成長の本質

「習熟」という言葉があります。

辞書によれば「ある物事に慣れて十分に会得(えとく)すること。」と書かれます。類語には、「習得する 、 身に付く 、体得する 、 自分のものとする 、覚える 、我が物とする 、マスターする 、 修得する 、 肌でつかむ 、心得る 、 極める、磨きぬく、鍛錬する、錬磨する、熟達する」などがあります。。

この習熟は、パッと言葉で教えてわかったからと簡単にできるものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し続けていく練習の中で身についていくということがここからわかります。

自分のことを思い出せば様々な智慧はどうやって身についてきたかと思うと、根気強く一つのことを求め続けていく中で何回も失敗を繰り返し改善を続けていくなかであるとき、コツを掴みできるようになりました。

そのためにはいつできるようになるのかがわからなくても、諦めずに求め続け高め続けていく中である瞬間に臨界期を超えて脱皮して新しい自分に生まれ変わるという体験が必要です。

この脱皮して生まれ変わるというのが、習熟であり発達したということです。その間は、なぜこんなにうまくいかないのか、なぜわからないのかと、どうすればできるのかと日々に煩悶しますがそれでも強く変わりたいと願い、挑戦し続けて取り組んでいく中で気が付いたときには変わっていくものです。

脱皮したり変化したりするのがうまい人は、好奇心が旺盛でなんでも楽しくやっているうちに変化していきます。あまりマジメ過ぎると、そのこと自体が楽しくなくなり、つらくなりさらには焦りや臆病風が吹いてきては怖くて新しいことに飛び込んでいく勇気がでないままに動けなくなりいつまでも変わらないこともあります。

だからこそ、変わるためにはもっと大らかに明るく楽しく求めていく必要があるように思います。それは道を究めようとする心であったり、やっていることの意味に気づき、その深さや面白さを味わったり、達人や熟達した人たちにその体験談やヒントを聴いてそれを試してみたり、また仲間や友人と共に現状を語り合いながら苦労や感想を分かち合ったりと、「創意工夫」をしながらやっていくとより脱皮しやすいように思います。

変わらないからと焦ってみても、自分を責めるばかりで周りのせいにしてはかえって変わることができなくなります。

どうせある日あるときに突然に気が付くとできるようになっているようなものが「成長の本質」であり、それが習熟するということですから日々はいろいろとやり方を工夫してみてその工夫の妙を味わっていくような気持でネアカに快活に歩んでいく方がいいように思います。

諺に「好きこそものの上手なれ」とありますが、まさにこれは先人が語る習熟するための至宝の妙法かもしれません。どうやってそのものを心から大好きになっていくか、そこが脱皮の最大のヒントのようにも思います。これはあるものを磨いてそのものに深々と愛着をもっていくことに似ています。

引き続き、様々な実践を楽しみ味わいながらその一つ一つがあるとき習熟してわかりできるようになる日を心持にしながらご縁を結び、日々の磨き直しを楽しんで取り組んでいきたいと思います。

 

土の甦生

先日、古民家甦生で壊れた漆喰の壁を伝統工法で修復する作業がありました。糊も昔ながらの技法で海藻をコトコトと煮込み、漆喰を調合して壁面に塗り込んでいきます。

左官職人はまるで自由に滑らかに縦横無尽に鏝を使い繊細で緻密な作業を流れるように進めていきます。土づくりから参加してみてみると、下準備にかかる手間暇は膨大で最後の仕上げしか想像していなかった私には学び直すことばかりでした。

下準備や段取り次第では、仕上げの塗りができなくなることもあり、下塗りや中塗り、そして上塗りとコツコツと丁寧に壁を整えていきます。特に土の調合では、納得いくまで丁寧に何回もイメージしたものを混ぜ合わせていきます。

土は自然物ですから、その時々の気候や湿度、温度によって土の状況も異なります。その土と向き合い、その時々の環境の変化に合わせて微妙に調整をする、まさに職人技のなせるとことです。

今回は私も左官職人の指導で漆喰塗りを体験してみましたが、幼いころに遊んだ土遊びのことを思い出しました。幼いころは、川や水辺、田んぼの周辺で土を混ぜては様々な造形物を創りました。泥団子やダム、トンネルや、お城や動物など、想像したものを手で捏ねては塗り固めて遊びました。

あの頃のワクワクしたことを思い出し、土の存在を最初に身近に感じた頃の懐かしい記憶を思い出しました。土は、縄文時代以前からずっと私たちの身近にあって私たちの暮らしを支えてきたものです。

半永久的になくならず、そして甦生を繰り返して利用できる循環型の素材として土は永続的に家を保つのに活用されます。聴福庵の床の間や漆喰の壁の土もそこにあったものを剥ぎ取り、また混ぜ合わせて再利用されました。

どのような土で生きて、どのような土と共に歩んでいくか、土はその場所を動かないからこそ私たちはその土から生き方を学ぶようにも思います。

これから土は瓦の土と、茶室の土が入ってきます。特に茶室のものは、自然農で手塩にかけて育てて見守ってきた発酵した田んぼの土を使ってこれから左官職人と一緒に創りこんでみる予定です。

日本の伝統文化と職人の伝統芸術を遊びながら土の甦生を味わっていきたいと思います。

似て非なるもの

古いものを磨いて新しくするのと、新しいもので古いものをつくるのとではその内容も中身も異なります。例えば、私は古民家甦生という言い方をしますがこれは単に古民家風にすればいいのではなく昔からあるものを大切に活かしつつ、それを捨てるのではなく磨き直して手入れ修繕をし暮らしに活かすということです。

先日も、古民家風のレストランや古民家風居酒屋、古民家風町家にいきましたがこれは古民家ではなく、あくまで古民家風です。この古民家風というのは、建物や外観、見た目は古民家そのものですが使っているものはほとんどが新品で、現代のものばかりで構成されます。

例えば、レトロ調やアンティーク調はレトロやアンティークとは異なるのはすぐにわかります。見た目を誤魔化す技術は本物そっくりにしますから、歳月を待たなくてもまるであるかのような塗料やプリント技術で似せてきます。それだけ今は見た目のところを取り繕う技術が発展しているのです。

しかし似て非なるものという言葉もありますが、本物と本物風は同じではなくそれは佇まいに顕れるものです。古民家甦生は暮らしの実践が欠かせませんから、その手間ひまや修繕、手入れ、磨きによって空間に民家の醍醐味が入ってきます。結果しかみない世の中になってきていますが、そのプロセスにどれだけ精魂を込めているかは空間の中に積み重ねられていくのです。

見た目では誤魔化せないというのが、実践であり実績です。どれだけの歳月を磨き上げてきたか、どれだけの経過を改善し続けてきたか、それが見た目にも顕れるときそれが本物になります。

安く早く簡単便利にという価値観が横行すると、見た目だけ誤魔化せばいい技術が蔓延しますがメッキは剝がれますから結局誤魔化し続ける努力をしなければならなくなります。そうであるのなら、素材を本物にしそれを磨き続ける努力の方がやっていて楽しいものですし、何より自分自身が成長していく実感も味わるように私は思います。

古民家甦生はどれも地味なことばかりですが、それを継続していくことで本物の薫りを醸成していきます。

引き続き子どもたちのため、郷里への恩返しのために一つ一つ丁寧に実践を積み重ねていきたいとおもいます。

 

古井戸の甦生

昨日より、いよいよ古民家の古井戸の甦生をはじめました。もうずいぶん長く使用されていなかった井戸を、手掘りで再生をはじめたのですが慣れない仕事で体中が筋肉痛です。

井戸掘りのプロの方に見ていただき色々と調べてみると、大体6メートル近くはあるらしく今は1メートル半くらいは掘ったのでこれから残りの分を少しずつ掘っていく予定です。

手掘りで井戸掘りのことを伝えると、近所の方や知り合いが懐かしいと見に来てくださいました。昔はみんな井戸水を使っていたこと、日々の暮らしの根元には井戸があったこと、近所の酒蔵や醤油さんはその水でお酒や醤油をつくっていたことなどをお話していただきました。

夏はとても冷たく、冬は温かい、大体年中平均が16度前後の美味しい水が出るといわれ水が出てくる日が楽しみになりました。

昔の日本人は、自然の中に精霊のようないのちがあることを見出し、八百万の神々といってすべてのものに畏敬の念を持ち祈りを奉げお祀りしてきました。家の中には、厨房のおくどさんには三宝荒神さまがいて、トイレには烏枢沙摩明王さまがいて、井戸には水神さまがおられるとして大切に清浄にされてきました。

今では見えないものは信じられず、見えないものを語るとオカルトや宗教や頭がおかしいなどと中傷されますが古来の先祖は見えないものが観えたかのようにそこにあるものとして様々な祈りを奉げてきたのがわかります。

私たちの暮らしを支え見守る火や水、風、土、木や石、月や炭などもそこに確かに精霊やいのちが宿っていていつもその御力をお貸ししていただき私たちが生活していけることができているという感謝の念を忘れることはありませんでした。

今では簡単に火も水も風も、そういうものを自由自在に使えるように科学が発展しましたが技術だけで生み出したいのちの入っていないものに精霊やいのち感じることはできなくなってきたのかもしれません。

炭で熾す火とガスで簡単に出てくる火、井戸の中にある水と、蛇口をひねるとすぐにでてくる水に精霊やいのちをどちらがあると感じられるかは触れてみれば一目瞭然です。

人類が自然を破壊し大きな岐路に立たされているときだからこそ、どのように生きるか、いままでどのような心構えで生き永らえてきたのか、先祖の智慧を頼る必要があると私は思います。

最後に、外の猛暑とは一変してひんやり別空間の掘り進める井戸の中から真上を見上げると、青空が見えそれをのぞき込む仲間たちの笑顔が観えました。その光景にかつての井戸端会議なども井戸の中に響いたのではないかとも思い、生活や暮らしを土の中からお母さんのように見守る存在として水の神様があったのではないかとも空想しました。これはまさに土と水の調和の上に家が立つという教えだったのかもしれません。

有難い井戸や水神さまの存在に感謝しながら心を籠めて丁寧に掘り進めていきたいと思います。

 

 

伝統と伝承

先日、伝統工芸の職人の方々のお話をお聴きする中で考えることがありました。それは「伝える」ということの意味についてです。

一般的にいくら良いものだとわかっていてもそれを伝える力がなければ相手には伝わりません。それに伝統だと、師弟関係があったにせよそれがお互いに伝承できなければそれはのちに遺ってきません。この「伝」の意味はまさに今、私たちが課題になっているところです。

もともとこの伝の旧字体は「傳」です。 「人」+「專」の形声文字から成り立ちます。これは 「横から見た人の象形」と「糸巻き の象形」と「右手の象形」を表し、 その糸巻きをぐるぐる回しながら人から人へと何かを「つたえる」という意味を指します。

この「伝える」という取り組みは、人類にとってとても大きな意義があることです。長い時間をかけて人類を存続させ、子孫への繁栄を発展を約束するためにも「伝える」ことはその世代を経験して達したものの使命になっているようにも思います。

しかしこれが伝わらなくなれば、自ずからそこでそれは消滅するのです。如何に伝えるということが大切か、如何に伝わるということが大事かということです。そしてそれがいつまでも永遠につながっていくこと、それを伝統というのでしょう。

この伝統技術は、単に文字や言葉で教えて伝わるものではありません。伝わるには、真摯に伝える側が伝わる側に伝わるように真心を籠めて伝えなければなりません。そして伝えられる側も、真心を籠めて素直に耳を傾け、心から伝わるように全身全霊で受け取らなければなりません。

以心伝心とも言いますが、心が伝わりあうことではじめて伝承はなるからです。自分のことばかりを考える人ではこれはならず、お互いに思いやりと真心をもって心で一つのことに結び合うときその糸は連綿といつまでも続いていくようにも思います。

伝統を守るというのは、何をもって伝統を守るというのか、今一度考え直す必要があるように私は思います。

簡単には伝わらないからこそ、伝わったときの仕合せは感謝に満ちるものです。心がつながるとき、大事な理念が伝わりつながっていくとき、心は一つになります。心が一つになれば、その伝統は結ばれいつまでも時代を超えて生き続けていくのです。

改めて子どもたちの未来に今の自分が何を伝えていくことができるだろうか、もう一度自問自答し学び直していきたいと思います。

 

名将の生き様

昨日から福岡県の柳川市に来ています。以前、流鏑馬で訪れたことがある三柱神社で戦国時代の名将で名高い立花宗茂に興味を持ち今回はその所縁を深めています。

この立花宗茂という武将は、文武両道の名将で、連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作など多彩の技芸にも長けていた文化人とされています。戦上手だけではなく、温厚で誠実、そして義理堅く正直であった武士の中の武士であると評されます。

かの豊臣秀吉も秀吉は19歳の宗茂を「その忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」といい、徳川家康も宗茂を畏敬し賞賛していたといい、二条城に上洛した際、本多正信が武田信玄、上杉謙信、織田信長等の名だたる武将と比較して殿がそのように褒めるお方は誰かと問うと「天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」といったそうです。

この立花宗茂は厳しい時代を生き残る智慧は、戦略としても参考になりその生き方や経営はとても共感するところばかりです。戦国時代では上杉謙信と共にとても尊敬している武将で、その逸話や格言、軍略からも学ぶことばかりです。

「例えば、かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2千程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」

これは私は何よりも共感するもので、人は数ではなくその戦略に応じてもっとも自分に合ったものを見極めるということが大切であるということです。己の型を見極め、それに見合った分であることがいいといいます。野戦を得意とする上杉謙信や立花宗茂もまた兵の数ではなく、そのもっとも武が活かせるかどうかということを言ったのではないかと感じます。

野戦というものは、野生のように戦いますから如何に磨かれて意思疎通がとれた仲間と共に戦うかというのが重要です。立花宗茂は人をとても大切にしたといいます。そこにはこういう言葉があります。

「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」

「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」

「戦いは兵数の多少によるものではない。一和にまとまった兵ではなくては、
どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。」

この立花宗茂の強さは、守る強さ、大義の強さ、その生き方の強さでもあると私は思います。いざ戦になったときはこの強さが一和して家族的な和の団結力で協力できるのです。

関ケ原で何度も家康からいかなる恩賞で誘われても、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」といい西軍が負けて柳川に戻ったときは領民から命を共にし殿と一緒に戦うといった領民をなだめ、その後、柳川に戻ったときはその領民の子どもたちから大変歓迎された逸話もあります。また家臣がみんな浪人になった立花宗茂に着いていこうとしあまりの多さにくじで決めたともいいます。

浪人になった後は、家臣たちがみんなで何かしら働き仕送りをし続けたといいます。あるものは虚無僧になり托鉢して宗茂のために食事を集めたといいます。そのエピソードの一つに加藤清正に仕えた家臣の小野和泉があります。

小野和泉は清正家臣団からたびたび嫌がらせを受けていたようですが、清正家臣団から「わが主(清正)は勇猛でたびたび敵将の首をとった」と自慢すると小野和泉はおもむろに上半身裸となり、全身60余ヵ所ある傷のうち上半身40数ヵ所の傷を見せその傷を1つ1つ説明したといいます。 清正家臣団がたまりかねて「もういい。夜が明けてしまう」と言ったところ、「我が主(宗茂)を奮戦させないように我は務めたが、お主らは主が奮戦している間どこにいた!」と一喝したといいます。自分の主の自慢ではなく、主に奮戦させないように務めたというところに立花の家臣としての実直さ誠実さを感じます。

さらに立花宗茂の教育者としての逸話もあります。

寛永11年(1634)、宗茂は安東助四郎(あんどうすけしろう)という家中の少年がおり、その彼が13歳のときに藩の文教面における指導者に育てようと思い立ちます。翌年、宗茂は助四郎を江戸に呼び出し、嗣子・忠茂の近侍に登用し学問に励むよう命じました。

宗茂に急に登用され学問に打ち込む助四郎の姿に他の藩士たちから嫉妬をかい助四郎は病を理由に職を辞し、柳川に帰ってしまいます。しかし宗茂は、忠茂と連名で助四郎にこのような手紙を送りました。

「病はいかがか。容態はどうかと心配している。だが帰国した理由はそればかりではあるまい。お主の勉学は我らが認めたもので、我らはお主のことを少しも疑ってはいない。お主に何かと申した者たちはこちらで吟味する。どうか、気を取り戻してほしい。お主が確かな人物であることは、わかっている」と。

この心のこもった手紙に心打たれた助四郎は、発奮して一層学問に励み後に安東省庵と名乗り「関西の巨儒」と謳われる大儒学者となり柳川学問の祖となります。

この立花宗茂という人物は、戦国時代のただの戦上手で強いだけの人物ではないことはすぐにわかります。その生き方としてのお手本となるものが多く生涯、自分の信条、そして「第一義」に生きた人物でもあります。

時代がいくら変わってもその生き方は燦然と輝き続け、厳しい時代をどう生きていけばいいか、どのように経営すればいいかという模範になります。人を大切にするということがどういうことか、そして何をすることが義を優先しみんなを守ることか、引き続き学び直していきたいと思います。

無名の信仰

古民家甦生を通して信仰について深めていると、改めて官位や名がなく実践される尊さについて見直すことばかりです。今では、職業として様々なことが分かれている時代でもあります。

例えば、福祉や宗教、ボランティアや医療など職業によって区分されています。本人の生き方がどうこうではなく、こういう職業の人だと分類わけされて整理されます。なのでなぜこの人は社長なのにこんなことをするのかとか、なぜ農家なのに漁師のようなことをするのかとか、宗教者なのになぜあんなことをするのかと、職業の方ばかりを見てはその人の生き方の方はなおざりになっていることが多いのです。

世の中のニュースをみても、その人の生き方がどうかが語られず、この職業の人がまさかこんなことをというように分類分けされた職業やその人の官位によって分別されてその内容を報道されます。

本来、生き方と働き方は分かれているものではありません。それは職業である前に、生業であります。つまりはその人の生き方が職業になっているのが本来であり、先ほどの信仰の例でいえば宗教が先にあって信仰があったのではなく、信仰そのものがあるとき職業として宗教というものに分別されたということです。

かつての天神信仰や愛宕信仰、山岳信仰など信仰と名のつくものはすべて無名の信心の上に成り立っています。先日の参拝しながらお地蔵さんに榊や水替えをしながらお参りをする清々しかった方のように信心をする人たちの他力によってその信仰はいつまでも守られていくのです。

そしてこれもまた道の一つです。

民藝運動の指導者、柳宗悦氏が無銘の陶器について語った言葉がありますが私はこれもまた信仰の姿の顕れのように感じます。

「無銘品はごく平凡な人たちの仕事であるから、もしそこに美しさがあるとすると、それは個人の力から湧き出たいわゆる自力の美ではなく、大勢の人たちが愛情を通わせ支えてきたといういわば他力の美に他ならない。何か人を超えた力が背後に働いて作品を美しくさせているのである」

・・・大勢の人たちが愛情を通わせて支えてきたという他力の美。

まさに私は信仰にはこれを感じずにはおれません。天神信仰についても、産業革命以前は全国各地で人々の間で土人形がつくられ毎月25日は天神さまをお祀りする日として親しまれてきました。人々の愛情を通させてきたからこそ信仰は育まれたのです。

そして、「何か人を超えた力が背後に働いて作品を美しくさせる」という言葉。

まさにその御蔭様の力によっていつまでもそのものが神々しくいのちを宿らせ輝かせ続けるということです。神社の境内を清掃したり、古民家の手入れを愛情をもって行うなかでそのものが神々しく清々しく光輝く様子を何回も見てきました。

その都度、私は人が真心と愛情をこめて無我に磨いたものにはそこに本来宿っいたものが甦生するという感覚が出てくるのです。このいのちを磨くということは、信仰の原点であり、そこに真心を盡して実践することでさらにその徳が高まっていくのです。

私は無名ですし、何の官位も持っていません。

しかし信仰についての思いは心の中にあり、その御蔭様の偉大さにいつも心は見守られている実感があります。世の中の刷り込みを取り払い、本来の原点、その初心伝承を究めて伝承していきたいと思います。

煤竹の伝承

現在、おくどさんのある厨房の天井に時代ものの煤竹を磨き直して設置しています。最近の家屋ではほとんど見かけなくなりましたが、本来この煤竹は私たちの先祖が編み出した偉大な智慧の一つです。

普通の竹は、そのままにしていればすぐに乾燥して割れて朽ちていきますが煤竹にすると百年から数百年、生き続けて形を維持します。煤竹についてはウィキペディアにはこう紹介されます。

煤竹(すすだけ)とは、古い藁葺き屋根民家の屋根裏や天井からとれる竹のこと。100年から200年以上という永い年月をかけ、囲炉裏の煙で燻されて自然についた独特の茶褐色や飴色に変色しているのが特徴。煙が直接当たっている部分は色濃く変色しているが、縄などが巻かれて直接煙が当たらなかった部分は変色が薄く、ゆえに1本の竹に濃淡が出て美しい表情をもつ。昨今は煤竹そのものの数が希少傾向にあり、価格は1本で数十万円以上することも普通である。」

今回の煤竹は、富山県のある藁葺きの数百年前の古民家から譲っていただいたものです。この飴色になった煤竹は、囲炉裏を中心に代々の家族が食卓を囲み、そこで様々に暮らす人々の物語の様子を見守りながら生きてきたものです。

私たちよりも数倍以上長く存在する煤竹の光や模様からは、改めて息づいてきた時代を感じさせその煤竹を天井に設えれば不思議な空間を演出してくれます。

この煤竹は、他には工芸品に形を変えて暮らしの道具にもなります。私が常備している煤竹の箸や、聴福庵に置いてある炭斗や花かごなども煤竹が加工されたものです。虫にも食べられず丈夫で、そしてうっとりする美しい光を放ち何よりも長持ちします。

囲炉裏を使い燻し続けた先人の智慧は、とても偉大で高温多湿の厳しい環境下にあった日本の民家はこの「燻す」ことで長持ちするのです。風を通すため隙間の多い日本家屋は、敢えて外と中の境界を創らずに自然のままに建てられます。だから虫が入ってくるし、またカビなども発生しやすいので燻すことをやめればすぐに傷んでしまうのです。

しかしこの煤竹のように囲炉裏の火で燻していけば何年も、また何百年も家が酸化せずにカビの増殖を防ぎ、防虫効果、さらに病原菌からも防護できます。まさに風土に沿った偉大な仕組みがこの煤竹に適応されているのです。

煤竹の甦生は、日本の智慧を甦生することでもあり、時代感のあるこの煤竹がおくどさんの部屋の天井にあることで一気に古民家の風合いがよくなります。長く共に暮らしてきたパートナーがまた新たに私たちの食卓を見守ってくれるという安心感。

子どもたちがいつの日かこのおくどさんで食事をするときもまたこの煤竹が見守ってくれると思うと有難い思いがします。古民家が少なくなってきた現代はこの囲炉裏で燻された時代感のある懐かしい煤竹を見かけることも少なくなりました。

引き続き子どもたちに先祖の智慧が途切れないように、一つ一つ丁寧に復古創新していきたいと思います。

家主の文化

昨日、京都の祇園祭を見学するご縁をいただきました。日本三大祭りの一つといわれるこの祇園祭は京都市東山区の八坂神社のお祭です。京都の夏の風物詩でもあり、7月1日から1か月にわたって行われ中でも「宵山」や32基による「山鉾巡行」「神輿渡御」などが有名です。

今回は、私が古民家甦生や町家主人としての心構えを学んでいる秦家の宵宮にお伺いするために京都に来ました。秦家の前には、とても美しい太子町の山鉾がご鎮座し神々しい雰囲気が醸し出されていました。

秦家のHPにはこう紹介されます。

『7月、鉾の辻を静かに流れる祇園囃子の音色を鉾町に住まう私たちは親しみを込めて「二階囃子」と呼んで山鉾の巨体が通りに現れるのを心待ちにします。太子山町は鉾町では一番西の端に位置している「太子山」という「山」の出るお町内です。ここに住んでいる家々は皆八坂神社の氏子。祭りの期間中は仕事を休んでも祭りに関わることを優先する心意気は今も健在です。』

伝統的な町家でもある秦家の玄関先には、時代感のある朱の提灯と和傘、そして格子戸の隙間からはかつての店先に荘厳な祭壇がしつらえてあり、そのお飾りを多くの観光客の方が行列をつくって見学に来られていました。

この日の秦家の自然体で凛とした品のある風情にいつも以上に私は魂が揺さぶられました。夏のしつらえとしての御庭と御簾、葦戸もまた町家の美点を最大限に引き出されている感じがして日本家屋の魅力に再び気づき直した思いです。

いつもここに来るとその佇まいの凛とする様子に、歴が精神に溶け込んでいく思いがします。時間と空間というもの、これも「間」といいますがこの間には一体何が入っているかということです。

現代はすぐに物事を分解して理解したり、便利な知識で分かった気になりますがこの「間」というものを感じる感性は、丸ごとで味わったり、直観したり、根本や一つであるところで実感するものです。

秦家の持つ凛とした佇まいは、単なる家ではなく代々の主人の生き方が顕れている気がして私がここに来るといつも勇気と元気をもらえます。

世界中のどの民族もその歴史の中で、先祖が経験した体験を智慧として子孫へと伝承され見守りの中で私たちは暮らしを営んできました。先祖が命懸けで実体験した実験から得た教訓や学びを教えずして智慧として子孫はその恩恵を受けて見守られ今も生をつないできたともいえます。

その智慧は代々文化として、暮らしを通して伝承されてきました。しかし今では、その先祖との根のつながりが失われ智慧が継承されにくくなってきています。日本は特にこの暮らしの智慧が豊富で、その文化を通して何をやってはならないか、何をしなければならないかを常に教えずにして教えるという仕組みがあったのです。

それを忘れてはならぬと先祖の厳しい回訓がありそれを守ってきたのが代々の一家の主人であったのです。家訓とはそういうものであると私は思います。私がここ秦家で学び直しているのはその家主の魂、家主の智慧、家主の文化そのものなのです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしを学び直して次世代へと先祖の智慧を譲り渡していきたいと思います。

 

 

愛宕さん

古民家甦生をする中で、台所に神棚には三宝荒神様をお祀りし、竈やおくどさんの近くには火の用心の御札を貼っています。京都の台所には「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた「阿多古(愛宕)」の御札が火難除けとして貼られています。この愛宕神社は、京都の北西部の愛宕山山頂にあり主祭神は伊弉冉尊とその子の火神である迦遇槌命が祀られています。

大宝年間701年~704年に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建であるといわれます。

この神社は古来より「火伏せの神」として信仰されてきました。平安時代から修験の霊場として栄え、その後、その修験者が全国に散らばり、全国的に愛宕の地名を伝えたといいます。

全国に1000社以上ある、愛宕神社の総本山であり「愛宕さん」といって今でも親しまれています。

また天狗の山としても有名で「愛宕太郎坊」という大天狗がいると恐れられ、中世頃には愛宕の本地は勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)といわれたことから武家の信仰が盛んとなりました。一説によると、あの直江兼続の兜にある「愛」の字も、愛宕権現の字を象ったのではないかともいわれます。また武家が統治している土地にも地名として「愛宕」をつけた場合もあるといいます。武運の神様としても信仰されます。

さらに何かの覚悟を決めたり、決心を固いことを表明する言葉に「愛宕白山(あたごはくさん)」というものがあるといいます。これは加賀の白山とともに京都の愛宕が、決意を固める神として信仰されていたからだそうです。明智光秀も本能寺の変の決意を固めたのもこの愛宕山に籠って行ったといいます。

私にとってもこの愛宕山信仰は特別であり、伊弉冉と地蔵菩薩、天狗太郎坊とそしてカグツチという火の神様、ここに様々なつながりと物語を感じずにはおれません。特に聴福庵は、囲炉裏の豊かなぬくもりによって冷えてしまった人々の心をあたためようとしていますからこの生死の巡りの元、循環の要でもある火は私のもっとも大切なパートナーです。

日本にはさまざまな信仰がまだまだ残っています。それを受け継いでいくのは日本人らしさの源泉であり、日本的精神を磨く大切な材料です。

引き続き、古民家甦生を通して初心伝承を深めていきたいと思います。