真の天狗

むかしから「天狗になる」という言葉があります。そして同時に「天狗の鼻をへし折る」という言葉もあります。もともと「天狗」は深山にすむという想像上の妖怪のことをいいます。

一般的には天狗は赤い顔で鼻が異様に高く山伏姿をしていて手には団扇や混合杖を持っています。そのうえ翼があって空を飛び、特殊な神通力をもつ存在だといわれます。また実力もないのに自慢したり怨恨や憤慨によって堕落した僧侶は天狗道という魔道に入ってしまうといいます。慢心から堕落するといわれたそうです。

慢心は身を滅ぼすという言葉もあります。高い地位や名誉、また肩書を持てばもつほどに謙虚にならなければ身が滅ぶということなのでしょう。先人たちは、そういう自戒を込めて天狗になることを戒めたのかもしれません。

増上慢という言葉もあります。これはデジタル大辞泉を引くと 仏語。未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。七慢の一。 自分を過信して思い上がること。また、そういう人や、そのさま。「増上慢をたしなめる」とあります。

悟っていると勘違いしてしまうと人は謙虚さを失うのでしょう。悟りは状況環境で変化するからこそ、その唯今の悟りを悟り続ける謙虚な修行の姿にこそ慢心を戒める生き方があるように思います。修行そのものが悟りであり、悟りは修行そのものであるということだと私は思います。

どんな時も、自分に矢印を向けて反省を繰り返しながら自己を磨き続けていこうとするところに魔道に入らない本質的な天狗道があるように私は感じました。人間は、すぐに他人と比べては競い争い、嫉妬し評価するものです。しかし、そういう気持ちが慢心を生み、謙虚さを遠ざけていく原因になっていきます。

そうならないように謙虚であるには、自戒をもった生活を心がけ、初心を忘れないように実践を磨いていく環境をととのえていくことがいいようにも思います。先人たちはそれを暮らしで実現していたようにも思います。

最後に、座右の銘を最初に作った人に崔瑗という学者がいます。この崔瑗の座右の銘を空海が筆写して日本に持ち帰り広がった自戒があります。空海というあれほどの人物だからこそ謙虚を磨いておられたのでしょう。そこにはこう記されます。

「人の短を道うこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。人に施しては慎みて念うこと勿かれ、施しを受けては慎みて忘るること勿かれ。世誉は慕うに足らず、唯だ仁のみを紀綱と為せ。」

意訳ですが、「人の短所は追及してはいけない、そして自分の長所や能力は自慢してはいけない。人に良いことをしたり恩を施したことは早く忘れなさい。しかし、人から受けた恩は決して忘れてはいけない。世間の名誉を得ようなどとは思わず、ただ真心や思いやりのみを心の拠り所にして道を歩んでいきなさい」と。

私も深く反省をして、自分自身の初心を忘れずに専心していきたいと思います。

 

 

この道を究める

自分の道を歩んでいくなかで、大勢の方から評価されることがあります。その評価は賛否両論あり、それぞれの意見があります。人には価値観があり、それぞれに生き方も異なりますからそのどちらも参考になります。

しかし時折、親しくなりたい方や、大きな影響力をある方、認めてもらいたいと思っている方からの意見に自分が揺さぶられてしまうことがあります。

人が自分を見つめるというのは、こういう時かもしれません。

自分を見つめるというのは、自分というものをもう一度、外の目、内の目、全体の目で観直してみるということです。その中で、自分はいったいどうしたいのか。そして周囲はどう思うのか、自分の初心、役割、天命はどうしたいのかと自分自身を掘り下げていきます。

自分を掘り下げていくなかで、本当の自分に出会います。そして本当の自分の声を聴いてどういう結果になっても悔いのない方を生きようと心で納得するのです。

すると、結果に限らずその人はその人らしい人生を生きていこうとします。つまり自分らしく生きていくのです。

私は子どもを見守ることを本志、本業にしています。なので、試練はいつもそれを見守れるかどうかというものを見つめる機会があります。童心、そして道心を守れるかと自己に問うのです。

子どもが子どもらしくいられる世の中をつくりたい。そして子どもの憧れる生き方を実践したいと決心してから今があります。それは自分の中にある子どもを守れるかという覚悟と一心同体でもあります。

しかし有難いことに、事があるたびに救われるのはその自分の中にある子ども心であり納得していきていこうと約束して決めた二つが一つになった自己一体の本心です。

本心のままに生きていけるように、強く逞しくしなやかに、素直に謙虚にこの道を究めていきたいと思います。

自然から学ぶ

人はそれぞれに固定概念を持っています。今までの常識があるから思い込んでいるものはなかなか拭えません。特に最初からあったものに関しては、ほとんど疑うことがなくそういうものだと信じ込むのです。

これらの思い込みが執着になり、本質や真実がわからなくなっています。特に知識として誰かに教わって疑問を持たないとよりその思い込みは強くなります。

本当は文字や知識がなかったころ、人は何を見て学ぶのか。それは自然を観察して学んでいました。自然の中で発生する様々な道理や真実を直に観て、その本質を察知していきました。小さな変化から大きな変化、またこうすればああなるというように場数を繰り返して事実を学びました。

今では誰もがそうやって習得しなくても、言葉や文字によって便利になりある程度は理解し合えるようになりましたからその分、かつてのような本質の察知や道理の習得は失われていきました。

しかし、原理原則や道理、真実というのは基本であり基礎であり根本や根源の部分です。応用というのは、その原理原則をもっていることで発展させていきますから物事の道理を習得していた方がこの世の仕組みや知恵を発明するのに重要な役目を得られます。

例えば、私は自然農や伝統文化などに触れていますがそうすると道理や原理原則ばかりを見つめる機会が増えます。自然の原理原則に照らさなければ壊れる仕組みになっていますから、毎回、自然に近づき自然に寄り添い、自然の叡智をおかりしながら取り組むのです。

そうやっているうちに、自分が思い込んでいたものに気づき、大前提になっていた知識や執着が取り除かれていきます。世の中の当たり前を疑い、本来の自然にある当たり前に気づけるようになっていくのです。

こういう学問をしていたら、飽きがくることはありません。毎回、新鮮な学びがあり、気づくことが増えていくだけです。なにに気づくにか、それは自分の思い込みに気づくということ。そして新たな発見や発明に気づくということです。それはその道理や原理原則を応用する面白さに出会うからです。

人間の学問の根本は、この「自然から学ぶ」ことにあると私は思います。子どもたちのためにも、自然から学ぶ姿勢を伝承していきたいと思います。

歴史道

私たちは歴史というものを教科書で学びます。しかし本当の歴史は教科書には書いていないことがほとんどです。その理由は、歴史は勝者の歴史でありその時の勝者の目線で都合よく改ざんされていくからです。事実も、事実の様で事実ではありません。現実はさらに多くのものが関わり、同時に敗者の歴史もあるからです。

真の歴史を知るためには、起きたことを丸ごと理解して受け止めていくような歴史道のようなものがあるように思います。それは今まで連綿をつながってきたものにアクセスをし、それがなぜ行われていたのかをその土地や文化から学び、それを辿りながらかつての人たちの想いをつないだり甦生させていく過程で学ぶのです。

つまり本当の歴史は人々の心を伝えていく中にこそ存在するということになります。これは人の生きる道であり、まさに連綿と続いている歴史です。

歴史は生きているというのは、生き続けているということです。つまり生ものですから保存するには漬物のように漬け直して発酵させ続けていく必要があるのです。保存とは本来、放っておいて保存はできません。そこにはお手入れが必要です。そのお手入れは、物であれば行事ごとに出したり仕舞ったり、片づけたり、そして磨き直して手入れします。これが食べ物であれば、先ほどの漬物のように何度も漬け直して腐敗しないように手塩にかけて守っていくのです。

歴史も同様に、常に私たちが手塩にかけて育てていくものであり、また定期的に古くなり腐敗しないように漬け直していくことで甦るのです。

形だけを残すのなら、ホルマリン漬けや氷漬けにして深い暗闇で光が当たらないところで保管すれば可能かもしれません。しかし、そんな形式だけ残っても何の意味もないのです。

私がやっている歴史の甦生は、形をただ残すことに意味を感じていません。そうではなく、その歴史の道を残すことの方が大切だと思っているのです。そのためには、先ほどの伝統保存食の知恵がそのまま使えるのです。

私が漬物から学んだのは、この甦生や保存の知恵でありそれが和の心であり、すべてにおいて対応できる道の処し方とつながっているのです。

子どもたちのためにも、真の歴史を伝承しその知恵がどの時代でも活用できるように私の役割を全うしていきたいと思います。

 

 

目と心の和合

欲に目がくらむという言葉があります。目というのは眩いものに弱いようでどうしてもキラキラしていると目がくらみます。他にも目の格言を色々と調べてみると面白い言葉が多いことに気づきます。目から鱗がおちるというものがあります。これは何かがきっかけとなって、急にものごとの実態がよく見え、理解できるようになることのたとえです。

他にも、目にまつわることわざはたくさんあります。どれも共通するのは、目というものがそれだけ人間の感情や心の状態を示している部分であることがわかります。目は口ほどにものを言うという言葉もあります。それだけ、この目は影響を与えあっているということです。

日ごろ何を見ているのか、どんなものを見るのかでもその目の状態は心に影響を与えます。人は自分が何を目を通してみているかで写りこむ世界が変わります。

掃除をしたりゴミを拾ったり、磨いたりしたあとはまるで曇りガラスが綺麗になったあとのように世界も鮮明になります。その逆に、都会のネオンや派手な人工物をみていたら目が疲れて澱んでいきます。いくら澄み切った青空があっても、美しい山々があっても、広大な海の前に立っても、その目の状態次第で真実や本質は目には入ってきません。

よく座禅をしていて「半眼」というのを行います。これは目を半分開いて、半分閉じている状態のことです。 つまり目を見開いているのではなく、心の眼が半分、あとは残り半分。つまり全部目でみずに、心の眼で自分を見つめている状態になっているともいえます。

目で追いかけているうちに、人は不安が増えていきます。あまり見すぎてしまうのはかえって余計な疑念を生み、自分の見たい証拠ばかりを目で追いかけてしまうものです。

目で目は見えぬという格言もあります。これは自分の欠点は自分ではわからないということです。そういう時は、素直に謙虚に自分の目がどうなっていますかと、澄んだ心の目を持つ人、または真実や本質を見ようとしている人にアドバイスをいただくのも一つの半眼かもしれません。

子どもたちのためにも、丁寧に目を閉じ、そしてゆっくりと開き、瞬き一つが修行と思って心を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

一期一会の一日

一つ一つの家を修繕していくというのは、一つ一つの丁寧な物語を紡いでいくことに似ています。悲喜こもごもに様々な出来事があり、謙虚に素直になってその物事を見つめます。

いつも大切な局面において試練があり、その試練の意味を見つめます。

そして試練の時こそ、その根本や根源はどうだったか、最初の目的は何であったかを振り返り、自分の生き方や初心、そして信念を修繕する機会になるのです。

そうやって逞しく育っていくことで、様々な体験を経てまたお智慧をいただきます。このお智慧は、謙虚さと素直さです。自然は常にこのお智慧をつかい循環をして已みません。

かつての先達の方々もきっと本質を保ちながら試練に耐え、この世の中でバランスを磨いていかれたのでしょう。穏やかな海のときもあれば、荒れている海の時もある。時折転覆しそうな時もあれば、追い風で一気に進む時もある。人生はこの舟のようなものです。

一つの目的に向かって、偉大な理想に向かって漕いでいきますがその中で様々な試練を体験するようになっています。そうして浮かべた舟ですから、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというようにあとは全託する境地でゆらゆらと大空に吹かれていくだけです。

私は、試練の意味をみつめるとき、その試練に対して全託します。

これがどのような福に転じていくのか、そこに奇跡を感じて好奇心がワクワクします。どこに辿り着いても、大切なのはその心の在り方であり、生き方です。子どもたちのためにも、ブレずに理念を実践し、今日も一期一会の一日を過ごしていきたいと思います。

清らかな生き方

先日、清々しい人にお会いしました。この清々しいというのは、けがれがなく気持ちのよいさまだと辞書にはあります。「清」の字には、水が綺麗で澄んでいることや、心や行いにけがれがないこと、気分が良い意味です。そしてこの「清々しい」は、この「清」の字を重ねることでより一層清らかさや爽やかさを表現する言葉です。

その清々しいの対義語は、気が塞いで晴れ晴れしない、あるいは気持ちがよくないという意味で「鬱陶しい」「鬱屈した」「不快」「気持ちが悪い」「癪に障る」「邪魔」という言葉があるといいます。

この清々しいのことを調べていると、お金に対して清々しいという言葉とお金に汚いという言葉のことを知りました。お金に対して清々しいや綺麗という人はどのような人なのか。

以前、悪いことをして得たお金を貰いたくないという人に会ったことがあります。あるいは、自分だけが得をして独占するようなことをしたくないという人にも会ったことがあります。または、いつもお金に助けてもらっていると感謝して使っているという人にも会ったことがあります。そして托鉢や浄財によって暮らしをととのえている人たちにも会ったことがあります。

そういう人にお会いすると、清々しい気持ちになった記憶もあります。これはお金のことを感じたのではなく、その人の生き方のことを感じたのです。

人間は、どうしても自己中心的です。そして道具や物を自分の都合のよいように使うものです。しかし、その使われる道具もどのようなことに使われるかで使い手の人柄が道具に現れます。みんなが喜ぶように、また仕合せになるようにと願いながら使う道具にはどこか徳が具備されていきます。しかしその反対に、戦争や不幸の傍で使われるものはどこか殺伐としてきます。

不思議なことですが、同じことをやる道具にしてもそこに清々しさや汚さやケガレのようなものがあるのです。私が尊敬しているむかしの侍は、道徳規範を持ち、大義や忠義を重んじ、人として恥ずかしいことをしないという生き方を示した人たちがいました。

その清々しさというのは、いつまでも心の規範として心に宿っているものです。どの時代でも、生き方を磨いて清々しくしていくことはできるものです。透明な水のように清らかな人に会うと、心もまた清らかになっていきます。

そんな生き方を学び、子どもたちにも清らかな環境をととのえていきたいと思います。

大局的な生き方

時代には大局というものがあります。大局を見極めている人は、目先のことの影響をうまく乗りこなしていくように思います。私が尊敬する自然農の川口先生も、大局を観ておられたように思います。それは自然を相手にしているからかもしれません。

自然から私たちは大局を学べます。自然は長い歳月をかけて変化していきます。毎年、一年、365日で巡っていきますが確実に変化は数百年、数千年、数万年単位で微細な変化を遂げていきます。

これは石を水滴が穿つように、また陸が海の波で浸食していくように、日々の小さな変化は目にはみませんが確実に変わっていくことに似ているのです。

大局というのは、根源ともいえます。

根源は何か、あるいは偉大な方向性ともいうべきものを如何に直観して自分から近づいていくか。私たちは畏敬の念や謙虚さがあれば、そういうものの存在に気づいて自らの使命や役割を考えていくことができるようにも思います。

結局、進化や変化は私たちがしているものではありますが大局的にみたら一緒に変化しているともいえるのです。一緒に変化しているからこそ、私たちは変化を怠らず変化のために自分自身を努めていく必要があります。

生きていると同時に活かされているこの自分だからこそ、自分の喜びや仕合せがみんなの喜びや仕合せになっていくように徳を積んでいくのです。

子どもたちに伝承したいと思うことは、このことの他にはありません。

暮らしフルネスや、真の豊かさを繋いでいくことは失われたものを甦生するのではなく、もともとあるものに気づかせ甦生することなのです。

私のやっていることは以上のことです。

日々の変化は味わいながらも、大局の変化に内省しながら子どもたちの懐かしい未来を紡いでいきたいと思います。

暮らしフルネスの真価

春うららかな天気が続くと、犬や猫、鳥たちも心地よくゆったりと過ごしています。自然は四季のめぐりと共に、自然のリズムで時が流れます。現在のような人間都合のスケジュールではなく、まさに自然の時は全生命の時でもあります。

本来、むかしは人間も同様に自然のリズムで暮らしをしていました。今では暮らしが失われ、労働するための時間に管理されなかなか自然のリズムで生きることは難しくなっています。

その中で、暮らしの意味も変わり、暮らしはリズムとは関係のないものとして言葉も定義されて使われます。私の定義する暮らしは、自然のリズムのことであり決して日常生活のことをいうのではないのです。

私たちは本来、この自然の営みの中に伝統的な暮らしを持っていました。これを生活文化ともいうのでしょう。この文化が失われて、現代のような文明が優先されていく生き方が求められ息苦しくなっている人も増えているように思います。

子どもたちは、自然そのもので産まれてくる存在です。その最初の三つ子の魂のときは、私はできる限り自然のリズムで生きられるような環境を用意する方がいいと思うのです。それが地球で自立して生き残るためのチカラを得ることができるからです。

あまりにも早期に文明に慣れさせすぎると、人間は性格のバランスがととのわなくなります。人間の性格は、その後の社会でのバランス感覚や、その人が自分の人生をよりよく生きるための柔軟性に影響が出てきます。

だからこそ、私たちの先祖たちは日本の家屋の中で自然のリズムと調和する暮らしを永続して生きる力、生き残る力を醸成し伝承を続けたのでしょう。

私が古民家にこだわる理由も、自然のリズムと一体になって暮らしていくのに都合がいいからです。もちろん、大都会でもできなくはないですが圧倒的に自然のリズムに包まれにくいから智慧と工夫が必要になっているのです。それは決してデジタルで無理やりに自然をつくることではありません。もっと、リズムを考えて暮らしをととのえていく工夫をみんなで知恵を絞って取り組んでいくということです。

私の暮らしフルネスは、足るを知る暮らしと一般的にはお伝えしますが自然のリズム側から話せば暮らしだけで充分という意味でもあります。

暮らしの真価を子どもたちに伝承して、今と未来をよりよくしていきたいと思います。

自然の仕組み

私たちは1年のめぐりを四季を通して行います。1000年続いていれば、1000回の四季を、そして2000年続いていれば2000回の四季を巡ってきたことになります。私たちは時代を年数で捉えますが、実際にはその回数繰り返してきたということでもあるのです。

自然の仕組みは見事で、毎年同じように繰り返されます。その都度、はじめからやり直すようになっていて私たちはその自然に合わせて自分たちもはじめに戻します。例えば、種を蒔き、芽が出て、花が咲き、実をつけまた種になる。この繰り返しですが、自然はその前の一年と同じことはほぼありません。毎回、はじめに戻りますが同じことは二度とありません。

その都度、私たちは謙虚に自然の姿から学び、自分たちを変化に合わせて成長させていく必要が出てきます。つまり自然の変化にあわせて私たちも進化し続けているのです。

同じように菜の花が咲いても、同じ菜の花はない。

これはタイミングも異なれば、同じ量でもない、大きさも形状も前の年とは異なります。つまり自然のあらゆる生命は同じように、自然と調和しながら進化を已みません。そして一緒に、進化して生きているのです。

私たちは自然と共生しながら、その生き方を学び、同じように変化に合わせて繰り返しの中でいのちを磨き直していきます。

いつまでも同じようにしていくのは、私たちが自然の存在であるからです。

大事な時こそ、今までどのようにして暮らしを営んできたのか原点回帰していたいものです。謙虚に、人類の行く末と子どもたちの平和のために尽力していきたいと思います。