煤竹の伝承

現在、おくどさんのある厨房の天井に時代ものの煤竹を磨き直して設置しています。最近の家屋ではほとんど見かけなくなりましたが、本来この煤竹は私たちの先祖が編み出した偉大な智慧の一つです。

普通の竹は、そのままにしていればすぐに乾燥して割れて朽ちていきますが煤竹にすると百年から数百年、生き続けて形を維持します。煤竹についてはウィキペディアにはこう紹介されます。

煤竹(すすだけ)とは、古い藁葺き屋根民家の屋根裏や天井からとれる竹のこと。100年から200年以上という永い年月をかけ、囲炉裏の煙で燻されて自然についた独特の茶褐色や飴色に変色しているのが特徴。煙が直接当たっている部分は色濃く変色しているが、縄などが巻かれて直接煙が当たらなかった部分は変色が薄く、ゆえに1本の竹に濃淡が出て美しい表情をもつ。昨今は煤竹そのものの数が希少傾向にあり、価格は1本で数十万円以上することも普通である。」

今回の煤竹は、富山県のある藁葺きの数百年前の古民家から譲っていただいたものです。この飴色になった煤竹は、囲炉裏を中心に代々の家族が食卓を囲み、そこで様々に暮らす人々の物語の様子を見守りながら生きてきたものです。

私たちよりも数倍以上長く存在する煤竹の光や模様からは、改めて息づいてきた時代を感じさせその煤竹を天井に設えれば不思議な空間を演出してくれます。

この煤竹は、他には工芸品に形を変えて暮らしの道具にもなります。私が常備している煤竹の箸や、聴福庵に置いてある炭斗や花かごなども煤竹が加工されたものです。虫にも食べられず丈夫で、そしてうっとりする美しい光を放ち何よりも長持ちします。

囲炉裏を使い燻し続けた先人の智慧は、とても偉大で高温多湿の厳しい環境下にあった日本の民家はこの「燻す」ことで長持ちするのです。風を通すため隙間の多い日本家屋は、敢えて外と中の境界を創らずに自然のままに建てられます。だから虫が入ってくるし、またカビなども発生しやすいので燻すことをやめればすぐに傷んでしまうのです。

しかしこの煤竹のように囲炉裏の火で燻していけば何年も、また何百年も家が酸化せずにカビの増殖を防ぎ、防虫効果、さらに病原菌からも防護できます。まさに風土に沿った偉大な仕組みがこの煤竹に適応されているのです。

煤竹の甦生は、日本の智慧を甦生することでもあり、時代感のあるこの煤竹がおくどさんの部屋の天井にあることで一気に古民家の風合いがよくなります。長く共に暮らしてきたパートナーがまた新たに私たちの食卓を見守ってくれるという安心感。

子どもたちがいつの日かこのおくどさんで食事をするときもまたこの煤竹が見守ってくれると思うと有難い思いがします。古民家が少なくなってきた現代はこの囲炉裏で燻された時代感のある懐かしい煤竹を見かけることも少なくなりました。

引き続き子どもたちに先祖の智慧が途切れないように、一つ一つ丁寧に復古創新していきたいと思います。

家主の文化

昨日、京都の祇園祭を見学するご縁をいただきました。日本三大祭りの一つといわれるこの祇園祭は京都市東山区の八坂神社のお祭です。京都の夏の風物詩でもあり、7月1日から1か月にわたって行われ中でも「宵山」や32基による「山鉾巡行」「神輿渡御」などが有名です。

今回は、私が古民家甦生や町家主人としての心構えを学んでいる秦家の宵宮にお伺いするために京都に来ました。秦家の前には、とても美しい太子町の山鉾がご鎮座し神々しい雰囲気が醸し出されていました。

秦家のHPにはこう紹介されます。

『7月、鉾の辻を静かに流れる祇園囃子の音色を鉾町に住まう私たちは親しみを込めて「二階囃子」と呼んで山鉾の巨体が通りに現れるのを心待ちにします。太子山町は鉾町では一番西の端に位置している「太子山」という「山」の出るお町内です。ここに住んでいる家々は皆八坂神社の氏子。祭りの期間中は仕事を休んでも祭りに関わることを優先する心意気は今も健在です。』

伝統的な町家でもある秦家の玄関先には、時代感のある朱の提灯と和傘、そして格子戸の隙間からはかつての店先に荘厳な祭壇がしつらえてあり、そのお飾りを多くの観光客の方が行列をつくって見学に来られていました。

この日の秦家の自然体で凛とした品のある風情にいつも以上に私は魂が揺さぶられました。夏のしつらえとしての御庭と御簾、葦戸もまた町家の美点を最大限に引き出されている感じがして日本家屋の魅力に再び気づき直した思いです。

いつもここに来るとその佇まいの凛とする様子に、歴が精神に溶け込んでいく思いがします。時間と空間というもの、これも「間」といいますがこの間には一体何が入っているかということです。

現代はすぐに物事を分解して理解したり、便利な知識で分かった気になりますがこの「間」というものを感じる感性は、丸ごとで味わったり、直観したり、根本や一つであるところで実感するものです。

秦家の持つ凛とした佇まいは、単なる家ではなく代々の主人の生き方が顕れている気がして私がここに来るといつも勇気と元気をもらえます。

世界中のどの民族もその歴史の中で、先祖が経験した体験を智慧として子孫へと伝承され見守りの中で私たちは暮らしを営んできました。先祖が命懸けで実体験した実験から得た教訓や学びを教えずして智慧として子孫はその恩恵を受けて見守られ今も生をつないできたともいえます。

その智慧は代々文化として、暮らしを通して伝承されてきました。しかし今では、その先祖との根のつながりが失われ智慧が継承されにくくなってきています。日本は特にこの暮らしの智慧が豊富で、その文化を通して何をやってはならないか、何をしなければならないかを常に教えずにして教えるという仕組みがあったのです。

それを忘れてはならぬと先祖の厳しい回訓がありそれを守ってきたのが代々の一家の主人であったのです。家訓とはそういうものであると私は思います。私がここ秦家で学び直しているのはその家主の魂、家主の智慧、家主の文化そのものなのです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしを学び直して次世代へと先祖の智慧を譲り渡していきたいと思います。

 

 

愛宕さん

古民家甦生をする中で、台所に神棚には三宝荒神様をお祀りし、竈やおくどさんの近くには火の用心の御札を貼っています。京都の台所には「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた「阿多古(愛宕)」の御札が火難除けとして貼られています。この愛宕神社は、京都の北西部の愛宕山山頂にあり主祭神は伊弉冉尊とその子の火神である迦遇槌命が祀られています。

大宝年間701年~704年に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建であるといわれます。

この神社は古来より「火伏せの神」として信仰されてきました。平安時代から修験の霊場として栄え、その後、その修験者が全国に散らばり、全国的に愛宕の地名を伝えたといいます。

全国に1000社以上ある、愛宕神社の総本山であり「愛宕さん」といって今でも親しまれています。

また天狗の山としても有名で「愛宕太郎坊」という大天狗がいると恐れられ、中世頃には愛宕の本地は勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)といわれたことから武家の信仰が盛んとなりました。一説によると、あの直江兼続の兜にある「愛」の字も、愛宕権現の字を象ったのではないかともいわれます。また武家が統治している土地にも地名として「愛宕」をつけた場合もあるといいます。武運の神様としても信仰されます。

さらに何かの覚悟を決めたり、決心を固いことを表明する言葉に「愛宕白山(あたごはくさん)」というものがあるといいます。これは加賀の白山とともに京都の愛宕が、決意を固める神として信仰されていたからだそうです。明智光秀も本能寺の変の決意を固めたのもこの愛宕山に籠って行ったといいます。

私にとってもこの愛宕山信仰は特別であり、伊弉冉と地蔵菩薩、天狗太郎坊とそしてカグツチという火の神様、ここに様々なつながりと物語を感じずにはおれません。特に聴福庵は、囲炉裏の豊かなぬくもりによって冷えてしまった人々の心をあたためようとしていますからこの生死の巡りの元、循環の要でもある火は私のもっとも大切なパートナーです。

日本にはさまざまな信仰がまだまだ残っています。それを受け継いでいくのは日本人らしさの源泉であり、日本的精神を磨く大切な材料です。

引き続き、古民家甦生を通して初心伝承を深めていきたいと思います。

 

信仰のかたち

天神祭に向けて菅原道真公のことを深めていますが時代の変遷と伝承を通してその天神信仰のかたちができてきているように感じます。菅原道真公がお亡くなりになってからすぐに天満大自在天神として祀られてから現代にいたるまで約1100年間、天神様として子孫を見守り続けている人物として奉られています。

神社に祀られる切っ掛けになったのは道真公がお亡くなりになった後、平安京で雷、疫病、大火などの天変地異が相次ぎ、清涼殿落雷事件などもあり、雷の神である天神と関連付けて考えられるようになったといいます。そして「天満」の名は、道真公が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真公の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来だといいます。

この道真公の怨霊が雷神になり、それが天に満ちたというとなんだか恐ろしい感じがしますが私はこれは個人としての菅原道真公のことを指してはいないように思います。怨念や怨霊というのは、何かしらの恨みをもって生きているものの念や霊が影響を与えることをいいますが、菅原道真公自身はというと大宰府に左遷されたあとも、無実の罪をきせられ改革がもう少しのところで頓挫するのは無念ではありましたが国家安寧を祈り、苦しい暮らしの中でも平常心を失わず学問を実践し続け修養し続けたといいます。

その証拠に左遷後も優れた漢詩をいくつも残し、この時期に大宰府で詠まれた詩は「菅家後集」三十八首にまとめられているといいます。彼は無実を叫びつつも天皇への忠誠を心の支えとして栄華の日々を懐かしみ、荘子や仏道の教えを学び続けました。流罪になった年の九月十日に一年前の内宴で天皇に詩を献じて御衣を拝領した事を回想し、詠んだ「九月十日」という詩は有名です。

去年今夜侍清涼  去年の今夜 清涼に侍す
秋思詩篇独断腸  秋思の詩篇 独り腸を断つ
恩賜御衣今在此  恩賜の御衣 今ここに在り
捧持毎日拝余香  捧持して毎日 余香を拝す

意訳ですが「昨年の今夜は清涼殿での内宴に侍し、「秋思」の題で詩を賦したが、今はただ一人断腸の思いです。天皇陛下から賜った衣服は今ここにあり、これを捧げ持って日々残り香を仰いでこれを拝んでおります。」と。

無実の罪を着せられ一族郎党みな悲惨な目に遭い、それでもただ一筋に天への忠義に生きるというのは、その後に現れる楠木正成や吉田松陰などにも似ています。そしてその誰もが今では湊川神社、松陰神社になって人々に祀られています。

つまり菅原道真公の怨念や怨霊ではなく、民のために天皇陛下のために国民国家に真心を盡したような素直で立派な人物に罪に着せて酷いことをするということに人々が怨念を持ったのだと思います。人々の政治に対する不信や不満が、その後、厄災があるたびにこの正直ではない出来事が脳裏に浮かび、また心に引っかかり、いつまでもそれが政治不信として世の中の人々の怨嗟を呼んだのかもしれません。

その怨嗟を鎮めるために、菅原道真公の罪を赦し、さらには神格を与えて祀ることで民衆の怨嗟を和らげようとしたのではないかと私は思います。つまり菅原道真公の怨霊ではなく、民衆の怨嗟が怨念や怨霊になったということです。

その後、その怨嗟が消えてからは慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神、子どもを見守る神、そして現代では学問の神として崇め奉られています。

日本人はこのように素晴らしい人物や、大義に生きる人の伝説を語り継ぐことによって政治として何が大切かということを教えずにして教えていきます。伝承というのは、信仰をつなぐ役割があり、私たちの生き方として何のために学問をするのか、何のために生きるのかということの本質を導くものです。

引き続き天神祭に向けて、ご縁と直観を感じながら信仰のかたちを見極めていきたいと思います。

 

時の旅人

古いもの、いにしえのものに触れていると心が懐かしく感じるものです。フランス語でノスタルジーといういい方もしますが、これは「故郷や過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち」という意味です。 日本語では「望郷(ぼうきょう)」や「郷愁(きょうしゅう)」といいます。

この時代を懐かしむというのは、歴史を感じる心です。

私たちははじまりの親祖から今にいたるまで、長い年月の歴史を生き継いで受け継いでここまで来ました。長い年月、どのように暮らしてきたか、また古代からの仕合せ、自然と親しみ平和な日々を歩んだことをいつまでも心に覚えているものです。

幼少期の記憶は、人類の初心のころの記憶であり純粋無垢に生きてきたころのことを懐かしく感じるように私は思います。

今の時代は、IT化も落ち着いてきてそろそろAI化といって人工知能との共存が急速に発展していく時代です。もう10年もすれば、世の中はほとんどAIによって塗り替えられてしまっているでしょう。どんどん古いものが失われ、新しいものばかりが出てくる世の中ですが私たちの心や魂が時代に追いついていくにはもう少し時間が必要のように思います。

私たちが懐かしいと感じるとき、私たちは時を旅します。

古民家甦生を通して、様々な時代のものに触れていますがその道具を一つ一つ手入れをして磨いていると時が甦ってきます。そのものの持つ時代が懐かしく感じられるとき、わたしたちは時の旅人になっているのです。

歴史は知識で学ぶものではありません、歴史は時を旅して学ぶものです。その旅を共にすることにより、懐かしさを感じるとき人は魂が揺さぶられます。そして魂が故郷に帰るのです。

時代の過渡期、この潮目がまた変化する節目だからこそ改めて子どもたちのために何を譲り遺していけばいいのかを思います。引き続き、初心を守り初志を貫徹していきたいと思います。

 

一休み

先日、久しぶりにアニメの漫画の一休さんを見る機会がありました。私の幼いころのアニメとしては馴染み深く、頓智を使って次々に難問を解決していく一休さんに憧れたこともありました。

その一休さんの代表的なコピーに、「慌てない慌てない、一休み一休み」というものがあります。これも今でも心に残っていて、今思えばとても深い教えを幼いころの意識に触れていたように思います。

この「慌」てるという字は、心が荒れると書きます。意味は、落ち着きを失う、驚きうろたえる、平常心でいられないという意味です。心は日ごろは穏やかですが、何かに囚われて執着すると心が穏やかでいられなくなり落ち着かなくなります。こういう時は、判断能力を見失い感情に呑まれたりして、平素の本来の自分でいることができなくなるものです。

一休さんが、慌てない慌てない、一休み一休みという文言は、焦らずに穏やかにいつもの通りに冷静に一呼吸置いて取り組むという姿勢を自分自身で言い聞かせていたように思います。

心がざわつくのは、何か自分の中で妄想が膨らんだり、将来の不安を感じたり、過去の嫌な体験を思い出したり、トラウマや劣等感など、様々な感情が沸き立ってくるからです。ネガティブな感情が沸けば慌ててしまい、焦ったり、急いだり、結果ばかりが気になるものです。

そういうときこそ、この「一休み」の価値があるように思います。

私たちが取り組んでいる活動の一つに致知出版社が広めている木鶏会というものがあります。この木鶏というのは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさします。つまりは不動の境地を持った状態ということです。

何かあればすぐに心を動かされるというのは日々の鍛錬が足りないように思います。そういう時にはいつもこの慌てない慌てない一休み一休みと、心を無にして何事にも執着せずにお気楽にポジティブに過ごしていくことです。

禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬と、物事の善い方へと転じていこうとする実践が一休み一休みということかもしれません。物事は自分にとって大変なことのように思えても、自分の思ってもいないところで偉大な運命が働いていたりするものです。

天を丸ごと信じて歩んでいく心が、この不動心を育むように思います。

引き続き、木鶏を目指して日々に一休みしながら実践していきたいと思います。

先祖に生きること

子ども第一義の理念で、子どもの仕事をしているのになぜ自然農や古民家甦生などをやるのかと聞かれることがあります。子どもという言葉の定義も、大人と子どもという時の子どもという意味で使っているのではなく、子どもを童心といった赤心のままや初心という意味で私は用いています。

その時、子どもをことを深めていけばいくほどに祖先や祖霊、先祖とつながるのは自明の理であるのです。今の私たちがこうやって暮らしているのは、先祖があったからに他なりません。その先祖が一人でも欠ければ自分はなく、その時代時代に先祖の生き方が私たちの長所や短所になって今の私を形成しています。

つまり自分は自分であって自分ではなく、先祖の一部でありその一部は子孫の一部になるということです。だからこそ自分のことだけを考えるのではなく、子どもたちに譲られていくものが自分のいのちだからこそ修養や修身をもって子孫のために今この時を精進していかなければならないと思います。

「星の王子様」を記したサン・テグジュペリに「地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ。」という言葉があります。またネイティブ・アメリカンの格言に「土地は先祖からの授かりものではなく、子どもたちからの預かりもの。」という言葉もあります。

私たちが先祖のことを思うとき、この今のことを振り返ります。するとこの今は、まさに子どもたちの未来になるのだから子どもたちからこの世代を預かっているだけなのです。この預かったもの、借りたものを利子を増やして返却するのならまだしも借金を続けたうえに全てを消費し浪費してしまったら返せるものもありません。

今の私たちが裕福に豊かに暮らせるのは、すべてご先祖の皆様の丹精によるものです。その利子を少しずつ貯めたものを私たちは切り崩して暮らしているのです。それを自分のことしか考えず目先の欲のみに囚われ使い切るばかりで、それを貯めようと遺そうとしなければ必ず未来の子どもたちがそのツケを払わなくてはならなくなります。

幸田露伴に、「分福」「惜福」「植福」とありますが、この幸福の三福を先祖が代々続けてくださったからこそ今の自分がここで生きているということです。

つまりは子どもの仕事をするということは先祖の偉業を偲び、その祖先や祖霊を省み先祖から学び、先祖として子どものために生きるということなのです。子どもたちの仕事の本質は畢竟、先祖の生き方を伝承し、改善すべきは改善し、少しでも子どもたちのために福を増やしていこうとする一生に生きることです。そして子ども第一義の理念は、「古を愛する心」と共にあります。

引き続き、子どもたちのためにも先祖への恩恵を忘れず今あることに感謝し、初心伝承を積み重ねていきたいと思います。

梅の徳2~梅の見守り~

先日、福岡の聴福庵で梅干しをクルーと一緒につくる機会がありました。この梅干しに用いた梅は、「箙(えびら)」という品種で高野山で野性的に生えているものをある方からいただいたものです。天神祭に向けて梅を準備していましたが、改めてこの梅の持つ効能、また歴史について深めてみたいと思います。

ウメの語源は「熟む実」つまり「う」つくしく「め」ずらしいからきた語だという説があります。確かに、日ごとに熟して甘酸っぱい香りを放ちながら青梅が黄色になっていくプロセスには美しさを感じます。青いときも熟すときもまた、気品がありその時々が美しいということからその名前にあやかる人も多かったように思います。

梅は古来より薬として役立てられてきました。日本各地の弥生時代の遺跡に梅の自然木の断片・梅実の核(種)が発掘されています。日本へは約1500年前、薬用の“烏梅(ウバイ)”として伝来したことが文献にあります。これは青梅を薫製・乾燥したもので、現在でも貴重な漢方薬のひとつになっています。

現存する日本最古の医学書「医心方(いしんほう)」(984年著)にも、梅干しの薬効が記されています。昔から梅干しは「薬」として使われてきたのです。渡来当初、実は生菓子にして食べていたようですが、効用が知れるに従って長期保存ができる塩漬法が考え出されました。つまりここではじめて「梅干し」というものが書物に登場したことになります。

その後、ある申年に疫病が流行した時に村上天皇が梅ぼしとコブ入り茶で病が治癒したことで申年の梅干しには効果があると信じられ今でも価値があるとされています。その後は、鎌倉時代に入り、梅ぼしは僧家の点心やおやつとして用いられ椀飯振舞という言葉もここから出てきたといいます。

室町時代に入ると武家の食膳にものぼるようになり、戦国時代では戦場での「息合の薬」として戦に常備されていきます。江戸時代に入れば、一般家庭に梅干しは普及し冬が近づくと梅ぼし売りが街を呼び歩き冬を告げる風物となったそうです。梅干しはその後、明治に入り、コレラや赤痢の予防・治療、そして日清・日露戦争でも重要な軍糧として活躍したといいます。

梅干しは古来から、私たちが健康を維持するために必要な「薬」としての効果が高く、その歴史もまたいつも私たちを病から守る存在として大切にされてきました。現代でもがんの予防や、インフルエンザの予防、生活習慣病の予防、肥満の予防、美容効果に殺菌作用、整腸作用、エイジング効果、等々、書き出せばまだまだきりがないほど出てきます。

古語にも、「番茶梅干し医者いらず」「梅はその日の難逃れ」といわれますがそれだけ梅干しは目に見えて健康のために効果がある健康食品の原点ともいえるものではないかと私は思います。

以前、木は薬の役目があったと聴いたことがありましたがこの梅の木はまさに薬そのものとして愛され大切に私たちの子孫の健康を見守り続けてくださった存在だともいえます。この梅の徳に感謝の思いを込めて、毎年、この時期に梅干しをつくることは日本人として子どもの健康を願う親心そのものかもしれません。

私もこのご縁を機会に、これからは梅干しづくりを実践しその価値を引き続き伝承していきたいと思います。

 

来るであろう未来

文化の変遷を深めていると、江戸時代鎖国が解かれ明治維新後の文明開化が如何に急速であったかがわかります。暦の改変をはじめ、生活スタイルはほとんど西洋のものを手本に換えてしまいました。四民平等という思想のもと、それまであった封建的なものを否定し、国民と国家という概念ができたといいます。その後、2回の大戦を経て戦後の復興、様々な歴史の歪が今の生活のあらゆるところに出てきています。

いままで歴史というものはやってみて後世の人たちが冷静に物事の経過を見定め判断し、それを改善していくことで文化を融和させていくように思います。誰かが先に決めたこともただ鵜呑みにするのではなく、よく精査するのもまた子孫の責任と使命であろうと私は思います。

今の時代は生活スタイルはほとんど伝統的な文化のものはなく、西洋文化の中にあるかのように日常を過ごしています。着る服から食べるもの、住居や仕事、制度や法律まであらゆるものがアメリカや西洋をモデルに創りこまれています。それを改めて気づくことがないくらい当たり前に西洋文化の中で過ごしているとも言えます。

私たちは環境を通して生活スタイルを変えますから、いかに環境が与えている影響が大きいかということを思います。その環境そのものを西洋にすれば、生活スタイルは自ずから西洋になります。本来は、気候風土に沿って時間をかけて醸成されてきた生活スタイルが、都市化とともに急速に便利になり科学の力でより一層、その土地の多様な風土を征服し人間の都合のよい生活スタイルに合わせてきたとも言えます。

そのことに慣れてしまえば、もはや風土や文化というものは過去の古いものになり新しいものとは都市化され都会化したものが新しいということになります。日本古来からの生活文化を否定し、西洋から渡来した生活文化を新しいと崇拝するという傾向は戦後一層強くなり今の私たちの暮らしを換えてしまいました。

しかし本来そこに自然にあった生活文化はとても合理的であり、無駄がなく無理もなく自然に沿ったものが暮らしとして存在してあったものです。そこに外来のものを入れて維持しようとすると無駄も無理も発生し不自然を維持するために大量のエネルギーと資金を投下していかなければ保持することができません。

それは今の公共事業でもいえますが、地方を維持するのにもうエネルギーも費用も枯渇してきているのです。最近では田舎の人たちを一極集中にして狭い地域に集中するような政策もあっていますが、これもまた田舎を都市化しようとするものに似ています。しかしそれもまた膨大な無理や無駄があり、頓挫していくのは火を見るよりも明らかです。

時代の流れの転換期というものは、気づいた人から変わっていくのがいいようにも思います。人は自分の都合で新旧を決めたり、良し悪しを思い込みますし、それまでの刷り込みがあれば最初からできないと思い込んでしまうものです。だからこそ生活文化というものを見つめ直すことが難しいとも言えます。

本来の自然に沿った暮らしとは、人類が持続可能で永続する生活の智慧です。人類が今、岐路に立たされているのはこのエネルギーと貨幣の膨大な投資をどこで転換してバランスを取り戻すかということです。

引き続き、暮らしの甦生を通して来るであろう未来に向けて準備を着々と進めていきたいと思います。

お祭りの本質

祭り部ができてからお祭りのことを深めていますが、お祭りが続く理由について考えることばかりです。京都の祇園祭りや博多山笠、秩父夜祭などもそうですが長く続くものには理由があるように思います。これらの大きなお祭りとは別に、地域で行われているお祭りもまた続いているものもあれば衰退していくものもあります。

若い人が田舎からいなくなり、都会に出てしまい少子高齢化で伝承が引き継がれないこともあります。また都市部でも、引っ越してきた新しい若い人たちが地域のコミュニティに参加しないということもあります。

本来、何のためにお祭りをしているのかを忘れてしまえばお祭りを継承することもできなくなります。今の時代は、先祖が積み重ねてきた徳を守り、恩返しに報いようとするよりも自分さえよければいいという風潮が多いように思います。お祭りもまたその中で変化して単なる観光の一つのようになっているところも増えています。

以前、お祭りを深めて書いたことがありましたが本来は自分を見守ってくださっている存在、つまりは神様に対して感謝を顕すためにあったものです。先日も、古民家甦生の中で地鎮祭をしていただきましたがこれもまたお祭りの一つです。

一つ一つの儀式を通して、節目に神様に対して感謝の念を奉げるということだろうと私は思います。このお祭りなどの儀式こそ、自分自身が常に観えない存在に助けられているという感覚との結びであり、それを体験することで先祖と繋がり、また子孫繁栄を願い祈る心と結ばれるように思います。

太古から流れているもの、当たり前に生きてはいない自分たちが何ものによって活かされているのか、それを感じる仕組みがお祭りにはあるように思います。

祭壇をつくり供物を奉げ祈りを祀る。

感謝を忘れたいのりは続かず、感謝を忘れたお祭りもまた続かないと私は感じます。

引き続き、お祭りの本質を見極めながらお祭りの意味や真価を高め子どもたちのために大切な伝統をつなぎ結び合わせていきたいと思います。