観光創生化とは何か

引き続き「まちづくり」の観点から私の造語でもある「観光創生化」について少し深めてみます。

そもそも「観光」という言葉は辞書によれば『[名](スル)他の国や地方の風景・史跡・風物などを見物すること。「各地を観光してまわる」「観光シーズン」「観光名所」[補説]近年は、娯楽や保養のため余暇時間に日常生活圏を離れて行うスポーツ・学習・交流・遊覧などの多様な活動をいう。また、観光庁などの統計では、余暇・レクリエーション・業務などの目的を問わず、1年を超えない非日常圏への旅行をさす。』(goo辞書)とあります。

この補説の部分が世間一般的な常識的な観光のことを指し、旅行によってその地域に遊覧にいくことをいうように思います。しかしこの「観光」の語源の由来は中国古典四書五経の「易経」で出てきた言葉で本来の意味は『国の光を観るは、もって王に賓たるに用うるに利し』といいます。

私の意訳では、「他国の宝を観て学ぶことは自国の宝を見つけ磨くためでもある、これは王の徳の近くにおいて大変な価値がある」とします。つまりは「観国之光」の光とは「徳の宝」のことを指し、この徳の宝を観ることがまさに自分を磨き、自国の魅力をも発掘する基礎であるという意味に解釈します。

日本は、観光を重要な政策の柱として掲げ「観光立国」を打ち出しました。しかし、私自身が観光地を色々と観てみるとあまりその地域の観光の徳の宝が出ているとは思えない利用の仕方が目立っていたように思います。

例えば、古い文化財の建物だけを補助金で修理し見学料だけとって案内しているもののそこには暮らしがなく、保存したものを見るだけでは生きた施設にはなりません。それに見た目は古い町並みであっても中身は県外からの企業に運営を委託され御洒落な店舗やそこでなくてもいい目新しいものを買い物できるようにしてもそこに暮らしは創生しません。

かつての暮らしが遺っているところ、伝統が今でも連綿と息づいているところに人々は本質的に徳の宝を感じるものでありそれを学ぶために集まってきているのです。人が感動するのは、長い時間をかけていまでも伝承されている暮らしを感じるときであって見せかけの見世物をみてもまた再び観たいとは思わないものです。すぐに飽きられるようなものに光はなく、そこに宝を感じません。光り続けるのは暮らしを磨き続けるからであり、それを私は観光創生化と名付けているのです。

観光創生化がちゃんと実現している地方は、いまでも懐かしい未来があり、いつまでも古くて新しい光を放ち続けて人を集めます。その光はたとえ世界広しといえども世界各国からその徳の光を観て多くの観光客が訪れてきます。

付け焼刃の予算で、付け焼刃の観光をやろうとしても長続きするはずはありません。古来のたたら製法で打つ本物の日本刀のような本来の観光の意味を正しく捉え、如何に暮らしを甦生させていくかを真摯に足元から見つめ直すことでその地域の徳が魅力として顕現すると私は思います。

引き続き、子どもたちのためにも未来にその地域の徳がそのままに継承していけるように今の世代を生きるものとしての役目を長い目で観て粛々と果たしていきたいと思います。

 

まちづくりとは何か

今月は、近畿大学九州短期大学主催でまちづくりの座談会と子どもたち向けに縁日を聴福庵にて21日、22日の2日間で開催します。縁日では長年協働しているクラムアートの代表の福田康孝氏にも千葉県館山から来庵いただき貝磨きのワークショップをしていただきます。地域のお取引先の保育園、幼稚園の子どもたちにも案内を出し、はじめてこの「場」を提供して触れ合ういい機会になりそうです。

もともと聴福庵は、復古創新という言葉を島根の石見銀山生活文化研究所の松場登美様から教えていただき私なりに暮らしの甦生に取り組んできました。様々な伝統技術や日本的精神を伝統職人さんたちから学び直し、その初心を子どもたちに「伝承する場」、つまりは「学舎・道場」のように活用して場を育てながら暮らしを甦生していきました。

そもそもまちづくりとは何かと訊かれると、私はそれは「暮らしである」と断言します。暮らしのないまちづくりは単なる箱だけを用意したものであり、そこに確かな暮らしが甦生されてはじめてまちづくりになっていると言えるからです。このまちづくりは、「まち+づくり」からできている言葉ですが、私の勝手な解釈ではここでの町は単なる町ではなく、「暮らすまち」のことです。そして「づくり」というのは何か、これも私の解釈では「磨き甦生」させることです。その合体した言葉がこのまちづくりの本質です。

暮らしを磨き、如何に新しい価値を今に温故知新しそれを甦らせていくか。

もしもこの逆に、暮らしをやらず、甦生もしないのであれば、それは単なる新しいものを増やしたにすぎません。お金をかけて箱ものを用意しても長続きしませんし、かえってそのサービスに依存する人たちが増えていきます。これではまちづくりへの参画にはなりません。縮退時代に入り、地方の人口が減り少子化になり、空き家が増え、行政のサービスも減縮し、いよいよ過去の遺物が保存できなくなるなかで、今までのような町作りばかりやっていても何も変わっていくことはないと私は思います。

一人ひとりが本来のまちづくりに目覚めることは、原点に帰り一人ひとりが自分自身の暮らしを甦生していくことを実践していくことで醸成されていきます。ただ町にいてそのままにして流されるのではなく、故郷を守り住む一人として、一人ひとりが今一度、「暮らしの甦生」に取り組み、「暮らしから地域を変えていく」ことではじめて本物のまちづくりは為ると私は思っています。

そしてこれは子どもたちがイキイキと個性を発揮して社會を創っていくのも同じです。一人ひとりが、主体的にその空間や場で活動する中でその場は創造され空間が醸成されます。その行為の一つ一つこそ暮らしの本質であり、その暮らしがみんなと一緒に体験したり味わったり学び直したり磨いたりする中で甦生するのです。

今回は、タイトルに「まちづくり×古民家甦生=観光創生化」とした意味はまさに「まちの宝を創造していくのは民家としての暮らしを甦生する人々がその場に参画することでまちの魅力が磨き直され光り出し、その品によって人々を集める」という意味です。

私たちの取り組む理念は、子ども第一義ですが子どもたちの保育現場は小さな社會ですがそれは未来の社會そのものです。どのような未来を子どもたちに遺していくか、どのような未来にしてほしいかは、一人ひとりの今の大人たちの社會への参画意識に由ります。その大人たちの背中をみて子どもたちは真似をし、近い未来に訪れる自分たちのまちづくりを創造していくのです。つまりこの観光創生化は、まさに次世代のために今を生き抜く私たちの本業そのものなのです

引き続き、新しいことばかりへの挑戦が続きますがこれも一つの大切なご縁として学び直していきたいと思います。

土の芸術

いよいよ今月、聴福庵の離れの建築にて念願の瓦葺きを体験するご縁をいただくことになりました。離れの伝統的な日本家屋を自らの手で職人さんたちと一緒にクルーたちと共に取り組めることは本当に仕合せなことです。

床下には今まで自然農や自然養鶏、妙見高菜や埋炭技術で培ってきた発酵場を創造します。そして屋根には、呼吸大学の宮本代表や田口理事長、伝統瓦葺き職人の野殿様の御力をお借りして古来からの伝統技術でもある湿式工法にて葺いていきます。

今回はさらにご先祖様の智慧を結集させ、建て方一つ一つに古来の工法にこだわり、また柿渋や渋墨、ベンガラの塗料、さらに水は井戸水を用い、炭で沸かす風呂も設置されます。板戸や格子戸、無双窓も用いられ、横からの風通しにも配慮しました。

地球には天地があります。天から雨が下に降り、その雨が地中から天に帰っていく、この当たり前の循環を邪魔しないこの聴福庵の新しい建物はまさに日本の暮らしの基礎、日本的精神の理念を体現するものです。

この日本の風土の中で、如何に何百年も持つ建物を建てるか。それは御先祖様が長年様々なことを実験し、さらには日本文化に昇華して子孫へと譲り渡してきたものです。その智慧は、何よりもこの風土で積み上げられたものであり、この風土にまさに適ったものであり、唯一無二のものです。

この風土と一体になったものを文化というのです。

そして日本文化を学ぶのに、この日本古来からの家づくりというものは大変貴重な経験になります。

日本では土を焼いて固めた土器類を「カワラケ」と言っていたそうで「日本書紀」の中で甲冑の事を「カワラ(伽和羅)」と言い亀の甲羅のように固く上を包むものという意味です。日本では屋根瓦は「カワラ」と言い、「カワラケ」は土器類の総称として残ったのではないかと言われます。

この土の文化というものは、かつては縄文時代から私たちは様々な土器を土を用いて創造してきました。瓦と土による湿式工法での瓦葺きはまさに、土の芸術とも言えます。

最近は、左官職人とのご縁も増えましたがその原料である土が今回は屋根の上に用いられ家を守ってくれます。土は地球そのものですから、その土をどのようにご先祖様は暮らしに活かそうとしたか、その技術だけではなくその精神も学び直したいと思います。

子どもたちに確かなものを、また本物を譲り渡していけるように、引き続き覚悟を決めてリスクを選び、真摯に本質を掴み取って伝承していきたいと思います。

 

 

木と水はいのちの父母

以前、佐賀の老舗漬物店で譲っていただいた50年前の奈良漬けの大樽を加工して聴福庵のお風呂に甦生したのはブログで紹介しましたがその際に半分に切ったものが桶屋さんに置いたままだったのでそれを受け取りにいきました。

だいぶ壊れてしまいましたが、これをまたみんなで別の活かし方がないかを考えて甦生していきたいと思っています。

昨日は桶と樽の違いについてじっくりと話をお伺いする機会もありました。最近ではあまり見かけなくなった桶や樽には、その用途にも違いがります。簡単に言えば日常の暮らしの中で身近に置いてあるのが桶です。そして樽は、酒・醤油などを入れ、保存・運搬などどちらかといえばお店や業務用として用いられました。

また樽は蓋が閉じられた容器が多いのに対し、桶はおひつや寿司桶など蓋が閉じられていない容器であることが多いです。また側板に板目板を使うのが「樽」であり、柾目板を使うのが「桶」になります。この板を横に切るか縦に切るかは木の特徴を活かし、水が滲み出すか滲み出さないか、蒸発するかしないかなど見極めています。

そうしてみると酒樽や醤油樽は、水を用いますから水が滲み出さないように板目でなければなりません。そして水を長期間保管し長く使うものだから樽となります。そして桶は水気をなるべく通し乾かすためには柾目であった方が水が滲み出し使い勝手がよくなります。また鉋をかけて表面を滑らかにし、乾きやすく短時間何回も使うものが桶になるのです。

桶職人や樽職人は、木の職人ですが木を活かす精神を持つ日本文化にとって本当に譲り遺したい大切な技術を持った方々であるのを改めて感じます。現在は中国をはじめ東南アジアから機械で大量生産され表面を化学塗料でコーティングされた桶がたくさん輸入されて価格が壊れて古来からの伝統の技術も職人さんたちも失われてきています。私たち日本人が本物に触れて日本の文化を守ってほしいと祈るばかりです。

また最近は日本文化を深めていると、この日本が木と水によって醸成されてきたのがよく分かってきました。森を活かし杜を守る、神社がこれだけ全国各地にあり土地の水と木を大切にしてきたのはこの日本の風土の中心に常に「水と木」があるからです。

この森は、あらゆる生き物たちを活かす存在です。そこから流れていく水が、最後には海のあらゆる生き物たちを繁栄させていきます。森があるから肥沃な風土が豊かになり、木の一つ一つがその森の役割を果たします。私たちの親祖が山をカミとし、山を守るのはいのちの源を育む生き物たちの父母なる存在であるためにです。木と水はいのちの父母であるからその信仰もまた山から起きるのは山には結びやいのちの原点が存在しているからです。

話を戻せば現代は便利な石油製品が出回り、プラスチックや金属、コンクリートで埋め尽くされましたが本来は林業を通して私たちは里山での暮らしを実現させ木や水を上手に活用して自然の豊かな恩恵をいただいて末永く生きてきた民族であったともいえます。

その智慧の結晶ともいえる代表的な道具がこの樽や桶であり、この道具を通して私たちは先祖の生き方や智慧を伝承してきたともいえます。そしてまさに自然循環の道具のシンボルともいえる桶や樽が身近にあるのは私たち日本人が古来より循環の中で水と木と共生してきた民であるというシンボルでもあります。

聴福庵には、100年以上前の桶がいくつもありますが改めて懐かしい道具に触れることで心が安らぎます。失われていく日本文化の中で、失われずに残っている日本文化の伝承者としての職人の皆様の踏ん張りに心が打たれます。私もその道具や智慧や生き方を学び直し、後世の子孫たちに先祖たちの偉大な真心や智慧を譲れるように真摯に実践を積み重ねていきたいと思います。

天との対話

老師の遺した有名な言葉に、「天之道、不争而善勝、不言而善応、不招而自来、然而善謀。天網恢恢疏而不失。」があります。これは「天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、招かずして自ら来り、然として善く謀る。天網恢恢疏にして失わず」という意味です。

天に問い、天が見ているとし、ありのままであるがままに生きる人は正直の徳を磨いていきます。この正直の徳とは、自分の心を天に映す鏡として鑑照する生き方を実践していくということです。

私が尊敬する吉田松陰は、その辞世の句で「吾 今 國の爲に死す 死して 君親に 背かず。 悠悠たり 天地の事 鑑照 明神に 在り。」といいました。

これは意訳すると「私は今、故郷の国のために命を捧げ死んでいきます。私は死ぬに際しても親祖や恩君へ対する道に背くことはありません。悠久に続く天地のことだからこのことは天が観てくださっている、八百万の神々、どうかご鑑照ください」と。

天が観ているという心境は、自分にとっての都合や損得、その他の利害などを優先しているのではなく文字通り天に問い天が見ているとし天の基準に沿って歩んでいくという道の生き方です。

天が見ているという生き方はとても明るくのびのびした精神を持っています。そこには自己を中心に裏表があるのではなくそのままの自分を天に見てもらっているという偉大な安心感を持っています。

自分の心に正直であるか、自分の心は真心のままであるか、それは自分ではわからないものです。だからこそそこを天に問い、天がどうなさるのかの判断にゆだねて任せて生きていくのです。

私自身もいつも真心で生きたいと思っていますが、果たしてこれが真心であったのかどうかわからないことばかりです。しかし天が見てくださっていると信じて、天の判断に任せてそれをすべて受け入れて受け止めると覚悟を決めて歩んでいけばそのすべては天の采配であったと直観し、これでいいとすべてを丸ごと受け容れることができるように思います。

この天の采配とは、偉大な天の真心に触れるということです。

吉田松陰は生き死にが判断基準で良し悪しを考えたのではなく、まさに天の采配のすべてを信じて道を貫いたのでしょう。

最後に、常岡一郎氏にこんな言葉があります。

「宝物は大切にされる。危険なところに置かないように心を配る。人の世の宝と仰がれる人がある。そんな人は自ら求めてなくても大切にされる。心の使い方の美しい人はよい運命に守られている。危ないところから遠ざけられている」

吉田松陰は俗世にまみれてなお魂を磨いて俗世の穢れを取り払い、澄んだ心を磨き切った宝だったように思います。今でも大切にされるのは、その心の使い方が美しかったからです。生き死にが問題ではなく、天命のままにやり遂げたというところに運命から守られたという余韻を感じます。

このように死してなお今でも燦然と輝き続ける吉田松陰の魂のように、天は必ずその人の天命に沿う生き方を未来永劫変わらずに応援してくださいます。私の歩んでいる道はかんながらの道、悠久の八百万の神々と共に往く道ですから常にその古の神々がいつも見ているとし天との対話を続けて歩んでいきたいと思います。

意識の磨き直し

先日から心技体のことを書くことがありましたが、その心技体によって顕現するものに意識というものがあります。意識の差というものは、すべての結果やプロセスに顕れてくるものであり意識の低さは問題意識に低さでもありますから自分の磨き方によって差が出てくるものです。

磨き方というのは、どのような意識で磨くかで光り方も変わります。先日、ある左官職人が泥団子を磨き上げ、それがあまりにも美しく、それに自分の名前をつけて名刺の裏に印刷しておられました。これは自分の紹介に、自分の目指している目標の高さを磨くことによって表現しておりここまで自分はやりたいという一つの自己表現でもありました。たかが泥団子、しかしされど泥団子なのです。どんな小さな仕事であってもその人の意識次第でその仕事は大変な価値があるものにもなるのです。そしてどのような意識を持つかは、人間の能力向上や才能開花において重要な価値を秘めています。

日本電産の永守重信氏にこのような言葉があります。

人の総合的な能力は、天才は別として、秀才まで入れてもたかが5倍、普通は2倍しか違わない。ところが、やる気、士気、意識は100倍ぐらいの差がある。だから、少々能力がなくても、意識の高い人間を採ったほうがいいと思っている。世の中には、成績のいい人を採れば、さぞや立派な製品やいい客を開発するだろうと考える。もしそうなら、日本電産などとっくに大企業につぶされているはずだ。」

そして永守氏は、意識を変えることで人を育てるとし経営をそこに集中させて人や会社を変革させておられます。

この意識を変えるというのはどういうことか、それははっきりと自分は何をしたいかと目的を定めて目標を明確にすることです。それにより分かれてしまっている潜在意識と顕在意識という意識と無意識の力が合一します。そしてそのためにもっとも必要なのは覚悟を決めることです。

意識が高いか低いかの差、言い換えるのなら当事者意識があるかないかの差はすべてはこの覚悟が決めます。こうなればいいだろうとか、うまくいけばとか、漠然としたままで何かに取り組んでいても意識が変わることはありません。

まず意識を変えるのが先で、どんな時もまず先に何のためにやるのかを突き詰めたあと「自分はどうしたい?」と自分に確認し、その目的に対して覚悟を決め行動をコミットすることで意識を育てるのです。

意識が育つのと同時に、成果も育っていきます。覚悟を決めて目的を定めた30年と、いつまでも漠然としたままで過ごしてしまう30年ではどのような成果になるかはすぐにわかります。

そういう意味で日々は、意識を磨くための大切な一日ですから覚悟を決めて日々の仕事に如何に邁進するかはその人の一生を決めるだけでなく、その人の周囲への影響も決めてしまいます。

環境に左右されない力は、この意識の醸成にこそあります。

引き続き、意識を高め意識を育て、意識の磨き直しを続けていきたいと思います。

職人の志事

昨日は無事に聴福庵の床の間に、砂鉄塗の壁が塗り終わりました。たくさんの左官職人さんたちが見守る中で、一人の左官職人が真摯に壁に向き合って黙々と塗っていく姿には深く心が打たれるものがありました。

職人の志事に取り組む姿勢、まだお若い方でしたが親方について学び、親方が見守る中で真剣に塗っている様子に講習を受けていた他の左官職人さんも次第に目が奪われていくのがわかりました。

職人たちはまるで本物の家族のように温かい感じがして、一緒にいるととても居心地がよく、楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。みんなで同じ道に生き、同じ釜の飯を食う、こんな当たり前のことが懐かしく感じるのは、それぞれが日本文化そのものの受け継いで根っこがつながっているからかもしれないと感じられました。

みんな言葉は少なくても、それぞれが材料をつくってみたり、調合を変えてみたり、また塗り方を試してみたり、正解のないものの中からもっともその素材を活かしどのような壁にするのかを研究して周りをみながら研鑽を積んでおられました。

今回、来庵された左官職人さんたちはほとんどが独立してそれぞれの場所で左官仕事を請けておられる方々ばかりでした。日ごろはみんな離れていますが、お互いにみんなそれぞれの持ち場で真摯に挑戦し努力していると思えるから存在そのものが励みになるそうです。

そう考えると、師や仲間の存在があるからその人はさらに向上していこうとする。道の中で誰に出会うかどうかは、その人の生きる姿勢で決まります。

働く姿勢は、そのまま生きる姿勢なのです。

昨日の道場では、心構えをまず親方の姿勢から学び、技術はそれぞれの現場で日々に真摯に磨き、その実践を身体と行動で示す。その生き方を確認する機会であったように思います。

昨日も道具に対する姿勢について、たとえ年上であってもそれは間違っているとその道具への姿勢を叱責したり、あるいは火加減一つにしても厳格に指導したり、あるいは塗りにくくないかと配慮をしたり、あるいは弟子の悩みを朝からじっくり聴いてアドバイスをしたりと、そこには気づきと学びが凝縮された場が醸成されていました。

今回の体験で、左官職人たちがあのように自ら学び、自らが主体的に同じ道の上で切磋琢磨していく姿に本来の学校のあるべき姿を感じることができました。

なぜあのようになるのかをもう一度見つめ直し、日本古来からの精神の伝承、さらには文化伝承の仕組みを引き続き紐解いていきたいと思います。

砂鉄の壁は、紫黒の中に星がキラキラと煌めき、陰翳の中で瞬いている宇宙のようです。この宇宙空間の中に、私たちも存在させていただいていることを改めて悟り、このことを忘れないでいようと初心を定めました。

今回の左官講習ご縁に深く感謝しております。それぞれがお元気でお志事に邁進し、皆様にいつの日かまたお会いできるのを楽しみにしております。本当にありがとうございました。

永久の間(トコノマ)

明日、いよいよ待ちに待った床の間の壁の砂鉄塗が行われます。1年半越しに、準備をし伝統の左官親方とお弟子さん、また技術を学びたいと各地から左官職人さんが来庵され文化伝承の場として使われます。

この床の間への私の思い入れは大変強く、この床の間の甦生は暮らしの実践の中でも特に重要な意味を持っています。最近ではマンション住まいになり、床の間がなくなってきた家が増えていますが私たちの先祖は常にこの床の間に神様を祀り大切に暮らしを積み重ねてきました。

改めて床の間とは何かと説明すると、一般的には和室の一隅が一段高くなっているところで掛軸や置物、生花などが飾られています。しかし本来の床の間は、16世紀頃に登場した書院造りに取り入れられた「主君の座」だったといいます。そこは神聖な空間で、またハレの場であり、その主人そのものが顕現する場です。

この「トコ」という響きは、「トコシエ(永久)」、「トコヨ(常世)」と同じ音を持ち、古来から「永遠」という意味で語られます。一家の求心力や、一族が絶えることなく永久に続く象徴そのものが「床の間」であり、この床の間こそ家全体の中心であると私は思っています。

またかつての暮らしがいまでも色濃く残る沖縄では、「床の間は屋敷を守る男の神様がいる神聖な場所なので、床のある和室を一番座と呼び住宅の中で最も高貴な場所である。」と言い伝えられています。実際に、明治頃までは、床の間には神様が宿ると信じられ、神様が依り代になるものを設置し、そこに神様が入ってきてくださる空間であると信じられていました。

実際に、空間という字は、「空」と「間」からできている言葉です。これは入れ物のことであり、器を示します。神様がどれを依り代に降りてこられるか、次々に家の中に入ってきてくださる八百万の神々がそこに鎮座し、その神様をお祀りしおもてなしする至高神聖な場がこの「床の間」であると私は直観するのです。

もっとも清浄で神聖なその永久の空間を、どのようにするかは聴福庵がはじまったときからの主人としての大きな命題でした。それが地球の星魂の欠片でもある砂鉄を用いることができるご縁が本当に有難く、感謝の念が湧いてきます。

この家の暮らしの中心の床の間の甦生は、すでにはじまった聴福庵の息吹と誕生の大きな節目です。これから子どもたちのために風土や初心を伝承していくために主人のいのちが入る瞬間です。

炭と鉄に見守られ、火と水に支えられ、心玉が磨かれて光り輝いていく日本刀のように和魂円満の永久の間を味わいたいと思います。

 

石工の魂

昨日、江戸時代末期から続く郷里の老舗石屋の五代目主人の方にお話をお聴きするご縁がありました。聴福庵の沓脱石を探している関係でご縁をいただきましたが、改めて石大工の仕事の深さを感じる機会になりました。

そもそも石屋は、石を刻んで細工する職人のことをいい石大工、もしくは石工(いしく)と呼びます。

石大工の歴史を辿れば、はじまりは遺跡にもあるように石を様々に加工して暮らしの中で利用したところがはじまりだと思いますが主に進歩があったのは鎌倉時代で社寺造営に石材が使われはじめ石大工の活動が活発になった頃からだといいます。室町時代には一般庶民の神仏信仰が盛んとなり各地に石仏や石卒塔婆が作られるようにもなってきます。そして戦国末期から江戸初期になると築城用石材が多く使われ、茶の湯の流行もあり茶庭におく石燈籠や手水鉢など小型石材加工品が出てきます。さらに江戸時代も中頃になると庶民でも墓石をつくることが一般的となります。そして全国各地で石切場の開発がなされ、石屋が急増したといいます。近代は、戦争があって戦死者を祀ることでたくさんの墓石が建てられました。そのころがピークであとは、安い韓国製や中国製、手作業から機械に代わり大量生産が可能で加工が便利になり、かつての石屋が激減して今に至ります。

昨日、老舗石屋の五代目主人にお話をお聴きしていると石大工の仕事は心が必要であること、石という何億年も何万年もかかってできたものを加工するのは神仏と深いかかわりもあり、神聖な仕事であること、先祖先人が遺した真心の手を入れた石にはいつまでも守る責任があることなど教えていただきました。

現代は、墓石も建てられないどころか捨て去られ、安価に購入できる外国産の石が国内には溢れています。またかつて貴重といわれた石も、卸業者によって価値が壊れてしまいゴミの山のように廃棄されています。石の最期は、産廃業者が集めて粉々にし砂利にすると言っていましたが長い期間をかけて出来上がった石をいとも簡単に機械で粉々にして捨てるという現実をお聴きし、人間の都合の便利さの陰に昔ながらの自然との共生が失われていくのを改めて実感しました。

最近では伝統の石大工は激減し、ほとんどが廃業に追い込まれてしまったそうです。五代目主人が修行した四国の伝統的な石屋も先年に倒産したそうです。畳や桶と同じで、日本の大切な文化が消えかけているのはこの石工にも起きていました。

また石場で捨てられた石が山積みになったところをみると、お地蔵さんや名前の入ったお墓、その他、仏塔や石碑、ありとあらゆる石がゴミのように捨てられていました。

江戸時代末期から明治の頃のお話をお聴きすると、先祖の石大工は鑿と金槌を持ち山に入り石があるところで墓を加工していたともいいます。また墓を建てるというのは、祝事ですから地域の人たちがみんなで無償で協力して石を運び、助け合って建てていたといいます。その頃は、石工も一緒にご祝儀をいただいていたそうです。そのころの方が、石も喜んでいたのではないかと感じます。戦争時に戦死者が増えてみんなが墓を建てた理由は、その人たちの御蔭で今の自分たちがあることを忘れまいとしたからだそうです。今はその建てた世代が亡くなり、途端に管理が面倒だからと墓が子孫によって捨てられていくようになったと嘆いておられました。

悠久の年月、いつまでもその人の御恩を忘れないようにと頑強で丈夫な石を選んでしっかりと心を籠めて刻んだものが今ではそれが処理するのが高価で不便になり、そのまま放置して誰も管理せずに捨てていく理由になっているというのはとても残念なことです。これは古民家の空き家と同じです。

石は私たちに記憶を刻むように心を留めます。その心に留めたものを捨てるのは、私たちが初心や原点を忘れているからかもしれません。

改めて石大工の棟梁の心構え、石工の魂をお聴きし、ここにも日本の職人文化が深く根付いていたことを学び直しました。改めて、聴福庵の仲間になってくれる沓脱石の存在と今回のご縁を結び、自然を尊び、石の本質を確認しながら和の甦生に取り組んでいきたいと思います。

暮らしの信仰

昨日、長崎県平戸市にあるお客様の寺院にてお風呂の神様として祀られている「跋陀婆羅菩薩」(ばったばらぼさつ)のお話をお聴きする機会がありました。ちょうど聴福庵のお風呂場の甦生に取り組んでおり印象に残りました。

古来より日本の家には多くの神様がいて祀られていました。福を授ける大歳神、家全体を守る天照大神、台所の火を守る三宝荒神、家中の火を司る火之迦具土神、家の穀物を守る宇迦之御魂神、台所には他にも布袋、恵比寿、大黒神、井戸や水場を守る弥都波能売神、トイレには烏枢沙摩明王と弁財天、家宝を守る屋敷神の納戸神、窓や風を司る志那都比古神、門を守る神様の天石門別神。家屋、屋根を守る大屋毘古神。家の戸の神、大戸日別神。他にも似た神様に座敷や蔵の神様に座敷童子、そして先ほどの風呂場の跋陀婆羅菩薩です。

いざ書き出してみると、これだけ多くの神様が守ってくださっている家。ここにはもはや宗教の違いを超えて常に身近に神様がおられ私たちの暮らしを守ってくださっているという生活をしてきたことがわかります。

先日、ある方が祖母が早朝より古民家の中にあるありとあらゆる神棚の御水替えでだいぶ時間がかかっているとお聞きしましたがそれだけ昔から家の中の守り神を日本人の先祖は大切にしてきたように思います。

今の西洋式の家屋では神棚もない家が増えてきました。家を守っている神様が一つも目に見えるところにもなく、信仰する場もない環境ができてしまえばかつてのような日本の民家の暮らしもまた消失していくのは時間の問題なのでしょう。

昔は水も火も風も、土も穀物もすべて自然からの恩恵でありその恩恵があって家での暮らしが成り立っていました。その感謝を忘れないで大切に守ってくださっていることに祈る日々が暮らしの根っこにあったように思います。

当たり前になってしまっている現代の便利な生活の中で、失ったものが何かは神様がいなくなったことでわかります。私たちは暮らしを通して信仰心を養い、生き方を磨いてきたからこそ日本人らしい感性が伝承されてきたようにも思います。

改めて、古来からの暮らしの信仰を見直して引き続き子どもたちのために家を甦生していきたいと思います。