天のメッセージ

人生の羅針盤の言葉の一つに、老子があります。孔孟の教えも己に克つことに満ちていますが、自分で自分を正しく理解し、己を制し律し克つことができて人間力は磨かれています。

しかし、どうしても己に負けて無意識にうちに現実から乖離し、真実から遠ざかってしまうと本当のことや真理がねじ曲がってしまうものです。そういう時こそ、先人の智慧に触れ反省をして素直に謙虚に学び直す必要があります。

老子は特に、人間力について精通しているように思います。

「賢者は人の上に立たんと欲すれば、人の下に身を置き、人の前に立たんと欲すれば、人の後ろに身を置く。かくして、賢者は人の上に立てども、人はその重みを感じることなく、人の前に立てども、人の心は傷つくことがない。」

「優しくなりなさい。そうすれば勇敢になれる。つつましくなりなさい。そうすれば広い心を持てる。人の前を行かないようにしなさい。そうすれば人を導く者になれる。」

謙虚でいなさいと諭します。まさに謙虚は魔除けなのです。

そしてこうも言います。

「他人を知るものは賢いが、自分自身を知るものは目ざめた人である。他人に打ち勝つものは強いが、自分自身に打ち勝つものは偉大である。」

「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富む。」

自分自身に打ち克つことが本当の「力」であると。力とは、決して能力や権力ことではなくまさに自分に克つことこそが「力」の本質だといいます。

そしてこうもいいます。

「優しい言葉をかければ、信頼が生まれる。相手の身になって考えれば、結びつきが生まれる。相手の身になって与えれば、愛が芽生える。」

本物の信頼とは、優しい言葉の中にあるもので相手の身になっているからこそ結ばれると。そして思いやりをもって接すればそれが愛になると。どの時代もどのような人も、信頼はやさしさと思いやり、まごころを通してしか結ばれないということです。

無為自然を説く老子はこう言います。

「現実を現実として、あるがままに受け入れなさい。物事をそれが進みたいように、自然に前に流れさせてやりなさい。」

すべては天にお任せしていけば、なるようになると。だからこそ素直に謙虚に任せて信じて自然であれといいます。

最後に、老子の格言です。

「足るを知れば辱められず、止まるを知ればあやうからず。」

私自身、日々のご縁をすべて天のメッセージと受け止めながら自分自身を見つめ反省して生き方を老子に学び直したいと思います。

祈年祭4

昨日は、千葉県神崎にあるむかしの田んぼで無事に祈年祭を行うことができました。前回同様に、むかしの田んぼの中に祭壇を設けお祀りして宮司様に祝詞を奏上していただきました。

祝詞も仕来たりも古代からの祈りが甦生されたもので、祈年祭の意味を深く味わう善いご縁になりました。美しい空と田んぼ、澄んだ空気、そして春風に純白の和紙がたなびく様子にこれからはじまる稲との四季の暮らしを想い、荘厳で清浄な心持になりました。

お祀りが終了し、宮司様と一緒にみんなでお神酒をいただきましたがその際に「おめでとうございます」という声を合わせました。

通常ならば何もまだ収穫をしたわけでもなく、結果が出たわけでもないのになぜおめでとうございますなのかと思うかもしれません。しかしこれは古代から連綿と続いている日本人の精神文化を象徴するものなのです。

「前祝」という考え方があります。これはあることが善い結果になるように確信して祈り、結果が出る前に先に祝ってしまうという考え方のことです。よく前祝として、祝宴を開いたり、桜の花の下で宴会をして新しい年度の未来を祝うものもその一つです。

これを別の言い方では予祝とも言いますが、予めそうなると信じて先に祝ってしまうというのはどのようなことがあったとしてもそれは丸ごと「福」であると信じる気持ちがあるということです。この「福を待つ」という生き方は、どんなことがあっても希望を失わず与えられたすべてのご縁を神様からの恩恵としてみんなで受け取り味わっていこうとする素直で謙虚な生き様です。

宇宙自然の道理として、福は追いかけるものではないということ。すでに福は身近に訪れており、それを信じて待つことこそが福を知り福になるという真理をいうのでしょう。

幸福に気づかない人は、希望や夢までつまらないものに変えてしまいます。なんでも面白がるところに発酵があり、どんなことでも天与の徳であると楽しむところに希望や夢が存在しています。

私たちのご先祖様たちが、かつてどのような環境下や状況下であっても希望を見失わず福を待ち、夢を実現してきたから今の私たちが生き残っています。その中で特に大切に重んじてきたものこそ、いのり福で居続けることだったのでしょう。

子どもたちにも、そのような先人たちの智慧や遺徳、また伝承されてきた前祝の意味や価値をむかしの田んぼを通して継承していきたいと思います。

祈年祭1

来週の月曜日は、千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」で祈年祭(きねんさい)というものを行います。これは秋の新嘗祭(にいなめさい)と対になっているお祀りです。別名で春祭「としごいのまつり」ともいいます。

このとしごいの「とし」とは稲のことを言いますが、五穀が無事に成熟を祈る祭りです。私たちの先祖は、稲作による農の暮らしを政にして国家を健やかに治めてきました。四季の中で春には年穀の豊穣を祈り、秋に豊作を感謝する祭りを行い人々が安心して協力し助け合い仕合せに暮らしていけるようにとみんなで祈り取り組んでいきました。

祭りごとは、政りごとでもあります。むかしの暮らしは常に祭政一致であり、人々が道理に従って物事を整えるために理念を司る人が祭祀をし謙虚に人々のあるべき姿に導き、それをみんなが協力して実現していくという形態をとって暮らしてきました。それがもっとも争いが少なく、平和が続く仕組みとして私たちの先祖は親祖の代より「稲作」というものを選択し、この稲つくりを通して人々に生き方を稲から学ぶようにと諭したのです。だからこそ稲を主食にし、稲作がすべての基本に据えて暮らしを成り立たせていたのです。

つまり私たち日本人にとっての政治の先生は「稲」であるということです。

現代では、お金が増えて物が世界中から入ってきますし養殖をはじめ様々な生産効率をあげてお米を食べる人たちも減ってきています。さらには稲作は政治ではなく、農家の収入源として生産されますから一般の人たちは稲作に触れることもありません。

稲作を通して大切にしてきたことまで失くしてしまうことは私たちがどのように暮らしてきたかを失くすことになります。また稲の先生から学んでいたことが失われれば、先人たちが永い年月をかけて伝承してきた自然の智慧や伝統の叡智も失われてしまいます。

だからこそ、本来はどうであったのかを省みて甦生していくことが温故知新でありその時代を生きる人が次世代へとつないでいく役割と使命だと思うのです。

むかしの田んぼの、「むかし」とは「はじまり」のことをいいます。はじまりを大切にすることが初心を守ることであり、それをつないでいくことです。伝承というものは、先人の智慧を尊び、今の自分がそれを伝えていくことで実現します。

子どもたちがこの先に生き方に悩んだとき、そして道に迷ったとき、正しく遺してあるものがあることで救われる未来があるように思います。だからこそカグヤがこのむかしの田んぼに取り組んでいく意義があるのです。

そして私たちの先祖にとって「祈る」ということは一体何だったのか、ここをこれから書いていきたいと思います。

 

21世紀型日本民家

昨年、私たちの聴福庵に訪れた方が自宅を聴福庵と同じように落ち着いた空間、穏やかで和む場にしたいと熱望されました。その際は、古民家の年輪や時は刻まれたものでそれを磨き直してできたこの独特の場、間、和は難しいとお断りしました。

しかし、ぜひ寝室の和室だけは健康を維持するためにも本物の和で休みたいと仰っていたので和室だけはとお手伝いすることにしました。具体的には、和室に備長炭を500キロ入れ、水晶の欠片を50キロ、また伝統の七島イの畳を古来からの形式で丁寧に畳職人が仕上げたものを入れ、壁紙には手漉きの秋月和紙と襖には京都にある伝統唐紙で若松紋様と枝桜紋様を仕立てました。また装飾には、菊炭を50キロほど、唐紙の行燈をはじめ、照明も創作の作家のものにしています。

それが終わり、これでひと段落と安心していたらどうしてもリビングやトイレにカビ臭さがあり室内の空気が悪いので何とかできないかと相談を受けました。和室をそれまでのものと変えてからはよく眠れるようになったと大変感謝され、どうしても健康のためにもっとも過ごす場の空気を改善したいと依頼されました。

そこから悩んだ末に、居心地の善い空間として本物の伝統の素材によって改修することを決めてこの一か月取り組んできました。

具体的には、壁面はすべて伝統の漆喰を塗り、トイレには土佐漆喰、その天井には珪藻土を施しました。また床の間風の場所には、その土地の伝統の土を用いた割れ壁塗り。主な柱をはじめ、梁には古色の弁柄、階段や扉には渋墨を塗り、そのほかの床をはじめ様々な建具は場所には柿渋で仕上げました。

また窓のすべてに障子を施し、和紙は手漉きの秋月和紙を、室内の床下には大量の竹炭、そして空気の循環を計算し空調の配置とファンを取り付けました。修繕が終わり、確認すると明らかに室内全体の空気が異なり、空気が澄み渡っていました。

さらに、落ち着いた空間というニーズに対応するため日本の伝統職人が一つ一つ丁寧に手掛けたビンテージの家具を揃えていきました。具体的には、明治頃の七段箪笥に武家箪笥、欅のキッチンテーブルに大きな八角火鉢テーブル、本漆塗りのローテーブルをはじめ60年前の手作りのソファーや、七島イの円座、岐阜美濃和紙の照明や藍染の筒描きなどです。

そして室礼には、古伊万里の花器や室町時代の古備前の壺をはじめ、古く懐かしいもので飾りました。夜は灯りを楽しめるようにと、和ろうそくや行燈などを設置し、光の加減には特にこだわりました。

この後は、トイレと洗面所の陶器を有田焼で仕上げて庭をデザインすれば終了です。この私のデザインを見た方はこれを和モダンや古民家風といいますが、私は和モダンとは思っていません。日本人本来の伝統を守り美しい暮らしのままに家屋を甦生するのは和風ではないし古民家風ではないのです。

21世紀型の日本民家はかくあるべきという思いから、このように仕上げたのです。時代が変わっても、変えていいものと変えてはならないものがあります。それが正しく継承してこそ、本物がわかるということです。

もしも次回の修繕の依頼があるのなら、今度は和で洋を丸ごと呑み込んでみたいものです。子どもたちに遺していきたい伝統や思い、その生き方を一つ一つ形にして智慧を譲り渡していきたいと思います。

おもてなしの本質

昨日は、大阪の藤井寺にある佐藤禎三さんのひな祭りを拝見するご縁がありました。3月3日をはさむ土日含む数日間、屋敷内全部を自由に開放しいろいろなお雛様をお披露目してくださいます。

すでに30年間、毎年これを自費で実施されてこられたことも驚くことながら4日間で約4000人ほどの来訪者の方々にお茶やお菓子も無料で提供されておられます。

「おもてなしの本質」とは何か、まさに生き方から深く学び直させていただきました。

佐藤禎三さんは、ご自分の数寄を純粋に徹底して極められておられまさに当代一流の数寄者であり遊び心に満ちた方でおられました。すべての暮らしの古道具も佐藤禎三さんの手にかかれば甦り喜びます。そしてすべての人形や陶器などの「もののいのち」もまるで披露宴のときように活き活きと輝きます。美しいものが穏やかに和して独特の空間を創造し場が落ち着いています。

そしてその喜ばせよう、喜ぼうとする純粋な想いとおもてなしの室礼は人々を深く感動させます。その物事の意味や本質を見極め、それを深く咀嚼し理解したものを自己のいのちを輝かせるように遊んでいくということが如何に美しいか、日本の精神文化や和の心の意味を改めて学び直させていただくばかりです。

また最後に、お抹茶と和菓子をいただき「ご馳走様でした」と感謝を込めて来訪者は笑顔で帰られます。ここにもお祀りされている韋駄天尊のように礼を盡されます。この韋駄天はもともとはバラモン教の神さまでしたが仏教に取り入れられて仏法や仏教徒を守る神様です。

「韋駄天」の由来と伝承はお釈迦さまがお亡くなりになった後、お釈迦さまの歯を盗んだ盗人を駿足で追いかけて捕まえ歯を取り戻したことから足が速い人のこといいます。

そして日本の礼儀の一つ「ごちそうさまでした」は漢字でご「馳走」さまであり「韋駄天」が駆け巡って食物を集めたことに起因します。ここからおもてなしをする「美味しい料理」という意味に転じ、その準備をしていただいたことに感謝する言葉になったといいます。

ご準備していただいたのを楽しみ喜ばれ恩着せることも一切なく、そこには自他の喜びのみがある。すべてのものが活き活きと喜ぶ価値観に触れることは、美しい暮らしそのものに通じています。

この学びを子どもたちの未来へ託せるよう、自己精進を味わって私も数寄を愉しみたいと思います。

最幸の学校~本物の実力~

昨日、3年間をかけてコンサルティングをしているある高校の卒業式に参加しました。ここは明確な理念を掲げを子どもたちと大人が一緒に学び合い成長していくことを実践している学校です。

世界が科学技術の発展によって一つにつながっていく時代、いかにグローバルな視座でこの先の時代を子どもたちが創造していくのか。それを深く考え抜いた現理事長が「心の持ち方を学ぶ」という一語に魂を籠めて具体的な教育方法として多様性の発揮や個性の尊重、主体性や協力といった本質的な人間の「成長」に軸足を置いて私たちの知恵の結晶でもある一円「対話」という仕組みを使い学校の改革に一緒に取り組んでおります。

私もこの3年間の集大成として、卒業式の一円対話に参加しましたが生徒たちは最初に打ち立てた自分の初心を見事に3年間守り通し、立派に人として「成長」していたのを実感しました。その証拠に、一人ひとりが丁寧に3年間の学びを発表していきましたがその非常にオープンで自由に発言していく人の言葉の中に「心の持ち方」をしっかりと学んだことが凝縮されていました。

そして生徒も先生も一緒に学ぶだけでなく、最後は保護者も一体になって心の持ち方を学び合う姿にこの学校の「本物の実力」を感じることができました。そして生徒たちが初心を語るとき、その初心がこの3年間で全員実現したと自分の言葉で語るその自信に溢れる姿に一人ひとりの「誇り」を感じました。「誇らしい」という言葉は、その人が自分らしく自分の足で歩んでいると感じた時、私はその言葉を用います。つまり生徒たちはみんなこの3年間の学校生活を通して自己と深く正対し「人としての自信」を身に着けたのです。これはこの先の未来において、何よりも重要な時間を過ごしたことになるのは明白です。学問本来の醍醐味とは、この「初心に費やした時間」を言うのです。それが「自ら道を拓く」ということだからです。

そして、私自身もまたこの生徒や先生、学校から深く学び直しています。なぜなら心の持ち方は生き方であり、生き方を学ぶのは決して能力や資格、知識なのではなく「共に今を生きる人間として学ぼう」とする生きた学問だからです。また単なる成功を望むのではなく、幸福を感じ直すための本物の学問です。このような学問を、現代のような一斉画一教育や知識偏重型の刷り込み教育が横行する世の中において、そのバランスを保ちながらも子どもの生きる力を尊重するこの実力がある学校が日本にあることが私の心の誇りにもなりました。

善い志事に恵まれ、善い同志に恵まれ、善い仲間に恵まれたことに何よりも感謝したいと思います。卒業というのは、次のステップ、次のステージに「挑戦するための門出」でもあります。

時空は前へ前へと進んでいきますから、振り返りをしつつも決して立ち止まることなく初心を守り続け夢の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

このような一人ひとりの人生を尊重していくような最幸の学校が、世界に増えていくことを祈り、私も自分の使命に全うしていきたいと思います。

一期一会に深く感謝しています。

人生のスキル

2000年に労働に関する計量分析手法を発展させた実績でノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学教授のジェームズ・J・ヘックマン氏がいます。この方は、「5歳までの教育が人の一生を左右する」という言葉を残しています。

これはヘッグマン氏が研究した「ペリー就学前プロジェクト」「アベセダリアンプロジェクト」という2つの研究に因るものです。具体的には、恵まれない家庭の子どもたちを対象に2つのグループに分けて幼少期より成人するまでの期間に追跡調査を行い幼少期の環境を実質的に改善する事実を導き出すという研究です。ここでヘッグマン氏は5歳までに与えた教育がその後の人生に大きな影響を与えることと、5歳までに重要なのはIQに代表される認知能力だけでなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力がかなり重要になってくることに気づいたのです。

つまりは、5歳までにどのような教育環境があったか、その上でその子がどのような非認知能力を磨いたかということが一生を左右すると言及したのです。この非認知能力とは人格形成で得られる性格スキルのことです。具体的にはこの研究から下記の性格スキルに絞り込みました。

■粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
■好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
■明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的。
■思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性。
■感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定。
となっています。これを現代の社会人でいえばいくら資格を持っていて実務能力だけが高くてもその知識や技能を活かしつつ、「他者と協力して一つの仕事を作り上げていく」というような協調性・社会性などが必要です。この単に知識や能力や資格などでいくら優秀だと評価されていたとしても、実際に仕事をしていていつも怒ってばかりや、いつもイライラしていたり、周りを威圧したり評価したり、文句を言ったり批判したりしていたらいくら優秀でもそれではみんな嫌がって仕事を創り上げていくことはできません。
仕事は、すべて性格があってのものです。人への気配りや、場を明るくしたり、目的を握り、視野を広げ、前向きに考え、みんなが快適であるように自分を使っていくなど、実際の実務以外にその器のようなものがあってみんなの協力を引き出していくのです。先ほどの性格スキルは、その非認知能力のことを言うのです。
大人になったとき、その力が存分に発揮されるのならその人は仕合せに豊かに、仲間と一緒に成長して成功も得る可能性が高いというのは自明の理です。
この非認知能力を伸ばすには、心の教育が必要だといいます。
心はどのように育つのか、それを向き合ってみるとわかります。様々な体験を通して振り返りその体験の意味を学び直したり、自分自身の性格をよりよく磨くために考え方を転じたり、新しい習慣や笑顔、そして周囲に気楽な雰囲気を与える人になろうと努めたりと、つまりは「生き方」をどうするかを決めるという学問をするということです。
そしてこれは教えられるものではなく、周囲の大人の生き方がもっとも影響を子どもに与えることはだれでもわかります。だからこそ私たちの会社は、子ども第一義の理念を実践すべく、生き方と働き方を分けないで取り組んでいくのです。これが人生のスキルなのです。
これは5歳までにできなかったから無理ではありません、人の一生は長く影響が大きかった5歳までが一区切りですが、それでも生き方を変えた大人の存在は人類全体に多大な影響を及ぼすのです。
引き続き何のために社業に取り組むのかを追求しながら、かんながらの道を切り拓いていきたいと思います。

むかしの道具

むかしの道具というものがあります。最近では、道具は大量生産された便利なものが当たり前ですが一昔前まではすべて手作りで加工された道具がほとんどでした。

古民家甦生で関わっている伝統的な職人さんたちは、今でもむかしの道具を大切に手入れして使っています。例えば左官職人、畳職人、大工もまた伝統的な道具を用いて手作業で修繕をしていただいています。

この道具というものは、歴史が古く元来は道の具と記すように僧侶の修行のためのものとして用いられていました。それが時代の変化と共に、武具や農具になり、茶道具、華道具のように芸術的なものになり、江戸時代のころには様々な商業や農業、暮らしを支える家財道具として発展してきました。

そして産業革命以降は、道具も次第に使い捨てが当たり前になり便利なもの、交換がきく道具が生み出されていきました。

道具の歴史を遡り今に追いかけてみると、人間の生き方の変遷もまた道具と共に歩んできたことが分かります。つまりは人間の進化のプロセスもまた、この道具から観察し検証することができるということです。

私が道具に対してもっとも印象深く感じているのは、奈良の大和時代、法隆寺を建立した大工の使っていた槍鉋です。宮大工で有名な西岡常一棟梁が、この槍鉋を現代に蘇らせたのは有名です。西岡棟梁は、「木は二度生きる」を信念として切った後にどのように木に接するかで木はそこからもう一度、いのちが与えられるとしました。そのためにいのちを活かす道具でなければならなかったのです。現代の道具で木を削るとすぐにカビが生えダメになるものも、この槍鉋で削るとカビが生えないなど道具一つでその木のいのちを左右したのです。この法隆寺は木の声を聴いて木組みし、まさに道具も木と対話しているから千年の歴史を持つのだと。

その他にも、法隆寺の和釘や様々に加工された装飾などもすべていのちを活かす道具で取り組まれたのが分かるそうです。つまり、現代のような使い捨てのいのちを無視したものを道具とは呼んでおらず本来の道具とはいのちを活かすものを定義していたのです。

むかしの道具は、このように現代の道具とは違いいのちを粗末にすることはありません。人間のために便利に都合よく大量に生産できるものは果たしていのちとしてそのものを観ているのでしょうか。単なる「モノ」に成り下がったものは、本来の「もののあわれ」にあるようないのちや魂を宿しているものではありません。

道具というものは、本来、人間の手足がそのまま伸びたものと考えられていました。使い手の道具は自分と一体ですから、自分の生き方や人格、そしてそれを用いる哲学や思想、心が出てくるものと信じられていました。だからこそむかしの道具は、命懸けて職人さんが手作りし、使い手はよく手入れし大切にし、最期は供養をして土に埋めたりお焚き上げをして祈りました。

むかしのことを言うことは単なる懐古主義で言っているのではありません。現代の世界の状況を見ると、資源が枯渇し人口は増え続け、資本主義経済は過渡期を迎え増え続けたものは日々に使われもせずにゴミとして廃棄される毎日です。

こんな日々の中で、道具は死に絶え、人々の命や心も貧しくなってきているように思います。

私が古道具にこだわり、暮らしを共にするのはいのちを大切にできることを知っているからです。敢えて現代だからこそ、むかしの道具たちを復活させていくことが大切なのです。

同じように暮らしを改革する仲間を求めていますし、子どもたちにその道具を通してむかしを学び、心を磨き魂を高めてほしいと祈ります。引き続き、変人奇人と笑われようと我が道を貫いていきたいと思います。

一円和合

人間にはそれぞれ多様な個性があるように多様な偏りがあるものです。この偏りとは辞書でひけば「 1 真中からずれて、一方に寄る。「針路が北に―」 2 正しい状態からずれて、不公平・不均衡になる。偏する。」と書かれます。

この偏という字は、よく「偏見」という言い方もされますがこの偏の字の語源はどちらか片方の門から人が文字を見るという具合で成り立っています。

この偏見というものは、偏った見方をすることであり中正ではないときに使われます。この中正とは、本来は私がよく使う一円観で言う中庸・中心でありみんなで丸ごと受け容れた時の状態のことです。一人一人の意見をよく聴いて、みんなでその意見を聴いて判断していくのであればバランスが取れた中正的なものに近づいていくのです。

しかし今の世間での偏見は、何か一つの価値観だけで縛りこみ、その価値観に合わない人を裁くような偏見を用いられているように思います。偏りがある人を差別したり、排除したり、排斥したり、変人奇人だと決めつけて仲間外れにしたりすることは決して偏りを活かし合う本来の人類社會の在り方ではありません。

みんな似たような価値観を持たされ、みんな同じでないといけないような圧迫した環境を与えられれば偏りがある人である人ほどその価値観で生きていくことはできなくなります。つまり生きづらくなっていくのです。多様性を認め合う社會は、お互いの偏りを活かし合う社會です。

だからこそ、偏見で裁くのではなく偏見でみんなと折り合いをつけて丸ごと認め合おうという寛容さで社會を創造していくことが全体バランスを保ちながら人類が共存共栄をしていく仕組みになるのです。

この全体バランスとは何か、それはみんなが偏っていることがいいという状態です。人間は集団を創る生き物だからこそ、色々な人たちがいてその人たちがお互いにどう活かし合おうかと考えてここまで人類を発展させてきました。

一部の人たちにだけ都合が良い集団は、活かし合う集団ではないことはわかります。場合によっては活かし合うではなく殺し合うような集団や社会に育っていくかもしれません。

その人の持ち味を活かすか殺すかは、その集団が何を目指しているか、どのような社會を築こうとしているかに関わってきます。人本主義なのか拝金主義なのか、それもまた組織や集団の意識が決めます。人を大切にする組織、人を大切にする集団であればまず傾聴をし共感をし受容して感謝し合うような関係を築いていく必要があります。

そのためには、常識に照らして自分の意見が正しいと教え込むような環境ではなく、それぞれに一理あってみんな正しいといった一円和合する環境を用意し人類を見守り続けていくことだと私は思います。

一円和合の環境を子どもたちの現場に少しでも伝道していけるよう、社業を高めていきたいと思います。

 

 

人類の過渡期~3つ子の魂~

人間が自然な存在としてこの世にあるのは、「生まれ持ったものを磨く」ときに認識するものです。その生まれ持ったものは、その人にしか与えられない天からの使命でもあり恩恵でもあります。人間はその生まれ持ったものを磨くことで世の中に役に立つ存在になれば自然体でこの世の中を自由に自立していくことができるからです。

誰もが正直に素直に自然体で生きられる、共存共栄する世の中はまずこの生まれ持ったものを磨くことを受容されている世の中かどうかで決まります。

私の本業で関わっている幼児の世界は、日本に古くからある諺の一つで「三つ子の魂百まで」と言われ、西洋の諺にも「The child is father of the man」(子どもは人類の父)」と言われ、それだけこの時期に与える影響は一生、また人類の未来に影響を与えると言われます。

その時期の子どもたちがどのような環境であったか、またどのような社會であったかは、人類をはじめ、その人の人生の左右する一大事であるのです。

脳のニューロンの数は1歳の時にピークを迎え、3歳までには個性の要になる人格形成や言語能力も形成されるほど急成長の時期です。この時期に、天性のものを磨くことを見守られるたかどうかはその後のその子の一生に大変大きな影響を与えてしまうのです。

また心においては、さらに影響が大きく心の根もその時期に育っていきます。だからこそその土壌がどのようになっているかが人類の未来を変えてしまうのです。私が乳幼児期にこだわる理由はここにあります。

この時期の子どもたちが自然体で正直で素直に健全に伸びるような見守られた環境があるかどうかで仕合せかどうかが決まり、世界が変わるかどうかが決まります。人類は長い時間をかけて伝承という仕組みを用いて今よりもさらに善くなる未来を創造してきました。この循環の仕組みは天の法理であり、いのちはこのようにバトンを繋ぎながら世界を創造し続けてきたからです。

子どもが天から与えられたものをどう削ぎ落さずに磨いていくことができるか、本来はそれが教育者の役割であったはずです。いつからか削ぎ落してはならないものを無理に削ぎ落させ、別の人生を刷り込み、その他大勢になるように洗脳するようになればその子らしさが失われるだけではなく、本来のその人が失われることもあります。

自分らしく生きるというのは、自然体のままでいい人を増やす社會にするということです。自然体のままで許される社會は、「それぞれが生まれ持ったものを磨き合う社會にする」ということです。

私が見守ることに人生を懸けるのもその理由に尽きます。

人類の過渡期に、今こそ子どもたちの環境を見直す必要性を感じています。長い目で観て、一緒にこの使命を共にしてくれる仲間を求めています。それぞれが安心して心の中の平和を保てる時代になるように協力していきましょう。