徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。

新しい幸福論~暮らしの徳を磨く~

幸福論という言葉があります。これは、人間の仕合せとは一体何かというものを突き詰めたものです。有名な幸福論には、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論があるといいます。

ウィキペディアには、アランは健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説くとあります。ラッセルは、己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧めるとあり、またヒルティは神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論であるとします。

難しい言い方をしていますが、シンプルに共通するものは自分らしく生き切っているということでしょう。これは人類の幸福に限らず、自然界は自分のいのちを信じ切ってあるがままでいるとき、仕合せを感じるようにできています。

これは自然と一体になっているともいい、私はそれを「かんながらの道」とも言います。そしてその自然と一体になっているという状態がどういうことか。それを具体的な実践として実在させているものこそが日本の伝統的な暮らしであり、その暮らしを充実させて日々を豊かにしていくことが仕合せなのです。

私の幸福論は、真の豊かさというものは何かということを突き詰めたものです。

自然を深く観察し、いのちの繋がり合いの中でお互いを尊重しながら活かしながら生きていく。そしてお互いの徳を磨いて、いのちを輝かせ、真善美の調和の中で時を超越して心を開放し魂の旅を味わう。まさに、自然一体の境地に入ることで私たちは何物にも代えがたい存在であることを知り、宇宙の一つであることを自覚します。当たり前のことかもしれませんが、生き物たちが喜ぶように一緒に私たちも喜ぶとき、そこに真の暮らしは実現しているのです。どちらかだけが喜ぶというのはいのちの自然界では不自然なことなのです。

この喜ぶという心境は何か、それはいのちがお互いに活かされている、甦生し磨かれていると実感するときに得られます。共生と貢献の中でむかしの人たちが、永い伝統的な暮らしの中で自然のセンスを磨き合い高め合ったように本来は今の私たちにもそれはできることなのです。

人間が楽になるために便利さや効率を選択し、それを優先するあまり日本人もかつてあったものを忘れていきました。気が付くと、現代はその忘れものが一体何だったのかも忘れてしまい時間と引き換えにして本来の幸福とは程遠い歪んだ豊かさや富のみを追いかけるようになりました。

世界が同時に影響を受けたコロナウイルスにおいても、立ち止まり振り返る機会を得られたはずなのにまた目先のことに迷い元通りに忘れようともがいています。私は、今こそかつての日本人の美しい記憶を思い出す時機ではないかと思うのです。

人類の幸福とは何か、そして新しい幸福論とは何か、そこに原点回帰をもってもいい時機だということです。私の原点回帰、それは「暮らしの徳を磨く」ことです。暮らしの徳は、便利な暮らしでは出てきません。どちらかといえば、不便なものしかありません。いのちは不便と共にあり、不便とは人間都合ではないのです。自然の都合に合わせて生きていくことは、決して辛く苦しいことではなく実は偉大な存在と共に生き、偉大な存在を活かしあう、いのちの道を歩んでいくということです。そのいのちは磨けば光るように、徳を積めばさらに豊かさは増幅していきます。

真の豊かさとは、お互いのいのちを磨き合うことであり、いのちは磨き合うことで新しくなります。幸福論もまた、その時に出たものが終わったものではなくそこは道ですからその時代時代に幸福論もまた磨き続けなければなりません。

私が子どもたちに譲り遺したい幸福論は、1000年後の未来に必要な幸福論です。

引き続き、日々の暮らしを豊かにしながらすべてのいのちを新しくしていきたいと思います。

煤払い

昨日は、東京のカグヤライトハウスで煤払いを行いました。煤払いといえば、一般的には煤が出るような竈のそばやおくどさんの周囲をイメージしますが東京では火を使っておらず排気ガスの煤くらいなものです。

今回の煤払いはそういった物的な煤払いではなく、心的な煤払いということでクルーが提案してくれたものです。それぞれに、心の煤もまた同時に溜まっていきますからその煤を払おうということでみんなで煤を出しながら清掃していきました。昨日は、煤が結構溜まっているなということはわかったようですが清掃をここから丁寧に行っていきます。

どのように清掃するのかはこれからですが、むかしの人たちは若い衆や元気な人たちがこぞって煤払いをしてそのあとは打ち上げのように楽しんでいたようです。そして子どもや病気の人はあまり煤をあびないように奥の部屋や小部屋に隔離して行ったそうです。そして江戸では、煤払いが終われば乾杯して主人を胴上げしたところもあったようです。これは楽しそうな習わしです。

この胴上げというのは、地面から体が浮かび上がった状態を「非日常で神聖」、手で支えられた時を「日常」として表現し、この二つの世界を行き来するのを「胴上げ」という形で表したものだといいます。江戸時代、神事である奉納相撲において、当時の最高位であった大関を「胴上げ」する習慣がありましたが、それがいつのまにか祝福の儀式となり、広く浸透していったそうです。

おめでたいという時に、みんなでそれを事前に予祝する。日本人の福を待つ大らかさを煤払いでも感じます。歳神さまがここからは来てもらえるように、玄関に門松を用意し、場を清め、床の間に御鎮座いただくようにお餅を用意します。

一年の穢れを祓うというのは、ある意味でその人の苦労を労うことです。無理に何かをするのではなく、大変だったということをみんなで労うことで心は清め洗われるのかもしれません。

そしてこの一年の煤をもっとも受けた人に感謝するのかもしれません。煤が出るというのは、それだけその道具も使われたということであり正月はその道具に休んでもらうように労います。ここに私は日本人の優しさや思いやりを感じるのです。

私も多くのハタラキをいただいた一年ですから、周囲に思いやりと優しさを忘れないように煤払いをしたいと思います。

 

利休からの物語

徳積堂は、千利休の茶道を少し参考にして建築されました。私は設計士でもなく、数寄屋大工でもなく、建築士でもないので、まったくの我流です。しかし、千利休の目指した生き方には共感することが多く、私も座右が一期一会ですから私なりのおもてなしの道で自由に磨ききった建物を創りこむことができました。

利休は、これ以上削れないというところまで削り込んで侘びや寂びを表現しました。私はこれ以上、磨けないというところを目指して同様に侘びや侘びを表現しています。削ることと磨くことは、同一ですから私は茶法はよくわかっていませんがいつか観える景色は似たものになるのではないだろうかとワクワクしています。

今回の徳積堂は、主人の心得として利休七則にも共感することあったので参考にしています。その他には、私は徳積堂では「場」に主人の生き方の思想を組み込み、そのおもてなしに光を遊び、風を喜び、水の優しさに触れ、古材のぬくもりを大切にし、捨てないことの大切さを感じ、いのちある存在の中での心の落ち着きを味わうことにしています。

他にも、時間を忘れ、自然の音を愉しみ、清められ浄化された場を慈しみ、伝統文化に癒されるということも加えています。もっとも大切なことは、いかなるときも主人の生き方の心得として、真心であったか、正直であったか、今にいのちを注いでいるか、いのちを喜ばせたか、自他一体の境地でおもてなしたかということがあります。

最近は、何かの道を学ぶのにテクニックなど技法や評価ばかりが耳に入ってきますが本来は生き方のみを参考にすれば自由に自分なりに好きにやったらいいと私は思います。人間は自分自身の徳性に合わせて好きに没頭するとき、人は無我になるように思います。利休もきっと、好きでやっていたことなのでしょう。しかしその心には、どの時代であっても心の荒廃を和らげ、人々に真の豊かさ、足るを知ることの真髄をその生き様で語っていたのかもしれません。

何のためにやるのかがあってこそ、志があってこその好きなのです。

徳積堂での私の好きな一杯のお茶や珈琲が、人々の心の荒廃を和らげ、そして子どもたちの未来への自信につながるように利休からの物語を紡いでいきたいと思います。

ぬくもりの灯~場徳の祈り~

私が徳積財団を立ち上げた理由は、子どもたちのためです。子どもたちとは、未来の子孫のことであり先祖たちが私たちのために遺してくださったものを更に磨いて後世のものたちにバトンを渡すためです。

私たちの肉体は滅びますが、精神や魂は永遠に生き続けています。その証拠に、私たちは何千年も何億年も前からこの地球と共に生きてきたという事実があり、この宇宙で宇宙を感じて歩み続けてきている道を感じることができます。

現在は、物質文明に偏り過ぎていて心の荒廃が進んでいますが私たちは心を磨かなければ仕合せにはなれませんから必ず目が覚めて新たな時代を拓いていくことになると思います。

そのためにも、私たちは先人が守り続けてきたぬくもりの灯に炭をくべてその火を絶やさないように火を吹いていく必要があります。この吹くという行為は、福という行為でもあり、磨くという行為です。

先日、中村哲さんという医師がアフガニスタンで亡くなりました。この方は、大医であり、病を治すだけでなく人を治し、国を治しました。まさに二宮尊徳と同様の実践をされた方です。治水を学び、多くの人たちに水を飲めるように尽力しました。そしてこの方はそれを私はただ水やりをしただけだと言っていたといいます。

私も二宮尊徳の「報徳」思想に大きな影響を受け、この時代にもっとも必要なのは一人ひとりが目覚め、各々の使命で徳を積むことだと信じています。この徳積みと何か、私にとっての徳積みとは、「たた磨くのみ」であり、囲炉裏に炭をくべただけだと言うと思います。

この世の心の荒廃は、心を澄まし清め整えることで癒されます。そしてそれは、日々の暮らしの中で生き方を磨くことによって実現します。それが暮らしフルネスです。

徳積活動をするには、私一人だけでなく大勢いの仲間たちが必要です。仲間と磨くと、その光は太陽の如く天照らし、月の如く闇を清浄に満たすことができるからです。

古今の先達が必ず遺す言葉、それは「一灯照隅」です。

徳を共にし、共に磨く同志たち、徳積堂の炭のぬくもりに集まり、法螺貝を響かせ、この世に調和の豊かさを一緒に実現していきましょう。

炭の豊かさ

急に寒くなってきて、家は冬支度をととのえています。冬といえば、もっとも重宝するのが炬燵です。現在、西洋建築が中心に建物はたっていますから炬燵の需要は減少しています。

しかし、暖房とは異なる炬燵の暖かさや豊かさは炬燵でしか味わえないものがあります。思い出せば、冬の寒い日に家族がみんな炬燵であったまりながらそれぞれに好きなことをゆったりとして過ごす。時折、みかんやおかし、そしてご飯を食べながらまた団欒する。お互いに場所を分け合いながら、みんなで炬燵に入ってほっこり過ごすところに和の心を感じます。

私の使っている炬燵は、一つは炭団(たどん)といって炭(木炭、竹炭、石炭)の粉末をフノリなどの結着剤と混ぜ団子状に整形し乾燥した燃料を使う炬燵です。櫓炬燵といって、炭団をいれておく陶器があってそこに炭団をいれると8時間くらいはぬくもりが拡がります。まるで温泉にでも入ったかのような温かさで、遠赤外線で炬燵からでても体がポカポカするものです。聴福庵では、冬はいつも2階で過ごしますが居心地がよく穏やかに冬を楽しむことができます。

もう一つはBAある炬燵でここは豆炭を使っています。この豆炭(まめたん)は、石炭や低温コークスや亜炭や無煙炭や木炭などの粉を混ぜ、結着剤とともに豆状に成形した固形燃料のことをいいます。炭団とは異なり、多少の臭いもありますが熱量は強く超機関燃焼します。あんかとしても使うことがありますが、豆炭をサシコマット(ガラスウール)でくるんで燃焼させる燃焼器を櫓の中にいれて使います。うちで使っているのは、通風口の開閉により強弱の調節や使用する豆炭の個数による調節もでき温度調整ができます。

今では電気の炬燵が便利だと思われていますが、火力の強い豆炭を岩綿でくるんで酸素の供給量を調整することで使えるようにするというのはその時代は大発明だったでしょう。

やっぱり電気と異なり、豆炭も遠赤外線で芯から温まり使うと冬がまた格別です。火は、危ない側面もありますが私たちの暮らしをいつも支えてくれている大切な存在です。その火の徳性をよく観察し、それを上手に活かした日本人の智慧には感動と感謝が湧いてきます。

子どもたちに、この暮らしの豊かさを伝承し和の心を育てていきたいと思います。

場の魂

昨日はBAで地元の学生たちを中心にしたブロックチェーンの研修会を開催しました。コロナでオンラインばかりをやっていますが、久しぶりにみんなで集まり場で学び合えることに仕合せを感じる一日になりました。

人の持っている、真心や思いやり、おもてなし、そして情熱や感謝、好奇心など一見、形がないものは存在しないように思われますがそれは確実に「場」に顕現するものです。私たちは場の持つ、居心地の善さのようなものは心で感得しているものです。

例えば、綺麗に整えられている場や、美しく磨き上げられた場にいくと自然に背筋が伸びて清浄な心持になってきます。その場には、空間の中に目には見えないけれど心では観える確かな風景が存在します。その風景を、何か五感のようなもので私たちは感じ取りそれを感受して養分にするのです。

現在は、お金をつかって見た目だけを綺麗にする建物や空間ばかりになっていきました。一見、美しく見えるような場であっても時間がたったら次第に空きがきてしまいます。それは張りぼてであり、心はその張りぼてであることを感受するからです。

私は空間や場を用いるのに、真心を盡します。

よくそこまでこだわってと感心されることが多いのですが、それはこだわりではなく真心だからです。真心だから妥協しないだけで、実際には完璧なものなどはつくれないから諦めているところも多いのですが真心だけは盡せないことはありません。

真心で取り組んでいく中で、本物の場は醸成していくのです。

私たちは、日本の風土の中で真心を感受して暮らしをしています。四季折々の美しい自然や風景は、私たちの心を癒し人生を豊かにしていきます。その環境の中にある真心はまさに私たちの人生へのお手本になるのです。

古い物は決して古いものではありません、古いものは自然の篩にかけられても遺った本物のふるいものです。ふるいものに囲まれて磨かれた美しい空間の中で、次世代の未来を磨き上げていく。

場にはその魂が宿っています。

これからはじまる学生たちとの交流がとても楽しみです。この舞台でどのような即興劇を繰り広げて演舞するのか、人生を謳歌していく彼らを見守っていきたいと思います。

真の循環への挑戦

麦わら屋根の修繕の打ち合わせで改めて藁葺の事を調べていますが、屋根の歴史を感じてかつての懐かしい情景に思いを馳せています。

戦後に藁葺は次第になくなり、トタンになったり瓦になっていきましたが本来は日本の平野部の家々ではほとんどが藁葺屋根だったとあります。うちの故郷にも、近くにまだ数軒の藁葺の古民家が残っていますが、実際にはトタン屋根になっているため中は見ることができません。

棚田と合わせて麦わらの古民家が重なる風景、そこに何か不思議な安ど感を感じます。これは長い年月の中で、暮らしの中でカヤや藁を使うのは少しも無駄がなく、使い古したものは肥料として田畑に戻し、先人たちは自然と一体になった理想的な循環型の社會を実現していたことも思い出します。

改めて深く感じるのは、日本の先祖が如何に自然と共生して暮らしを感謝と謙虚さをもって営んでいたかということです。

藁ぶき屋根がなくなってきたのは戦後に入ってからでそこから藁葺をする人たちがいなくなり、循環型の生活が崩れ始めたタイミングでトタンなどに入れ替わりました。まさに、西洋型の消費文明、また資本主義経済が流入してきてから私たちの家も暮らしも激変していったのでしょう。

また藁葺を維持するのには囲炉裏や竈などを使い、藁を燻していたからこそ腐食を起こさずに長持ちしていましたが今では電気に換わりそれもなくなりました。煙が出なければ腐朽が早まり家があっという間に傷みます。常に煙があったのは、竈で日々にご飯を炊いていたからです。茅葺は長持ちすれば30年くらいはもつといわれていますが、今の生活で煙も出なければ5年目くらいから腐食をはじめるようです。自然界はどんなものでも腐食が起きてきます、それを防ぐ仕組みが煙ですがその煙がなければどうにもなりません。道具たちや仕組みたちが調和していたからこそ、長持ちして寿命を延ばしあっていたのです。

この藁葺の屋根の寿命が短くなったのは、腐朽速度があがったことと採算が合わなくなったことです。また台風や大雨などには弱く屋根が飛ばされることが多かったからだともいいます。ここの藁葺も以前、大きな台風で藁が飛ばされ、そこからトタンに換えたと近所の方が憶えておられました。

そしてかつての故郷は、ススキやチガヤ、稲藁が大量に手に入ってそれを冬期に屋根裏部屋で乾燥させて定期的に集落で協力し合ってふき替えていたといいます。しかし、現在は稲藁も機械でそのまますきこんで田んぼに戻すため昔のように稲架けするところもなくなりました。協力し合って協働作業していた、沖縄の「結」のような共同体も過疎化と共に失われ、個人がお金で外の業者に支払ってやってもらうという仕組みになりました。すでに2019年時点で日本に現存する茅葺屋根の建物は10万棟程度にまでになっているといいます。

また日本でこの茅葺や藁葺ができる職人は200人をきっているといい、高齢化も相まってこのままでは失われてしまいます。私が今回、一緒に取り組むのは阿蘇の茅葺職人です。この方は、お地蔵さんの屋根の修繕の時にご縁があり年齢も同じで辰年、とても気が合いいつか一緒にとやろうと約束していたかたです。

このまま失われていくものをただ守るのではなく、本来、なぜこのような仕組みであったか、循環の本質、本物の循環を実現する仕組みを甦生させ、この世の子どもたちの未来のために偉大な布石の魂の一投を懸けてみたいと思います。

今回の藁葺の挑戦は、真の循環への挑戦です。

覚悟を決めて、故郷のため子どものために全身全霊を使っていきたいと思います。

夢追人

人はそれぞれに夢というものを持っています。夢は自分から求めていくことで得られるものです。そして夢は、今あるところからもっと先の未来に向けて自分から引受けていくことでもあります。

言い換えるのなら、すでにあるものを活かしてもっと自分にお役目を引き受ける、責任感とは少し異なりますが純粋な自分がやってみたいと願うこと、本心の声を聴いて自分に正直になっていくような感覚です。

私たちは、何か与えられたものの中でやらなければならないことをやるかのように教育で仕上げられてきました。本心からというよりも、本心は我慢してその中でやりたいことをやるかのようなことを美徳のように言われてきました。

しかし子どもたちを観ていたら、そうではないことはすぐにわかります。

私たちの会社は、子どもの憧れるような会社を目指していますから子どもが先生です。子どもを先生にすれば、夢を見ること、夢に生きることがどういうことかはすぐにわかります。

子どもたちはワクワクドキドキしながら未来を生きています。過去の修正ばかりをしているのではありません、常に心は夢を観ています。その夢に向かって正直に生きているのです。だからこそ子どもたちに夢に希望や未来を感じ、そしてそれを見守ることで信じる世界を実現させていきたいとも願うのです。

私たちが見守る保育を信じるのもまた、子どもたちの未来を信じているからです。

改めてコロナのことで先行きがよく観えなくなってきているからこそ、敢えて子どものような好奇心と夢で生きる時代に入ってきました。

最後に渋沢栄一の言葉です。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福なし。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず。」

子どもの憧れる未来のモデルになるように、挑戦を楽しみたいと思います。

未来志向

コロナウイルスがまた急速に広がりはじめ、また自粛ムードになってきました。当然、みんなで気をつけようとは心しますが同時に閉塞感というものが出てきます。疫病というのは、免疫をつけて免疫が落ちないように活発に心の状態をととのえておく必要があるものです。

なぜなら免疫が下がったら、どんな病気も予防できず感染したら抵抗するチカラもなくなっていくからです。そう考えてみると、免疫を落とさないことが優先でその上で自粛しようというところが本当のところのはずです。

しかし現在の自粛の雰囲気は、免疫が落ちていくような閉塞感を持たせる自粛のやり方のように感じます。ただ、自宅でじっとしていろといい、人に関わらないことをいい、一日中オンラインで同じ姿勢で部屋のなかで過ごすこと。こんなことをやっていたら体調も崩しますが、心身もととのわなくなっていきます。

本来、暮らしは自宅でするものでしたから暮らしを充実させていこうとする方が免疫はあがります。例えば、朝から気持ちよい朝日を浴び、畑や土いじりをし、洗濯や伝統的な保存食や料理を楽しみ、外で運動や散歩をして早めに就寝する。オンラインは時間を決めて、仕事は明確に何をするのかを決めてメリハリを持たせ、コロナの御蔭で日ごとできなかったことができることに感謝して新しい生き方を発見していく。

もちろん、経済状況が苦しくなればそんなことは言ってられないというのもありますがそうやってまた追い込むと余計に閉塞感が出てきます。みんなで閉塞感がでないように助け合い、支え合い、ゆとりを豊かさを増やしていくことで疫病に早めにいなくなってもらうようにしていく方が解放感があっていいと思います。

なんとなく息苦しさというのは、呼吸ができない状況のことです。水でいえば、流れなくなり澱んでいる状態です。呼吸を整え、水を流すように閉塞感を取り払っていく必要があります。

神道の清めたまえ、祓いためえという具合です。

この時代の姿に、先行きがみえないと嘆いてみせるばかりではなく子どもたちに明るい未来を示していけるように未来志向で生き方を磨いていきたいと思います。