人類の希望のため

人間はどれくらいのスパンで物事を観るかでその行動の本質が変わっていくものです。その人が100年単位で物事を観るのか、1000年単位で物事を観るのかで観え方が変わるからです。短期的にしか物事を見なくなってきた現代の風潮の中で、長い目で物事を考えて行動する人のことが分からなくなるのは仕方がないのかもしれません。

かつての日本は七世代先のことを考えて今を行動するという指針があったそうです。七世代といえば約300年くらいですがせめてその頃の子孫のことを慮り自分がどのような暮らしをしていけばいいかを考えたのでしょう。

私の場合も、なぜ暮らしの復古起新をとか、なぜ自然を味方にとか、やっていることには民家の甦生からお米作り、そして見守る保育という生き方の伝道、さらには初心を磨き伝承することなどをしていますがなかなかやっていることの本質が他人には理解し難いものかもしれません。よく不思議で変なことばかりしてと指摘されますが、長い目で観たらどれも今、必要なことしかしていません。

それに「子ども第一義」という理念を掲げる以上、子どもの今から発想を組み立てますから短期的なことは後回しになることが多いのです。もちろん短期的なことは、現代の課題を解決するために具体的な保育環境を変えていきますが、本来は子どもの仕事だからこそ1000年先のことを考えて今をどう生き切るかを考えなければならないのです。そして人の世には道理として因果律がありますから自分がどのようなことを今するかで未来の姿が変わっていくことを自覚しなければならないのです。

特に子どもたちの保育環境においては重要で、私たちが用意した保育環境によってそれを舞台に次世代の子どもたちが新たな時代を切り拓いてくれます。その時に、連綿と受け継がれた根のチカラを使い活かせるのか、それとも養分が断裂された根無し草のようになるのか、それではいよいよこれから世界が一つになり和合していくぞという変化の中で日本人の特性が活かせません。

希望というのは、子どもの未来のため自分のエゴを少し置いてでも徳を積み環境を整えていくときに出てきます。それは一つは仕組みといった智慧の伝承もあるでしょうし、他にも真善美といった日本人としての生き様もあるでしょう。

そういうものを少しでも遺し大切に譲っていけば、いつか子どもたちは舞台で大躍進を遂げ、活躍していきます。その舞台の未来には、主役も脇役もなく、一人ひとりが全員主役として共生して仲睦まじく助け合い思いやる社會を創造してくれるでしょう。

・・・本当の平和とは何か。

もう一度、今の世代の人たちは愛されてきた子どもたちとして、そして愛する子どもたちのために少し立ち止まって長い目で物事を観て自分と向き合ってほしいと願います。

引き続き、人類の希望のため、自分のできること、自分にしかできないことで人類の平和に貢献していきたいと思います。

自分を遣り切る意味

日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。

このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。

その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。

私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。

例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。

また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。

選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。

親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。

親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。

引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。

伝統美の面白さ

昨日は新潟県十日町で古民家再生に取り組んでいるカールベンクス氏とお会いするご縁がありました。25年前にこの土地に移住してから現在までに50棟ほどの古民家を再生しており、カールベンクス氏が住む村には今ではたくさんの若い方々が同様に移住してきて奇跡の村と呼ばれています。

「日本の木造建築は世界一である」と語られこのような文化が失われていくのは何よりも残念であるといい、職人さんにとっても子どもたちにとっても絶やしてはいけないと仰られておられました。

本来は日本人の子孫である私たちが語るはずであろう言葉を、ドイツ人の方から直に聴くと目が覚める気持ちになります。

例えば、「日本人がドイツにいけばその土地に古い町並みや懐かしい風景を感じにいくのになぜ日本人は自分の国のそういうところに興味がないのか」という言葉であったり、「ドイツには昔から古い建物は壊してはいけないという法律がある、その法律によって子どもの頃から古民家は貴重なものであるという認識をみんな持っている」ということなどまさに何が本当の価値なのかを気づかせてもらう言葉ばかりです。

現代建築の日本の住宅はプレカット方式といって機械によって加工しやすいため外材を用い木材を人間の手を使わずにカットしていきます。大工さんは昔ながらの手仕事はほとんど必要なく、まるでプラモデルを組み立てるようにトタンや合板で効率よく作業していきます。このような仕事をしているうちに日本の大工さんの技術も心も伝統も失われていくことを嘆いておられました。世界一の木造建築を建てる心と技術と伝統を自分たちから捨てていき、古いものを壊して便利な新しいものばかりを建てようとするのは設計士たちの欲がやることであるとし「本来、家は財宝なのだからいつまでも大切にしなければならない」という言葉に徳の人柄と思いやりを感じました。

カールベンクス氏の設計された建物を具体的に見学すると、ドイツ人の感性で自由に古い日本の材料を用いて古民家を再生しておられました。現代人が住みやすいように断熱を工夫し、断熱に必要な窓や暖炉などはドイツから輸入しておられました。新築を建てるよりも古いものを用いた方が本来は費用がかからないといい、創意工夫をして扉を本棚にしたり、そこにもともとあった古材料や道具を別のものに見立てて家の改修やデザインに活用されていました。

家全体が昔からある日本の古い懐かしいものを活かしながらデザイン全体を楽しんでいるようにも観え、まるで「ドイツの伝統が日本に馴染んでいるような感覚」に新鮮さを感じました。一言でいえばそこは「ドイツ人の美意識が創造する日本の風土を取り入れた古民家」でした。

お互いの善いところを引き出し、持ち味を活かし新しい美意識を創造するというのは芸術そのものです。今まで設計やデザインというものを知りませんでしたが、カールベンクス氏の生き方を拝見することによって「伝統美の面白さ」を学び直した気がします。

未来の子どもたちの心に、大切な日本の心が遺せるように自由に伝統美の表現を楽しみ遺っている文化を上手に活かし和合させ復古起新していきたいと思います。

ありがとうございました。

 

夢を磨き志を貫徹する

人間の夢には、自然体で理想を追い求めていく本来の夢と世間から理想だと評価され認められるという迎合する夢があるように思います。自分の夢を追いかけていたはずが気がつけば周りからの評価が気になるばかり諦めて周りに合わせてしまえば本来の夢がすげ換ってしまうことも多いように思います。

人間は誰しも世間の評価を気にするものです。特に自信が持てないでいるといつまでも周りがどうかを基準に自分を創り上げてしまいます。しかし本来の自分らしさとは周りの評価ではなく自分がどう生きたいかという自分の目指す生き方への純粋な動機を実践し続けていくということです。

自分らしく自分のままでいいと思うためには、自信と誇りが必要です。世間や周りがどのようにあなたのことを評価したとしても気にしない、自分の目的は自分がもっともよく知っているのだと自分の真心を盡していけば自分を信頼できるようになり誇りと自信を持つのです。

自分らしく生きるというのは、自分への信頼と自信と誇りを必要とします。何のためにやるのかと自問自答を続けて、自分の我と折り合いをつけながらも己に打ち克ち純粋な理想の方に舵を切る勇気と身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれとあるように成長を続けていけば必ずその志は為るのです。

志をもっとも揺さぶるのは成功です。世間の成功を求めるあまり、本来自分が何をやりたかったかを忘れてしまうのです。「初心を忘れるべからず」という世阿弥の格言もありますが、初心こそが夢を間違えさせない大切なお守りなのです。

初心を挿げ替えることなどはできず、挿げ替えるのは自分の願望のために自分が先に諦めてしまうことです。初心さえ失わなければ人は希望を失うことがありません。しかし先に成功を手に入れてしまえば人は希望を失うことがあるのかもしれません。そう考えると成功するかどうかというときこそもっとも志にとっては試練かもしれません。

高杉晋作に「人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。」があります。これは人間は理想や志への挑戦に対し大勢が一緒になって苦労することはできるが富や名誉を求めるために大勢が一緒に行動することはできないと詠まれます。成長は共にできても成功は共にはできないとも言えます。

諺に「艱難汝を玉にす」、「逆境は人を賢くする」という言葉もありますが、困難な状況こそ純粋さは保たれ苦労があるからこそその魂は磨かれ純粋に澄み切っていくのです。

成功こそ幸福だと思い込むことは、自分らしさを手放すことかもしれません。本当の仕合せは自分自身になることであり、独立不羈、独立自尊、唯我独尊のたった一人の自分になることだともしも定義するのなら魂の成長こそが幸福だと気づきます。そして魂の成長は常に艱難や苦労によってのみ行われます。

生まれてきた意味やその目的を知ることは、心魂の歓びです。それを貫くためには、研ぎ澄ませていくほどに磨き続けていく必要があるのです。

引き続き、初心を忘れずに日々の実践を高めていきたいと思います。

子どもが憧れる生き方

先日、地上でもっとも偉大なショーマンと呼ばれた実在の興行師を演じたミュージカル映画「グレーテストヒューマン」を観る機会がありました。この映画は、差別や偏見のトラウマに打ち克ち、人間の本当の仕合せとは何かを見出していく映画だったように思います。

私が特に映画の中で感動したのは、それぞれが仲間を得て誇りを持ち自分らしくいることを大切に生きるようになった人たちの姿でした。その証拠に映画の後半に一緒に働いてきたパートナーが「あなたのせいで全てを失ったが、愛と友情と誇りを持てる仕事を手に入れた」という言葉が出てきます。

この全て失ったというのは、権力や地位や名誉や富のことです。それらを手放して新たに手に入ったものが愛と友情と誇りをもてる仕事であったのです。それは決して金銭で買えるものではなく、生き方を換えることによって得られることです。

世の中には、大多数の人たちが持っている価値観があります。これを常識とも言えます。皆と同じようなものを手に入れて自分もそれを持つことを保守ともいい、少数派になることを革新だとも言えます。

私はかつてこの映画のように、みんなと同じようなものを手に入れたいと世間の評価に従い自分をその場所へと運んでいきました。しかしある時、自分の人生に素直になりたいと決意し、世間の評価からは程遠く、オリジナルで絶対的少数の方へと生き方の舵をきりました。

その御蔭で私も、愛と友情と誇りをもてる仕事に巡り会うことができ今があります。

人生は一度しかなく、自分というものは一人しかありません。自分らしく生きることは、自分自身の今を最善であると肯定し、自分のあるがままであることに誇りをもって生きていくことです。

周りから何と言われようが、他人からどう評価されようが、本人が仕合せを噛み締めながら自分らしく生きられればそれで世界も幸福になっていくのです。それが自然であり、自然界のようにすべての生命は有機的に繋がっているからこそ自分がもっとも自分の天命に従いその天命を遣り切っていけば周囲のお役に立てるのです。

そして金子みすゞさんの蜂と神様の詩にあるように、どんなに小さな存在であっても神様の内にあるのだから、幸福を見せびらかす必要もなく、むしろ自分らしくいることの仕合せを味わって生きていけばいいだけなのです。

私は子ども第一義の仕事に誇りを持っていますが、これは自分の中にある子ども心に正直に誠実に生きていくことで子どもが憧れる存在になりたいと思っています。それはひょっとすると世間ではおかしな人と笑われたり、変人や狂人だと罵られたり、気持ち悪がられたり差別されたりするかもしれません。

しかしせっかく生まれてきたこのたった一つのいのちの花を、自分なりに咲かせたいと願うのは子どもの夢ではないかとも思うのです。子どもたちに寄り添う見守る仕事をするからこそ、私自身は自分の子どもに嘘がない生き方をしていきたいと思います。

引き続き、愛と友情と誇りをもって初心伝承に邁進していきたいと思います。

むかしの保育

昨日、かつて廻船問屋だった家を修繕し保育園にしている施設を見学させていただくご縁がありました。江戸末期に建てられた家が、今も息づき子どもたちを見守り育てている様子にただただ感動をしました。

昔、大きな蔵があったところは今ではたくさんの乳児たちがお昼寝中でしたが、上品な階段箪笥で二階にあがれば嫁入り道具が入っていた長持がいくつもそのままにありました。確かに家が今でも生きて、子どもたちを見守っている存在を感じ懐かしく有難い気持ちになりました。

こういう古民家を遺そうというのは今の時代では大変難しいことで、新築を建て直した方が安くできるし簡単で維持をしていくことや修繕していく方が何倍も何十倍も苦労をします。それでも大切に敢えて修繕を続ける理由を前園長先生にお聴きすると、「ご先祖様が遺してくださったものだからそれを大切にしたいだけです。」と仰っている姿に日本人の文化と精神、生き方を改めて感じることができました。

このように昔からあるものをいのち永く使われた中で保育されることが、子どもたちの未来にどのような影響があるだろうと思うとこの保育園の存在自体が大変貴重であることが分かります。「もったいない」ということを口先で教えるのではなく、まさに今の大人たちの生き方や家の体現する姿で教えずにして教えていると実感するからです。

見守る保育を提案する新宿せいが保育園の藤森平司園長が主催する臥竜塾ブログに、「家こそがルーツ」という記事があります。この記事にある通りまさに日本のルーツを持っている物語に溢れた保育園に直に出会った気がして、魂が揺さぶられ心和やかで豊かな気持ちになりました。

その保育理念も「遊べる子ども」を目指し、世界一楽しい保育園にしたいと語っておられ、見守る保育の実践に取り組んでおられました。

私たちが定義している保育は道であり、道は生き方のことです。

日々にどのような生き方をするかは、かつてからどのような生き方をしてきたかを伝承していくことでもあります。道は永遠に繋がってこの今を創造し続けるむかしから貫かれた生き方がこの今に伝道し人々がその道に感化され歩いていく人が一人またひとりと増えていくことでその大道が踏み固められていきます。日本人とはそうやって出来上がってきたのです。

古街道沿いにあるこの保育園が風土の中で子どもと道を見守り続けているのを感じ、家の持つた日本の佇まいを観ました。私はこの出会いに大いに背中を押され、偉大な勇気をたくさんいただいた気がします。

私が取り組んでいる古民家甦生もまた、日本人の道の甦生を志すものです。子どもたちのいのちの根を日本文化という地下水脈から吸い上げていけるように、「むかし」からある大切なものをいつまでも守り続けそれを譲り渡していくことに使命を感じます。

今では新しいものばかりが価値があり便利なものや流行の情報ばかりに目を向けている環境に溢れています。しかしこうかって「むかし」のものに思いを向けて観ると如何に自分たちの今がどの方向からやってきてこれからどの方向に向かっていけばいいかを省みる機会になります。

過去はまさに未来から訪れるものであり、この今はそのつながりの中で次に譲り渡していく今であるのは明白です。それを伝統の日本の家が見守っている中で行える保育はまさに私の理想のするところです。

子ども第一義の理念を通して古民家甦生の本質を学び直しつつ、子どもたちが安心して暮らしていける社會にしていけるよう社業や使命に専念していきたいと思います。

 

自然の導き

昨日は私の誕生日でしたが、家族をはじめ親戚も集まり花見をしながら一緒にお祝いをしてくれました。家の前にある鳥羽公園は、その池の周りに数十本の桜が植えられ満開で風が吹くとひらひらと花びらが舞っています。満月の下、水面に映りこむ夜桜の美しさは幻想的で時を忘れるほどでした。

振り返ってみると、私の人生は何かに導かれるように次はこれ、次はこれと一つ一つのご縁を真っ直ぐに深めたらまた新たなテーマをいただき結ばれ今になっているように思います。

先のことをそんなに思い煩わなくても、過去のことにいつまでもしがみ付かなくても今だけを観て、今だけに生きることで自然に道が開けていきました。時折、今から離れては後悔したり臆病になったりして導かれている安心感よりも思い通りにいかない不安に負けてしまうこともありました。しかしそんな時、いつも私の背中を押してくれたのは「導き」であったと確信することができます。

この導きは一体どこから来るのか、それはご縁から訪れます。誰といつ出会い、どんなことを感じるのか、その豊かさの中に自分の種から芽が出てその芽が育ち実をつけます。そして円熟したら次の種になるという具合です。

こうやって一つ一つのご縁を育てていたら次の導きが入ってくるのです。

そう考えてみると、私たちは自然の存在として周りの生き物たちと同様に自然と一体になってめぐりの中で生き死にを繰り返しながら自然の導きによって暮らしをしながら生を謳歌していきます。

この世に生きている以上、道理として自然に逆らうことはできず私たちは自然と共に生きて活かされています。導きに生きることは自然なことであり、利己的に生きることは不自然であるのはわかります。自然の生命はみんな自然の導きという絶対安心の境地の中で楽しく仕合せに豊かに生きることがゆるされているのです。

誕生してから今まで私はどのような「導き」があったか、そしてこれからどのような「導き」があるのか、選ばない人生を選択しただけで心はいつも平安無事です。自然の流れや導きに身を任せることが、自分の身を浮かばせて悠久のめぐりに入る方法です。私が研ぎ澄まされた清浄な「直観」を信じるのもまた、その導きを私の利己心で穢したくないからに他なりません。日々に己に克つ理由は、天から与えられた使命、その本物の人生を送りたいからです。

引き続き、この先どのような導きをいただき、また四季のめぐりを残りあと何回体験させていただけるのかわかりませんが常に謙虚に素直に学びを深く味わいながら一期一会の暮らしを感謝と共に歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

近未来の準備

暮らしの甦生に取り組むことで、次第に先人の智慧に触れる機会が増えています。先人たちの生み出した道具やその仕組みはどれもまさに「智慧」と呼べるものばかりで、教えなくても学べ、語られなくても語るかのように触れているだけで自動的に習得していくものばかりです。

言い換えるのなら、暮らしの古道具たちはすべて私たち子どもの「先生」であるといっても過言ではありません。古道具には知恵があり、暮らしには仕組みがある。これが日本民族の永続する鍵であることは伝統を学べば誰でも知りえるところではないかと私は思います。

私たちは言葉を用いて様々なことを学びますが、まだ言葉をあまり知らない幼児期は感覚によってそれを習得していくものです。感覚とは、五感のことで触る、聴く、見る、嗅ぐ、味わうなどの人間の持っている感性によって得て学ぶものです。

この時の学びは理屈で学ぶのではなく、そのもののあるがままの全体を直観的に掴んでいきます。厚い、重い、渋い、温いなど、その感覚によってそのものの「いのち」や、そのものの本来の姿の雰囲気、自然のカタチなどを受観していきます。

子どもたちは今の私たちが自然から学ぶように、「暮らしの知恵」から生き方や考え方、大切なメッセージを受け取っていくのです。先祖たちはそういう直観的に学ぶ智慧の重要性を自覚していたからこそ先人からの暮らしを途絶えさせずに維持していたのではないかと私は思います。

もしも子どもの頃にその智慧や仕組みに触れたなら、先人の初心が伝承されるはずです。そうやって連綿と続いてきた精神や文化を繋ぎつづけることが今を生きる大人たちの大切な使命です。

引き続き、風土を深めつつカグヤがこれから取り組むであろう近未来の新しい道徳経済一致のビジネスに向けての準備を着々と進めていきたいと思います。

日本の精神文化

日本人には脈々と受け継がれてきた日本の精神文化というものがあります。私たちは当たり前になってしまい思い出しもせずに使っていますが、それは日ごろの様々な暮らしの中で見直していくことができます。

今のような情報化が急速に発達する時代において、如何に情報を取捨選択していくかはこの世代に生きる者たちの責任であり使命であると私は思います。

私が日本文化や日本の精神にこだわるのもまた、今のように情報過多の時代で言葉が氾濫しているからこそ私たちは何を守るのかということからはじめなければならないと思っているからです。

例えば日本語というものには精神文化が色濃く反映されています。「ありがとう」「おかげさま」「おたがいさま」「もったいない」「ごめんなさい」なども日ごろから使っていますがそのどれもが日本の精神文化と深くつながっているものです。

昨年、手掘りで井戸掘りをしたとき6メートルを超えたところで地下水脈に出会いました。そこには膨大な地下水が常に流れています。その水に触れたとき、懐かしさといのちと感じました。また日本に流れ続ける風土の文化を直に感じた瞬間でもあったように思います。

まるで井戸掘りと同様に、伝統や親祖から連綿と続いている歴史の深奥、その地下にはまさに精神文化という水脈がいつまでも流れています。表層は何もないように見えても、掘り下げていけば必ず地下水脈に中ります。それを如何に掘り出していくか、情報の氾濫する川の流れの中でそんな川に翻弄されるのではなくじっくりと悠久を流れる地下水脈に身を委ねられるか、それは今の私たちの生き方にこそ懸かっているともいえるのです。

現代は視野狭窄になり、近々のことだけや自分たちの世代のことしか考えない人たちが増えています。もっと古いものや懐かしいものに触れて、本来の日本人であること、日本の精神を自分たちが受け継いで子どもたちに伝承していくことなど本来の使命に立ち返る必要があると私は思います。

特に子どもの仕事をしていれば、日本の文化伝承は欠かせない一大事であることは少し掘り下げて考えてみれば誰でもわかります。

連綿と流れ続けているものを掘り起こすことは道を拓くことであり、子どもたちに歴史を繋ぐことは未来への希望の懸け橋になります。いのちを懸けられる仕事に出会ったことを仕合せに思います。

引き続き、子ども第一義の理念で生き方を観照していきたいと思います。

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。