聴福庵

「炭鉱のカナリア」という慣用句があります。これは炭鉱においてときおり発生するメタンや一酸化炭素といった窒息ガスや毒ガス早期発見のための警報としてカナリアという鳥が活用されたことが由来です。鉱山以外でも、戦場や犯罪捜査の現場で用いられたりします。また金融の世界では、株価の急落や景気変調のリスクを示すシグナルの意味で使われたりもします。

このカナリアはつねにさえずっているので、異常発生に先駆けまずは鳴き声が止みます。そうやってカナリアが危険を察知して騒ぎ立てることで、人々のいのちを救ったのです。ここから身を捨てて多くの人々を救うという意味でも用いられました。

聴福庵は、筑豊炭鉱の中心地にありかつての炭鉱王伊藤伝右衛門邸の正面にあります。この炭鉱はかつては日本の産業革命の際の全エネルギーのほとんどをこの地の石炭で賄ったほどに貢献してきた土地です。つまりひとつ前の時代の変化の礎になってきた歴史を持っている場所に建っています。

世界の進む方向が大量生産大量消費のグローバリゼーションの席巻で自然を覆いつくすほどの市場を拡大していく中で、大勢の人々が自転車操業的に資本主義経済の激流に流されるまま流されているだけでこのままでは危ないと気づいていても進む方向を誰も変えることができなくなっています。歴史に学べばこのまま進めば人類はかつてないほどの危機に晒されることになります。この濁流に柵をかける人たちがどれくらいいるかわかりませんし、崩壊しないように楔を打つ人がいつでてくるのかもわかりません。

世の中の道とはまるで逆走するかのように聴福庵はその反対の方へと孤軍奮闘しながら前進して小さな鳴き声で危機を発信していますがまるで「炭鉱のカナリア」そのもののようです。

人類が滅亡の危険になるとき、自然災害などの異常が発生する予兆、そして時代の変化の時に身を捨ててでも人々を守ろうとするカナリアです。これはまさか自画自賛をしたいのではありません、まさにもう心身もボロボロの満身創痍の状態で薄氷の上を戦々恐々として歩む心境ゆえにそう自称したのです。

こういう時、西条八十の童謡「かなりや」を心を頼りに歩んでいるのです。

「歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てましょか

いえいえ それはなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは背戸の小薮に埋めましょか

いえいえ それはなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは柳の鞭でぶちましょか

いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀のかい

月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す」

これは西条八十が詩を捨てようかどうかと思い悩むときに作詞したものだといいます。居場所を見つけて美しい詩を奏でられるという希望を子どもたちに伝えようと謳ったものだと言います。人間の愛や美しさを信じるからこそ唄を忘れることはありません。

聴福庵の声を私がもしも世界へと届けるのなら、「炭鉱のカナリア」の遺志を伝えるのみです。いよいよ聴福庵は、始動を開始するうぶ声をあげはじめました。しっかりと見守り共に歩んでいきたいと思います。

 

 

 

いい循環

世の中には「いい会社」というものがあります。そのいい会社とは何か、それを話し合い定義しなければいい会社が何かはわからないものです。たとえば、成功している会社とか、成長する会社とか、給与や休みが多い会社とか、自由な会社とかいろいろとあるものです。

実際に人間にはそれぞれに価値観もあり、自分に都合のよいものをいいと言いますからいい会社も多種多様に存在するものです。実際にいい会社とは何か、それを定義するものがなければ人はいい会社のこともまたわかりません。

しかしいい会社と呼ばれる会社には、本来普遍的に流れている一つのものがあるように思います。それは「徳」というものです。これは会社に限らず、人も同様に「いい人」とは何かということの定義も同じです。

この「いい」とは「徳」のことを指すのです。

この徳のことは最近は誤解されていることが多いように思います。一つは、何かお得な人物や特別な能力がある人を徳があるといったり、もしくは聖人君子みたいない人物が徳のある人などと言われます。しかしそんな人は最初から徳があるわけではなく、生まれつきの個性だったりもします。

本来の徳は、後天的に精進して磨いていくものです。それは人間として大切な道徳心を磨くこと。たとえば、誠実であること、約束を守ること、生き方を貫くこと、真心を盡すことなどによって徳を積んでいくのです。

徳を積んでいけば、次第に「いい人」になっていきますし、徳を積む人たちが増えれば「いい会社「になる、そしていい会社が増えれば当然日本は「いい国」になり、徳が日本に増えれば「いい世界」になるのです。

徳を積む人たちの背中から私たちは徳の本体を学び、その徳を守り自分もまた徳を積んでいくことで「いい循環」はつながり永続的にその徳は天の蔵に貯金されて子孫たちの繁栄と発展に寄与していくのです。

「いい会社」になることがゴールではなく、徳を積んでいくことがゴールなのです。

いい会社かどうかを査定したり比較したりする前に、何のために「いいこと」をするのかを定義することが大切だと私は思います。

引き続き、私も子どもたちにとっていい人、いい会社になるためにも常識に囚われず至誠を貫いていきたいと思います。

 

自分の選んだ道

人生は生き方で決まるものです。その人がどのような生き方をすると決めたか、それがまずすべてにおいて先でありその後に結果としてどのようなことを為したかが追いかけてくるものです。

結果を出したから生き方が決まったのではなく、生き方が決まっているから結果もまた出てくるということです。その結果とは何か、それは単なる世間的な成功などというものではありません。生き方が現れるというのは、その人が死んだときに生前の人柄や生き様の価値が人々の心を通して世の中に顕現してくるのです。

生き方は常に心の中にあるということでしょう。

しかしその生き方を選ぶには、日ごろから自分の中で定めた初心や覚悟を常に優先していこうとする心の作法が必要になります。

一般的には人間は職業上の立場や肩書、世間体などを気にして自分の行動を決めたりするものです。世の中の常識に従っていることで身の安全も保障されますし、周囲の偏見や差別に受けなくなります。しかし、それは生き方を選んだのではなく無難な方を選んだということです。

人生の挑戦とは何か、それは何も巨大な敵に挑むことでもなく、まったくやったことがないことに挑むことでもなく、未知なことに手を出すということでもありません。

人生の挑戦とは、生き方を貫くと決めることなのです。

生き方を貫くと決めた時から、後悔しない人生を歩むためにありとあらゆる日々の決断や決心を自分の心に問いかけて行動に移していく必要があります。それがたとえ世間から「狂っている」と言われようと、「馬鹿げている」と笑われようと、それは生き方だから自信をもって歩んでいくのです。

そうやって一人一人がその生き方の背中を子どもたちに見せていくのなら、いつかきっと世界はお互いを真に尊重できる平等で誰しもが納得できる平和な世の中になっていくでしょう。

日々は生き方の連続ですから、決して油断はできません。常に自分を磨き上げ、生き方を貫けるように自分の選んだ道に誇りを持ち続けたいと思います。

本物の経済人~世直しの仕組み~

二宮尊徳の弟子たちが残したものに二宮翁夜話があります。これは二宮尊徳の門弟、福住正兄が身辺で暮らした4年間に書きとめた《如是我聞録》を整理して尊徳の言行を記した書のことです。

この夜話には、二宮尊徳の思想や具体的な行動が記録されています。その夜話231条の記録の中に「神儒仏正味一粒丸」という言葉があります。

「神道は開国の道なり。儒教は治国の道なり。仏教は治心の道なり。ゆえに予は高尚を尊ばず卑近を厭わず、この三道の正味のみを取れり。正味とは人界に切用なるをいう。切用なるを取りて切用ならぬを捨てて、人界無上の教えを立つ、これを報徳教という。戯れに名付けて神儒仏正味一粒丸という。その効用の広大なることあえて数うべからず」

どのように世直しをしていくか、その善いところだけを合わせて団子のように丸めて薬にして人々に与えるという発想。この「正味」という字は、余分のものを取り除いた中身、本当の中身という意味です。二宮尊徳は、報徳という考え方はこの3つを合わせてできたということを暗に意味しています。

そしてこの報徳を実現することを報徳仕法を実践することとしました。

「農村の復興・改革という報徳仕法の実践面は、勤労、分度、積小為大、そして、推譲から成っていると考えられる。つまり、まず分度を立て、その分度を守りつつ勤勉に働く。最初は小さな成果しか得られないかもしれないが、それを継続し、積み重ねれば大きな成果が生まれる。成果が生まれたら、いたずらに浪費するのではなくそれを家族や子孫、他人や社会のために役立てる。一言に集約すると『勤倹譲』(勤労、倹約、推譲)と表現されることになり、これらが報徳仕法の実践である」

これは現在のソーシャルビジネスにも通じており、尊徳はもうずっと前に経済で生み出される人間の貧困の問題を解決するための方法を発見しそれを具体的に実現し成果を出していたのです。その後、明治維新により西洋化を急速に進める中で報徳仕法は失われましたが世界を救う世直しの仕組みとしてこれ以上のものは産み出されていないのです。

二宮尊徳がこの仕法に気づくキッカケになったのは、大飢饉と飢餓です。自身の人生の苦労から一生涯を懸けてこの問題の解決に取り組んだ方なのです。グラミン銀行のムハマド・ユヌス氏もグラミン銀行の創設の理由を同じようにこう語っています。

「グラミン銀行設立のきっかけは1974年の大飢饉でした。当時、私は米国の大学で博士号を取得して帰国したばかりで、大学で経済学を教えていました。若くして自信満々でしたが、いくら経済の知識を持っていても餓死していく人々を救えませんでした。」

人が貧困や飢餓で死んでいく現状を心底憂い、なぜこうなるのかと社会構造全体の変革について挑戦した人物たち。まさに経済の道の中で、世直しを実行しようとした本物の経済人たち。

このような人たちが、経済というものの本質を見極め、経済とは何のためにあるのかということをシンプルに語り掛けてきます。

「貧困は人災である。貧困のない世界を創る。貧しい人々は力さえ与えれば、チャンスさえ与えれば、才能さえ引き出せれば自立できる、そしてよりよい社会を創り上げることができる。すべての人に尊厳、自由、平和の保障された生活を」と。

今一度、私たちは深く考えなければなりません。

貧富の差の本質とは何か、格差社会の本質とは何か、同じ人間がなぜこのように差別されてしまうのか。それはすべて「心の問題である」と気づいた人たちが世の中を変えていくのです。どうせこの先、行き詰まる世の中で必ず人類の誰かがそれに気づき立ち上がりみんなを動かし世界は変わります。

その過渡期にある私たちは、その問題にみんなで勇気をもって向き合う必要が出てきます。人類の平和や仕合せとは何なのか、本当の暮らしは、本物の人生はどのようなものであるべきか。

道の途中ですから、今を真摯に学び直しながら人生の正味を練り上げていきたいと思います。

 

 

鏡開き

昨年末に御餅つきをして歳神様に祀っていた鏡餅の鏡開きを行いました。一昨年は、カビが御餅の中までひどく生えて食べることができなかったため、今年ははじめから色々と工夫しました。

たとえば、御餅に焼酎を塗りこんだり、粒炭を御餅と御餅の隙間に入れたり、ワサビを御餅の近くに置いたり、また日ごろは玄関の神棚の近くの温度が上がらないような場所に置き、お祝いの時だけ床の間に出したりと歳神様の依り代としての鏡餅をずっと意識しながら工夫しました。

御蔭様で今年は一切カビも発生せず、いい具合に乾燥も進み綺麗なままのお姿で鏡開きを行うことができました。

この鏡開きとはお正月の間ずっと歳神様がいらっしゃる松の内の間は鏡餅としてお祀りしておりますが松の内が過ぎたらさげて歳神様を遠方へとお見送りします。その際、歳神の依り代であった鏡餅には歳神様の魂が宿っておられる鏡餅を食べることでその力を授けてもらい一年間の無病息災を祈念したのです。歳神様にお供えした鏡餅を家族で一緒に食べることではじめてこの行事は滞りなく実施されたことになるのです。

もともとは鏡開きは武家から始まった行事なので、鏡餅に刃物を使うことは切腹を連想させるのでよくないとされました。そこで手か木槌などで割ることになりましたがこの「割る」という表現も縁起が悪いとされ末広がりを意味する「開く」を使って「鏡開き」というようになったといいます。

今回はしめ縄づくりで用いられている古い木槌を使い御餅を打ち開きました。なかなか硬くて開けませんでしたから、力いっぱい何度も何度も打ち開いていくうちに細かく分かれていきました。

健康や幸福を祈り、お米のもつ力をみんなで感じてながらその力を分け合い頂くことの有難さを改めて感じました。

私にとっては新しいことを開くことを決意する貴重な一日になりました。

この日を忘れずに、新たな道を開いていきたいと思います。

あなたの志は何ですか?

今年も無事に萩にある松陰神社に参拝することができました。幼い頃から志を学ぶ師と仰ぎ学び続けてきましたが苦しかった年、辛かった年の後ほど此処に来ると志風によって偉大に応援されている気持ちになります。

自分の頭で考えたことがどれだけあった一年であったか、どれだけ他人との答え合わせに生きるのではなく自分の答えを生きたか。ここに来ると毎回不思議ですが自分自身の人生の主人公として魂を磨ききったかと師に問われている気持ちになります。

きっと吉田松陰にとっては日々歳月の艱難辛苦こそが学問を通して自己を磨き自己を確立する善い機会だと歓喜し道の探求と実践を積み重ねた日々を送っていたように思います。それが生前に遺している言葉の数々からも省みることができます。

計愈々(いよいよ)違(たが)ひて志愈々堅し。天の我れを試むる、我れ亦(また)何をか憂へん。

仮令(たとい)獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋(せっさ)怠るべきに非(あら)ず。

志荘(こころざし そう)ならば安(いず)くんぞ往(ゆ)くとして学を成すべからざらんや。

夫れ重きを以て任と為す者、才を以て恃みと為すに足らず。知を以て恃みと為すに足らず。必ずや志を以て気を率ゐ、黽勉に従ひて而る後可なり。

を立ててもって万事の源となす 。

この「志を持つことをすべての原点」とした吉田松陰の教えは、松下村塾の塾生たちの生き方に多大な影響を与えました。そしてそれは死後もまた、純粋な日本人の魂に語り掛け続けています。

気が充実するというのは、機が充実するということです。これはその機会が満ちるのを待つという状況であり、それまでは気を蓄え機(タイミング)まで力を磨き続けるということです。この「気」こそまさに志から発するものであり、気力の充実は志力の充実でもあります。志が結実するとき、まさにそれが時機でありその時期に応じている結晶が結果として顕現します。

すべての機会を自分を磨くためにあるとする生き方は、今のような人生とはあまり関係のない歪んだ学問がひろまっている時代にはとても大切な指針になるように思えます。学問は他人のためではなく、自分のためであるといったのは孔子の時代からあったことですから今さらどうこう言っても仕方がなく、指針として生き方を学び直すしかありません。

志とは、刀と砥石の関係であり魂は志があってはじめて磨かれるのです。

最後に今年のテーマに近い言葉に出会いました。どの時代においても変化に適応していくことは学問の要です。

「天下に機あり、務(む)あり。機を知らざれば務を知ること能(あた)わず。時務(時務)を知らざるは俊傑(しゅんけつ)に非(あら)ず。」

意訳ですがこの世には必ず機があり、それを待つ実践というものがある。いくら能力が高く優れていたとしてもその幾に当たらなければ決して何もできはしない。その場その場に集中し、今を適切に応じて実践していくことなしには天与の才徳を持っているとは言えないのである。と。
つまりは本来の天才は、日々の実践を知るものこそが機を活かすことができるということです。目標が達しないからと腐るのではなく、まだまだ志が低く徳が薄いのだと精進するものこそが天与の才徳を活かすのでしょう。
過去や未来を思い憂い、今から離れようとする時こそ「あなたの志は何ですか?」という言葉を三省して自己を磨き続けていきたいと思います。子どもたちに譲り遺していきたい生き方を自らの道を歩むことを以て伝承していきたいと思います。

大晦日~日本の心~

いよいよ本日は大晦日になりました。年々、暮らしが遠ざかり年末年始の正月の雰囲気が薄れてきているように思います。思い返せば幼いころは、年末年始のご挨拶まわりやお歳暮やお年玉、正月の準備の熱気をあちこちで感じたものです。最近では、コンビニをはじめずっと営業している店舗ばかりで休みというものがなくなり、より暮らしを楽しむ時間が失われてきたのかもしれません。行事の意味も変わってしまい、言葉は知っていてもその意味を知らない人が増えてきたこととマンネリ化して深く考えずにただ過ごしているうちに本質とはかけ離れたことをしていて周りもそれを信じて伝承していることもあります。

文化やアイデンティティを持つというのは、何が本物で何が本当か、そして本質は何かということを正しく理解することが大切です。見た目だけを誤魔化しそれが本物にとって代わってしまわないように、プロセスを偽り結果だけで物事を判断しないでいいように真実は語り続けられなければならないのです。歴史の重要さは、自分自身が本物の人生を歩んでいくために必要不可欠なのものです。

この「大晦日」というものも、言葉は知っていてもその意味は最近では語られません。これは旧暦の太陰暦の月の満ち欠けを「晦」といい、月が隠れてしまうことを月隠れ(つごもり)が転じた言葉だと言われます。

新月が1日、月が隠れるのがだいたい30日頃だったためその日を晦日というようになりました。毎月末を晦日といい、一年を締めくくる最後を大晦日といったのです。

この日は、家をずっと守ってくださっている歳神様、歳徳様といった五穀の神様をはじめ祖霊やご先祖様が遠来される日とされ準備をして待つ祭祀の日でした。今では旅館やホテルに泊まったり、カウントダウンなどのイベント会場や有名な神社などで初詣をしている人が増えています。

本来の伝統では歳神様が訪れるのを家人たちと共に一晩中起きて「家に居て待つ」ものだったのですが、明治20年代に官公庁から始まった元旦に御真影を拝む「新年拝賀式」と、1891年(明治24年)の「小学校祝日大祭日儀式規定」により元旦に小学校へ登校する「元旦節」などが実施されるようになり、さらに関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行うというレジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝しこれが全国にまで広まったことで家で歳神様を待つ「年籠り」という習慣は次第に失われたと言われています。

正月の準備をする中で、歳神様の存在を意識しながら行えば自ずから大晦日は家で待つようになるはずです。しかしなんとなく周りがやっているように意味も分からずに右へ倣へをしてしまうと家で待つという概念は失われていきます。

一年が豊かで充実したのは、日ごろから暮らしを見守ってくださっている御蔭様の存在を意識すること。それは月のように、太陽の陰で常にいのちを見守り育んでくれている存在に気づくということ。夜に月を眺めては、満月の時、御隠れの時と、月の存在が暮らしを支えてくれたことをむかしの人たちは自覚されていたのです。そして感謝の心で、また新年も歳月の福が再び訪れるようにと祈りました。

日本人は常に頂いている方を観て、ないものねだりをせずにある方をもったいなく使わせてもらう慎まやかな暮らしを積み重ねてきました。年中行事には、そういった日本の心が生きています。

御蔭様で暮らしの甦生は古民家甦生と共に着実に一歩一歩積み重ねられています。これもまた歳月を司る歳神様の恩恵なのかもしれません。丁寧にひとつひとつ、心を籠めて子どもたちに伝承していきたいと思います。

炭のぬくもり

聴福庵の冬は、炭が暮らしを彩ります。夏よりも冬の方が炭の出番が多く、あちこちに炭が活かされています。その日々の暮らしの中でもっとも活用されているのは、櫓炬燵(やぐらこたつ)の炭団(たどん)です。毎朝、火を入れれば長ければ一日中暖かいままです。

今では電気炬燵が主流ですが、炬燵は室町時代には「火闥」「火踏」「火燵」、江戸時代には「火燵」「巨燵」などと言われていました。文字通り、火を使うのですが現代では電気が主流です。電気のものは、スイッチを入れたらすぐに熱くなりますから便利ですが電磁波で長く入っていると疲れますがそれに対し炭団はじっくりとゆっくりと暖まり時間がかかりますがしんしんと身体が遠赤外線の放射熱で深いぬくもりを感じます。

火鉢の炭も同様に、近くで手を当ててお湯が沸くのをゆっくりと待つのですがその間に身体がゆっくりと温まってきます。鉄瓶で沸かした一杯のお茶は、ほっとして心まで温めます。

急激に温めたものは急激に冷えますが、時間をかけて温もったものは時間をかけて冷えていきます。自然界は、時間をかけて温めているから冬も乗り越える温もりを維持することができるのです。炭は自然の温もりのリズムを持っています、そのゆっくりとじっくりと温もるさまは自然の温もりそのものなのです。人間は自然の一部ですから、本能や感覚でその温もりの本質を自覚しています。

瞬間湯沸かし器で沸かしたお湯やお茶と、炭でじっくりと沸かしたお湯やお茶はまったく異なるのは誰に飲ませてみてもすぐに気づくからです。不自然な生活に慣れていくと、自然のリズムや自然の味、自然の感覚などが麻痺していくものです。

冬の過ごし方もまた現在は暖房器具が発達し何でも電気が中心ですが、思い切って電気を使わない暮らしをすると冬の温もりに溢れている暮らしに気づくのです。それにはそれを彩る火の道具たちが必要です。

火は使い方を丁寧にし、敬意をもって接すれば偉大なぬくもりを私たちにもたらします。しかし敬意を忘れ失礼な扱い方をすれば、それ相応の火傷を負います。自然の火も水も、使う側の謙虚な姿勢次第で仲間にもなれば先生にもなるのです。

話を炭団(たどん)に戻しますが、これは日ごろ使う木炭、竹炭などの残りかすの粉末をフノリなどの結着材と混ぜ団子状に整形し乾燥したものをいいます。この10センチ後の丸い団子状にした炭は、まさに物を捨てないで使い切る工夫に満ちた作品です。

これは木炭製造時に売り物にならない細かい欠片が大量発生しますし、家庭でも木を燃やせば炭の残りカスが少しずつ溜まっていきます。また炭俵や炭袋などの中には大量の炭の粉末が溜まっています。これを捨てるのがもったいないとして練って丸く固めて成形させたものが炭団の始まりです。

団子も粉で作りますがこの粉を使う文化があったからこそ炭団もまた生まれたように思います。この炭団は、通常の木炭よりも火はかなり弱いのですがその弱さを活かして種火のまま長時間燃えるためまさに炬燵のためにあるのではないかとほど相性がいい炭です。

以前、東北で掘りごたつの下に大量の炭を熾していたところもありましたが火加減が重要なのです。この炭団と櫓炬燵の相性は、まさに最高のパートナーです。何でも文明の利器が便利だと取りいれますが、この炭に関しては文明の利器の便利さを超えるほどの仕合せや価値があります。この価値を最大限活かせるのはやはり冬だからこそです。

冬の楽しみに炭があることは仕合せです。

日本人は、自然と上手く調和し自然の道具を発明してきました。それは伝統の職人技や道具の中にも発見できます。暮らしの中で自然を活かした智慧は、身体の健康だけでなく心も健康にしてくれるものばかりです。

現代社会の中で心を病む人が増えてきましたが、きっと炭がそういう人たちの心も温め健康を取り戻すきっかけになるかもしれません。炭数寄だと人に言われますが、私が炭が好きなのは「ぬくもり」を与える存在だからです。

子どもたちに譲り遺したい暮らしを伝承していきたいと思います。

 

懐かしい道具たち

昨日、伝統的な御餅つきを聴福庵で行いました。伝統的というのは、自ら稲作をし収穫したものを木臼や杵、また竈と木製の蒸器で麻布でお米を蒸して子どもたちと一緒に餅つきをすることをここでは伝統と言います。それくらい今では、臼や杵などを持っている家も少なくなり御餅もすぐにコンビニで買えますから餅つきをする必要もなくなっているからです。

ちょうど28日に御餅つきをし、鏡餅をお祀りするのは縁起が良い末広がりの8がつく12月28日にするのが一番適していると言われているからです。むかしの人は縁起を担ぐため餅つきをする日も選んでいました。たとえば12月29日は「二重に苦しむ」からとか、それに12月31日は「一夜飾り」慌てて準備をしたとなると歳神様に失礼に当たるから餅つきはしないほうがいいと伝えられています。実際には、29日を福(ふく)と呼ぶため構わずに29日に御餅つきをする地域や家庭もあるそうです。

餅つきは、呼吸を合わせて杵で搗きますから年に一度の経験だけではそんなに上達しないものです。しかし日ごろから一緒に暮らしているもの同士であれば息が合うものです。最初は、お米を引き延ばしながら米粒をつぶしていきます。そして捏ねながら搗いていきます。臼と杵の木が受け合う高音が心地よく、静かな地域に餅つきの音が響いていました。

竈の荒神様の祭壇に灯をいれ、見守りの中で餅つきの行事を清々しく進めていきます。有難いことに水も井戸水を使い、火は備長炭、むかしの竈も道具たちもすべて伝統的なものだけで御餅ができることの有難さに心が落ち着きました。

特にハレの日の出番の道具たちは、ハレの日以外は仕舞われてじっと待っています。しかしハレの日なると、どれも晴れ晴れしく活躍しいつもと様相が変わってきます。道具もその時手入れし、また修繕をしながら御礼を言って仕舞います。

日本人の暮らしは、暮らしを彩る道具たちとの御縁は切ることはできません。機械化され、便利になってかつての暮らしの道具たちは廃棄されるか骨董屋さんにいき海外などのコレクターに収集されています。しかし、暮らしを一緒に生きてきて豊かな思い出と懐かしい記憶をいつまでも持ったまま残存している道具たちは仕合せのつながりをいつまでも保ったままです。

そしてそれがかつての伝統的行事の実践と共に甦ってきます。まるでタイムスリップしたように、かつての記憶、その道具が使われていたころの思い出がその場に帰ってくるのです。道具たちは確かに無機物かもしれませんが、その道具たちと共に生きた方々の記憶はその無機質のはずの道具にいのちが宿っていくのです。道具はその単体でいのちがあるのではなく、御縁が結ばれることによって新たないのちが芽吹きます。

それは木が加工され新たなものに生まれ変わるように、いのちもまた御縁と結びつきによって新たないのちが生まれるのです。そしてそのいのちはいつまでも生き続け、そのいのちに触れる人たちによって永続的に生き続けます。この感覚を「懐かしい」と呼ぶのです。

懐かしい暮らしの復活は、いのちの復活でもあります。かつての人々、先人や先祖が身近に感じられる生き方、つまりは徳や恩を感じながら感謝で生きていく生き方の甦生なのです。

年中行事にはそういう懐かしさが生き続けていますが、それを彩る道具たちの存在は欠かすことはできないのです。だからこそ大切にいのちが永く続くように寿命を伸ばすための工夫や修繕、手入れを怠らなかったのでしょう。

御餅つきということをするだけで、それらの生き方が学び直せ自分の生き方も次第に変わっていきます。いのちを粗末にすることがないように、いのちを輝かせる人たちが増えていくように、伝統から学び直して子どもたちに伝承していきたいと思います。

 

門松と信仰

昨日は、聴福庵に門松を飾り正月の準備を行いました。最近では、あまり家々の門に門松飾りを見かけなくなりましたがこれも古来から続いている日本の伝統の一つです。

そもそも門松の意味は簡単に言えば、正月に遠来から歳神様が家に来てくださるようにその目印としてお祀りするものです。より詳しくは、折口信夫氏の「門松のはなし」が最も的を得ているように思います。

「日本には、古く、年の暮になると、山から降りて来る、神と人との間のものがあると信じた時代がありました。これが後には、鬼・天狗と考へられる様になつたのですが、正月に迎へる歳神様(歳徳神)も、それから変つてゐるので、更に古くは、祖先神が来ると信じたのです。歳神様は、三日の晩に尉と姥の姿で、お帰りになると言ふ信仰には、此考妣二位の神来訪の印象が伝承されてゐる様です」

色々な説が時代と共に変化していますが、一般的には山から降臨する田の神様が歳神様だとも言われます。五穀豊穣を約束する神様が、家に来て福を授けてくださいます。床の間におもてなしする鏡餅は、正月の間、滞在してくださる神様の依り代です。稲作を中心に私たちは暮らしと信仰を一致させ永続する家としての智慧を結集したものの一つがこの正月であったのです。

門松の松は、常緑樹は榊と同様にいのちが宿る木とされ古来より神様の依り代になりました。また松を「待つ」と言霊の響きを同じくし、神様を待つとしています。松飾がある期間を「松の内」とし、その間は神様が家にいるかのように生活を慎みました。そして山にお帰りになるころにちょうど節分があり五穀豊穣を祈願するために五穀を蒔き歳神様をお見送りするとも言われます。

行事はそのもの単体で見ては意味がわからないものも、つなげてみるとその行事の意味や信仰していた日本人の心やカタチが観えてくるのです。

聴福庵では、古式の門松を飾ります。これは平安時代の「小松引き」が由来です。そのため玄関には「根」がついたままの松を飾ります。これは歳神様が訪れて幸せが根付くようにという縁起によるものです。そして裏玄関には根が切られた松を飾っています。これは厄を断ち切り根付かせないという縁起によるものです。

日本人は、むかしから物事の解釈を常に福になるように転じ続けてきました。根があってもいい、根がなくてもいい、それをどのように捉えるか、そのすべてを感謝に換えて言葉や文化、伝統を創り上げてきました。

信仰というものの本質は、どんなことがあっても丸ごと信じるという生きる姿勢の実践のことです。自然災害が世界で最も多い国だからこそ、自然災害から自然崇拝が誕生してくるのは自明の理です。宗教ではなく、「信仰」というものがあるのは私たちがそれだけこの自然風土の変化に晒されて逞しく変化に順応しながら生きてきたからです。

暮らしや行事は、私たちが自然の中で仕合せに生きぬいていくための先人の智慧と親祖の真心を感じます。時代が変わることは仕方がないことですが、変えていいものと変えてはならないものを確かに見つめ子どもたちのために先人の恩を繋いで結んでいきたいと思います。