智慧の甦生

時間をかけてゆっくりじっくり少しずつやるというのは周囲への思いやりにもなっています。私は性格上、昔は勢いで一気にとやっていましたがその分、周囲の人たちにたくさんの迷惑をかけました。今でも、時には癖でそうなることもあるかもしれませんがそういうときこそ急いでいないか、焦ってはいないかと気を付けるようにしています。

自然の力を借りるとき、何よりも必要なのはこの「ゆっくり」ということです。そしてそれを受けてこちらは「じっくり」というものがいいように思います。英語ではスローだとか言われますが、これは私にとっては自然の流れに従い、自然の流れに沿うということです。

しかし実際には今は、タイムスケジュールで世の中は動いていて自然とはかけ離れたところで時間は流れています。そのせいか、すべての行動や時間が人間都合になってしまっていて誰かに合わせて日程を調整しなければならないためそれぞれに自分の時間を取り合っているようにも思います。

かつては自然の四季のめぐり、悠久の変化に合わせて人間側が合わせていましたから地域でのお祭りや行事、農事なども一緒になる機会が多かったように思います。これは人間に限らず、あらゆる草花や動物たち、昆虫たちとも自然のめぐりの中で出会って共に感謝の暮らしを味わってからのように感じます。

季節の室礼についても、室内に四季への感謝を取り入れることで人間都合の時間の流れに対して自然の流れを忘れまいとした先祖、もしくはそのころの懐かしさを味わい豊かな情緒を楽しんでいたのかもしれません。

梅雨になれば梅雨の情緒、花鳥風月の美しさが彩られていきます。それはすべてにおいて自然の流れの中で同時にいのちが時々の自然と調和していることを意味します。

私たちは今一度、人間だけが進めてしまっている時を見つめ直し、そして進みすぎてしまった文明を省みる時期に入っているようにも思います。日本は世界の役割の中で必要なのはこの自然と共生し暮らしていく智慧の甦生ではないかと私は感じます。

引き続き子どもたちのためにも、智慧の甦生につとめていきたいと思います。

文化の甦生

聴福庵の壁紙を手漉きの和紙で貼っていく作業が進んでいます。一枚一枚、同じ形、同じ模様、同じ厚みのものは一つもなくそれぞれに個性があり印象が異なる手漉き和紙を丁寧に手作業で職人の方が貼り合わせていきます。

今では機械でプリントされたものや、化学合成された紙風のものを接着剤で一気に貼れ時間も短縮されて簡単便利に交換しやすいものになっています。最近では防火法の関係で燃えるものは壁紙に使えないということで、今回のような手漉きの和紙を貼るような仕事はほとんど皆無になったと仰っていました。

樽では保健所が衛生面で危険だからプラスチックに換えるように指導が入り、壁紙は燃えるからと化学合成のものにし、建物は地震対策のために伝統の建築を西洋建築の基準にするようにと法律によって縛っていきます。

よくよく考えてみるとわかるのですが、今まで漬物やお酒、味噌、醤油にいたるまで木樽で何百年も使ってきたものです。それを今になって急に木樽は不衛生というのはどういうことかと思います。除菌や殺菌、滅菌と菌を排除しますが自分の体も含めて私たちは菌で構成されています。良い菌も悪い菌も全部滅菌することがいいという考え方は何百年、何千年も篩にかけられ残ってきた智慧の否定です。

また壁紙が燃えるからといって防火法の観点で燃えるものは禁止といっても、高温多湿の日本の風土はこの紙が調湿効果が抜群で紙が水を吸ったり吐いたりして呼吸するから日本の湿度の中でも快適でいられます。これをすべて化学合成にしたら水滴が出てきて、それを防ぐためにホルムアルデヒドの強いものや防カビ材を塗って、さらには除湿器を入れるというのは防火以前に防水ができていないということになります。そもそも木造建築で土、紙を用いるというのは高温多湿の日本ではなくてはならない最低限のものですがそれがなくなればその分、家の中を密封にして乾燥機を入れてカラカラにしていくしかありません。

そう考えてみると、昭和25年からはじまった建築基準法の改正は現在にいたるまですべてアメリカや西洋を基準に書き換えられてきました。それまでの伝統工法を否定し、在来工法で建てることを禁止し、それまでの職人さんたちの手仕事は失われていきました。その分、西洋からの建築技術や機械が導入され木造建築から鉄筋コンクリートに建て替わっていきました。

自然と共に自然と調和しながら暮らしていく建てものから、自然に抵抗し自然から乖離する暮らしに建てものも変わっていきました。今では、ビルも家も総合空調で窓もない建物で埋め尽くされていきます。ガラス張りで外の景色は観えても、日本の四季や風土を感じるような建物にはなっていないように思います。

古民家甦生を通して感じるのは、先人たちや先祖たちが如何に自然を大切にし自然と調和して自然と一体になって敬い助け合い生きてきたかということを感じます。この先人の智慧が伝統の文化や職人さんの技術と共に失われ将来の子どもたちに伝承されていかないと思うと慙愧に堪えません。

日本の風土に沿って日本人の生き方を守っていくということは、先祖から伝承されているものを大切にしていくということです。引き続き、子どもたちのためにも種火が消えて失われないようにつなげるものはつなげて譲り渡していくために甦生を続けていきたいと思います。

 

継承の価値

聴福庵で用いるクルーの羽織を今に合わせてデザインするために福岡県八女市にある久留米絣の老舗、織元の下川織物を訪問するご縁がありました。久留米絣の開発者の井上伝のことは以前のブログで書きましたが、今回はその久留米絣を受け継ぐ下川織物の2代目当主の方にお話をお聴きし工場の見学をさせていただきました。

この下川織物の理念は、『創業者の下川富士男の言葉「百年続けて一人前 を実現すべく百年続く仕事に取り組む。 世界に誇れる織物の追求。 人と人とのつながりが百年企業を実現させる』というものです。その百年企業を実現するために重要なテーマにしているのが、「循環」と「鮮度」であるといいます。また従業員を大切にし、家族的経営を目指しているというところにも私たちと似ているところもあり大変共感しました。

現在では世界各国から毎週のように訪問客があるといいます。先日も、海外のデザイナーが一か月間ほど下川織物で用意したゲストハウスに滞在し協働で久留米絣を使って製作したものをパリコレクションに出展したといいます。

この久留米絣の魅力、日本の発酵による染めや反物の美しさに魅了された世界各国の最先端で活躍する技術者たちもまたこの日本の職人文化の技の秀逸さに驚かれるそうです。

今回のお話でとても印象的だったのは2代目当主の語られた「継承」のお話です。

『ここの工場では、TOYOTAの2代目社長が発明した織り機が用いられ日々に織り込まれています。その2代目社長は生前、いつかガソリンを使わない車、水で走るものを発明したいと仰っていたがそれが今では水素で走る自動車の実現まで辿り着いている。あの当時は夢物語でもそれを継ぐ人がいたから夢が実現したということ。またHONDAの創業者、本田宗一郎もいつか飛行機のエンジンを作りたいと夢があってそれを継ぐ人があったから遂にHONDAは飛行機を飛ばすことになった。夢の実現にとってもっとも大切なのはこの継いでいくということです。』

一代では叶わなかった大きな夢も、その夢を継ぐ人たちによっていつの日かその夢が実現していくという事実は私たちに大切なことを教えてくれます。

伝統というものは、何よりこの継承することによって力を発揮します。継いでいくというのは本来何を継いでいくのか、志を持つ人たちが道をつなぎ、志によってその糸は織り成していくということ。改めてこの継承するということの偉大さを教えていただいた気がしました。

志もまた同様に様々な経糸と横糸を結び合わせて一つの偉大な反物に仕上がります。それをどのように見立てて仕立てていくか、それはその価値を甦生する人たちのお役目でもあります。

古きを温め新しくデザインされた聴福庵の羽織を纏う日が来るのが楽しみです。引き続き子どもたちのためにも、私たちも循環と鮮度を磨き上げていきたいと思います。

新しい世界~日本の種火~

昨日、カグヤと臥竜塾生と一緒に合同で新しいプロジェクトのミーティングを行いました。オリンピックへ向けて、日本の文化を見直しそれを発信していくために私たちが誇りにしているものが何か、その原点について語り合いました。

現在は、単にパスポートが日本国だから日本に住んでいるから、遺伝子が日本だからなどが一般的に日本国民だという認識の人が多いといいます。しかし本質として自分は何をもって日本人であるのかと、もう一度深く省みるとき改めて日本ということ、日本民族ということを考え直すように思います。

日本の文化をどれくらい理解し、日本の先祖のことをどれくらい理解し、日本の暮らしを理解し、それを悟りどれくらい本物の日本人であるのか、今の生活をもう一度見つめてみて考え直すと自分自身が日本人としての自覚が薄いことに気づきます。だからこそ世界が一つになるとき、如何に自分たち日本人が偉大かということを自覚し悟れるかが、誇りと自信を持って世界とつながることのように私は思うのです。

そのためにも自分たちがもう一度、日本の文化を掘り起こし再発見しつつ今まで積み重ねて伝承されてきた日本文化を甦生し、体現し、それを世界へと発信していかなければならないように私は思います。

禅(ZEN)を世界に広めた仏教学者の鈴木大拙氏は、西洋と東洋を超えて世界の中での日本を示した先人の一人です。改めて、日本文化を伝え、異文化の融和によって一つになり助け合っていこうとする先人の功績は今も私たちを勇気づけます。鈴木大拙氏が禅を広めようとした動機、つまり初心です。

「西洋の方と比べてみるというと、どうしても、西洋にいいところは、いくらでもあると……いくらでもあって、日本はそいつを取り入れにゃならんが、日本は日本として、或いは東洋は東洋として、西洋に知らせなけりゃならんものがいくらでもあると、殊にそれは哲学・宗教の方面だ と、それをやらないかんというのが、今までのわしを動かした動機ですね」

西洋から学ぶだけではなく、世界の中の日本人として西洋にも伝えなければならないものがあるという信念は深く共感します。そして後を生きる日本人に対してこう言い遺します。

 「日本を世界のうちの1つのもの、としなければいかん。今、日本が、日本がと、やたらに言うようだが、日本というものは世界あっての日本で、日本は世界につつまれておるが、日本もまた世界をつつんでおるということ、これは、スペースや量の考えからは出てこない。そのように考えるためには1つの飛躍が必要とされる。その飛躍が大事なのだ」

この飛躍のことを、英語ではマインドセットといいます。今までにない新しい世界に突如現れる新しい常識、時間でいえばそれをティッピングポイントとも言いますがある時、ガラリと意識が飛躍するような大転換が必要というのです。

そしてこれが新しい世界に入るということです。

私たちは日本人になるには、世界の中の日本であり日本があるから世界があるという境地を体得しなければなりません。そのためにも自国の歴史や文化を学び直し、自分がどう世界の中の日本人として生きるかを決めなければなりません。

自信と誇りもまたそこから生まれ、それを子どもたちが受け継ぎこの先の未来で世界の中で平和をきっと創り出してくれると思います。大和民族とは何か、何をもって和の民と呼ばれたか、今一度、世界が大転換期であるからこそ私たちの役目や役割は大きいと私は信じています。

引き続きこのオリンピックを通して、その日本の種火を世界へと弘げていきたいと思います。

 

 

和の甦生~天神祭~

昨年は祭り部ができてから古来からのお祭りを見学したり都内のお祭りで神輿を担いだり、秩父夜祭りに参列させていただいたりと本当にたくさんの学びをいただきました。そこからさらに今年はご縁が深まり、郷里のお祭りの甦生に関わらせていただくことになり自分たちで一つ一つお祭りを復活させていくことになりました。

郷里の神社には、天神祭り、恵比寿祭り、稲荷祭り、祇園祭り、元旦祭りがあります。今までも氏子会を中心に存続されてきたものではありますが現在では人が集まらなくなり神事の後のお祭りは廃止されてきたものです。

日本には、古来より神様を中心に助け合いの文化が根付いていた国でもあります。それを和ともいいますが、この和の実践が失われていくことで地域のつながりもまた失われていきます。

古民家甦生がはじまり、自然発生的に神社甦生につながるのはそこに日本民族としての中心や根幹があるからのように思います。どのようにかつての先祖たちが暮らしてきたか、その智慧の伝承と継承こそが子孫繁栄と発展の鍵なのです。

最初は自分たちがお祭りのことを深め、お祭りの意味や価値、家の中の暮らしから祭りに取り組むことにするため天神祭の甦生からはじめます。

この天神祭とは、天神信仰のことで菅原道真を主祭神とした天満宮のお祭りです。菅原道真の誕生日が6月25日、命日が2月25日で、ともに25日であったことで毎月25日を例祭としているところが多いといいます。新暦に移行した現在でも25日を例祭として信仰しています。

郷里の天神祭りは、一時期は10万人を超えるほどの参加者があり7つの山車が市内を練り歩き、にわかというお面をつけた人が滑稽な話をしながら一軒一軒をまわり福をまき、たくさんの出店も並びとても賑わっていたそうです。それが次第に人口減と共にお祭りも縮小し、最後はお祭りくじの廃止と共に数年前からお祭りを行うことができなくなったといいます。お祭りが廃止されてからの地元のショックが大きく、それを甦生するというのは本当に難しい状況になっているといいます。

天神さまというのは神格は天降る雷神で雷光と共に天から降りてくると信じられていました。水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)は稲の実りを授ける神、めぐみの神ですから農民を中心に全国に崇敬されていったとも言います。それに菅原道真の学問に対する偉大な事績やその人柄が偲ばれ、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神としても崇敬されました。

その天神信仰はその後、天神講を中心に全国各地に広がり、天神さま、天満宮として建立され「学問の神・誠心の神」として崇拝されています。

天神祭の甦生は、子ども第一義を理念とする私たちにとってもとても大切なお祭りです。そのお祭りの応援に、関係の深い全国各地の先生方が集まっていただけるというご縁もいただき有難い真心に感謝でいっぱいです。

子どもたちの未来のためにも、そしてこれからはじまる大和魂の甦生のためにも真摯に誠実に信仰のままにお祭りの準備を進めていきたいと思います。

 

心田を耕す

二宮尊徳の教えに「心田を耕す」というものがあります。そもそも人間のあらゆる荒廃はすべて心の荒蕪から起こると説きました。荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで土地が手入れされずに荒れていることをいいます。荒廃は家屋などでいえば、荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。

この荒廃は心の荒蕪が問題であり、それを解決するには心田を耕すしかないといいました。私は自然農や古民家甦生を通して感じたものは、暮らしが失われることでこの心田もまた失われ荒廃していくということです。

本来、田であれ家であれ人が手入れを怠ればあっという間に荒んでいきます。なぜ荒むかといえば日々の暮らしを怠り忙しさにかまけて心の手入れをすることを忘れてしまうからです。

都会に住めば、忙しい日々を送る中で暮らしは消失していきます。特になんでも簡単便利に頭で考えたようにできる世の中になってくると、本来は有難かったことも当たり前になり、自分の都合よくいかなければ不平不満などが出てきます。それに拍車をかけてお金でなんでも解決しようとするあまり、さらに心を用いる苦労の方や、心を慮り丹誠を籠めるようなことがなくなっていきます。

古民家を一つ丁寧に建て直し、手入れをし甦生させていくともう十数年も置き去りになって雨漏りがして屋根が崩れ荒れ放題になっている隣家が気になってきます。一つ家を直せば、町並みは美しくなり隣の家が気になってくる。田んぼも一つ美しく手入れすれば荒廃された隣の田も気になってくる。こうやって一つ一つのことを手入れしながら、一つ一つ荒蕪を開墾して耕して手入れしていく以外に人々の心を直す方法はないのです。

二宮尊徳のいた時代は、大飢饉が続き食べ物がなくなり農民たちは重税で苦しんでいました。その中で村々は荒廃し人々の心もすさんでいたといいます。今は時代は変わり食べ物は豊富にありますが、都市一極集中で地方は少子高齢化が進み田畑や古民家は荒廃が進んできています。人々も重税がかかり、格差は広がりますます時代背景が似てきています。

一人一人が覚悟を決めて、暮らしを立て直し心田を耕すことによって荒廃を転じて幸福に目覚めていく必要があると私は感じます。

何をもって心田を耕すのかは、もう一度本物の暮らしとは何かと見つめ直すことからではないかと私は思います。本物の暮らしは、日々の心を耕します。かつての伝統的な日本の暮らしは感謝に包まれ謙虚に自然と一体になって日本人の心と共に慎まやかに継承されてきました。

文明が進んでも、生き方までは変わらず時代の進化は正常に行われてきたものが明治頃からそれまでの道から離れ戦後に様々な影響を受けて今に至ります。今一度、原点回帰し日本人としての生き方、つまり日本的な暮らしを甦生させ、本来の日本人としての心を耕していく文化を再興する必要を感じます。

そのためにも一人一人が目覚め、まず独り荒れた田に入りそれを開墾し、荒んだ家に入りそれを甦生させる、その真心を磨いて人々の心に潤いを与えていけるような実践を積み重ねていくしかないと思っています。

先人の尊さには頭が下がります、二宮尊徳の積小為大を実践をしつつ子どもたちのためにも暮らしを甦生し心田を耕し続けていきたいと思います。

失われていく文化

昨日、佐賀県鹿島市にある創業100年以上続く漬物蔵「漬蔵たぞう」に訪問してきました。聴福庵の風呂に使う樽を譲っていただくことになり選定と発送作業を一緒に行いました。

その樽はすでに50年以上経過しており、15年前から使っておらず今では蔵の中の大きなモニュメントとして活躍していたものです。蔵を拝見すると、その空間には発酵蔵として長年生き続けてきた息遣いを感じ発酵場があることを実感します。

私も自宅裏の森の発酵場で伝統の高菜漬けを種から育てて漬けていますが発酵場独特の空気感や酵母の醸す香りや佇まいには癒される思いがします。この蔵の中に置いてあった樽には、100年間漬物一筋に手作りで手掛けてきた人との思いや、その中で共に暮らしてきた菌たちも樽に住み着いているように思います。

その樽を使わなくなった理由をお聞きすると、桶職人さんがいなくなったことが一番大きいと仰っていました。これだけの巨大な樽のたがをしめることができる桶職人がこの地域からいなくなりメンテナンスができなくなったそうです。

この地域は、肥前浜宿といって長崎街道の脇街道として酒造を中心に栄えた宿場町です。本来は酒を醸造するために大きな樽がたくさんあったものですが、その樽も次第になくなり桶職人さんもいなくなって今に至ります。

本来、伝統文化というのは職人さんがいてこそ成り立つものでそのつながりの中で様々な伝統が維持できていきます。大工、左官そして鍛冶師と研師が一体であるように、この樽や桶と酒、漬物、味噌、醤油などの発酵師たちもまた一体なのです。

意味があってあった職業が今では西洋のものと挿げ替えられ、伝統のものを修繕したり修理する技術も失われていきます。消えていく文化というものは、連綿と続いてきた先祖の知恵が消えていくということです。

先祖の知恵によって数千年も生き続けてきた私たちはこの風土の中で生き残るために真摯に改良を重ね今も存在できていますが海外から入ってきた風土にそぐわない技術に安易に便利だからと飛びつけば取り返しのつかないことを未来に残してしまいます。

たとえ小さな種火であったとしても、その種火が遺るのならその種火からまた火を大きくしていくことができます。私が取り組んでいる伝統の高菜も種があるから続けられ漬け続けるから子孫へと継承していくことができます。

こんな時代だからこそ忍耐力が求められますが、何をもって成功というのか何をもって成長というのか、失われていく文化と向き合いながら子どもたちのためにもあらゆるものを甦生させ活かしていくために発明に挑戦していきたいと思います。

ご縁いただいたこの樽は、これから福岡県八女市の松延さまの手によって聴福庵のお風呂として甦生します。このお風呂の一つの物語が子どもたちに伝承され、末永く心に残っていく風景を醸し出すようにと祈り見守りたいと思います。

・・・義を見てせざるは勇無きなり。

たとえ目のくらむような巨大な壁に怯みそうになっても、失われていく文化を前に今、自分にできることから実践していきたいと思います。

水の循環~地下水のめぐり~

自然農の田んぼで稲作をはじめて7年になりますが、田土に入る水の流れも変化してきたように思います。水を流し続けていれば、土の中の泥が次第に流されて小さな石が出てきます。ここの田んぼの水はきれいな山水を使うため、沢蟹やエビなど清流にすむ生き物たちでいっぱいになります。

そもそもこの水は地球を常に循環しているもので、山にある水は雲が雨を降らせた水です。そしてその雲もまた海や陸から蒸発した水が上空で冷やされ雨を降らせています。さらにはその降らせた水は、土の中に浸み込み地下を移動していきます。それを地下水といい、植物や木々たちはこの水を吸収してその水を葉から発散させていきます。

この地下水のあるとこを掘れば井戸ができます。井戸はその地下水の流れているところに穴をあけ地下の水をくみ上げる仕組みのものです。この地下水は、膨大な量の水が移動して地下をめぐりそれがあらゆる大地につながっていきます。

田んぼの土を掘ればすぐに水が溜まってくるのは、その土の中にいつも水が流れているからです。深く根をはる植物や木々はこの地下に流れる栄養豊富な水を吸収し太陽の光を浴びて風に吹かれて成長していきます。

私たち人間も同じく、その地球の栄養素の中で太陽の光と大地の水、それが空気の中で融和し風になり大きなめぐりの循環の中にあっていのちを育てていきます。何百年間もしくは数千年、数万年を経て水は地球の内部を移動していき水を浄化していますがその恩恵をいただき私たちが暮らすことができるというのは何ともありがたいことです。

古来の人たちはその水の巡りを知り、水がどのように流れてあるのかを知りその土地のことを想像したように思います。水脈を知ればその土地の水の流れがわかる。その水をどのように大事にして暮らしの循環の中に活用してきたか。自然から離れて暮らしている現代には見えにくいことかもしれませんが、地下水のことを思えばその上に住む私たちの生活様式の変化が観えてきます。

今度、聴福庵の井戸が甦生しますが地下水のことを改めて見直しそこにある水の流れを感じるような環境を用意してみたいと思います。引き続き、古民家甦生を味わいながら子どもたちに伝承する自然の仕組みを身近に感じられるように創造していきたいと思います。

宿る

昨日は、熊本から長くお付き合いいただき一緒に理念の実現に向かって取り組んでいるお客様が聴福庵にきてくださりお泊りされました。

すぐに箱庭を気に入っていただき、庭木がとても喜んでいるように見えると仰られありがたい気持ちになりました。ちょうど昨年、鬱蒼とした庭木の剪定を素人ながらに必死に行いすっきりさせ、その庭に年代物の春日燈篭や江戸中期の壺、そのほかにも竹垣や土器、睡蓮鉢にメダカを育て水盤、いろいろな道具も配置していきました。

それに苔も8種類ほどのものを混植し、観音竹や山の清流に流れている石や草草なども移動しました。それから約一年経ち、鑑賞していただけるものになりそれを誉めてくださる方が出てくると、庭に一つの空間が宿ったことを感じます。

そもそもこの「宿る」という言葉は、いのちが宿るや魂が宿る、もしくは宿命といういい方もします。この宿は、単に泊まる場所をいう場合と、宿るといってそこにすまうものがあるという意味もあります。

私たちの体にもいのちと魂が宿ることで存在します。宿っていないものはすぐにわかります。この宿るというのは、目には見えませんが確かにそこには思いや願い、祈りや精神、そういうものがいつまでも留まっているということです。

魂を宿しておくというのは、体がたとえなくなったとしてもその魂自体はその空間やその道具に遷して留めておくということです。それは物に限らず、言葉であったり、建物であったり、遺し方はいろいろとありますが大切なのは宿らせることなのです。

暮らしも同じく、そこの家で取り組んできたものはその空間に宿り続けています。それは継いでくれる人によってさらに高められ、確かに宿ったものに由って甦るのです。

私たちは死んでなくなるという発想を持つのは自分のことや自分の代のことだけばかりを考えるからで、死なない存在がある、つまり宿るのだということに気づけばその生き方やプロセスの方を大切にすると思うのです。

宿っているものを見てくれる人がいることがありがたく、この道をしっかりと踏みしめていきたいと決意と覚悟を新たにしました。

子どもたちのために、何を大切にし譲っていくか、本質を守り続けていきたいと思います。

志結

吉田松陰が死の直前に書いた留魂録というものがあります。これは辞世の句からはじまり、仲間や同志、弟子たちには「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と記し、家族宛に「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」と記しています。

これと同じく、「諸友に語(つ)ぐる書」というものを遺しました。

ここに最後まで忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」

意訳ですが、「君たちはきっと僕の真心を理解していることと思います。これから先に死んで逝く僕のことを決して悲しまないでください。僕の死んでしまうことを悲しみ同情することは、僕の本心や真心を理解してくれたのではありません。もしも僕の本心や真心を深く理解して同情してくれるのなら、僕の志を受け継ぎ、この志を更に大きく実現してくれることなのです。」と。

ここに最後まで真心に生き切り、自らの志、その忠義に生きた吉田松陰の生き方が観え、深く共感するものがあります。

志は、自分の人生だけで完結するものではありません。何代も先のため、せめて七代先のことも憂い、自分がその使命を果たそうとするのです。志を継ぐというのは、それだけ物事を長いスパンで考えてその志のバトンを受け継いでまたそれを次に渡していこうとする試みなのです。

例えば、孔子や仏陀、キリストをはじめ、神話や伝説などもそれは語り継ぐ人がいたから今の私たちがその言霊と真心を理解することができます。数千年以上前の出来事が今でも生き続けているのは、その志を継いでくれた人たちがいたからです。

その志を継ぐことは、決して頼まれた結果を出せばいいのではなく同じ生き方をしていってほしいという願いと祈りに近いものがあるのです。自分の真心や本心は何か、それは未来の子どもたちや子孫のためにも、先祖のためにもこう生きたいという心そのものです。

その心のままに歩んでほしいと願い、その心が同じであるから共に同志が集うのだから守るべきは自分のことではなく志を守ろうとするのです。守るものがあるから生きられ、守るものがあるから本来の自分の使い道があるとも言えます。

何を守るか、何を信じるか、何のために生きるのか。

これらが志と結ばれ、その志が永劫に受け継がれ生き続けるのです。吉田松陰にこんなに惹かれるのは、志が同じくするからかもしれません。別に外国を追い払おうとしたのではなく、大和魂を守ってほしいというのが志だと私は思います。

引き続き子どもたちに大和魂を譲り遺すためにいのちを懸けていきたいと思います。