足半の知恵

昨日は、足半(あしなか)を履いて英彦山を歩いていたら声をかけられました。この足半の草履は、日本人の先人の知恵の一つでいつまでも伝承したい道具です。

そもそもこの足半(あしなか)は一般的な草履の半分くらいの長さしかありません。つまり踵部分がありません。鎌倉時代の文献にも記されていて蒙古襲来のときに九州に来てこの足半を見て鎌倉武士たちの間で流行ったとも伝え聞きます。なので、それ以前からあったということは平安時代くらいから、もしくはもっと以前からあったものかもしれません。

有名なのは、織田信長がこの足半を履いているものが接見の条件になっていたり家臣に褒美として与えたりした話が残っていること。他には西郷隆盛も愛用していたといいます。合理的で知恵を重視した人たちが愛用してきた、日本人の足元を支えた大切な草履だったことがわかります。最近では実業家で民俗学者だった渋沢栄一の孫の渋沢敬三さんが、戦前各地を歩いて足半を300点以上集め研究されていたことも有名です。

よく考えてみると、現代の靴を履くようになったのも明治以降です。まだ100年そこいらでそれまではずっと草履や裸足のようなものでした。私たちは、足の裏から大地のエネルギーを感じていたともいわれます。たまに今でも靴を脱いで直接、大地や土や草原などを歩いていると足元から様々な情報が身体に伝わってきます。

都会ではアスファルトでしかもこの時期は暑すぎて足をやけどするかもしれませんが、山歩きをはじめ田畑などはとても草履や裸足は心地よく感じます。

むかしある方に、歩く健康のことを教わったことがあります。人間が健康を保つには歩くことが一番だということです。地球の重力でバランスがととのい、足裏からの刺激で内臓をふくめ全身がととのっていくというのです。

これは足半を履いて歩くとその価値はすぐにわかります。

日本人はどうしたら健康で長生きし、そしてもっとも自然の身体感覚を得られるかということに非常に長けていた民族です。この民族の知恵は、現代文明の中で消えかけていますが本来はこの知恵こそいつ訪れるかもしれない自然災害などに対する危機への備えになったはずです。

生きる力と教育ではいいますが、本来は生き延びる力だったのは間違いありません。今では生き死になどどこか遠い話、自分とは関係がないようになっていますが野生のものたちは常に生死は隣り合わせです。だからこそ、常に感覚を研ぎ澄ませ、自然のリズムや状態を確認いるように思います。

そしてそれが元氣さを増し、逞しくイキイキといのちを輝かせたのでしょう。今の時代、文明に少し偏っていますが文化や知恵も同じくらい大切にしていくことが子孫を守ることだと私は思います。

子どもたちにもこの足半の知恵をつないでいきたいと思います。

 

使命を果たす

今というのは歴史の積み重ねの上に存在するものです。目には見えませんが、今までのことは目には見えないものに刻まれて記憶に記録されています。その経験が知恵になり、いつまでも子孫たちの暮らしに結ばれていくのです。

知恵というものは言い換えるのなら先人の偉大な徳です。

その徳を用いるということは、先人たちの経験して得た記憶や記録をいつまでも忘れずに使い続けるということになります。それが私たち人類が、バトンをつなぎながら生き延びてこれた理由でもあり、連綿と結ばれ繋がるご縁の中で活かされる由縁でもあります。

つまり徳というのは、ずっと積まれ続けているものであり私たちも同じようにそれを積み続けて次世代へといのちを繋いでいく使命があるように思います。積まれ続けるというのは、結び続けるというのと同義です。

この結び続けることが、結(ゆい)でもあります。この結に記録していこうとしたのが、結帳でもあります。この結帳を私は現代に甦生させたものが、徳積帳です。この徳積帳は、知恵を結集させたものでもあります。

もともとこの徳積堂がある場所には、八意思兼神という神様をお祀りした神社があります。これは八百万の神々の知恵を集める神様です。衆智を集めていくというのは、日本人の和の精神の奥義でもあります。

これから本格的に徳積帳をつかって世の中に新しい経済と教育の一致に取り組んでいきます。二宮尊徳が報徳といい、それを至誠、勤労、分度、推譲といって経済と道徳を一致する仕組みを創造したように私もこれからその心田開発を暮らしフルネスで実現します。

どのような未来になるのかわかりませんが、残りの人生、子どもたちのために使命を果たしていきたいと思います。

人づ手の伝承

古来から知恵というものは、人づてで伝承していくものです。もしくは、自分の内面の何かがその場や文化と呼応して甦ってくるものです。それは単なる目新しさではなく、創生や創新、私の場合は起新といい、真に新しくなるということです。

この真に新しくなるというのは、真であり続ける新しさのことです。

例えば、伝統文化なども形式だけ受け継がれていくものと奥義ともいえる知恵が受け継がれていくものがあります。特に一つ一つの儀式なども本来は偉大な力があったものが、今では形だけ残ったというものも多くあります。現代は便利な機械が増えていますがから、むかしのような一つ一つの知恵を使って何かを丁寧にやるよりも簡単に機械のコピーやプリントなどのようにアウトプットできるようになりました。しかしそこには、本来あるはずの暗黙知は介在しておらず見た目だけのものになっています。

意味があったものを意味がわからなくなり、意味がないものにするというのをみんながやり続けるほどモチベーションが下がるものはありません。それがとても大切だと体感し、知恵であると実感しているのならそれは続けられるものです。それが失われていくから文化もまた消失します。

本来、大切だった知恵は知識に置き換えられて別の物になっていく。だからこそ、知恵を守り続けていくために子孫や人は代を重ねて常にその知恵と共に生きてきたのです。それが人類が永続するための使命でもあり、まさに叡智だったのでしょう。

この時代、かなりのスピードで知恵が失われているのがわかります。知恵を機械化して繁栄してきましたがそれは知恵の一部分だけを採取してそれを目先の利益に活用しているということでもあります。知恵は本来は、永遠のものですから本来の使い道で活用するときに真に活かされるように思います。

子どもたちにも叡智を伝承し続けられるように、人づ手の伝承を守っていきたいと思います。

暮らしフルネス的な生き方

いよいよ本日は、英彦山守静坊の感謝祭です。昨年からずっと写真を振り返ってみてここまでの経緯を辿ってみました。まるで英彦山に呼んでいただいたように多方面から英彦山のキーワードをいただき、そして宿坊を甦生するように運ばれました。

私の生き方は、もともと天命に委ねるタイプであまり計画を立てることがありません。今、発生したことから組み立てて一期一会に学び続けます。過去からのプロセスの集積と繋がり、全体からのメッセージの声を聴いて今、何をやるのがもっとも全体快適になるのかと運を優先して徳を磨きます。

なので私自身が何が発生するのかもわからず、その時々に最善を盡していくために当たり前からもしれませんが常に充実した学びに満ちています。

時折、自分の分を超えたものに出会えばこれは大丈夫なのかと不安にもなります。しかし、天が命じたのならきっと大丈夫ではないかと覚悟を決めてあとは粛々と取り組んでいくのです。

意味はその時は分からなくても、きっと後から意味が着いてくるだろうと安心して一つ一つ、やり切っていきます。結構、ここ数年はさらに意味が分からないことが増えてきて世間一般的には意味のない(無価値)のことをやらせていただくことも増えました。

こんなことをして一体、誰が関心を持つのだろうかと思うものであってもいただいたご縁に忠実に取り組むだけです。

しかし一つだけ、いつも意味を感じるものがあります。それは「ご縁」というものです。ここで出会った、私のところまで来てくださった、有難いという「もったいない」という歓びです。

この出会いをもったいないと味わうからこそ、生まれてきた甲斐を自覚します。こんな体験をさせてもらえることの仕合せ、ご縁を感じられる歓びは常になくなりません。

だからこそ、味わおう、あとは何とかなるだろうと明るさが磨かれるのです。善いか悪いかではなく、豊かさに充たされます。まさに一つの暮らしフルネス的な生き方があります。

人生は二度とありません、この思い出もまた一期一会です。

長い歴史の縦の糸、そしてこの時代に生まれた横の糸、その結び目には美しい和があります。和を大切にして、心を紡いでいきたいと思います。

英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

善友と道

道を歩んでいく中で、多くの仲間に恵まれます。その仲間の御蔭で、孤立することもなく孤独も豊かなものになっていきます。人は、必ず心の中に良心を持っています。それは思いやりや優しさです。同時に、自我というものもあります。いろいろな人たちとかかわる中で、その善い方を導いていこうとするのが人生の修行そのものかもしれません。

仏陀の話の中で善知識経というものがあり、弟子のアーナンダに善き友について話をするシーンがあります。

意訳しますが、仏陀がサッカラの村に着いたときにアーナンダはこう質問します。「共に仏法を学んでそして共に仏の道を歩んでいく。このような善き友がいるということは、修行の既に半ばを達成できたに等しいと私は思ったのですが仏陀はどう思われますか?」と。それに仏陀は応えていいます。

「善き友がいることは修行の半ばではなく、そのすべてですよ」と。つまり、真の修行は善き友を持つことで完成しているということでもあります。

また別のところで仏陀は「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」ともいいます。

仏陀は、皆が私を善き友とすることによって仏の教えを学びそして共に仏の道を歩んでいるように善き友を持つことを心がけることを言いました。

つまり善き友とは、自分の中にある善心そのものでありその心と歩んでいくことで心の平安が宿り、その仲間たちと道を歩み続けていくことで修行が為ると言ったのかもしれません。

常に心は持ち方次第で、どうにでも世界は変わっていきます。物事のどの方を観るか、そして何を想いカタチにするかによって変化していきます。仏陀は同時に悪友を避けなさいといっています。何が悪友なのかは、道を歩めない仲間たちのことかもしれません。

友達がたくさんいたらいいわけではなく、真の友は心の中に存在する友です。その友は、それぞれの心の中にいてみんな同じように優しくありたい、思いやりのある人でありたい、心美しくありたい、感謝のままでありたいなど、素直なところにあります。

そういうものを磨いていこうとする人が、同じように仲間たちと出会い日々に修行をする。そして磨き合い高め合っていく、まさにそのことが人としての一つの集大成ではないかとも私も感じます。

人間力を如何に磨いていくか、これからテクノロジーがさらに発展していくなかでその深化は必要不可欠です。だからこそ、道を歩む、そして善友が必要だと思います。2000年以上たっても、真理や真価はまったく変わらずにあることに安心します。

引き続き、自分はどうかと内省しながら言葉ではなくカタチで実践していきたいと思います。

出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

経済の本質

道徳と経済の一致という言葉があります。渋沢栄一は、論語と算盤という言い方をしました。これはそもそも二つは一つであるという意味であろうと思います。二宮尊徳は、道徳なき経済は犯罪 経済なき道徳は寝言であるといいました。犯罪と寝言、厳しい言い方のようですが実際には今の資本主義の中ではなかなか理解し難いものかもしれません。

よく経済を血液の流れのように例えられることがあります。血液が綺麗でサラサラであれば、健康でその逆は不健康だといわれます。血液が循環し続けることで身体も維持されますからその血液を澱まないようにしていくためには工夫が必要です。

どうしても人間は、二者択一、対立構造で物事を分類していきます。本来は分けられないものを分けることでわからなくなります。その分かれているものを一致させていくことで本来の一つにしていくというのは魂の力です。魂という言葉もまた、心身一如、主人公としての自己一致の境地での言葉です。

本来、はじまりの言葉が何であったのかを考え抜くことで原点や初心を思い出すことになろうとも思います。

道徳も経済もそもそもは人の生きる道です。その道をどう歩んでいくかは、どのような実践をするかにかかっているともいえます。まず道があり、その道をどのような志で歩んでいくか。そこには徳があります。その徳をどのように磨いていくかで、社会を豊かにしていきます。

何のためにそれをやるのかを忘れずに、それぞれが道を歩んでいけばそれぞれが仕合せな社会を築いていくことができます。そのために、まず足元の実践を見つめ直す必要があります。

石田梅岩という人物がいます。この方もまた経済と道徳の一致を述べていた方です。その方が商人の道としてこんな言葉を残しています。

「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない。」

天下の宝という認識は、今の世の中には少ないように思います。本来、私たちは何のために経済を豊かにしていくのか。

子どもたちや未来のためにも原点を忘れずに実践していきたいと思います。

仙人の知恵

生活の中で様々な知恵を持っている人がいます。この知恵は暮らしの中で活かされるものばかりです。むかしは知識はあまり多くはありませんでしたが、知恵の宝庫でした。

田舎では、知恵をたくさん持っているお年寄りがいてその話を聞くのはとてもワクワクしました。今思えば、時代がどんなに変化してもずっと変わらずに役に立つ知識というのは伝統文化のようであると思います。

本来は、知恵をたくさん持っていることで豊かさは増えていきます。豊かな暮らしにはこの知恵が欠かせないのです。今では便利になってあまり知恵を必要とはしなくなりました。流通を含めほとんどがシステム化され、知恵を使わなくてで誰でもそれ相応の効果が得られるからです。

そしてそこにはお金がついてきますから、お金をかける方が知恵であるとさえなっている世の中でもあります。知恵そのものの定義が変わってきたということでしょう。

しかし本来の知恵は、自然の知恵に近いものです。あるものをうまく活かす、そしてないものは求めないという具合に物事のある方を観て知恵を発揮していくのです。

これは一つの仙人の知恵かもしれません。

私はそれを暮らしフルネスといって、足るを知る暮らし、そして暮らすだけで十分こそが知恵とも思っています。仙人の生き方は、これからの人類に大きな影響を与える気がしています。

これから仙人倶楽部を発足しますが、知恵をたくさんもった人たちが歴史を繋いでいけるように場をととのえていきたいと思います。

甦生の道を精進していく

物事は小さくはじめて大きく育てていく方が自然に近いように思います。最初から大きくしようとすると、確かに注目されて目立ちはしますがじっくり味わい取り組んでいくことができません。

現代はすぐに結果重視で、なんでも派手に目新しいことを探します。そして一度、見てしまえばわかってしまったと安心して飽きてしまいます。わかることが目的になっているからです。しかしわかるというのは、そう簡単なことではありません。なぜなら知ったことと、真にわかることは別のことだからです。

わかるというのは、本当はとても奥深く時間が必要です。しかし今の時代は、時間をかけることを嫌がります。時間をかけずにすぐに結果が欲しいと思うのです。だから、わかりにくいものを毛嫌いします。わかりづらいと文句をいったりします。

しかし本当はそれは真にわかろうとしない人の意見であることがほとんどです。ちゃんと理解しようとする人たちは、何度も通い、体験をし、その深い意味や味わいを感じ取ります。一度ではわからないから何度も通うのです。

私も今までわからないことを真にわかろうとして、何度も通い続けているものがあります。ひょっとすると死ぬまで通いながら学ぶのではないかとさえ思います。他には、法螺貝などもそうですが練習してもしてもわかりません。わからないから、もっと練習しますがそれでもわかりません。先日、先輩たちの会合で練習風景を見学しましたが何十年とやっていてもまだわからないとみんな目をキラキラさせています。

人が何かをわかるというのは、道を究めるということです。

道を究める志があるからわからないのであり、それがわかるというのは道がわかるということです。知識ばかりが増えて、なんとなくわかったらそれでもう終わりというのは冷めた感情だなと思う時があります。ワクワクドキドキし、好奇心を発揮させ、面白い世界を学び、まだ見ぬ世界の広さや深さを学ぶことは人生を真に豊かにしていきます。

わかってもらおうと思う自分への焦りも捨てて、滋味にじっくりと地道に甦生の道を精進していきたいと思います。