローバリゼーションの本質なのでしょう。

人類の仮想空間とは、自然から乖離した人類だけが中心になり存在する世界を築くことです。今のAIの台頭もまた、進化により過渡期に入ったということでしょう。仮想の生命は電気がなくならない限り死ぬこともなく永遠ですから、これでついに人類の夢がひとつ叶ったと言えるでしょう。

しかしです、そこにいのちはありませんし循環することもありません。私たちは、仮想世界の密度が上がっていくことと同時に「いのち」の存在をはっきりと自覚するようになっていきます。それは人間には死があるからです。

地球の中で循環することは、私たちに本当の永遠をもたらしてくれます。それはその時々の深い人生の味わいを感じることができるからです。これらの感じる力は、いのちの充実によって行われます。

そしていのちが充実するのなら、そこには必ず循環の幸福があります。

いくら化学が進んでも、いくら文明が究極的なレベルに高まっても決していのちが充たされることはありません。そして必ず最期はその循環の幸福を求めるはずです。

自分たちが一体、どのような存在であったのか、知識量が膨大に増え頭がこれだけよくなった時代なのだから少し考えればわかるはずです。

子どもたちに循環の幸福が伝承できるように、暮らしフルネスを場で弘めていきたいと思います。

徳を積む人たち

最近、「徳」のことを聴かれ徳の話をすることが増えてきました。しかしこの「徳」という言葉、本来もっとも日本人に親しまれ日本で当たり前にあったものであるのは歴史を鑑みればわかります。

それが現代になり、「徳」という言葉をあまり耳にすることなく、字も書けない人が増えているといいます。それはなぜかということです。

これは私の洞察ですが、一つには自然から離れたからということ。その自然とは、単に人工都市か自然かということではなく、人間の思い通りにして自然を尊重することから離れたということです。

そしてもう一つには、先祖や先人の恩恵や真心に感謝する機会が失われたということ。これは単に、仏壇があるとか顕彰しなくなったということではなく、その先人からのつながりに感謝することをやめて目に見えるものばかりを信じるようになったことです。

またもう一つは、伝統文化という先人の智慧がプツリと切れたということ。これは単に伝統文化に興味がなくなったということではなく、新しく便利なものが価値があると信じて古いものは価値がないと捨てていくようになったことです。古いものは、何世代もかけて一生をつぎ込み実験実証をして子孫たちによりよいものを渡していこうと努力したいのちのリレーで出来上がっています。そのバトンを受け取らず、個人主義の名のもとに個人の人生を優先し、連綿とつながり人生を切ったことです。

実際には他にも大小はありますが、「徳」が観えなくなった背景にはこれらのような文化消滅の仕掛けが働いているようにも思います。文化がない国が、文化のある国を毀す、不易と流行は時代の常ですがまさかここまでかとその破壊力に驚くばかりです。

しかしどの時代も、それを小さくとも守り次世代へつなげてきた人たちがいます。徳を積む人たちです。そういう徳を積む人たちによって、私たちの暮らしは約束されてきたのもまた真実です。

子どもの仕事とは何か、幅広いように見えてしまいますが実際の子どもの仕事とはシンプルに言えば人類の子孫のために自分たちのいのちを使っていくことです。どういう世の中にしてほしかという思想は文化と共に存在します。

徳を後世に引き継いでいきたいと思います。

ぬくもり

私たちは皮膚で温度を感じますが同時に「ぬくもり」というものを別で感じているようにも思います。このぬくもりとは、いのちの温度でありそれは単なる冷熱ではなくまさにその温度の超えた存在のぬくもりを五感で直観しているともいえます。

例えば、「手仕事のぬくもり」というものがあります。心を込めてゆっくりと丁寧に手を使ってつくりあげたものにはぬくもりを感じます。機械で簡単便利にさっさと仕上がったものではなく、一品一品丁寧に時間をかけて取り組んでいればいるほどそのものからぬくもりが出てきます。

このぬくもりは、一体何処から来るのか。私たちはこの不思議さに気づけるかどうかで暮らしの豊かさも変わってきます。そして何よりこの暮らしの豊かに気づくには何よりも先に「手入れ」というものをまず学ばなければなりません。

「手入れ」とは、そのもののいのちに触れて甦生させていくことです。つまり、そのもののぬくもりに直接的に触れることによってその「いのちのぬくもり」を味わうという一連の動作のことです。拭いてあげたり、磨いてあげたり、整えてあげたり、修繕してあげたりと直接的に触れて甦生させていくのです。

私は日々の暮らしの中で、手入れを楽しんでいますがこれはぬくもりを味わっているということです。

無機質で機械的に手仕事ではなく造られたものはあまりいのちのぬくもりを感じません。しかしそれも少しだけでも手を入れてあげれば、ぬくもりを感じられるようになります。具体的には、生け花を添えたり、手漉きの和紙を敷いたり、何か見せ方を設えてあげることでもぬくもりは現れます。

生きものたちはみんなそのぬくもりを感じることで、いのちの仕合せや豊かさを感じて自然と合一して心を平和にしていくのです。

今度、BAでは志半ばで斃れた友人の遺志を石に刻むことにしています。その友人は生前にこういう言葉を遺していました。

『頭でひねり出した理論的正しさだけではなく、コードを書くこの手の感性を信じること。それが、自分が書くコードと世の中をリンクさせ、ソフトウェア開発のダイナミックさを引き出す道だと思う。だから、どんな立場になっても、コードのそばにいるよ。』(高橋剛より)

この手の感性を信じるということは、「ぬくもり」を持って取り組んでいくことが何よりも大切なのだと私は受け取りました。そのいのちのぬくもりを感じながら、取り組んでいくことでいのちは様々な世界に融合し広がっていくということ。

自他を自然にして、「いのちの中に入る」ということが私たちは「この世で何かを産み出す」ということなのでしょう。

BAは間もなく開校しますが、有人の見守りをいつでも感じながら前進できるように石碑にその言葉の真意を刻みます。子どもたちに、先人の生き方が伝承できるよう私自身もぬくもりを大切にしながら取り組んでいきたいと思います。