火の心

先日は、迎え火をしてご先祖様をお迎えしました。これから送り火をして見送ります。もともと火は、鎮魂、慰霊をする意味もあります。この鎮魂、慰霊とは、人の魂を鎮めること、そして死者の魂を慰めることをいいます。元々「鎮魂」の語は「たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものだったといいます。

そして「慰霊」の方は、霊を慰むとありますがこの慰むというのは、「心を穏やかな状態に静める」という意味です。この慰むという字の上の尉はもと叞(い)に作り、手(又)に火のしを持って布にこてをあてる形を表します。それに火のしをして布が平らかに伸びやかになるように、心が伸びやかな状態になることを慰といい「なぐさめる、なぐさむ、いやす」の意味になります。また慰むは、凪という意味もあるといいます。凪は、風がやみ波が穏やかになる様子です。

このように、魂や霊が静まり穏やかに和むという意味にもなります。

私は場道家としてよく炭を使います。特に備長炭を使うことが多いのですが、この火は燃え盛る激しい火ではなく懐かしくて静かに和む火です。この火を観ていると心が落ち着き研ぎ澄まされていきます。

火はもともと古来より、祓い清めるという効果があります。特に和蝋燭をはじめ線香などの火も同様に鎮魂や慰霊に結ばれる意味がよくわかります。私たちは、穏やかで静かな火を見つめることで心が和やかになっていきます。

心が荒まないようにいつも穏やかに和やかにいてくださるように火をお供えするのです。

迎え火も送り火も常に心和やかでいてくださるようにという真心のおもてなしです。人はみんなもともとは神様です。そこにあらゆる我や欲や感情が執着して、澄んだ心が穢れていきます。またもとの澄んだ真心に回帰して静かに平和な魂になるようにと祈るのです。

私たちがお供えするものは、その清らかな心であることは古来から間違いないものです。時代が変わっても、大切に繋いでいく心は失ってはいけません。それは本来の意味であり、その心を継ぐのが子孫の使命でもあるからです。

火の有難さと感謝とともに、今日も穏やかな一日を過ごしていきたいと思います。

 

意味の甦生~お中元~

私が小さい頃は、この時期はたくさんのお中元が自宅に届いていました。お盆のご挨拶に、近所の方々や父親の会社の方々がたくさんお中元の贈答品をもってご挨拶に来られました。中身も、お菓子や果物やジュースが多かったのでとても楽しみにしていたのを覚えています。

今ではあまりお中元を贈り合うような文化はなくなりました。世の中の価値観の変化はこういう行事の消失と共に感じるものです。

この「お中元」はもともと中国の道教の旧暦の1月15日は「上元」、旧暦の7月15日「中元」、旧暦の10月15日「下元」の中の「中元」から来ています。この「上元」「中元」「下元」は「三元」と総称され道教の3人の神様を意味します。

この三人は三官大帝(天官、地官、水官)はどれも龍王の孫であり、天官(天官賜福大帝)は福を賜い、地官(地官赦罪大帝)は罪を赦し、水官(水官解厄大帝)は厄を解く神徳があると信じられていました。

中元は、罪を赦す地官赦罪大帝の誕生日である旧暦7月15日が贖罪の日になり、同に地官大帝は同時に地獄の帝でもありましたからその死者の罪が赦されるよう願う日となり今のお中元になった経緯があります。つまりこの日にお供えをして供養することで、罪がゆるされたという行事だったのです。

仏教の年中行事である「盂蘭盆会(うらぼんえ)」も以前ブログで書きましたが、仏陀の弟子の目連が地獄に落ちて飢えに苦しんでいるお母さんを助けるため仏陀の助言に従い、旧暦の7月15日に百味を盆に盛って修行を終えた僧たちに供養して救えたという話がはじまりの由縁です。この仏教と道教、お盆とお中元が結びついてお盆の時期に贈り物をするようになったといいます。

日本人は、時間をかけてあらゆる宗教や信仰を上手に暮らしに取り入れて融和させていきました。その御蔭で、日本ではあらゆる行事の中で知恵が生き続け活かされ続けています。その恩恵はとても大きく、私たちは知らず知らずにして知恵を会得しそれを子どもに伝承して暮らしをさらに豊かにしていたのです。

話をお中元に戻せば、お中元が食べ物が多いのはお互いに共食といって同じ釜の飯を食べたり、煮物を分け合い一緒に食べることがお互いを信頼し合う関係づくりにもなったからです。家族のように心を開いて一緒に食べることで、お互いの結びつきやご縁に感謝することもできます。

これは神道の直会と同じような意味で 神様に供えた御神酒や神饌を弔問客でいただき身を清める、という神事の一つでした。

みんなで分け合う、助け合う、共食することで神様やご先祖様の気持ちになって穢れを祓い、平安の心に甦生します。

むかしの人たちは、このお盆や正月は身を清めるような暮らしをととのえていたように思います。現在はあらゆるものが形骸化して、意味が分からないままにカタチだけになったものが増えてきました。しかしちゃんと意味を理解し、実践する人たちの背中や実践が意味を甦生させてくように思います。

子どもたちにも、本来の姿、何のために行うのかを伝承していきたいと思います。

御大師講

私の故郷にはかつて御大師講というものがありました。今から130年以上前に、八十八箇所霊場を設置し、戦争で亡くなられた子どもたちや家族のために定期的に参拝をしていたといいます。

関の山という山を中心に、町の中の辻々にお地蔵様のカタチで安置されております。それが道路の開拓や御大師講の衰退と共に、一部は何処にいったのかもわからなくなっています。

もともとこの「講」というものは、古文書ネットによれば「講とは、中世から今日に至るまで存在した宗教的・経済的な共同組織のこと。元々は仏教の経典を講義する法会(ほうえ)の儀式でした。しかし、それが次第に社寺信仰行事と、それを担う集団を指すものとなり、さらにその成員の経済的共済を目的とする組織をも意味するになったといいます。講・無尽(むじん)・頼母子(たのもし)の名称はいずれも同義に用いられ、貨幣または財物や労力を、あわせあって共同で融通しあうものを示すようになりました。」とあります。

その講には種類があり、経済的に助け合う講もあれば信仰的に結びつく講もあります。むかしは小さな地域で生活を共にし助け合う関係がありましたから、定期的に寄り合いをし集まり、意見交換をしたり決めごとを話し合ったりしてきました。今の時代のように国家という概念で管理し統制するようになっているからイメージがし難いものですがかつては自律分散型で対話によって時間をかけて村の自治をしてきた歴史がありました。

今、地域創生など色々といわれていますが実際には中央集権の管理型の体制や仕組みで国家運営をしていますから大きな矛盾があります。下から上ではなく、上下左右の見事の連携があってこそ地域ははじめて活動するものです。

話を御大師講に戻せば、この御大師講は弘法大師空海を信仰してみんなで寄り合いをし信仰を深めたり守ったりして教えを学ぶ会でもあります。この御大師講はそれぞれの地方によってやり方も内容も少し異なるといいます。

私たちの地域では、弘法大師と所縁のある木像や掛け軸、仏具などを使い、地域の数世帯~十数世帯で講連中を構成して定期的に各戸持ち回ります。その当番家のお座敷に簡単な祭壇を設えて講連中(各家の代表者)が集まってお祀りをします。その後、直会のように飲食をするという寄り合いが行われてきたといいます。

定期的にそれぞれの家に集まりますから、家が狭かったり料理するのも負担もあったかもしれません。それに持ち回りですから、必ず出番もまわってきて苦労もあったと思います。この講の寄り合いがなくなってきたのは、むかしのような地域やムラのカタチが失われたり、家の中に座敷や和室がなくなったというのもあるといいます。それまで持ち回りしていた木像や掛け軸も今では、どこかの家で止まってしまい保管されるかお寺に戻されたかもしれません。故郷のお地蔵様も、場所によっては廃墟のようになってしまい誰も手入れせずに打ち捨てられたところもあります。

かつての風習が失われてしまい、それがゴミのように捨てられているのは心が痛みます。私も古民家を甦生させたり、かつての歴史的な場の甦生を行っていますが想いや祈りは記憶として遺っていますからそれが色あせて廃墟になっているのを観るのはつらいことです。

この時代にも新しくする人物が出たり、かつての善い取り組みをこの時代でも形を換えて甦生させれば先人たちの想いや願いや祈りは今の私たちの心につながっていきます。

故郷をいつまでも大切にしてきた人たちの想いを守りながら、子どもたちにもその懐かしい未来が残せればと思っています。

子ども心と子ども時代

昨日、ある動画を観る機会がありました。それはオードリーヘップバーンの生涯の動画でした。子ども時代に戦争に巻き込まれ、その後は脚光を浴びるような人生を歩み、最後まで子ども心を失わずに子どもを守り続けた人生の動画です。

映画を見たことがありますが、子どものような大人の様子に一様にみんな感動するものです。子どもでもなく大人でもない、その中間のような存在はひときわ私たちの心を揺さぶります。

その中間を生きていたオードリーヘップバーンだったからこそ、生涯をかけて子どもに対して深い愛情をかけたように思います。子どもの定義が、単なる大人と子どもという比較ではなく自分の内面にある子どもであることを語ります。そしてこういう言葉を遺します。

「子どもを無視して 子ども時代を無視するのは 人生に背を向けるのと同じだ 子どもは自ら声を出すことはできない 私たちが代わりにしなければならない。」

自分の人生のなかでもっとも無視してはならないものこそ子どもであり、そしてその子どもの頃に生きた自分を受け容れることです。子どもを無視するというのは、自分の人生を半分やめてしまったことと同じです。その子どもは、日ごろは抑え込まれているからこそ誰も声が出せなくなってしまっている。だからこそ、子ども心を守る私たちが実践し仲間を助け出していくのだという意味だと私は解釈しています。

私がカグヤで子ども第一義の理念を掲げて今も子どもの志事に取り組むのもほぼ同じ理由です。子どもを第一義に取り組む、この時の子どもは子どもが子どもらしくいられる世の中にしていくためでもあります。そのためには、子どもを無視するようなことをするのではなく、子どもを尊重するような世界にしていくことです。

私たちは本来、自然に自分の人生を全うできるような仕合せで豊かな時代を生きていました。それが戦争や競争、差別や貧困によってそれが失われていきました。人間の持つ一つの本性ですが、自然と共生していく生き物たちは自然から学び自然から離れずにひとつのいのちを充実させて終えていきます。そのいのちは全うし、唯一無二の喜びと仕合せを生き切ります。子どもの頃に感じたことをどう癒し、どうゆるすかは大人の話ですが子どもに大人になることを急がせたり無理にそうさせることは不必要です。

平和にみえるこの時代も、子どもは大人の戦争に巻き込まれていきます。できる限り、子どもを守り、子どものためにできることをやることが真の平和を維持することでもあります。

真摯にこれからも自分の役割と全うしていきたいと思います。

本来の伝承

そのもののはじまりというものを深めていると、なぜ今、そうなっているのかのプロセスを辿ることができます。どのような変遷を経て今があるのか、そこには壮大な歴史と物語が溢れています。

私たちはそれに触れていますが、もう目には映りませんが心にはその情景が映ります。それは空間の中に存在し、その場所で確かに行われた記憶として遺るからです。それを甦生して現代にも伝承をつなぎ直すとき、そのはじまりが今でも続いていることを人々は気づくのです。

例えば、私が手掛けたものに宿坊があります。宿坊といえば、巡礼する際に宿泊する場所の一つ、僧侶が住んでいる場所といわれます。しかし本来は、廟のある場所でありその廟を守る人たちが住んでいるのが宿坊です。もともとお山には、先祖や霊が宿ると信じられていました。故人の魂はみんな山に還ると信じられていたからです。

そのお山に住むというのは、宿直し故人の霊や魂を守るということでもありました。そこには廟があり、日々に祖霊に参拝して鎮魂や供養をする場所が宿坊ということになります。

私は現存する英彦山最古の宿坊を甦生する過程で、何回もその感じを空間に覚えました。手探りで家を触り、お手入れを続けているとその場所が本来はどのような場所であったのかがわかります。そして先人たちは、そこでどのように過ごしていたのかも想像できます。これは、その場所から学ぶという地理的な発想が必要なのかもしれません。

偶然にも、この宿坊の10代目坊主の長野覚先生が地理的な研究から英彦山修験を甦生させていかれました。その発想は地理、場所から直観し、そこから探知して感知し知識として分析し解明するという方法です。

私も場道家を名乗り、場所から同じように洞察し観察感知し、あとはお手入れを通して一つ一つの歴史の記憶を感得していきます。そうやって甦生していくなかで、情報や知恵が集まり本来の姿に回帰して歴史を紡ぎ直すということをやっています。

本来の姿になるというのは、はじまりの意味に戻るということです。分化していくこと、複雑化していくこと、それは時があるから仕方がありません。しかしそれをもう一度、はじまりに回帰すると最初からまた物語は繰り返され、今度は別の歴史を辿ることができます。これが循環の理でもあり、私たちのいのちの仕組みでもあります。

時と空、これで時空と書きます。

この時空というものは、場に宿ります。まもなく科学が追いついてくると思いますが、先人たちが感得していたものを今の時代でも継承し、本来の伝承を続けていきたいと思います。

甦生という技術

滝場との関係性が深まってくると、滝行する際の滝との関係性も変わってきます。この滝は、流れ続けている水であり澱んでいるものはありません。また岩場から流れ落ちるものです。その水は、ただの水ではなく信仰のある人たちは「お水、お滝」としいのちあるものとして接していきます。

このお水やお滝を大切ないのちのある存在だと深く尊敬している人には、形が同じものではなくなります。毎回、そのいのちに触れるたびに感覚が異なることに気づくように思います。

それは単に水量や水温、天候の違いだけではありません。その時、流れているお水やお滝の状況や状態、そして自分自身の内面、身体の状況で異なります。

時には、非常に冷厳で凍てつくような強いときもあれば穏やかで心地よく透明な風が吹き抜けていくような優しいときもあります。その時々のお水やお滝に触れることで自然と一体になることができるのです。

私たちは自然から離れることで様々な問題を抱えていきました。自然との共生をやめたことで苦しみや不自然が溢れてきました。そのことから自然の循環にある喜びや仕合せを感じにくくなり、心身の病も増えていきました。

人間だけが創り上げた世界や社会のストレスは、心身を蝕みます。愛を学び、人間であることの喜びも感じますが知識が氾濫し、分化し続けてきた複雑な状態は私たちの暮らしに大きな負の影響も与えます。

そういうものとのバランスをととのえるには、暮らしが重要です。ここでの暮らしは、仕事の余暇としての暮らしではなく自然と共生し一体になる暮らしのことです。すべての地球や宇宙の生命が循環しているいのちのリズムともいっていいかもしれません。

暮らしをととのえるというのは、この自然との調和に他なりません。その自然との調和の要諦は、甦生であることは間違いないことです。いのちは澱むと元氣が失われますから、定期的に甦生させていく必要があります。私たちが朝起きて夜眠るのもまた甦生の繰り返しです。他にも、火や水を活かしていくのも甦生の技術です。

科学がもっと進めば、本来の自然テクノロジーの価値も見直される日が来るかもしれません。今はまだ、時期尚早でオカルトや宗教などと偏見を持たれてしまいます。しかし先人たちが知恵を伝承して子孫たちにつないできたものは、確かな最先端の科学であることはそのうち証明されるはずです。

それまでの間、地道に粛々と子どもたちに伝承が途切れないように徳を磨いて積んでいきたいと思います。

使命の全う

昨日からハーバード大学で修験道の研究をされているカナダ人の方がBAに来られています。色々と情報交換をしていると、この道に入ったことの理由やその哲学などを語り合い豊かな時間を一緒に過ごしています。

もともとこの方が大学生の時に、仏教のことを教えるいい先生に出会ったことが切っ掛けだったそうです。この先生は、仏教の教えとして苦労することの大切さ、そして森羅万象の死について話をされたそうです。そこで価値観が転換し、仏教の道を学び始めたそうです。

その後は、カナダの先住民族の儀式で日本でいうお祓いのような行事に3年間をかけて参加して自分の中の価値観を醸成されたそうです。もう日本は12回目の訪問で、少し前までは出羽三山で研究を進めていたそうです。

このカナダの先住民の儀式をきくと面白いもので、シャーマンが石を火にかけてそれを円の中心に置き、サウナのようにみんなでその中に入ります。その石に、聖水や薬草のような何かをいれてかけてその水蒸気を浴びながら祈る、謳うという具合です。夕方17時くらいからはじまり深夜まで行われたそうです。まるで温泉やサウナに入ったあとのようなととのうような感覚だったそうです。

これを何のためにするのかと聴いたら、先住民族の方々は「甦生するため」とあったそうです。毎週1回、これをすることで生まれ変わることができるという意味だそうです。

この感覚は、私の取り組んでいる暮らしフルネスの「お手入れ」と同じです。私も、生きていたら日々に穢れもくすみもでてきます。それは物事が分化して複雑になっていくからこそ、初心に帰るように原点回帰していくためにも行います。

掃除も同じく、洗濯も同じく、使うと器が汚れるからそれを濯ぎ洗い拭いて仕舞うのです。私たちの心身は器ともいえます。その器には何が入っているのか、それをある人は心ともいい、またある人は魂ともいいます。どのような呼び方であっても、私たちは器に盛られた一つの存在です。

どのように生きるのか、器と一緒にどこに向かうのかは自分で決めることができます。どの時代においても、先を観て何が大切なのかと伝承してきた人たちは古から知恵を受け継いで現代も暮らしをととのえています。

暮らしがととのうことは、人間が自然の叡智をもって自然と共生し平和を保っていくことです。人間がこの甦生や生まれ変わりをしなくなれば、そのうち穢れも積もり悲しい出来事が増えていきます。

苦労も死も、私たちがどうにもならない諦観を持つための材料として存在します。何を諦めて、何を諦めないのか。現代のように人間中心の世界や社会が広がるなかで、どのような空気を吸っているのか。私たちは蓮の花のように汚泥で美しい花を咲かせる時、先人の偉大な徳を感じるものです。

子どもたちのためにも、自分の使命を全うしていきたいと思います。

和の伝承

戦争というものには二つのことがあるように思います。一つは、已むに已まれずに義を守るために戦うもの。もう一つは、権力が腐敗して一部の人たちが権益を守るために戦うものです。この二つは似て非なるものですが、見極めるためには歴史の時間や自然の篩にかけることが必要になります。

高杉晋作が、『人は艱難はともにできるが、富貴はともにできぬ。』と言った言葉があります。これは元治の内乱後、藩主からの要職の話を固辞した時に人間は苦楽は仲間と分かち合えるが、ひとたび上に立ち富や権力を手に入れると人は自分を見失い仲間との間に亀裂が生じて純粋な気持ちが失われていくものでそんなものは見たくないという意味だといいます。

苦難を忘れてしまうと人間は、初心も忘れてしまうものです。もっとも忘れるのに効果的なことは安逸や快楽です。苦労を忘れるためには必要ですが、初心を忘れては意味がありません。

今の平和がどのような苦難の歴史があって実現したのか、また現在の私たちの暮らしがどのような先人たちの苦労があってのことか、それを忘れたとき戦争は起こります。

苦しい時こそ、忘れないのが人間ですが苦しみがなくなるとあっという間に過去の大変だったことも忘れて目先の利益や快楽に流されてしまうものです。これは人間の性質でもあります。

だからこそ、人間本来の性質をよく見極め初心を忘れないように教育や内省を繰り返していく必要があります。しかしひとたび、権力や権威を独占し、自我に呑まれたら人間はその不信の連鎖においてあらゆる争いの種を蒔いていきます。そこには差別、自尊心、保身、あらゆるものが発生します。

そしてこれは別に国家という大きな組織のトップでなくても、小さなお山の大将に至るまで発生するものです。人間は誰にしろそういう本性があるということでしょう。だからこそその空気に呑まれないように、自らを正すために内省し、誰かと戦争をするのではなく自分に打ち克ち、常に自分を反省して謙虚に生きることで戦争を生むような状況をつくらないようにみんなで努力していくしかありません。

忠義というものもまた、武士道もまた、平和を維持するために先人たちが磨いてきた力です。今、また世界は権力や権威、あらゆる不信や疑念が渦巻いてきています。それは世界全体であり、人々は今このことの当事者になっていることを思い出す必要があります。

子どもたちに平和の未来を譲りつなげていけるように、自分自身を改革し続けて和を伝承していきたいと思います。

戦争の本質

戦争の足音が少しずつ身近に迫ってきています。こういう時にこそ歴史を直視して、なぜ戦争が起きるのかということを見直す必要があるように思います。私たちは、戦争は国家が起こしているもののように思っています。しかし、この国家というものの正体はとても曖昧なものです。

そもそも集団というのは曖昧で、集団をコントロールするものがあってはじめて集団は存在します。人々は集団ではなく一人一人の意思があって存在するものです。その一人一人の意思があれば戦争は未然に防げるものです。

もっとも危険なことは、集団に依存し一人一人が考えなくなることかもしれません。一人一人が、真摯に考えて戦争の意味を深めていけば誰かの操作されることもコントロールされることもありません。

戦争は人間が起こすことだからこそ、人間がなぜ戦争を起こすのかを深く見つめる必要があります。誰かの利益が誰かの不利益になるからこそ、利益を得たい人たちが戦争を利用するともいえます。その戦争を利用する人たちが、国家というものを持ち出し、国民を使って利益を確保しようと戦争にしていくのです。

利益と不利益、争いはいつまでもなくならないのはその権利を奪い合う構図がなくならないからです。哲学者のサルトルが、「金持ちが戦争を起こし貧乏人が死ぬ」とも言いました。

権力者になるということが戦争をいつまでも終わらせないのです。そして守るための平和、平和であるための武ではなく、武を権力を維持するために使うのが戦争なのです。動物たちが行う戦争は、あくまで生きるため、そして守るためです。権力を永遠に維持するためではありません。

ダライラマ法王はこういいます。「たいていの軍事行動は、平和を目的としています。しかし現実の戦争は、まるで生きた人間を燃料とした火事のようです。」と。

ひたすら燃料を投下しては、燃やしていく。何のためというと、そこに権力や利益があるように思います。そして内村鑑三はこういいます。「戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません。」

生まれたばかりの赤ちゃんが戦争をしたいとはいわないものです。誰かに助けられなければ生きてもいけない自分が誰かを殺そうとはできないはずです。助けてもらってこの世に私たちは存在しているともいえます。

助けれてきたいのちだからこそ、助け合う社会をつくることが仕合せになります。産まれたままの赤ちゃんのまま死ぬまで助け合って生きられたらそれが平和であろうと思います。

原爆の日である今日は、なぜ原爆がつくられ落とされたのか、色々と考えを巡ります。子どもたちのためにも平和について伝承していきたいと思います。

 

炭と蒟蒻

昨日、宿坊で子どもたちに炭を学び炭に触れる場を提供してきました。備長炭に火をいれて、囲炉裏を囲んで食を味わいましたがとても豊かな時間を過ごすことができました。

その中の一つに蒟蒻(こんにゃく)があります。もともと英彦山には伝統的な蒟蒻をづくりをしている方がいて、むかしの製法そのままに今でも英彦山の名物としてその知恵を伝承されております。感謝祭でも蒟蒻がメインになって皆さんがこんな蒟蒻は食べたことがないと大満足されていましたから今でも伝統的製法でつくり蒟蒻は人々の心を深く揺さぶるものです。

この蒟蒻は、実は世界でも珍しく「排出」を目的に食べられた食品だといわれます。栄養の摂取を目的だけに食べたのではなく、便通を良くして、腸内をきれいにするために好まれたものです。医食同源として、山伏たちがおすすめしたこともわかります。

もともとこの蒟蒻は仏教とともに中国から日本に伝来してきたものです。今から1100年くらい前に記された日本最古の薬物辞典でといわれる「本草和名」(ほんぞうわみょう)の中に、「古爾也久」(こにやく)として紹介されています。

蒟蒻は、「こんにゃく芋」(こんにゃく玉とも呼ばれる)というサトイモ科の植物の球茎から作られています。こんにゃく芋の原産はインドシナ半島が発祥といわれていますが東南アジアには約130種ほどの種類があるといわれます。しかしその多くは日本のこんにゃく芋と品種が違い、こんにゃくマンナンという食物繊維の含まず食用に適していないそうです。

日本では親しまれた蒟蒻ですが世界ではまだそれほどではありません。私たちの先祖は、その蒟蒻の持つ様々な毒を出し身体をととのえる効果に注目して定期的に食べ続けて健康を維持してきました。江戸時代には「砂払い」といわれ、お腹の中を綺麗にするために冬至に食べる風習もあったといいます。

先人たちの知恵を、子どもたちに伝承できることはとても仕合せなことです。ただの食べ物ではなく、これはどのような歴史でどのような知恵で今に受け継がれてきたのか。その知恵を使いながら伝承することがかつての本来の教育だったのでしょう。

宿坊ではじめての囲炉裏をつかった体験でしたが、子どもたちの一生の思い出になってくれたのではないかとも思います。引き続き、子ども第一義の実践を楽しんでいきたいと思います。